和田敦彦『越境する書物』読書メモ

前置き

久しぶりにブログを書いてみる。

最近読んで感銘を受けた本ということで、こちらの読書メモを。

越境する書物―変容する読書環境のなかで

越境する書物―変容する読書環境のなかで

本書の紹介記事については以下を参照。

本書は次のような魅力的な書き出しで始まる。

そこに本がある、ということは当たり前とはほど遠い「出来事」である。その本はいつ、誰によって、どうやってもたらされたのだろうか。そしてまたそのような疑問を明らかにすることに、どのような意味があるのだろうか。本がある、ということはそれらを購入する理由があり、資金の流れがあり、書物を運ぶルートがあり、さらにはそれら手に入れた書物を整理し、使うノウハウがあるということである。私達たちは書物を前にして日頃これらのことをそれほど意識しない。だが、もしも海外で目にした書架に日本語の書物が並んでいたとしたら、こうした疑問がわかないだろうか。あるいはもしもそこに10万冊、あるいは20万冊を超える日本語の書物があったとしたら。(11頁)

和田氏については前著『書物の日米関係』を、就職してからほどなく手にして、これは凄い研究だな…と感服したことがあり、今回も興奮しながら一気に読んだ。前著が「米国内の日本語蔵書の形成を、なるべく広く、通史的に扱うことに重点を置いた」のに対し、今回は、「それら日本の書物を送り出した日本国内の販売機関や、その間に立った組織や人々」に光をあてたものということになるようである(15頁)。

書物の日米関係―リテラシー史に向けて

書物の日米関係―リテラシー史に向けて

目次は以下のとおり。

序章 書物と場所の歴史学

第1部 越境する書物

 第一章 書物の場所と移動の歴史:書物の日米関係から

 第二章 書物の戦争・書物の戦後:流れとしての占領期接収文献

 第三章 今そこにある書物:書籍デジタル化をめぐる新たな闘争

第2部 書物と読者をつなぐもの

 第四章 1933年、米国日本語図書館をめぐる:高木八尺の調査から

 第五章 人と書物のネットワーク:角田柳作と書物の交流史

 第六章 越境する文化を支えるもの:国際交流基金国際文化会館

 第七章 日本の書物と情報の輸出入:チャールズ・E・タトル出版の半世紀

 第八章 北米の日本語蔵書史とその史料:書物の受難

終章 リテラシー史から見えるもの

ホームページでも知られるように、和田氏は読書史、読者史という領域に「リテラシー史」という新たなカテゴリを打ち立て、『リテラシー研究』という雑誌で色々興味深い論考を集め世に問われている。

ただ、私自身は「リテラシー史」の輪郭について、それが従来のメディア史と呼ばれるものや、読書史と呼ばれるもののカテゴリーとどこで同じで、どこから違うのか、わかったようなわかっていないようなもやもやを抱え込んでいたので、そのことがよりハッキリするかも、と思いながら、読んだ。以下はその際の抜書きに過ぎない。

リテラシー史については、本書終章に次のような総括がある(229頁。図もある。これがわかりやすいかもしれない)

リテラシー史」の問題領域は、読書環境の形成に関して以下の4点(関連領域を入れて5点)に絞られてくる。

  • A 読者の形成に関わる領域:教育、教材史、教科書史、読書教育などの問題
  • B 書物の獲得に関わる領域:書店、図書館制度、出版制度、取次などの問題
  • C 書物の管理、提供に関わる領域:検閲、検定、データベース、目録などの問題
  • D 書物の形態に関わる領域:小説表現、雑誌の表現、印刷、活字などの問題

そしてこれらの領域を補足するために、

  • E 史料についての領域:記録史料学、読書資料目録、書誌学

がその基底(外周?)に位置づけられる。

そういう意味で、国定教科書がどう売られたかを論じた次の本もやはりリテラシー史の重要な一部を構成しているということだろう。

国定教科書はいかに売られたか―近代出版流通の形成

国定教科書はいかに売られたか―近代出版流通の形成

リテラシー史の視点

本書中で言及されていることから、その構成をフォローしていけば、例えば蔵書史は、

蔵書の歴史は、単なる書物の所蔵、購入記録の集積ではない。「はじめに」でも述べた通り、それは書物とそれを用い、扱う人たちとの関係の歴史であり、書物を求め、利用する人々と書物との相互作用の歴史である。こうした読者との相互作用のなかで、蔵書は変化し、はぐくまれていく。つまり、なぜ書物がそこにあるのか、という問いかけは、書物と、それを読む人々や集める人々がどのように作りだされ、関わり合ってきたのか、という歴史を考え、明らかにしていくことにもつながっていくのである。蔵書の歴史は、こうしたリテラシーの歴史を明らかにしていくうえでの貴重な位置を占めているのである(27頁)。

とされる。「蔵書は変化し、はぐくまれていく」という視点は貴重である。

千代田図書館『千代田図書館蔵「内務省委託本」関係資料集』 でも、検閲者の書き込みを「傷跡」とする記述が目を引いたけれど、図書館に残っている本は整理され、提供されて行く過程で固有の歴史を獲得していく、そのことを「はぐくまれていく」と表現されていることに、私は少し唸った。

もうひとつ、デジタル化した書物について、和田氏が三章冒頭で次のように述べている点に、私は全面的に賛成する。

書物のデジタル化、そしてその公開を考える際、デジタル化された書物がそのもととなった書物とは別種のテクストである、ということは強調しておいた方がよいだろう。いかに精細なページの画像をともなおうとも、あるいはそのページ画像があたかも紙の重みをたたえているかのように微妙なしなりや質感を感じさせてめくられようとも、このテクストはもとの書物とはまったく別物の異本=ヴァリアントとしてとらえられるべきだ(91頁)。

したがって近代デジタルライブラリーインターネットアーカイブで公開されている書物は、

それまでとは全く異なる読者層に公開され、しかも比較にならないほど広範囲で錯綜した流通経路を経て広がっていく、あるいは遍在していく新たな版といえる。そしてまた、ネットワークと端末を通してディスプレイで見、キーボードやマウスでめくる(それがめくるという行為と本当に呼べるかどうかは別として)読書体験をともなった新たな版なのである。かといってもはや新刊書とも言えないので、「新生書」とでも言うべきだろうか(91~92頁)。

となる。

ところで、氏にとっても、リテラシー史とは、まだ形成途上の学問領域という位置づけなのだろうと思われるが、要するにリテラシー史とは、読者史、出版史、図書館史、メディア史の自律性をそれぞれ承認しつつ、それらを「読書環境の形成」という観点から編成し総括した領域、として想定されているようである。


本書を読んで考えたこと

第1部は総論で、日米の書物の移動をめぐる大きな問題史的構成になっていて、第2部が各論として高木八尺角田柳作、坂西志保、福田なおみ、チャールズ・タトルら(私の場合不勉強を露呈するようだが高木を除いては本書を紐解くまでほとんど予備知識がなかった*1)本をつないだ人物の活動が丹念に追われる。

さらにカナダのアジア学研究に示唆を与えた人物として、ライシャワーハーバート・ノーマンが取り上げられる。以前にも書いたようにハーバート・ノーマンを崇拝してやまない自分などは、こんなところで(というのも失礼だが…)まさかノーマンに出会えるなんて!と読みながら妙にテンションがあがったりしたものである。

ハーバート・ノーマン人と業績

ハーバート・ノーマン人と業績

歴史の本いうと*2、どこか実務から無縁に見える向きがあるかもしれないが(実際そのような目線こそは歴史を見る人の問題意識の有りようの問題でしかないのだが)、例えばOA運動への取り組みについて、以下のような踏み込んだ指摘もある。そしてこの指摘が、明治期図書のマイクロ化、それを用いたデジタル化の歴史的整理を踏まえてなされるものだから、重いところがある。

電子ジャーナルの価格高騰化についての箇所から引用する。

重要なのは、この問題の責任は、図書館、あるいは出版社ではなく、むしろそれぞれの領域の研究者たちにもあるという点である。より正確には、研究者たちが、研究成果を流通、提供する仕組みにまで関心を向けてこなかったという点にある。もしそれぞれの学会や学術機関が、その成果をデジタル化し、オンラインで無償で提供するような共通理解が出来あがっていれば、商用のデータベースに対抗する大きな力となっていただろう(135頁)。

むろん、反論もできるとは思う。自分自身も、個々の学問領域が背負ってきた経緯と役割の反省的な検証を抜きにして、一律なんでもかんでもデジタル化すれば問題は解決するのだという奇怪な言説には反発を覚える一人ではある。ただ、その場合でもCiniiがつい先日からPDF記事の全文検索をはじめた状況下では、改めてどういう提供の仕方がよいのかを考える格好の機会になっていることは確かなことのように思われる。

本書を読んでもう一つ感じ入ったことは、いささか余談めくけれど、和田氏が属する早稲田の図書館が、所蔵コレクションに対する強い誇りを持っているということでもあった。

太平洋の架橋者 角田柳作

太平洋の架橋者 角田柳作

角田柳作の蔵書にしてもそうだし、第三章のデジタル化に即して論じられる「古典籍総合データベース」にしてもそうである。先日市島謙吉の日記を読もうと『早稲田大学図書館紀要』も読んだが、あまりに面白い記事が多いのでびっくりした。これは市島謙吉以来の伝統なのかもしれないなあ、と思っている。

逆に図書館で働いている自分が今自分のところの資料に対してそれが出来ているかなあ、と考えると、ちょっと自戒の念が沸々と湧いてきそうなくらいに、凄いと感心してしまった。

*1ドナルド・キーン氏を知っていて、キーン氏の日本学の師匠である角田を知らない、というのは全く不覚であるとしかいいようがない。

*2:本書は歴史書なのかどうか。著者の和田氏はもともと文学がご専門とのことであるが、しかし序章に「書物と場所の歴史学」とある以上、一応歴史の本として差し支えあるまい。ただこの点について、和田氏が、書物の流通情報を論じる件で、歴史学、文学研究、図書館学、社会学に限らず「重要なのは、どこのテリトリーにその問題が属するかではなく、どの領域であれ問題意識を共有するものが積極的にその問題に取り組み、その成果をできるだけ広い領域に向けて発信してゆくことである」(89頁)と強調されている点だけは念のため付言しておく。