学びて時にこれを習う(3) 江戸時代の学問観と学習法

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荻生徂徠が博学を尊び、彼の学問観にいたってようやく文献研究として<スタディ>が自立してくる、と書いたが、もう少し調べてみると、そう単純な話ではなく、ちょっと違うかもしれない、慎重に考えた方がいいとも思えてきた。


文献研究の「幅」

徂徠が歴史を重んじたのは、実際そう言っているテキストがあるわけだから確かであろうが、だからといってそれは別に今日想像される歴史学に近いものと捉えるのは、かえって無理なのかもしれない。例えば日本において、近代歴史学を切り拓いた一人、重野安繹の有名な講演「学問は遂に考証に帰す」では、代表的な考証家として、

新井白石本居宣長伊勢貞丈塙保己一、狩谷棭斎、伴信友、黒川春村、岡本保孝…

の名前が挙げられているものの、むしろ徂徠は入っていない。重野は近年研究が進められている幕末の昌平坂学問所という、西洋の知識も入ってきていた場所で朱子学を身に付けたわけだから、寛政異学の禁で排斥された徂徠学に関しては、そもそもあまり高い評価を与えていなかったのかもしれない。

 が、それとともに、私が文献研究というとすぐ今の歴史研究の現場をイメージしてしまったことに問題がある。歴史というと、すぐさま複数の文献を見比べて、それで語句の意味なり事実を正確に復元して行くことだろうとすぐ想像してしまったのだが(それが「考証」だろう。)、ただ一つのテキストを前にして、その内部の連関を辿りながら書かれていることの意味を読み取っていくこと、それもまぎれもなく文献研究である。例えば文学の作品論とはそういうものであろう。「ちょっと違うかもしれない」というのは、そのことを念頭に置いていなかったからである。そして徂徠学はある種の道徳的な学問体系のなかから文学、詩歌を自立させる契機を含んでいたことはよく知られている。

 逆にそんな徂徠を批判することで登場してくるのが、清朝考証学などの影響を受けた、考証学派の台頭であった。

だいぶ話が飛んでしまったが、多種多様な学問論と、学術支援をうたう図書館の関係の源流を考えてみるというのが、この文章を書き始めた狙いだった。重野はこうも言っている。

考証学で日本の国書を調べるとなれば、漢学者も和学者も無い筈のものでありませう*1

 こういう発想からなら、たくさんの文献を集めて「考証」に役立てようとする発想が出てくるのは必然だろう。その意味で、国書の散逸を嘆いた国学者が頑張って文庫設置を志すという話は納得できるものがある*2


学習方法

 では、徂徠学を含む儒学ではどのような学びの形態が行なわれていたのか。そこで書籍はどう使われたのか。

 儒学の学習形態には、大きく素読、講義・講釈、会読の三つがあった。

 7~8歳ごろから、素読が行なわれる。素読は声に出して経書を読みその内容を覚えることに主眼がある。意味はこの時点でわからなくてもよいので、<聖人の教え>の身体化のプロセスとも評される*3

「学び」の復権――模倣と習熟 (岩波現代文庫)

「学び」の復権――模倣と習熟 (岩波現代文庫)

 四書は通常『大学』→『論語』→『孟子』→『中庸』の順で読まれていく。

 これを終えると、教師が注釈書を用いて、本文の解釈を説明する「講義」が行なわれることになる。

 それと同じ頃から「会読」が始まる。最近注目されているのがこの「会読」である。

江戸の読書会 (平凡社選書)

江戸の読書会 (平凡社選書)

 会読にはいくつかの形態があり、輪読では、7~10人程度がグループとなり、順番をくじで決め、指定されたテキストの当該個所を読んで講義をする。車座の討論会のようなものとされている。ここでは身分制社会の中でも比較的「実力」によって年長者や格上のものにも自由に物が言えた点が特徴的だったとされている。そしてこの山崎闇斎学派の「講釈」を批判し、「会読」を重視したのが荻生徂徠であった*4

 この会読はさらに蘭学国学にも影響を与え、「訳」の作成という仕事にも流れ込んで行くことになった。

 講釈を筆記したりして身につけるのでなく、当番が自分の担当箇所について他のメンバーの前で講義しなければならないのだから、参照すべき文献は多い方がよいことになりそうだ。徂徠自身も博学を尊重し、歴史を重視した。けれど彼の学問論のなかには、経書に解釈においては後代に成立した他人の注釈がむしろ邪魔になるとも取れる以下の部分があることも、同時に考えておかなければならないのかもしれない。この辺りの評価は近世思想に疎い私の手に余るけれど、引き続き考えてみたいところではある。

漢の顓門(専門)の学は、人ごとにその説を殊にすれども、また師に聞く所を伝へ、七十子より出づ。あに繆誤なからんや、失得こもごもこれあり。並べ存してこれを兼ぬるは、道の棄てざるなり。頴達は疏を作りて、すなはち一家の言を執る。明は大全を作りて、頴達もまた廃せらる。学のますます陋なる、古に及ばざる所以なり。故に学問の道は、いやしくもその大なる者を立て、博きを貴び、雑を厭はず、むしろ疑はしきを闕きて、以てかの生ずるを竢つ*5


近世社会と「学問」

 荻生徂徠はしばしば近世前半期の思想にとって分水嶺とされる*6

日本思想史ハンドブック (ハンドブック・シリーズ)

日本思想史ハンドブック (ハンドブック・シリーズ)

丸山真男以来、思惟様式における近代化の端緒とされてきた徂徠だが、近年ではまったく逆に「荻生徂徠の思想の根幹は、ときに「近代的」と呼ばれる立場の逆、ほぼ正確な陰画である」という評価もある*7。(2)でまとめた野口論文にしても、ある部分で丸山真男の思想史的枠組みに乗った部分があるということはできそうだ。

 このあたりのことをずっと調べて来て、おぼろげにようやくわかってきたのは、近世期の、とくに江戸前期においては、少なくとも朱子学が体制のイデオロギーだった事実はないという方向に、近世思想史自体の論調が変わってきていることだ。幕府成立のほんの少し前まで、戦乱のなかで「功名」を求めて競い合ってきた侍たちが、突如として「聖人」になるために倫理を学び始める、ということのほうが、江戸時代は朱子学の時代とみなすことよりもはるかに不自然、と言われれば、なるほどそうなのだろうとも思う。*8

近世日本社会と宋学

近世日本社会と宋学

近世日本社会と儒教

近世日本社会と儒教

 

 逆に、ゴリゴリの保守的な朱子学一辺倒だったと見られがちな幕府昌平坂学問所の内部で、寛政異学の禁など、いくつかの画期によって変化があったのに加えて、対外政策を初めとして、開明的な内容についても学ぶものがいたことが、明らかにされつつあるのも興味深い。

 近世の学問と文庫の研究については、小野則秋氏の浩瀚な研究(『日本文庫史研究』下巻)がほとんど規範的なものになっていると考えられるが、近世思想史自体の枠組み変更以前の著作であることを考えるならば、新しい視点も踏まえてちょっとずつ再整理してみるということも、これから必要なのかもしれない、と思えた。

 ちなみに、ここまで書いてようやく出発点なのだが、今年度の図書館総合展では、「文庫」に関するセッションが組まれる。

 東北発「図書館とは何か」 -青柳文庫の検証から見えてくるもの

 どのような話になるのか、まだまったく不明ではあるのだけれど、ちょっと楽しみである。

*1:重野「学問は遂に考証に帰す」『東京学士会院雑誌』第12編ノ5(1890年6月28日)、200頁。

*2:たとえば小野則秋「江戸期における国学者図書館運動」『日本文庫史研究』下巻、改訂新版(臨川書店、1988)所収など。

*3:辻本雅史『学びの復権』(岩波現代文庫、2012年)67頁以下

*4:この会読の三つの原理として、前田勉氏は相互コミュニケーション性、対等性、結社性の3点を指摘している。前田勉『江戸の読書会』(平凡社、2012)。

*5:「学則」『日本思想大系』第36巻(岩波書店、1973)195~196頁。

*6:片岡龍「分水嶺としての荻生徂徠苅部直・片岡龍『日本思想史ハンドブック』(新書館、2008年)92頁。

*7:渡辺浩『日本政治思想史』(東京大学出版会、2010年)197頁。

*8:渡辺浩『近世日本社会と宋学』(東京大学出版会、1985年)の例えば219頁。研究動向の整理については黒住真『近世日本社会と儒教』(ぺりかん社、2003年)151頁以下の丸山思想史以降の整理が参考になった。