学びて時にこれを習う(5) 藩校文庫とその行方

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文庫とは何かを考える

 江戸時代の学問観と文庫の関係を辿ってきて、ようやく文庫設立の動機のようなところまで書くことが出来た。しかし国学者が作った文庫以外にも、江戸時代には多数の文庫が存在した。幕府の昌平坂学問所の文庫はもとより、各藩の藩校にも文庫があったはずである。そこでどのようなものがあったのか、小野則秋の『日本文庫史研究』をもとに、ごくごく簡単な一覧表を作ってみた。小野の本は、九州のものが多かったり、神社が多かったりして、全国的な動向を網羅しているわけではないようだが、一応の目安になるだろう。

 藩校については、近年、基本資料となってきた『日本教育史資料』の批判的な検証が進められつつあり、また読書論・読者論の観点から庶民の読書傾向を探る試みも出て来ているという。

近世藩制・藩校大事典

近世藩制・藩校大事典

藩校・私塾の思想と教育

藩校・私塾の思想と教育

 今後修正して適宜情報を補って行きたいと思っているが、とりあえず掲げておく(はてな記法で頑張って書いてみたら、表のプロパティ設定が思いのほか上手く出来なかったのだが、いかんともしがたいのでご了承願いたい。)

追記こちらに元のエクセルファイルを掲載しましたので、適宜ご覧ください(2012/11/13追記)。

名称設立主体設立年沿革等蔵書に関する備考
昌平坂学問所文庫幕府・林大学頭寛永7年(1630)林家の私設文庫として発足。寛政の改革以降幕臣教育機関となる。蔵書は東京大学・内閣文庫等に継承、筑波大学所蔵昌平坂学問所関係文書
紅葉山文庫徳川家康寛永16年(1639)徳川家の施設文庫。慶長7年(1602)の富士見台文庫を源流とする。将軍を第一義に申請に応じて幕府諸機関やそれに関係する学者・幕臣および尾張藩加賀藩などにも借覧を許す。蔵書は内閣文庫に継承。和漢図書。廃止時に11万冊
和学講談所幕府・塙保己一寛政5年(1793)塙保己一が申請。国史律令を講じ、『群書類聚』編纂などの作業も行う。蔵書は内閣文庫等に継承。和学講談所蔵書目録
蕃書調所幕府安政2年(1855)洋学所として発足、翌年蕃書調所に改称。洋書・外交文書の翻訳を行う。蔵書は東京大学等に継承。箕作秋坪蔵の「蕃書調所書籍目録写」(安政五,六年)に図書689点,1,940冊と伝(NII『学術情報ニュース』No.42の井上如氏論稿による)
医学館幕府・多紀元孝明和2年(1725)幕府奥医師多紀元孝が明和2年(1725)に設置した医学校(はじめ躋寿館と称する)を母体とする。寛政3年(1791)幕府直轄化。総冊数は不明。一部の目録に『聿修堂蔵書目録『躋寿館医籍備考』がある。東京国立博物館・内閣文庫・宮内庁書陵部棟に継承。
徽典館(甲府学問所)幕府寛政8年(1796)享保9年(1724)、柳沢家が大和郡山城に移封され甲府藩が廃止された後は甲府は幕府直轄となっていた。学問所の設立は寛政年間。天保14年(1843)に昌平坂学問所の分校としての再編が行われた。江戸時代甲府学問所の創設に際し、徳川将軍蔵書である紅葉山文庫(現在の国立公文書館内閣文庫)から下賜された書籍を筆頭とする徽典館の旧蔵書を中心としたコレクション、9,864点が山梨県立図書館に継承されている(参照:リサーチ・ナビ>山梨県立図書館
駿府学問所(→明新館→府中学問所)幕府安政5年(1858)明治維新以降は静岡学問所と呼ばれる。学制頒布により廃止となるが、旧幕臣の子弟だけでなく広く庶民にも入学を呼びかけ、希望する者は誰でも就学することが出来、学問所頭には向山黄村、津田真一郎が任命され、教授陣は中村正直、外山正一など当代一流の学者たちが任ぜられた。学問所にあった江戸幕府旧蔵書は現在、「葵文庫」と呼ばれて静岡県立中央図書館に継承(参照:静岡県立中央図書館「葵文庫の由来」
興譲館文庫米沢藩元禄10年(1697)直江山城守(兼続)の蔵書が源流。衰微し、安永5年(1776)に上杉鷹山が再興。米沢藩興譲館書目集成(ゆまに書房)
明倫堂文庫尾張(名古屋)藩寛永6年(1629)初代藩主徳川義直の書斎兼学問所を淵源とする。天明3年(1783)に本格的藩学として細井平洲を招き設置徳川家旧蔵書はその後、蓬左文庫等に継承。蓬左文庫監修の目録が複数あり。
閑谷学校文庫岡山藩寛文9年(1669)岡山藩直営の庶民教育のための学校。文庫設立年代は未詳だが、建物が現存し重要文化財に指定されている。中央の階段を上がった左右の床に八千点余が所蔵されていた(参考「特別史跡旧閑谷学校」)
時習館文庫熊本藩宝暦5年(1755)熊本藩主細川重賢によって、熊本城二の丸に創立された藩校、当初より藩士の子弟のみならず庶民でも好学の者には門戸を開いたとされる。明治初年閉校されたとき、その蔵本は多く散逸してしまい、その一部が熊本師範学校に引き継がれ、のち熊本大学附属図書館に継承された(参照「レファレンス協同データベース」)。漢籍は中国版を主にし、和刻版も含むが、経、史、子、集にわたり、中でも史類が最も多い。
再春館文庫熊本藩宝暦6年(1756)熊本藩主細川重賢が設立した、医学のための藩校。北里柴三郎を輩出。熊本大学医学部の前身未詳。熊本大学に継承?
造士館文庫鹿児島藩薩摩藩安永2年(1773)島津重豪昌平坂学問所にならって設置し、曾孫斉彬の代に整備された。明治4年廃校。『孝経』『四書集註』『五経』『中庸輯略』などの教科書が造士館から出版されたという。蔵書については詳細不明。中学造士館→第七高等中学校造士館→鹿児島大、鹿児島県立図書館に継承されたのか?
伝習館文庫柳川藩文政7年(1824)藩主立花鑑賢のときの開設。入学は義務ではなく、また一般に武芸尊重の気風が強かったとされる。福岡指定文化財となる。柳川市古文書館に継承。藩政資料と合わせて、『伝習館文庫蔵書分類総目録』あり。
修猷館文庫福岡藩天明4年(1784)士風刷新を目指して福岡城外に設立。当初朱子学の東学問所(修猷館)と、徂徠学の西学問所(甘棠館)にわかれていた。後、修猷館に統合。庶民の参加は許されなかった。未詳。
弘道館文庫佐賀藩天明元年(1781)源流は宝永五年(1708)設立の学問所。藩政改革のなかで新たに学問所設立。教授を務めた古賀氏は後に昌平坂学問所の儒官となる。佐賀藩・鍋島家旧蔵書については研究がある。『佐賀藩旧蔵蘭書目録』等参照。藩主鍋島家旧蔵書については昭和2年設立の徴古館が継承。
多久学校文庫佐賀藩宝永5年(1708)佐賀藩家老多久茂文が立てた聖廟。儒学者草場佩川が資料を収集。廟山文庫には、儒学孔子論などの漢籍や国書類がおよそ1、500件(約4,000冊)あまりが収集されており…(参照「多久市HP」)→蔵書は多久市先覚者資料館に継承
維新館文庫平戸藩安永8年(1779)藩主・松浦静山が創設。松浦静山は随筆『甲子夜話』の著者で文学者としても著名。草創期には藩主自ら講義にあたったともいわれる。また藩校解説と同時に楽歳堂を設けた。楽歳堂に関しては、『平戸藩樂歳堂蔵書目録』が松浦史料博物館に。また論文として、「楽歳堂旧蔵の楽書 : 平戸藩主静山公松浦清の文庫 : 解題目録」などあり。
進修館文庫中津藩寛政8年(1796)藩士の子弟は七、八歳で必ず入学することになっていた。福沢諭吉は当藩の下級藩士の出身である。未詳。
佐伯文庫佐伯藩天明元年(1781)豊後国佐伯藩主毛利高標が創設した文庫。高標は学問を好み、古書の鑑識に長じた蔵書家で、しばしば侍臣を長崎に派遣して唐船の舶載した善本を購入した。藩校は四教堂。天明4年(1784年)には蔵書が8万冊にも達したとされる。宋・元・明版や朝鮮本の稀書を主とする約四万冊の漢籍があった。後幕府に献納された後、内閣文庫、宮内庁書寮部に継承。大分県佐伯市にも残存。梅木幸吉『佐伯文庫の研究』がある。
弘道館文庫彦根藩天保元年(1830)寛政6年(1794)の発議にかかる。同11年稽古館として発足。調査や蔵書収集には賀茂真淵門下の僧侶海量が尽力。蔵書数は直亮・直弼代に二万三千余巻。彦根藩弘道館書籍目録
成徳書院文庫佐倉藩天保7年(1836)寛政4年(1792)創立の佐倉学問所(温故堂)を拡充したもの。学科には諸学ならびに各般の武術をも含んでいた。医学を中心とする蘭学に特徴があった。佐倉高校に継承。古書は鹿山文庫と呼ばれ、県指定有形文化財となっている。『鹿山文庫目録』がある。
求道館文庫館林藩安政2年(1855)藩主・秋元志朝が設立。のち造士書院と称す。未詳
弘道館文庫水戸藩天保12年(1841)徳川斉昭の代に完成。維新の原動力となった。会沢正志斎らが初代の教授頭取となり、藤田東湖は「弘道館記」を著わしている。弘道館が有していた蔵書の多くは国有とされ、後に設立された官立の旧制水戸高等学校が引き継いだが、昭和20年の水戸空襲で焼失。焼け残った蔵書の一部は、関係者から茨城県立歴史館が委託を受けて管理している。なお、これとは別に、水戸藩が『大日本史』編纂のために集めた史料は、財団法人水府明徳会(徳川博物館内に彰考館文庫を設置)に継承されている。
明倫館文庫萩藩享保4年(1719)藩主毛利吉元の代の設置。二代学頭の山県周南以降、朱子学では無く徂徠学を中心にした学問を教える。桂小五郎ら多くの長州藩士を輩出した。山口大学附属図書館に継承。Webで目録を公開している。
明倫堂文庫金沢藩寛政4年(1792)元禄期好学大名で知名な藩主前田綱紀から計画されていたが実現しなかった。治脩の代に設立された。四民教導をうたっていたが、武士の子弟以外への開講は非常に限定的だったともされる。膽吹覚「金沢藩明倫堂の蔵書目録」。また藩主前田家伝来の貴重書籍である尊経閣文庫は、『尊経閣文庫国書分類目録』および『尊経閣文庫漢籍分類目録』等に掲載され、前田育徳会が管理している。
立教館文庫白河藩桑名藩寛政3年(1791)白河藩松平定信が設立。息子の代の文政6年(1823)桑名藩に移封となる。定信蔵書は二万巻あったとされるが、現在は散逸。国立国会図書館と内閣文庫が一部を所蔵する(朝倉治彦桑名藩校立教館文庫の調べ」)ほか、塾頭を務めた秋山家の蔵書が桑名市立図書館に地域資料として保存されている。
養賢堂文庫仙台藩元文元年(1731)書庫は1779年設置。嘉永年間には農商に俗語による講釈を行ったともされる。天保年間に蔵書17,000冊。蔵書は宮城県図書館に継承(参照「養賢堂の蔵書と出版」)※PDF
明道館文庫福井藩安政2年(1855)1819年設置の学問所正義館を松平慶永(春嶽)が安政2年(1855)に刷新して明道館とする。横井小楠の学校意見を採用し、幹事には橋本左内が就任藩学では経書、兵書武技、史、歴史諸子、典令、詠歌詩文、習書算術暦学、医学、蘭学を教授。『福井藩明道館書目』あり。
阿波国文庫徳島藩18世紀中期~19世紀中頃十代藩主重喜(1738~1807)から、十三代藩主斉裕(1821~1868)に至る間に形成されたもの。徳島藩の侍読を務め寛政の三博士とうたわれた儒学者・柴野栗山(1736~1807)旧蔵書も含まれる。徳島藩主・蜂須賀斉昌の代には(1795~1859)が屋代弘賢らの蔵書を譲り受けた。明治維新後、3万冊あまりは徳島師範学校を経て徳島県立光慶図書館(現在の徳島県立図書館)に移管されたが、昭和20年(1945)の空襲と火災大部分が失われた。徳島県立図書館に一部が現存する(参照「蔵書印の世界」)
豊宮崎文庫伊勢神宮外宮慶安元年(1648)奈良時代から存続する神宮文庫を母体として、神官子弟修学のための道場として創設。発起人となったのは出口延佳らの同志70名。神典・国文・国史・古記・医書・漢籍など。明治44年に神宮に蔵書20,745冊が献納され、神宮文庫に継承されている。
林崎文庫伊勢神宮内宮貞享4(1687)はじめ内宮文庫として創設(創設年は1686とする文献あり)。1670年に林崎に移り林崎文庫と改称明治維新後、神宮司庁に移管される際の蔵書数は11,978冊。蔵書は神宮文庫に継承
三手文庫賀茂別雷神社上賀茂神社元禄15年(1702)社の文庫はすでに室町時代に置かれて、神官・社家の学問講習所の役割を果たしていたとされる。契沖の門人で書籍商だった今井似閑の大量の蔵書が奉納されている。
鴨社文庫賀茂神社未詳三手文庫に対する下賀茂神社の文庫が存在していたと考えられるが(「鴨社文庫」印のある本が残存。鴨社は下賀茂神社を指す)、詳細は不明不明
青柳館文庫仙台藩文政12年(1829)青柳文蔵(1761~1839)が商売で得た資金をもとに書籍2万巻を集め、仙台藩に献納して設置。仙台藩はこれを青柳館文庫とし、一般に公開された。2万巻。経書だけではなく史書、文学関係が豊富とされている。蔵書は戊辰戦争で多く散逸してしまったが、その一部は宮城県図書館等に継承
浅草文庫板坂卜斎寛永年間(1624~1644)〕寛永年間(1624~1644),紀州侯の藩医板坂卜斎(1578~1655)が設けた私設の文庫。ほか、同名の文庫が複数ある。明治初年の官立文庫とは無関係未詳
住吉文庫住吉神社享保8年(1723)大阪・京都・江戸三都の書肆20人が発起し、各地の書林も賛同して創建されたもの。明治以後、洋装本の奉納も相つぎ、和装本約19,700冊、洋装本4,900冊(昭和19年以前奉納)に及ぶとのこと(参照「住吉大社御文庫目録」)
名山蔵文庫塩竈神社・藤塚知明寛政元年(1789)?(安永9年(1780)とするものあり)江戸中期の塩釜神社の神官・藤塚知明(1733~1799)が設立。藤塚知明は復古神道を唱え、林子平とも親交があった。仙台藩五大文庫の一つとされる。神道専門の書籍を集めた文庫。蔵書は、昭和10年に小西利兵衛が邸内に設けた小西文庫を経て、宮城県図書館に継承。塩竈文化史料小西文庫目録(藤塚知明名山蔵文庫旧蔵書)
和文竹川竹斎安政元年(1854)幕末~明治にかけての豪商・竹川竹斎が創設した「私立図書館」。国学者勝海舟とも交流があった。蔵書数は往時1万巻とも言われたが、維新以後散逸。現在では1,360種2,970点を蔵する。現在は三重県・松阪市の指定文化財(参照)射和文庫蔵書目録
羽田八幡宮文庫羽田野敬雄嘉永元年(1848)幕末の国学者、神官で、平田篤胤門下でもあった羽田野敬雄が和漢の和漢の典籍蒐集につとめたもの。蔵書数は慶應3年に1万巻に達したとされる。一時民間に渡ったが、蔵書は現在豊橋市立図書館・西尾市立図書館岩瀬文庫が継承。豊橋市立図書館ではデジタル版羽田デジタル文庫を公開中。
勧学寮上野寛永寺・了翁道覚禅師寛文12年(1672)黄檗僧・了翁道覚(1630~1707)の発願による。上野寛永寺境内。文庫6棟には和漢の書籍を収蔵し、僧侶ばかりではなく、一般にも公開したとされている。和漢の書籍教典など三万余巻とも言われる(参考「寛永寺と徳川将軍家墓」)
蒹葭堂蔵書木村蒹葭堂〔宝暦年間(1751~1763)以降に形成か〕蒹葭堂は書斎の名でもあった。大阪の本草学社木村蒹葭堂(1736~1802)が収集したコレクション蔵書は没後、官命により昌平坂学問所へ献納→内閣文庫に継承。寛政2年(1790)時点で2万巻とも(『甲子夜話』の記述。参照「蔵書印の世界」)
不忍文庫屋代弘賢天明年間(1781~1789)以降?〕蔵書数多く、質・範囲も当時第一級の個人文庫とされる。屋代弘賢(1758~1841)は能筆で、また、漢籍・国書の知識も豊富で故実・考証の学に深く塙保己一の『群書類聚』編纂にも参加した。文庫は江戸谷中不忍池の辺、上野東照宮の裏手付近にあったとされる。蔵書は5万巻と言われ、三棟あったうちの書庫の2棟分は、屋代弘賢没後、徳島の阿波国文庫に献納→徳島県立図書館に委託されたが、空襲と戦後の火災により焼失。残りの蔵書は国立国会図書館で250点を所蔵しているほか、静嘉堂文庫、国立公文書館内閣文庫等に残っている(「蔵書印の世界」)。不忍文庫書籍目録

後半は個人の文庫とか、神社・寺社のものも小野の本に出てくるものは取りあえず入れてみた。小野の本に取り上げられているものもかなりの数になり、全部は取り上げられていない。神社では他に北野天満宮鹿島神宮などにも文庫があった由。文庫設立年が未詳の場合は、親機関の設立年で採ってある。


江戸の知の体系は明治にどう受け継がれたか。

 図書館史のなかでよく言われるフレーズに「文庫」から「図書館」へ、というのがある*1

 考えてみれば江戸時代に藩校は、特にそれが多く作られ始めた後半には300くらいあったわけだが、その蔵書はどうなったのか。県立などの公共図書館に受け継がれたのかといえば、必ずしもそうともいえない。現に、明治30年の時点では公立私立合わせて、全国の図書館数は30だったので、藩校文庫(これを学校図書館に比定するのは難しいにしても)→公共図書館という線で考えると、大幅に後退したことになる。「文庫」から「図書館」への流れは、そう単純でストレートなものではないのである。

 

 旧藩校は、通常、明治4年廃藩置県で廃止になっている。文部省はそこで同年11月、旧藩所蔵の文書や古器の目録を提出させている。『法令全書』によると、

 従前於各地方公費ヲ以取設有之諸学校或ハ文庫病院等ニテ所蔵ノ書籍並ニ古器奇物ノ類ニ至迄別紙雛形ノ通無遺失取調来申正月中可差出候事

 来年の正月までに出せというのだから割と強引な通達かもしれないが、目録には和漢洋に分けて書籍・図画・器物、さらに写本かどうかの別まで書かせることになっていたようで、これをもとにいわば文部省は総合目録を作ることになった。

明治5年に文部省が設置した書籍館は、8年までの間、目まぐるしく所管が変更になった。博覧会事務局と分離して、明治8年に再設置された東京書籍館には、幕府の旧蔵書は殆ど引き継がれず、文部省から交付された一万冊しかなかった。しかも大半が洋書であった。幕府の蔵書は、その後も様々な変更を経ながら内閣文庫および宮内庁書陵部に継承されている。和漢書が満足に無かったのである。そこでこの旧藩蔵書が、東京書籍館に交付されることになった。こうして集まったのが、明治8~11年までの間に、総計3183部、43,630冊に上るという*2

 が、その収集の過程も、決してスムーズには行かなかったらしい。それはそうであろう。旧藩が公費によって、というが、大名が個人で集めた蔵書と、藩校に設置していた書庫の蔵書は、区別しているところもあれば、そうでないところもあったろう。その混乱ぶりが、西村茂樹の次の回想に見える。

廃藩の時に、朝廷命じて、諸藩の学校を閉鎖せしめ、教育界は一時暗黒の姿となれり。其後政府にて文部省を置き、大中小の学校を建設するに至り、旧諸藩の学校の書籍は地方官是を収め、是を売却して、新学校の費用に供するもの多し。佐倉藩の学校の如きは、和漢の書籍頗る多数ありて(其巻数は是を記せず)其内には有用の書籍も少からざりしが、千葉県庁にて尽く之を売払い、其代価を県下数百の小学校に配付せんとせり。然るに佐倉の学校は、藩費を以て建てたるに非ずして、旧藩主の私費と、旧藩士の寄附とによりて成りたるものなり、故を以て旧藩士等、其書籍は官収すべきものに非ずといひて、県庁に申立てたれども聴れず、已に其書物を荷造りして、是を東京に出して、売却せんとす。余は当時文部に官たりしが、二三の友人来たり、其事を述べ、余に救済方を乞ふ、余依て文部長官に其事を陳述し、其旧藩主の私立たる証を挙げて、特別の詮議あらんことを請ふ。長官余の言を納れて、県庁に訓諭し、売却の難を免かるゝことを得たり*3

接収と引渡ですらなく、教育のための、お金がないので売っていたのだそうである。そしてそれを止めろというのは、強くクレームしなければ止めようがなかった、ということもわかる。西村が文部省出仕だったことも、売却を免れた一因ではあろう。彼は維新直後の文部省に出仕しながらも、「学制」以後の教育行政を画一的・中央集権的なものとみなして違和感をもっていたようである*4。新しくできた学校に藩校蔵書が受け継がれた例もあるが、大方はかなり混乱していたというのが実情だろう。

西村茂樹研究―明治啓蒙思想と国民道徳論

西村茂樹研究―明治啓蒙思想と国民道徳論

 かように図書館の幕末維新は、かなり混乱を極めていたことが予想される。そのなかで散逸してしまったものもかなりある。美術史のほうで、廃仏毀釈で仏像や絵画が悲惨な目にあって、という話はよく聞くが、遺憾ながら(といっていいと思うが)、典籍についてはいったいどれだけ省みられてきたろうか。

るろうに剣心―明治剣客浪漫譚 (10) (ジャンプ・コミックス)

るろうに剣心―明治剣客浪漫譚 (10) (ジャンプ・コミックス)

最近科研費などの研究成果として旧藩蔵書の復元などが試みられているようなので、そういった成果をもとに、この時期の空白が埋められていけばいいなと思う。

*1:岩猿敏生「文庫,書籍館,図書館そして「壁のない図書館」へ」『図書館学』100(2012.3)

*2:詳細は、朝倉治彦上野図書館所蔵藩校旧蔵本略記」『文献』第二号(1959.12)所収および「東京書籍館における旧藩蔵書の収集」『図書館研究シリーズ』No.15(1973)参照。

*3:引用は『泊翁西村茂樹伝』上巻、366~367頁からの孫引き。出典は西村「記憶録」

*4:真辺将之『西村茂樹研究』(思文閣出版、2009)76~79頁参照。なお西村とともに、文部行政に強い問題意識を持っていたのが田中不二麿であるというのは、図書館史的にはかなり重要なはずだが、私自身まだこの点は調べがついていないので、後考を期したい。