学びて時にこれを習う(4) 国学と文庫

国学の登場

前回まで(1)(2)(3)

 前回の終わりで、近世思想における学問の展開と文庫について、もう一度新しいフレームのなかで考え直してみることも重要そうだと書いた。そういった図書館史を構想する場合、もちろん私自身がもっと江戸時代の出版について今のような段階を脱して詳しくならなければいけない。その点で、昌平坂学問所紅葉山文庫、和学講談書などの和書、漢籍を引き継いでいる内閣文庫の本が出たのは勉強になる*1

幕府のふみくら―内閣文庫のはなし

幕府のふみくら―内閣文庫のはなし

 

 さて、ここまで書いたので、やはり国学のことに触れないわけにはいかない。とはいえ、契沖から国学の四大人とされる荷田春満(1669~1736)、賀茂真淵(1697~1769)、本居宣長(1730~1801)、平田篤胤(1776~1843)個人をとっても、研究の数が膨大であり、さらにその地方への波及という点から考察したものも多い。そこで不十分であることをお断りした上で、触れることのできた国学の学問観と文庫との関係にのみ限定して話を進める。

 本居宣長が学問所を作ってそこに文庫を置こうとしていたという類の話は伝記などでも触れられているが*2村岡典嗣が述べるところによれば、国学の学的性格とは、ドイツ文献学よりもひと世代早く、全く独自に成立した、日本における「文献学」=「書物の学」に他ならないとする*3

新編 日本思想史研究―村岡典嗣論文選 (東洋文庫)

新編 日本思想史研究―村岡典嗣論文選 (東洋文庫)

 しかし、文庫ということに関しては、すでになんどか触れている小野則秋『日本文庫史研究』のとくに下巻が詳しい。そこでは以下のように述べられている。

わが国図書館史上近代図書館運動は、江戸期における庶民文庫に端を発している。さらにこれを仔細に調査考証すると、直接、間接それが国学者の復古運動とみられる点が多々ある*4

 興味深いのは、戦前は小野の図書館史のなかでも国学者の運動が取り上げられることはなかったことだろうか。戦前期に宣長の思想は日本精神を称揚したものとして取り上げられたし、そのことがまさに「宣長問題」として、今なお思想史の研究課題になっている*5

本居宣長 (岩波現代文庫)

本居宣長 (岩波現代文庫)

本居宣長の大東亜戦争

本居宣長の大東亜戦争

 しかしながら、図書館史のコンテクストで宣長が持ち上げられるのは、一部を除いて基本的に戦後である。小野の日本文庫史研究は戦前から続いているが、戦前に書いているのはむしろ昌平坂学問所文庫の研究や、藩校、寺子屋の文庫のことに過ぎない。ナショナルなものと民衆的なものは、別に矛盾せず、反官の一点でむしろ強固に結びつくという典型のようでもあるが、たんに図書館の歴史を研究しようというのはよほど酔狂なことだというだけなのかもしれない。


宣長と古書

 国学者が何故文庫(図書館)を?という疑問に対する答えは、割とシンプルである。幕府や各藩藩校で教えられる漢学に対して、和書が顧みられず、それゆえに散逸してしまう恐れもあるので、それを蒐集し、保存しなければならない、と国学者たちが考えたからである。

 古書の手の入りにくさは、宣長がずっと嘆いているところでもあった。宣長が学問の方法を初学者に向けて説いた『うい山ぶみ』に曰く、

さて六国史をはじめて、こゝに挙げたる書共いづれも、板本も写本も、誤字脱文等多ければ、古本を得て校正すべし。されど古本は、たやすく得がたきものなれば、まづ人の校正したる本を、求め借りてなりとも、つぎつぎ直すべき也。さて又ついでにいはむ、今の世は、古をたふとみ好む人おほくなりぬるにつきては、おのづからめづらしき古書の、世に埋れたるも、顕れ出る有。又それにつきては、偽書も多く出るを、その真偽は、よく見る人は、見分れども、初学の輩などは、え見分けねば、偽書によくはからるゝ事あり、心すべし。されば初学のほどは、めづらしき書を得んことをば、さのみ好むべからず*6

出回っている本にはみんな誤字脱文があるから、原本でどんどん直すべきだ。借りてもそうすべきだ。ついでに国学宣長の用語では「古学」)が盛んになるにつれて文献の発掘も進むけれど、偽物も多く出回るので初心者のうちは心して手を出すなというのである。

うひ山ふみ/鈴屋答問録 (岩波文庫 黄 219-1)

うひ山ふみ/鈴屋答問録 (岩波文庫 黄 219-1)

本居宣長「うひ山ぶみ」 (講談社学術文庫)

本居宣長「うひ山ぶみ」 (講談社学術文庫)


 また、『古事記伝』執筆を元に得た知見を認めた随筆『玉勝間』(寛政5年(1793)起稿)に曰く、

ふるきふみどもの、世にたえてつたはらぬは、萬ヅよりもくちをしく歎かはしきわざ也*7

玉勝間〈上〉 (岩波文庫)

玉勝間〈上〉 (岩波文庫)

 あったはずなのに『風土記』は出雲国のばかりで、残りは欠けるか、あるいは全くなくなってしまったではないか、と彼はいう。それは「かへすかへすもくちをし」いのだと。

 それもこれも、

さるは応仁よりこなた、うちつゞきたるみやこのみだれに、ふるき書どもゝ、みなやけうせ、あるはちりぼひうせぬるなるべし、そも今の世のごと、国々にも学問するともがら多く、書どもえうじもたるものおほからましかば、むげにたえはつることはあらじを、そのかみはいまだゐなかには、学問するともがらもいといとまれにして、京ならでは、をさをさ書どもゝなかりしが故なめり、されどから国のふるきふみどもはしも、これかれとゐなかにも残れるがあるは、むねとからを好むよのならひなるが故也*8

 応仁の乱以降京で戦乱が続いて古い書がみな焼け失せ、あるいは散逸してしまった。国々に学問する人が多かったならばこんなことにはならなかったのに!昔は田舎(ゐなか)には学問する人も稀で、京でなければ書もなかったためであろう。ところが「から国」つまり漢籍になると話は別で、あれこれ田舎にも残っているのがあるのは、基本的に「からを好む」世の習いであろう…。

 宣長の怒りは収まらない。

萬のふみども、すり本と写し本との、よさあしさをいはむに、まづすり本の、えやすくたよりよきことは、いふもさら也、しかれども又、はじめ板にゑる時に、ふみあき人の手にて、本のよきあしきをもえらばずてゑりたるは、さらにもいはず、物しり人の手をへて、えらびたるも、 なほひがことのおほかるを、一たび板にゑりて、すり本出ぬれば、もろもろの写シ本は、おのづからにすたれて、たえだえになりて、たゞ一つにさだまる 故に、誤リのあるを、他本もてたゞさむとすれども、たやすくえがたき、こはすり本あるがあしき也*9

版本と写本の比較論である。版本は入手しやすいが、いったん出版されてしまうと写本がすたれてテキストがそれに統一されてしまうので、誤りがあった場合に簡単に直せなくなる。これが版本の悪いところである。

然はあれども、写本はまづはえがたき物なれば、広からずして絶やすく、又写すたびごとに、誤リもおほくなり、又心なき商人の手にてしたつるは、利をのみはかるから、こゝかしこひそかにはぶきなどもして、物するほどに、全くよき本はいとまれにのみなりゆくめり、さればたとひあしくはありとも、なほもろもろの書は、板にゑりおかまほしきわざなり、誠に貞観儀式西宮記北山抄などのたぐひ、そのほかも、いにしへのめでたき書どもの、なほ写本のみにてあるが多きは、いかでいかでみないたにゑりて、世にひろくなさまほしきわざ也、家々の記録ぶみなども、つぎつぎにゑらまほし*10

けれど写本はやはり入手しにくいし、写すたびに間違いも多くなり、さらに心無い商人が儲けだけを優先してめんどくさくなって適当に省略して仕立てる場合もあるから(!)とりあえず諸々の本はやっぱり板に彫っておくべきだろう。写本しかないものは、なんとかしてみんな板に彫って、世に広く普及させるべきである。

 どうも何か最近電子化か何かで見た議論のような気がするのだが、話が脱線するので続けると、

今の世大名たちなどにも、ずゐぶんに古書をえうじ給ふあれど、たゞ其家のくらにをさめて、あつめおかるゝのみにて、見る人もなく、ひろまらざれば、世のためには 何のやくなく、あるかひもなし、もしまことに古書をめで給ふ心ざしあらば、かゝるめでたき御世のしるしに、大名たちなどは、其道の人に仰せて、あだし本どもをもよみ合せ、よきをえらばせて、板にゑらせて、世にひろめ給はむは、よろづよりもめでたく、末の代までのいみしき功なるべし、いきほひ富る人のうへにては、かばかりの費は、何ばかりの事にもあらで、そのいさをは、天の下の人のいみしきめぐみをかうぶりて、末の世までのこるわざぞかし、かへすがへすこゝろざしあらむ人もがな*11

 諸大名も随分古書を買い漁っていると聞くが、結局自分の蔵に納めて集めて置いておくだけなので、見る人もなく、広まらない。世の中の為に何の役にも立たず、存在意義も無い。本当に古書を愛する志があるならば、その道のプロに任せて、本を校合して良いものを選び、版行して世に普及させたら、末代まで残る功績になるではないか。だいたい金持ちにとってみればそんなお金は何ほどのことでもないのだから、後世に残る事業としてやるべきである。かえすがえすもそんな志のある人の登場が待たれる。

「言いたい放題だ」と思うが、気持はわかる。

そうしてまた、珍しい本を手に入れた人はどうしたらよいか。

めづらしき書をえたらむには、したしきもうときも、同じこゝろざしならむ人には、かたみにやすく借して、見せもし写させもして、世にひろくせまほしきわざなるを、人には見せず、おのれひとり見て、ほこらむとするは、いといと心ぎたなく、物まなぶ人のあるまじきこと也、たゞしえがたきふみを、遠くたよりあしき國などへかしやりたるに、あるは道のほどにてはふれうせ、あるは其人にはかになくなりなどもして、つひにその書かへらずなる事あるは、いと心うきわざ也、さればとほきさかひよりかりたらむふみは、道のほどのことをもよくしたゝめ、又人の命は、にはかなることもはかりがたき物にしあれば、なからむ後にも、はふらさず、たしかにかへすべく、おきておくべきわざ也、すべて人の書をかりたらむには、すみやかに見て、かへすべきわざなるを、久しくとゞめ おくは、心なし、さるは書のみにもあらず、人にかりたる物は、何も何も同じことなるうちに、いかなればにか、書はことに、用なくなりてのちも、なほざりに うちすておきて、久しくかへさぬ人の、よに多き物ぞかし*12

仲の良い相手でも、嫌いな相手でも(したしきもうときも)同じ志を持つ人には貸せ、コピーもさせてやれ、というのである。

自分ばかりが見て誇るのは「いといと心ぎたな」い。そればかりではなく「物まなぶ人のあるまじきこと也」。

実にお怒りである。

けれど珍しい本を遠方の人に貸して毀損されたり、その人が亡くなってしまったりして返ってこないのも腹立たしいのだという。

この辺実に正直である。

だからちゃんと万が一のことがあってもちゃんと返してくれるように取り決めをしておくことだと。借りた本は返しましょうと。どうもこれも最近見た議論のような気がするが、この発想から図書館的なものの設置に行きつくのは、ごく自然な流れであったということはわかる。

 かくして、宣長は出版にも意を砕いていたが、その版木を彫ったのは名古屋藩の植松有信(1758~1813)である*13。有信と図書館との関係にも浅からぬものがある。有信の内弟子だった茂岳は、後に有信の養嗣子となるが、関東大震災後の東大図書館で資料収集に奔走し、上代文学にも造詣が深かった司書官――すなわち、植松安は彼の孫にあたり、家に宣長の書簡があったと述べているのも象徴的な出来事に思える*14


群書類従』のはなし

多くの典籍を集めること、そして国学との関係でいえば、安永8年(1779)に塙保己一(1746-1821)が刊行を誓って進めた『群書類従』の存在がある。

 散逸の恐れがある古書を集めて採録した叢書は、「壁のない図書館」と評されている*15。この長大な叢書を企画した塙保己一が、事業継続のために、寛政5年(1793)幕府に文庫の設置を願い出、その結果出来たのが和学講談所であった。当時の老中首座は松平定信(1759~1829)である。和学講談所と塙保己一のもとには、屋代弘賢(1758-1841)のように自らも蔵書家として重きをなす人物が集まって行った。

三大編纂物 群書類従・古事類苑・国書総目録 の出版文化史

三大編纂物 群書類従・古事類苑・国書総目録 の出版文化史

 

 宣長はこの挙を大変喜んでいた。しかしそれと同時に、刊行が進むにつれて、期待値が高過ぎて逆に不満に感じることもあったらしい。熊田前掲書でも取り上げられている保己一の門弟・石原正明*16。宛書簡を部分から再引すると…。

群書類従追々出版可致と奉察候(中略)此儀、毎度此方ニ而も申候儀に御座候、迚も板本に成候程ナレハ、世上へ広ク行渡候様ニ致度物ニ御座候、然ル処、是迄塙氏出板の書トテ売物ニ書林ヘ出候物、一向見当り不申致、ケ様ニ而ハ折角上木之かひなき事ニ而御座候間、何とそ広ク世上へ出候様に御すすめ可被成候、書はトカク成へきたけ多く世上へ出し候が宜御座候*17

 せっかく板本にして出版するのだから、世上に広くいきわたるようにしてほしい(ということはつまり松阪では全然売っていないということなのだろう)。なんだか、絶版本を電子書籍にしろというバージョンの論争で、ごく最近も似たような話を見た気がするが、宣長の思いはそうして手に入る文献を増やしていくこと、散逸を防ぐことにあり、そこから校正を加えて良いテキストを作り、それをまた後世に残していくことに繋がっていく。

 宣長を初めとして、国学者はこうして文庫を作り、それを神社に奉納するということを結構やっていたようである。伊勢神宮の林崎文庫などが有名だが、平田派国学の影響を受けた人々も同様に神社文庫を作っていく。これらの文庫のいくつかは庶民にも開かれていたため、とくにパブリックライブラリーの源流としても評価されるが、同時に国学者による図書館設置運動の研究者がこんな感想も漏らしていことは心に留めておいておくべきだ。

しかしこれを国学の精神を伴ってはじめて可能であったとするためには、別に儒学者の同種事蹟を述べて、これを比較対象しなければならないし、国学者の学問的精神が図書館を生みだしてゆくかの過程をもっと詳しく説かなければならないような気がする*18

今までの研究が文庫を羅列した「文庫史」であり、公開=パブリックライブラリーの理念を辿る「図書館史」でなかったとも批判している。

*1:同書を読んで、人に図書館史をやれといいながら、私はこんなにもモノを知らないのか、と愕然として、本当に頭を抱えたまましばらく突っ伏して震えたことは、これをお読みになる方にはどうでもいいことかもしれないが、正直に書いておく。これまでのことも、またこれから書くことも、要はその不安に突き動かされてのものなので、不十分なことや誤りも含まれると思うので、ご叱正いただければ幸いである。

*2:たとえば、城福勇『本居宣長』(吉川弘文館、1980)215頁。

*3:村岡「国学の学的性格」『日本思想史研究』(岩波書店、1940年)参照

*4小野則秋「江戸期における国学者図書館運動―特に古学派を中心として,その人と業績について―」『日本文庫史研究』下巻(1988、臨川書店版)所収、336頁。初出は、『図書館の学と歴史 : 京都図書館協会十周年記念論集』(京都図書館協会、1958)収録論文)

*5:例えば、芳賀登『本居宣長の学問と思想』(雄山閣、2001)など

*6本居宣長著、村岡典嗣校訂『うひ山ふみ 鈴屋答問録』(岩波文庫、1937)37~38頁。引用は適宜現代通用の字体に改めたほか、踊り字はそのまま、重ね字は直した。以下同

*7:「古書どものこと」本居宣長著、村岡典嗣校訂『玉勝間』上(岩波文庫、1934年)23頁。

*8:同上書、23頁

*9:同上書、25~26頁

*10:同上書、26頁

*11:同上書、26~27頁

*12:同上書、27~28頁

*13植松有信については、遺族による伝記があるほか、近年では高橋章則「「媒介」の思想史的意義--思想を「媒介」する「モノ」と「人」」『日本思想史学』第36号(2004)でも触れられている。

*14植松安については、関西文脈の会第12回勉強会(2012年4月15日)報告参照。

*15:熊田淳美『三大編纂物 群書類従 古事類苑 国書総目録 の出版文化史』(勉誠出版、2009年)参照

*16:1760-1821、寛政4年に本居宣長に入門したのち、塙保己一に師事、和学講談所の塾頭となり、「群書類従」の編集校訂に参加した

*17:熊田前掲書、73頁。

*18:落合重信『近世国学者による図書館設立運動 : 図書館関係論文集(歴史・分類・書誌)』(神戸学術出版、1975)58頁。