Podcastの作り方

anchor.fm

 

ありがたいことに「みちくさのみちpodcast」友人はじめいろいろな方に聴いていただいているようです。

誠にありがとうございます。

 

私自身は、動画より低コストで、分野外の論文を読まない人への研究の紹介ができ、さらに学生向けには何かの授業で使えそうなネタを、学部生から院生までをターゲットに教材として作り置きしていく感覚で上げておりますが、まあそれにとらわれず無理せずやろうと思っております。

今後ともよろしくお願いいたします。

 

さて、簡単にできるのか?とのご質問をいただいたので、割と簡単にできたということで、やり方をご報告いたします。面白い話をしてくれそうな関係者の方が乗ってきてくだされば。

 

まず、Anchorというアプリを教えてもらって使っています。Spotifyが提供しているポッドキャスト作成ツールですね。

 

これは何で使い始めたかというと、私にポッドキャストを勧めてくださったが使っていたからです(笑)スマホ1台あればできるよと。

 

使い方についてはYoutubeの説明動画をあげていらっしゃる方を参考にしました。いろいろありますが、私が見たのは以下です

youtu.be

 

Anchorはエピソードと言われる1番組を編集していきます。

その際、音声のパーツを作ってアップロードして繋げていく操作をおこないます。

たぶん、ただしゃべるだけでも行けるのですが、それっぽくするために

・オープニング

・本編

・エンディング

それぞれの部分の音源を用意しました。

 

あと、Anchorでは配信開始時に3000ピクセル四方のカバーイラストがいるということで、素材を集めてillustratorで作図しました。

(私のは図書館の白黒のアイコンと、古紙風の写真素材をあわせて文字をのっけただけです)

 

 

古紙の素材は「写真AC」から

www.photo-ac.com

 

アイコンはシルエットACからだったかと

www.silhouette-ac.com

 

お金得てないですけど、商用OKがよさそうですね。

 

これはパワポや、あるいはペイントでも出来ると思います。

向こうが提案してくるデザイン案をとりあえず選択するのもアリかと存じます。

 

マイクはiPhone12のものを使用しています。

 

オープニング音源作成のため、タイトルコールはプリセットのボイスメモで撮って、音源フリー素材で良さそうなものと、音声編集のフリーソフトAudacity)で合成してオープニングの部分を作りました。

forest.watch.impress.co.jp

 

 

音源探しはオンライン授業のときに重宝しましたけどこちらのサイトでしたね。

dova-s.jp

 

タイトルコールは寝起きに取ったら引くほど暗かったので、二度ほど撮り直ししています。なかなかにこっぱずかしいので、もうここは腹を括ってやるしかないです。

また、音がデカすぎるというご意見も頂戴したので、何度か修正して一度上げた番組の音部分だけ差し替えたりしました(そういう作業がAnchorは割と簡単です)

 

タイトルコールのあとに番組説明を入れてますが、これは公開時に使用しているポッドキャスト概要と同じ文です。作文して読み上げてます。

友人から、なんか半笑いになってしまう、と言われましたが、致し方ありません(笑)

 

 

オープニングは長すぎてもアレなので30秒で収まるようにしました(ある人からは、それでも長いって言われました)。

 

本編部分はAnchorに入っている録音の機能で撮っています。

 

このへん私も良くわからないのですが、どうもこれが生活音などのノイズを勝手におさえてくれるのか、普通のボイスメモで撮ったものより音質が良いようです。

録音室た特別な機材はもありません。子供が昼寝してるときに自宅の別室で撮ってるだけなので。

 

録音した喋ってる部分の音声のトリミングは可能ですが、トリミングするつもりならボイスメモで撮ってしまったほうが楽かもしれません。

 

実際、一度、第4回ですが、これを研究室で撮ったら音質が違うとすぐに指摘されました。

 

おおよそ10分程度喋るということをざっくり決めて、話のプロットを書き出したものを前にして喋っています(そうしないと散漫になり過ぎるので)

※それは/で区切って、目次とか小見出しのように各回の概要欄に記述しています。その方が内容を理解しやすくなると思うので。

 

で、オープニングと本編とエンディングを並べて保存し、公開しています。
以上のものをAnchor上で繋ぎ合わせて公開で1回の作業が終了となります。

 

もともとSpotifyと連携しているのでそこからの配信は簡単ですが、Apple podcastとかAmazonとかで配信する場合は別途作業が必要となります。試行錯誤で適当にやっているのであまりうまく説明できませんが、とりあえずアップルとAmazonとグーグルでは流せるようになりました。

 


なおAnchorはWebブラウザでも閲覧でき、フォルダの音源をドロップできるのでパソコン上で作業するのが楽だと思います。登録にはメールアドレスかまたはSNSでの認証が必要になります。

 

あと、配信の告知はTwitterが便利なんだろうなあと思うんですが、Twitter辞めてしまって復活させる気があんまり起きないので、どんな話をしたのかnoteで更新するというところで落ち着きそうです。

 

まだメリット・デメリットは未知数なのですが、こんなのに良さそうだなと思っております。

  • 雑談
  • 本やサイトの紹介
  • 長い文章を書くのは大袈裟だけれど便利なTipsの紹介

結局、Twitterであれブログであれnoteであれ、あるいは動画もそうですが、目で追ってもらわないと伝わらない、人にその時間を割いてもらうというのは結構大変で、しかもアカデミックな内容の発信となると、そこまでコスパが良いとはいえない。

であれば、散歩中とか移動中とかに聞き流してもらえるところでやったほうがいいのではないか。そんな風に考えてみました。

 

日本思想史学会のニューズレターに先日大会参加記を書かせていただきまして。

日本思想史学会ニューズレター

 

「今回の大会発表を聴いた限りではそこまでとも思われなかったが,仮に,コロナ禍による交流機会の縮小が,日本思想史を学ぶ留学生や若手研究者の問題意識のタコツボ化を誘発しているとしたら,やや憂慮すべき事態ではある」


第1回の配信でこれに似たことを喋っているのですが、これを書いたとき(11月末くらい)、アカデミックな人たちを巻き込みつつ異分野で対話の機会を促進していくやり方、打開の方法は、もはやTwitterではないような気がして(対話するつもりがほぼ例外なく喧嘩になってしまう。努力でどうこうできる次元ではなくて、たぶん構造的に何か問題があるんじゃないかと)。

そこから年末年始で偶然ヒントを見つけて年明けから音声配信をやっているというのは、大袈裟というか何というか、主たる動機でもないのですが、どこかに引っかかっているような気がしております。
まあ、悪あがきなのかもしれないですが。

 

ただいずれにせよ音声配信ならば、とにかく批判しようが褒めようが初めから最後まで一回通して聴かないことには内容が入ってこない点で、変な批判とかを避けることができそう、というのが良い点ではないかと思います。

 

ちなみに作成過程で色んな方のポッドキャストを聞いてみるようになったのですが、是とか凄かったです、本当に面白かった。

youtu.be

 

追記

友人からコメントをいただきました。

 

上げてるよ!!テンションめちゃめちゃ上げてますってば。

仕事で電話取ったときみたいなテンションでしゃべってるでしょうよ。

あれより上げたら裏声か北斗の拳の次回予告みたいになるくらい上げたつもりなんだけどなあ。

 

 

Podcastを初めてみました

anchor.fm

 

タイトルのとおりなのですが、新年でPodcastなるものをはじめてみました。

昨年末、家族の紹介でお会いしたワインのインポーターの方がお仕事で愛用しているらしくて、「ポッドキャスト良いですよ、研究とかの発信にいかがですか?」と勧めてくださったのがきっかけです。
 
ながらでも視聴でき、しかし聴いてくれたクライアントの人とは結構密に付き合うことが出来る。「結局テキストだと変なところを切り取られて炎上するわけで、その心配がだいぶない」ということを仰っていて、「それは確かに…」と思うと同時に、その方の配信も聞いてみたところ大変寛いだ雰囲気で話しておられるので、心惹かれました。
 
しかし「図書館×歴史」のよもやま話がコンテンツになるか?????でまだ迷いはあるのですが、とりあえずやってみます。2023年の目標は「やってみる」です。
 
目が肥えた若い人に向けてYoutubeに下手な動画を上げるよりはよい気もします。
 
また、例えば本の紹介をする場合も、Twitterで見て反応をくれるくらいに活字好きな人って、むしろそもそもこちらが大して発信しなくてもリーチする可能性があり、だったらむしろ耳で聴いてる人に、最近ポッドキャストで聞いた本を届ける方が上手くいくのでは・・・・とも。
 
あんまり無理をせず、やっていこうと思います。
 
家族が寝静まっている間に起きてタイトルコール録音したら、あまりに暗さに自分で引いて撮り直したりしてますが、頑張ります。しゃべるのも仕事なので、上手になりたいです。
 
 
図書館関係の配信も探すとあんまりないのですが、「図書館員の立ち話」というのがあるようですね。専門図書館の方がやっているようです。これから増えていくのかも。
 
 
 
よろしくお願いいたします。

帝国図書館の利用者たち

『メディア史研究』52号(2022年8月)に「帝国図書館の利用者たち」というのを書いた。

 

cir.nii.ac.jp

元々、大正、昭和期の帝国図書館史のことをちゃんと調べられていないなという問題意識から準備したもので、メディア史研究会の例会で発表したネタが元になっている。研究会の席上で貴重なご意見をいただいた皆様に感謝します。

 

大正、昭和期の帝国図書館については、まとまった研究がそれほどなくて、『上野図書館八十年略史』も、明治期の充実に比べると記述はあっさりしている。利用者像についても、大正時代に図書館に通った文学者のエピソードとかは紹介されることもあるけれど、それに埋もれてしまうもっとマニアックな人たちはあまり表に出て来ない。

 

それなので、『帝国図書館年報』の統計と、それから新聞記事と、帝国図書館文書のいくつかを組み合わせて、とくに利用者の観点から、その動向を大づかみに論じてみた。

 

従来の論(先行研究)を批判して新たな説を述べるというものではないので、成果というとおこがましい感じもするのだが、

  • 帝国図書館への偽名入館が可能だったかどうか。

  • 利用者のピーク

  • 婦人閲覧室の利用傾向の推移

  • 入館待ち行列の過酷さ。待ち時間の長さ

  • 関東大震災以後の動向

  • 新聞の受け入れ

  • 利用者の懇談会のようなもの

について判明したことを書けたのがよかった。立身出世を夢見て、忍耐強く本を読もうという人が通う図書館だったのであるが、それが昭和期になると少し変わっていくさまも見て取れた。

調べていて、これは凄いな…と思ったのは二・二六事件の日も上野には普通に利用者がいて、戒厳令が敷かれて決起した者が投降しはじめる二十九日だけは利用者が少なくなっているが、二十八日まではそんなに影響を受けたとは思えない推移をしている、ということである。こういう史料に出会えると色々考える。

帝国図書館月報 昭和11年2月

断片的な話になってしまったが、さらに歴史の中に帝国図書館を位置づけるよう努力していきたい。

歴史資料(史料)とは何かについて

講義で「史料と史料批判」について説明する際、自分は次のような説明を行っている。

史料とは、歴史研究者が読み解く素材であり、文学研究者や思想、美術の研究者が「作品」に対するように、社会学や経済学の研究者が統計を分析するように、あるいは理系の実験系の研究者がデータに対するように、歴史研究になくてはならないものだ。

 

高校まで日本史の教科書や、受験科目で日本史を使おうとした人は「史料問題」というのがあったはずだ。あのような体験を受験生にさせるというのは、単なる暗記科目としての歴史ではない、歴史の作業の実態を少しでも体験してもらおう、という狙いがあってのことだと思われる。2022年からの新課程歴史総合でも史料の解釈が重視されるようになってきているのは、教える内容を考える側の願いということであろう。

 

タイムマシンのようなものがないので、歴史家は直接過去を経験することができない。亡くなった人の魂を現代によみがえらせて話を聞くこともできない。そうすると、史料を媒介として過去の事実に触れるしかない。史料がないと歴史の研究はできないということになる。

 

他の入門書などを読んでみると、少なからぬ歴史学者にとって、ここでいう史料とは、ちょうど料理を作るときの食材のようなものとしてイメージされているように思う。肉じゃがを作りたいのに豚肉がないというのはつらいものだが、素材である史料がないと歴史の研究ができないのも同じことである。研究では、史料がないことを想像で論じてはいけないというルールがある。

 

史料が食材であれば、先行研究は、さしずめクックパッドのようなレシピを集めたサイトに載っている調理例(一定の手順で食材を加工して作ってみたもの)ということになるか。また、「素材」から導かれる「解釈」は味付けのようなものか。

 

大日方純夫先生が、こんなことを語っている。

歴史の本や論文を読むよりも、史料を読むのが一番おもしろい。研究書や論文は、史料の要約や部分引用から構成されているから、書き手を仲立ちとして過去に案内されているといった感じが否めない。なにかかゆいところに手がとどかないようなもどかしさ。ここに書かれていることは本当だろうか。自分自身で確かめてみたい、もとの史料から当時の息づかいを感じてみたい。そんな思いに駆り立てられる。史料はじかに過去の人々の語りや思いを伝えてくる。他の人々の解釈や取捨選択が加わらないままの過去(もちろん、すぐ読めるのは、活字化されたり史料集に編集されたりしているものだから、過去の史料そのものではないが)、それを読みながらいろいろなことを考えてみる。これは一体何を物語っているのだろうか。この人はどんな状況の中で、何のために、何を考えて、こんなことを書いているのだろうか、などなど(大日方純夫「近代史料との付き合い」『卒業論文を書く』(1997年、山川出版社))

 
 論文を読んでいるより史料を読んでいる方が楽しいという感想には私もほとんど同意する。人情としては、自分に都合の良い事実を述べている史料だけを集めたくなるものだが、すぐに反論が出て来るようなレベルの論証は好ましくない。いろいろと手を尽くして調べた結果、わかったのがこういうことなのだという風に読者を説得しなければならない。

 

そしてしばしば、史料に書いてある大事なことは、仮説を裏切る形で見つかる。それを受けて自説を修正しつつ、先行研究でも見つかっていないことを発見して論証しくことが、歴史の論文を書くというプロセスになってくる。

 

史料とは何かについての定義は、以下も参考になる。

www.ndl.go.jp

論文のルールをドレスコードのようなものとして理解する

相変わらず論文の書き方の本ばっかり読んでいるわけだが、日本語学の石黒圭氏の本が面白い。

 

特に後半は、これは日本語学を専門とする著者ならではのものだと思うが、論文用の適切な日本語表現について力を入れている。

論文・レポートの書き方の本で、石黒さんの本では、ちょうど論文の参考文献の書き方を、「服装」にたとえているのが面白い。

引用は,服装のようなもの です。書き手は中身に力を入れますが,読み手は外見を見ていることが多いのです。 論文はフォーマルな服装が求められるジャンル ですから,あまりだらしないかっこうはしないほうが賢明です。学生のレポートによく見られるだらしなさは,手近な本しか調べていないことに現れます。おそらく,地域の公共図書館で調べたものを適当に並べたんだろうなあ,という文献リストを眺めていると気持ちが萎えてきます。ひどい場合は受験参考書が並んでいたりします。まともに本を買ったのは高校までで,大学では一切本を買わないようにしているのかもしれません(石黒圭『この1冊できちんと書ける!論文・レポートの基本』p.36)

なるほど。「だらしない」という感じはいいえて妙である。求められている場所でそれに相応しいものを出せないというのは、手抜き感につながってしまう。

「専門レベル」というのがリクルート・スーツのような正装で,「入門レベル」というのがクール・ビズのような軽装に当たります。「一般レベル」というのはTシャツにジーンズのような普段着です。つまり,「専門レベル」の文献は積極的に論文の参考文献に入れてよく,「入門レベル」の文献は時と場合により,「一般レベル」の文献は参考文献に入れてはいけないということになります。(同上、p.37)

レポートや論文を書く場合には、出典を示し、参考文献を挙げなければいけないのだが、参考文献に挙げてはいけないレベルの情報源は存在するのである。

こうして著者は、専門性の度合いによって、縦軸に文献のレベルを専門レベル/入門レベル/一般レベルの3段階に分け、さらに横軸に本(著書)、雑誌(学術誌)、辞典・事典の3種類に分けた3×3のマトリックスを作っている。詳しくは本書を参照されたい。

専門レベルでは、本ならば研究書。雑誌ならば原著論文があげられる、という。辞書・事典はそもそも入門レベルまでということなので、専門レベル相当のものはないという。

入門レベルでは、本ならば入門書・概説書、雑誌ならば調査論文、レビュー論文などが入る。辞書・事典では、分野ごとの専門辞典のものが区分される。

そして一般レベルでは、本なら一般書や実用書、雑誌ならエッセイ(高名な学者が書いたものでも、根拠がないもの)、辞書は一般辞書、とこう分けるわけである。

岩波新書とか講談社現代新書とか中公新書のような新書レーベルのものは、入門レベルの本に当てはまるので、「時と場合により」参考文献に入れたりしてよいが、もっと一般向けの、例えば『鎌倉殿の13人』の大河ドラマガイドのようなものとか、受験参考書とか、高校の用語集みたいな実用書は入門書とは呼べないので、参考文献に挙げてはいけないということになる。インターネット上に存在する事典類も、この基準で使っていいかどうか判別できそうだ。

また、いくら書くときに繰り返し読んだからといって、卒論・レポートの書き方の本とかを卒論の参考文献には挙げてはいけないのも、この方式で説明可能だ。実用書だからである。

一般レベルの辞典というのは、広辞苑とかだろう。『日本大百科全書』とか『国史大辞典』とかであれば分野ごとの専門家が書いている入門レベルに達しているけど、国語辞典では、執筆者の書名がないから、そういうのは引用してはいけない。こういう形式的な判断が可能になる。

広辞苑とか高校の日本史用語集がレポートの参考文献に載ってると、多くの教員は採点するときに「うわぁ…」となると思うのだが、学生同士で「え、それ出すのヤバくない?」と相談しあっているかどうかもわからないので、教えたほうがいいんだろう。新書・事典を注記に挙げるべきではないという主義の人もいるということは知っておいて損はない。

うまく言語化できていなかったが、よくできているなあと思う。

論文とその課題設定について

山内志朗『新版 ぎりぎり合格への論文マニュアル』を読んでいて、「そうそれ!」とものすごく同意できる一文があった。

立派な論文・著書を読んで、「私には付け加えることはありません、素晴らしい内容ですので理解して、整理したいと思います」という殊勝な心掛けで卒論に取り組む人は偉い。しかし、論文を書くことについて基本的な思い違いをしている。論文とは、問題・問いを設定し、その問いに対する答え・解決を提示することだ。内容を理解して、それを整理することはAIの得意分野だ。人間が人間として取り組むのは、名著の内容を一部分取り出してくることではなく、自分が知りたい事柄を問題として立ち上げ、問題に解決可能性を与え、その方法を準備し、自分の課題を自分自身で理解し深め、問題意識の原点に立ち戻り、自分自身を再発見することなのだ。論文を書くというのは、創造的行為であり、知的技術を鍛練し、自分を発見する行為なのだ。(山内志朗『新版 ぎりぎり合格への論文マニュアル』(2021、平凡社新書)p.26)

 
 

このあとに続く、「問題意識」をどうやったら磨けるか、についての記述も「そうなんだよなー」と論文指導をしていて思う。

 

著者は哲学だからこういう書き方だと思うが、歴史だと、本当にただある対象の過去から現在までの変遷を本から要約してきて、「で、何が課題なんだ?」と聞くと「え?」ときょとんとされる。

 

「何が課題なんだ」と聞くと「資料がまだ全部集まってないことです」といわれることもある。いや、そういう進捗上の課題じゃなくて、論文で回答を見出すべき課題のことを教えてくれ・・・。

 

こういうことが繰り返し起こる。論文を読み慣れていないから起こることなのだが、どうすればきちっと伝わるか、頭を悩ませ続けることになる。でもしばらくこの一節がいかに大事かわかるまで読んでくれ!っていうのでもいいのかもしれないが。

 

材料が歴史だから、学校で聞いた「お勉強」はとりあえず覚えればいいという思考パターンになってしまうんだろうか。多くの人が途中で気づくように、歴史の卒論て中盤以降は歴史知識の暗記能力より国語力なのだが。

 

所与の情報のなかから、解決すべきで、かつ、調査によって解決が可能な課題と、調べたり努力してもわかるのに果てしない時間がかかる問題とをわける。1年間でやりたいことは何ですか?って聞かれているわけなので、人事評価の話とかするといいのだろうか。ビジネスでも使う思考なんですよ、といってもなぜか信長に学ぶマネジメント式に脳内変換されて聞き流されてしまう。しかし世間一般でも歴史が何の役に立つかのイメージなんてそんなものなのかもしれない。

 

卒論を書いてねということと就活のリンクがうまくいかない人は、この手の思考のスイッチがうまくいっていないことが多い気がする。

 

卒論で自分のやりたいことを見つけなさいという課題は自己分析に、何をやっていいかわからなければ少し過去の論文を読みなさいというのは業界分析に、それぞれつながる文字通りの「演習」なのだと思うのだが。繰り返し説明はしているつもりなのだが、本人の意識に刺さるものがなければ響かないときもある。

 

それでいて大学で何にも教えていないと言われるのはなかなかつらいものもある。在学中に発芽しなかっただけで、後で本人が成長した種を蒔いておけたのなら、それでよしとすべきなのかもしれないが。

レポート執筆における主観と客観

レポートの書き方を授業で指導するなかで、「客観的」「論理的」に書こうねと話をする。自分の個人的な主張や感想を語るだけではダメなので、客観的な根拠が必要なんだよ、と話す。感想文とレポートは違うんだよ、というバリエーションもある。

 

例えば慶應のアカデミック・スキルズシリーズの1冊『学生による学生のためのダメレポート脱出法』には、こんな風に書いてある。

そこで必要なのが、自分の考えを客観的な根拠に基づいて論理的に示すことです。「客観的に見て●●だから、こう考えられるんだ!」と言えればいいわけです。では、客観的な根拠を示すためにはどうしたらよいでしょうか。そのためには講義内容を整理したり、書籍や雑誌論文を読んだり、何らかの調査を行ったりといったことが必要になってきます。自分の個人的な体験を出したり「誰かがどこかでそんなことを言っていた気がする」と言ったりするだけでは、根拠として不十分なのです。「この人がこの本でこう言っている」、「こうした事件があった」、「こんな調査結果が出ている」など、レポートには明確な根拠が必要です。読者がいることを考えて、冷静に議論を行うことが、レポートでは求められているわけです(慶應義塾大学教養研究センター 監修/慶應義塾大学日吉キャンパス学習相談員 著『学生による学生のためのダメレポート脱出法』(慶應義塾大学出版会、2014)pp.15-16)

 

 

こんな話を授業でしていたら、統計や調査結果の報告書に基づいて議論するというのはわかるが、何かの本に書いてあったことを紹介しながら自己の見解を述べるのが何で客観なんですか、みたいな顔をされたことがある。この前も、同じ話をしていてあんまりピンとこない様子だった。「主観を書いちゃいけないレポートであなたの意見を述べろって言われたらどうすればいいんですか」と質問されたこともある(これは真っ当な質問だと思う)。

 

レポートの書き方に関する本を色々見比べていて、実は、客観性を強調している参考書は意外と少ないことに気が付いた。

 

単なる事実を、自分の意見みたいに言うべきではない(事実と意見は区別すべきである)とか、議論は証拠を示しながら「論理的」に行うべきであるとかはよく書いてあるのだが、客観的で無いとダメという説明をハッキリしてくれているのが、探せば探すほど見つからない。

 

佐渡島香織・吉野亜矢子『これから研究を書くひとのためのガイドブック』第2版(ひつじ書房、2021年)では、「根拠を示さず推測をしている表現」=「私語り」を消す、というところで控えめに「客観性」への希求の話が出てくるが(p.97)、客観的でないレポートはダメみたいな言い方にはなっていない。

 
その理由について思い当たることとして、レポートの書き方本の著者が哲学者か社会学者か歴史学者かによって、「客観」という言葉の捉え方がかなり違う、ということが挙げられる。
 
読者の想定にもよるが、様々な分野にまたがるようなレポート指導であればあまり不用意に「客観」という難しい用語を使わないほうが無難である。このことは歴史学において、価値判断と事実をどう認定するかをめぐる問題を考えるだけでも、収拾が付かなくなりそうな予感はする。

それを踏まえた上で、私は次のように考え、教える。

  • 大学のレポートとは、受講者の思考力を問うものだが、人に説得力をもって学術的な主張を述べる練習でもある。

  • 主観と客観の間は、ハッキリ線を引いて区別できるようなものではなく、中間にいろんな段階が想定できる。そういうなかで、ただ根拠もなく感想だけが書かれている主観的なレポートと、複数の根拠を示しながらできるだけ客観的な記述を心掛けようとしているレポートは、参考文献の数や引用の仕方などの形式上の特徴から、採点者が優劣を判定可能である。

  • 感想より意見が、意見より主張が、より聞き手に迫る説得力が高いものを指すと考えられる。この場合の説得力が高さは、根拠の強さによる。

  • 以心伝心でわかってくれない相手に、文章、図画写真、音楽、映像、統計、その他なんらかの根拠を提示して共有ながら、自己の見解を述べることは、何にもなしでただ自己の見解を述べるよりずっと説得力の高い議論である。

  • 根拠を持って自分の意見を述べることは、根拠なしに感想をいうより優れている。しかし、自分と意見の近い著者の本を一つだけ取り上げて引用していたら、まだ読者に偏っているという印象を与えるかもしれない。その場合、反対の意見もあげて、反論を加えたり、あるいは複数の著作を比較してみるのもよい。参考文献にあげるものは一つより複数のソースを上げるのが断然よい。公平であろうとする姿勢は議論の客観性を高める。

  • ここに引用の重要性が現れる。人文系のレポートをテクストからの引用抜きで済ませるのは困難である。

  • この作業を繰り返した結果まとめられた意見は、まだ主観的かもしれないが、しかし単なる主観だけを述べたものではなく、読者を説得するために、客観的な視点を得ようと努力した形跡の認められる主張を持ったレポートであるといえる。