「残念な論文」執筆法

 院生時代に愛読していた『MASTERキートン』に好きな話がある。研究者と保険屋の間で「優秀な保険の調査員」であることに悩んでいたキートン大学図書館に行ったときのもので、図書館でバイトしている院生がカウンターに現れた人物をキートンと知るや、その手を握りしめ「あんな素晴らしい論文初めて読みました!僕はあれを読んで研究者になろうと決心したんです!」と語り、言われたキートンがびっくりする、というシーンである。「あんな素晴らしい論文初めて読みました」と、いつか一度は言われてみたいものだと思いながら、その願いを果せず今に至っている。

MASTERキートン 2 完全版 (ビッグコミックススペシャル)

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 論文の書き方を考えるときは、私の場合、いつも上手く書けていない、書いたけれど不満が残った、もっと上手になりたい、そんな風に思うときだと相場が決まっている。上手く書く方法や文章術についてネットで探せばいくらでも出てくる。文章読本の読本まであるご時世である。

ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法

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文章読本さん江

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 けれど、そんなことはとっくにやってるんだけど文章が良くならないのだという不満から文章術を求めているので、なかなかスッキリした気分にならない。フラストレーションも溜まる。

 こうして、何度も同じ自問自答を繰り返しながら、失敗例、つまり「残念な論文の書き方」をハッキリ自分で定義しておけば、次から悩みを繰り返さなくて済むのではないかと思い至った。

 まず明確にするために、感動するものは何かから考えよう。私が「この論文が凄い!」と感動するタイプの歴史学の論文は、ざっくりわけて次の5パターンに分類される。

1.知らなかったことが書いてある。

2.当該問題についての自分の認識が改まる。

3.自分の課題・テーマに応用が利きそうな論点が示されている。

4.扱っている事象についての目配りが行き届いている。

5.以上のことはもとより、とにかく文章が美しい。

ということはこれを裏返せば、少なくとも私にとっての「残念な論文」の書き方が定義できるわけである。

6.知っていることしか書いていない。

7.扱っている問題についての認識が変わらない(深まりもしない)

8.扱っている事象や論点の応用可能性について疑問が沸く。

9.扱っている事象が偏っている。

10.それ以前に、文章が不快である。

ひとまず書いてみた後で、これを意識してチェックすればよいのだ。

 これには私の個人的な趣味も入っている。

 1~3抜きの状態で、むやみに論争提起的な論文、挑発的な文辞が並ぶ文章は、私はハッキリいって嫌いなのだが、「停滞している学界状況を打破するにはまずは論争だ!」と思われる向きにとっては、ちょっと違う感想になろう(4とか5とかも)。そこはおそらく人の立場によって若干違う。また、最近だと検索されやすいキーワードが付与されていることも意識されるらしいが、これはあくまで自分にとっての目安なので、キーワードの示し方などが「うまいな」と思うことはあっても、深く感動まではしないので、書かなかった。

感動する条件についてもう少し掘り下げてみる。

1.知らなかったことが書いてある。

 1-a 知らなかった(重要な)事実が指摘されている。

 1-b-① 知らなかった(重要な)人物の活躍が描かれている。

 1-b-② 既知の人物だが知られていない(重要な)行動が描かれている。

 1-c-① 知らなかった(重要な)史料が所在とともに紹介されている。

 1-c-② 既知の史料だが、指摘されてこなかった重要な解釈をしている。

ということはこれを裏返せば、

6.知っていることしか書いていない。

 6-a 既知の事実が書いてあるだけである。

 6-b よく知られている人物のよく知られている行動を取り上げている。

 6-c 既知の史料を通説通り紹介しているだけである。

となり、これらは、よくない論文の条件ということになる。

 既知の範囲が難しいが、結局、それはちゃんと先行の文献を網羅的にレビューしているか。他の何かに書いていないかをチェックする構えがあるかどうか、そのことをちゃんと人に見せる努力をしているかになるのだろう。

 自分が発見したと思った出来事について誰かが既に書いていた、という経験は私自身あるし、「悔しいな」と思いながらも、気付いた後はむしろ「危なかった…」という思いの方が強くなっている。

 だから時々、「この重要性が全く理解されてこなかったのだ」みたいな煽り文を見た後で、期待して参考文献を読んだら全然ピントがずれた本ばかり槍玉に挙げられていて、「おいおい。アレ読んでないんじゃないか」と思うときには、できれば自分がそれを繰り返してしまうのは避けたいと考えてしまう。

 もちろん既知の史料を取り上げて立論することは何も悪いことではないのだが、「(みんなが知っているのに)新発見!」と書いてあれば、たちまち残念な論文になってしまう。

 既知のものでも、従来と違う解釈をしていたりすれば当然話は変わってくる。それは2の認識の改まりにも繋がるからである。

2.当該問題についての自分の認識が改まる。

 歴史の問題は色々繋がっているので、あるAについての見方が変われば、連動して、その論文に書かれていないBの意味合いも変わるということがある。あるいは全然関係ない事象Cの意味が急速に「あっ!」とわかることもある。これを裏返せば、

7.扱っている問題についての認識が変わらない(深まりもしない)

となる。ある事件に対する評価そのものを一変させる(例えば評価の悪かったものを→素晴らしかったに変える。または著しく評価の高いものを→大したことが無いものに変える。ただ、後者の手は偶像破壊でよく使われはする。)ことは難しい。

 いかにテーマが多様化しているとはいえ、蓄積の厚い歴史学の分野で出来ることは結局「何か付け加える」「一部変える」程度のことに限られるのかもしれない。しかしながら、「これを書くことで、何を変えるのか」という点は、どんな些細なものであっても意識せざるを得ない。認識を変えるのは、より深く理解する、でもよいのである。認識が深まりもしないというのが最悪で、そうでないと「何でこれが書かれたのかわからない」という残念な論文が一つ世に送り出されてしまうことになる。

もう一つ、

3.自分の課題・テーマに応用が利きそうな論点が示されている。

というのは嬉しい。読んだ論文中に指摘されているような視点で見たことは無かったが、史料を読み直してみると新しい発見があるかもしれない、ということが書いてある場合である。それは2ともつながっている。逆バージョンは、

8.扱っている事象や論点の応用可能性について疑問が沸く。

 これは自分で書いた場合だけで無く、人の書いたものを批判する場合にも注意がいるという意味で挙げた。

 

 たまに、先行研究で取り上げられていない対象を詳しく調べたことと、先行研究への批判が突き詰められずに結び付けられている論文がある。未知の事例を発掘したからといって、先行研究の枠組みが微動だにしない論証なら、その論文の意義は、未知の事例を世に紹介した点で皆無でないにしても、高いとはいえない。

 具体例をあげると障りがありそうなのだが、例えば、

「筆者のテーマはこれこれである。この分野についての著名な先行研究某では「××」という概念を出して対象Aの動向を分析している。その後の研究でも繰り返し言及されてきた「××」概念だが、そもそも某の議論では、Aのみが分析対象となっているが、当時の社会状勢の下でどこまで一般化が可能なのか批判的に検証してみる必要があるのではないか。本論文ではこれを再検証することを課題としている。」というまえがきから始まる論文があったとする。

 もっともな研究動機に聞こえる。本当ならこの時点で反例の一つ二つ欲しいところだが、それでも期待も高まる。

「そこでBを検討する。」

なるほどと思ってその論文を読んでいくと、なんだか途中から雲行きが怪しくなり…

「その結果Bでも事例Aと全く同様の事態が発生していたことがわかった」

…。

 こうなれば、結論は、批判しようと思った先行研究Aは素晴らしい見通しを持っていた、となるのは必定である。先行研究が取り上げた事例はAが典型的だったからで、Bは同じだから述べなかったのかもしれない。本当はCも検証したけれど同様の理由で省略したのかもしれない。

 そうなると完全敗北である。少し考えれば誰でもわかる。「お疲れ様でした。それで?」って言われる論文を書いてしまったわけである。こう書くくらいなら、せめて些細なことでもAになかったBの特徴を指摘するくらいしてもらいたい。私も耳が痛いが、主題によっては職業的な書き手でもなかなかこのラインを越えられないことが結構あるように思える。

 これとさらに関わるものとして、

4.扱っている事象についての目配りが行き届いている。

というのも読んで気持ちがよくなるものである。「凄いなあ、このことを考えるのにこんな文献の議論や、こんな史料まで参照しているのか」と思えるのは貴重な経験である。心構えのレベルで、身が引き締まるような論文は確かに存在する。別に上手いことを言っていなくても良いのだ。けれど書いた人がいかに真摯に問題に取り組んでいるかがわかる論文というのは、結局こういう部分にもっともよく表れるのかもしれない。

 ゆえに逆に、そういう心構えを抜きにして、

9.扱っている事象が偏っている。

というのは、大変残念な論文である。適当に書いた感じが漂ってしまう。先ほどの例でいうと、BもCも検証せずにAだけ書いてしまったような場合である。未知の対象に取り組む場合、偏りは必然的に発生するものだが、それが例えばよく読まれている書籍や評論、あるいは学界内部で繰り返し議論されてきた問題(争点)とどう繋がるのかを意識しないでやるならば、独りよがりなものが仕上がってしまう。

 学界が、学界が、とばかり書くと一般のニーズから離れてしまうからよくないという向きがあるかもしれないが、ともかくその分野の問題について他の仕事をしている人たちよりも時間をかけてその分野の勉強をし、人と議論を重ねてきた人たちが一定数以上いる場なのは確かだし、それに代わる集団がすぐ思いつくわけでもない。普通、そういった議論を一般のニーズをくみ取りながら昇華していくのが知的生産に従事するもののミッションのはずである。

 偏った著述では、これまでの議論が意識されていないのだから、言語化されるはずもないのだが、そういうパターンの著述は、読者がどういう本を読んだ上でこの論文を読むかについて悩んだ形跡がないという点で、むしろ読者を馬鹿にしているとすら思うのである。だから腹立たしい。

 同様に批判対象が抽象的過ぎるのも怪しい。

 「みんなこういっているんだけど俺はこう思うんだよね」というタイプの議論は、昔から大嫌いなのだが、「みんな」とは具体的に何か。それをきちんと示すのが人にものを聞いてもらう立場の義務だろう。人に嫌われたくない下心でもあるのだろうかと、敢えて邪推したくなる。

 人に嫌われずに生きて行きたいなら文章なんか書かなければいいと思う。書けば誰かの役に立つかもしれない反面、必ずどこかで何かを傷つけている。文章はそういうものだから。だけれども、書かなければ変わらないことが確実にある。書けるのに書かないのは、ある部分で変わることを諦めるに等しいのだから。

 

 ところでそれと関係あるようなないような感じだが、

5.以上のことはもとより、とにかく文章が美しい。

というのは、私のなかではかなり重要な要素である。主語述語の対応が適切であるとか、接続詞の使い方が穏当であるとか、推論が妥当なだけでなくて、多くの場合、論文は目で読ませるものなのだから、印刷の版面での日本語論文なら漢字と平仮名のバランスにこだわりを感じたり、文章に長い複文と短文がところどころで交互に混ざりながらリズムを生んでいたり、意味が似ていても同じような言い回しがきちんと回避されていたり、改行が適切だったり、無駄な接続詞や指示代名詞きれいに取り除かれていたり、そういうのが論文には欲しい。清水幾太郎も「が」の連発に注意せよと言っている。

論文の書き方 (岩波新書)

論文の書き方 (岩波新書)

そして逆に、

10.それ以前に、文章が不快である。

というのは、自分を棚に挙げていうけれど、やはり残念である。

 例えば、文章というのは短ければ短いほど良いと信じ込んでいる人が短文ばかりを繋げてワンパターンな表現を繰り返していたりとか、妙に通俗的な語彙と恐ろしく業界的な単語を並列して使用していたりとか、喋っているように書いているとか、作り込んだ印象が全くしない文章は、私には不快である。主語述語の対応が不適切であるとか、何重否定なのかと思うほどに一段落で「しかし」を乱発しているとか、推論に飛躍があるとかは、もちろん論外である。

街場の文体論

街場の文体論

 内田樹氏が最近書いた街場の文体論は、大学生を対象にした「クリエイティブ・ライティング」講義をもとにしているとのことだが、そのなかに次のようにある。

数十年にわたり賢愚とりまぜ腐るほどさまざまな文章を読み、また自分も大量の文章を書いてきた結果、僕は「書く」ということの本質は「読み手に対する敬意」に帰着するという結論に達しました。それは実践的にいうと、「情理を尽くして語る」ということになります(p.17)。

 読者を大切にする事。読者に向けて情理を尽くして語る、ということも文章を美しくする工夫とどこかで繋がっているように思える。

 かくして残念な論文の書き方チェックリストをもう少し詳細に作ってみると

(新たな知見の有無について)

□ 既知の事実のみ記述している。

□ 有名な人物の有名な行動のみを取り上げている。

□ 既知の史料に新たな解釈を加えていない。

(分析枠組みについて)

□ 扱っている枠組みが既存の研究動向と親和的過ぎる。

□ 扱っている事象や論点が個別性に傾き、他の対象に応用しにくい。

(対象の選択について)

□ 取り扱っている事象に偏りがある。

□ 主題選択の必然性について、他の事象と比較した結果を明示できていない。

□ 先行研究レビューの成果が盛り込めていない。

(文章表現について)

□ 各センテンスの主語述語がきちんと対応していない。

□ 連続する一文が長すぎる。あるいは短すぎる。

□ 表現の重複が見られる。

□ 用語・固有名詞の説明のバランスを欠く

□ 指示代名詞が多すぎて何を指すかわからない。

となる。

これさえあれば、もう私も今後残念な論文を書かずに、少なくとも自分では自信の持てる作品を送り出せるはずだと思って、チェックリストと今手持ちの原稿をしっかり突き合わせてみたら、案の定ガックリきたので、しばらく朱入れを頑張ることにする。

追記

これを書いたら、友人から大変有益なチェックリストを示していただいたので、一緒に挙げておきます。願わくば、これをもって「残念な論文」執筆を繰り返さないように…(自戒)

論文を書く時のやらかすポイント(そのいち) - リブラリウスと日々の記録