学びて時にこれを習う(2) 文献研究<スタディ>の成立

(1)の続きです。

近世・近代の「実学」についてのイメージとは別の切り口でも少し考えてみたい。


何故か生き生きと「学問」している人々を描く小説

 最近読んだ冲方丁歴史小説群は、『光圀伝』にせよ、あるいは『天地明察』にしてもそうだが、なんだか実に生き生きとして「学問」する人々が出てくる。印象的なのは、筋骨隆々のマッチョなお侍ほど、若さと体力に任せて力いっぱい「読書」することだ。それが「文武両道」なのだと言わんばかりに。

 皮肉屋で線の細い連中は、それはそれで驚異的に頭の回転が速く、みな書物が好きである*1。相手を論破するために、相手のよっている解釈を批判する文献を血眼になって探したりしている。史実かフィクションかはさておき、ある種の限界状況みたいなところでそれでも学問するしかないと思い定めた人たちの物語なので、私もそうだったが、周りにも勧めてみたら、院生時代を思い出して「身に詰まされる…」という感想を持った人が割といるようだ。

光圀伝

光圀伝

天地明察

天地明察

 私の江戸時代のイメージは貧困なので、読んでなるほどこういう風に論争したのだろうか、と想像もしてみたくなった。そういう意味では、清国末期を素材として、科挙の試験がいかに過酷か、試験の途中で頭がおかしくなってしまったり、追い込まれながら八股文を必死で作文する若者を描いた『蒼穹の昴』の最初のあたりのシーンも印象的である。

蒼穹の昴(1) (講談社文庫)

蒼穹の昴(1) (講談社文庫)

 とにかく登場人物が、必死で「学問」をしている。これが小説になるのだから、凄いといえば凄い。山田詠美村上春樹の小説を例示するのは極端かもしれないけれど、普通小説の主題になりそうな、学問なんかしなくってもまあ楽しい人生の送り方はあるよね、っていうのと真逆の主人公像が出てくる。

 「実学」の主張はひとまずそれとして、いったい何がそんなに楽しそうに学問する姿を支えていたのか、もちろん小説だからフィクションかもしれないけれど、作家がそういう風に解釈できる素地があったとすれば、それはどういう学問観なのか。


近世儒学の学問意識

 調べていたら、こんな論文があったんだなあ、というので、取り上げてみる。私は近世思想史について全くわからないので、全体を通して頓珍漢なことを言っているかもしれない不安はつきまとうが、以下に整理しておく。

 野口武彦「近世儒学における学問意識の成立」『講座日本文学の争点』4(近世編)(明治書院、1969)p.174-197

 同論文では、儒者たちの意識の中で学問の意味と目的についての認識=「学問意識」がどう推移してきたかを見ることを課題としている。朱子学の「学問」認識が「学ハ以テ聖人ニ至ルノ道ナリ」であることから、自身の道徳的実践と学が未分化の状態にあって、スタディとして独立する契機があたえられていないとする(176頁)。

 だが他方、林羅山以降の日本における朱子学受容の過程では、一大真理としての「天理」を把握する方法として、意思だけでなくて、理性的な認識が排除されたわけでもなかった。つまり「物ニ即キテ其ノ理ヲ窮ムル」=「格物窮理」である(178頁)。

 この窮理は、客観世界の個々の事物に体現されている「理」を把握するもので、蘭学者を経て、福沢諭吉も「窮理学」について述べていたりする。なお、最近の思想史の研究書の朱子学解説のくだりにおいては、この「物」は「一木一草の理」も含まれるが、しかし朱子学において中心となるのは、物体と直接向き合うことではなく、四書五経を読むことであった。なぜならそれは「理を完全に顕現した人格者、聖人たちの言行の記録であり、あるいはその編纂書」だったからであると説明されている*2

日本政治思想史―十七~十九世紀

日本政治思想史―十七~十九世紀


博学か、自己限定か

 朱子の注釈と語録を絶対的なものに推し進めたのが山崎闇斎(1619~1682)だという。これだけを読めばいいので、歴史書とか余計なものは「雑学」であるから一切読むな!と言って、自ら「講釈」に立ってそれを第一としたのが闇斎および闇斎学派の特徴だったという(180頁)。また闇斎は、林家の学問を批判して、「博学」を誇るようなものは心が暗く知も塞がれるのだと酷評しているという。

 これに対しては、私の関心に直接関わる以下のコメントがあるので引用しておく。

このような林家学批判は、おそらく学問所がむしろ幕府の図書館<ビブリオテーク>であり、林家代々は思想家であることよりも書誌学者<ビブリオグラフ>であることを要求されたという事情に由因している。朱子学系統の学者たちが「博学」を重んじたのは必ずしも林家だけでのことではなかった(181頁)。

 闇斎のように、資料を限定することに先鋭化していけば、学問を支える図書館<ビブリオテーク>は、あまり重要な役割を果たさなくなるような気もしてしまう*3。闇斎が招かれた会津藩でどうだったか気になるので、後で調べたい*4

図書館・アーカイブズとは何か (別冊環 15)

図書館・アーカイブズとは何か (別冊環 15)

 逆に「博学」を突き抜けて、実用化を目指し、真面目に徹底的に事実を追及することで、書物を突き抜けて実際に物を見て考える方向に突き進んだ結果、逆に“悲劇的”に、「理」の実在性に疑問を抱くに至ってしまったのが、本草学者・貝原益軒(1630~1714)だったという見方も示されている(186頁)。


徂徠学―研究<スタディ>の自立

 益軒に至って一種の実証主義、つまり学問を研究<スタディ>として自立させる端緒が開かれたわけだが、むしろそれとは異なる立場から、朱子学に根本的な疑義を突き付けたのが古学派の台頭だった。朱子らの付したテキストではなく、直接聖人の言について考えたら良いではないか、といった山鹿素行(1622~1685)、それに文献学的な基礎を与えた伊藤仁斎(1627~1705)の記述を経て、いよいよ荻生徂徠(1666~1728)が登場する。

 余談だが、私は就職してから最初の通勤途中内で読破したのが徂徠の『政談』だったこともあり、「事もなき時分に、利発なる大将の下に差図をして使えば、世俗の目にはよきように見ゆれども、下に才智を出させつけぬ故に、下々は皆あほうになるなり」とか「隙にて工夫をもし、また時々は学問をもすべき事なり。当時は大役ほど毎日登城して、隙なきを自慢にして、御用済でも退出をもせず」とか諸々の章句に傍線を引いては「荻生徂徠偉い!」と思って電車に揺られていたので、まあ、今思い返すと我ながら酷い新人ではある。

政談 (岩波文庫)

政談 (岩波文庫)

 閑話休題

 徂徠が重視したのは、文献中の言語が永遠普遍の概念を示すものではなくて、むしろ古代中国という歴史上一回限りの時期にどういう意味で使用されたか、であった。だから徂徠にあっては「学」とは経書の読解を通じて取得可能な「聖人ニ至ルノ道」などでなく、あくまでも「学トハ先王之道ヲ学ブヲ謂フナリ、先王之道ハ詩書礼楽ニアリ。故ニ学ノ方、亦タ詩書礼楽ヲ学ブノミ」なのであった(191頁)。*5

 儒学思想のなかで大きな位置を占める「道」とは、徂徠においては、結局文献の中にしかないのだから、ここから第一に、観念的な方法によってこの「道」に到達することは出来ず、第二に、「道」の探究のためには、ただできるだけ正確に、恣意的な解釈を挟まずに、忠実に文献を読みたどることが「学」であるのだと考えられることになる。そうしてこの点において、徂徠は自己の学問を、客観性を尊重する研究<スタディ>として自立させるだけの論理を所有していたと結論付けられている(193頁)。

 論文自体はもうちょっと続くが、学問意識についてはこの辺でよいだろう。

 こういう意識でもって、文献の研究の積み重ねをしていくならば、「見聞広く事実に行わたり候を学問と申事ニ候故、学問は歴史に極まり候事ニ候」(「徂徠先生答問書」)という、歴史屋が愛好してやまない一節が徂徠から導き出されてくるのも、むべなるかな、という感じがする。

 (多分)まだ続きます。

*1:ネタばれで恐縮だが、現に、人間離れした記憶力の持ち主として描かれる林羅山(1583~1657)は、明暦の大火後、蔵書が焼けてショックで他界してしまう、という描写になっている

*2:渡辺浩『日本政治思想史』(東京大学出版会、2010)128頁。

*3:この点、丸山真男にいわせれば、「述而不作」つまり講じて著作は書かないというのが、「闇斎の基本的態度」だったということになるし、また丸山が引いている闇斎学派への“悪口”の引用中に「山崎家ハ、書籍ノトリアツカヒ、四書、小学、近思録、朱子文集、語類ニ止マリ、五教、朱子綱目ニテサヘ、アマリワタリ申サズ、ソノ外ノ諸書歴史等、タヘテ禁ジテ、学者ニ見セ申サズ」という文字が見える。丸山「闇斎学と闇斎学派」『丸山真男集』第11巻(岩波書店、1996)235頁。

*4:家康の文庫政策については、春山明哲「ライブラリアンシップとは何か」『別冊環15・図書館・アーカイブズとは何か』(藤原書店、2008)所収が、卓越した図書館史家である小野則秋の研究を引きつつ紹介している。

*5:この「先王之道」は、徂徠によれば自然にあったものではなくて人為的に聖人によって作られた制度である、というところから、徂徠の思想を近代的な思惟の萌芽と見る研究は、丸山真男の『日本政治思想史研究』以降以降たくさんあるのはいうまでもない。