文庫と書籍館と図書館と―libraryはいつから「図書館」になったのか?

※修正中に消えてしまったので再投稿します。

※勘違いがあったので修正しました(2016/6/2)

図書館史中の最大疑問?

図書館史の勉強を始めると色々疑問がわいてくるのだが、そのなかでもっとも基本中の基本にして、しかも実は難問なのは、図書館はいつからあるのか。という問いに答えることなのではないだろうか。

もちろん、古代の図書館であれば、前7世紀にアッシリアのアッシュールバニパル王が作ったニネヴェの図書館だとか、紀元前300年頃の古代アレクサンドリアの図書館をあげることができる。日本なら、石上宅嗣芸亭もあげられる。

けれどこれは今日言うところの「図書館」とはちょっと違う。江戸時代は文庫と読んでいた。それをいつ「図書館」と呼ぶようになったのか。明治以降だろうという予想は出来ても、その先になかなか進めない。

日本語で図書館と名乗った図書館は、いつからあるのかという問いを立ててみる。それならある程度絞り込めそうな気がするけれど、いつ、日本人の暮らしのなかに「図書館」が定着したのかとなると、一気に難しくなる。

有名なのは福澤諭吉『西洋事情』における文庫<ビブリオテーキ>の紹介だろう。

「西洋諸国ノ都府ニハ文庫アリ「ビブリオテーキ」ト云フ日用ノ書籍図画等ヨリ古書珍書ニ至ルマテ万国ノ書皆備リ衆人来リテ随意ニ之ヲ読ムヘシ」

結論を先に書いておくと、日本に「図書館」が定着したのはいつかという問題は、色々な説が並立しており、ざっと調べた限りでも、最初と最後で実に30年近い開きがあるので一概に正解を出しにくい。

論じる人が何を大事と思うかによっても違ってくるということだ。

たとえば、最近出た高山正也『歴史に見る日本の図書館』には、明治41年(1908)に日本文庫協会日本図書館協会に変わったときをもって、「明治維新後に日本に移入されたライブラリー、ビブリオテーク等の外国語の概念を表す語として「図書館」という日本語が定まった象徴的な出来事*1」と評価している。一つの指標ではあるけれども、業界団体の話と社会の動きはそう綺麗に連動するものだろうか。

江戸から明治にかけて、文庫から書籍館、図書館へと変わってきた大きな流れがあるのだが、これらの言葉の興亡を、出来るだけ根拠を上げながら見ていきたい。私見では、歴史というのは、ある意味で思い込みや予断を揺さぶり、新しい観点の形成を促すところに一つの効能があると思うのだけれど、この作業も、図書館史の勉強が何か意味があるのか考える上では試金石になるかもしれない。

辞書から

語誌の探求のとっかかりとして、『日本国語大辞典』第二版の「図書館」の項目を引いてみると、こうある。

(1)幕末明治初期には、「文庫」「書院」「書庫」「書物庫」「書室」「便覧所(安中藩)」などの語が見える。明治10年代には、「書籍館(しょじゃくかん)」と呼ぶのが普通で、「図書館」が用いられるようになるのは明治20年代以降。

(2)当初、読みは「ずしょかん」「としょかん」の二通りがあり、もっぱら「としょかん」というようになるのは大正(1912~)以後。

ポイントが2つある。「図書館」が用いられるようになるのは明治20年代以降だというのが一つ。もう一つは読みである。もっぱら「としょかん」と読むようになるのは大正時代になってからだという話があって、それまでは「ずしょかん」という読み方もあった。これはおさえておくことにしたい。

言葉の定義に関して、辞書からさぐるという方法がとられることが多い。

翻訳語をまとめた杉本つとむ『江戸翻訳語の世界』は、明治21年(1888)の『和訳字彙 : ウェブスター氏新刊大辞書』でも、Libraryは書房、書庫、書籍館があてられているという点に注目して、いくつかの辞書と訳語の検証をしている。

なお、明治22年から数年かけて刊行された大槻文彦の『言海』には、ちゃんと「図書館」が出てくるようである。読みは「としょくわん」。「多ク書籍ヲ集メ置キテ人ノ覧ルニ供スル所」とあるようだ。

言海 (ちくま学芸文庫)

言海 (ちくま学芸文庫)

杉本氏は、ほかの辞書も対比しながら、明治二十年代にLibraryの訳語として作られたものと推定している。

なお、杉本氏が、図書館や書籍館の読み方について、漢音と呉音の区別意識がなくなり、ズショがトショになり、ショジャクもショセキと読まれるようになったと指摘している点は興味深い。昔からの教養を持ち続ける人はズショと読んでしまうわけである。

当然、図書館史研究でもこのことは問題になってきた。

このほか、図書館史の先行研究となる論文では、この問題をもう少し掘り下げている。少なくとも、明治13年東京図書館が出来たこと、さらにそれよりも3年早く、明治10年東京大学に「図書館」が設けられたことがわかっている。となると、明治20年代に「図書館」が辞書に載るようになるのは、初めて訳語が使われてから10年経過した後でということになる。言葉の定着はゆっくりである。

図書館の訳をめぐっては、例えば以下の論文がある。

  • 永峯光名「辞典に現われた「図書館」」(1)-(2)『図書館界』18(4)(5)(1966.11-1967.1)
  • 岩猿敏生「「書籍館」から「図書館」へ」『図書館界』35(4)(1983.11)
  • 三浦太郎「"書籍館"の誕生--明治初頭におけるライブラリー意識の芽生え」『東京大学大学院教育学研究科紀要』(38)(1998)

永峯論文では、英語、仏語などの辞書に表れた様々な名称を紹介しているが、ヘボン和英語林集成明治19年刊行に第三版から、libraryの訳語として、「図書館」が登場すると書いている。織田信義ほか『和仏辞書』(丸善、1899)だと、書籍館=Bibliotheque imperialeと図書館=Bibliothequeでどうも使い分けがなされていたらしいとの指摘もある。

文中「嘉永4年生れの亡父は大正末まで一生ヅショカンといった*2」という具体的な話があることも、重要な時代の証言であるといえる。

何故、書籍館から図書館になったのかについても、永峯論文や岩猿論文は言及していて、「書籍だけでなく絵図や地図も扱うからではないか」という示唆もなされている*3

なお、三浦論文はネットで全文が読める。

同論文では、「書籍館」を最初に使ったのは、幕末の遣米使節随行した森田岡太郎であるとし、アスター図書館を見学して日記に記したときに何故新たな語を作ったのか、色々な先行研究を踏まえながら考察している。

書誌学の成果も参考になる。大沼晴暉『図書大概』によれば、「図書」とは、聖人がこれをもって易を作ったとされる「河図洛書」の略であるとする。河図洛書とは黄河に表れた龍馬の背中の文様である「河図」と、洛水に表れる神亀の甲羅の文字である「洛書」を合わせた大変めでたいシンボルとされる。聖人が参考にしたのだから、図書はあらゆることが載っているという意味を帯びるのだろうか。

図書大概

図書大概

中国に逆輸入された「図書館」

ちなみに、「図書」は中国語由来なのだが、「図書館」は日本語から中国語に「图书馆」として逆輸入された言葉らしいことは、諸書で指摘がある。

近代日中語彙交流史 新漢語の生成と受容

近代日中語彙交流史 新漢語の生成と受容

しばしば、1905年に湖南図書館が開館したのが良く紹介されるが、小黒浩司『図書館をめぐる日中の近代』は、それをもう少し遡って、1904年の張之洞が作成した「奏定学堂章程」に「図書館」が見られるとしている(それまでは中国では「蔵書楼」などの表現が採られていたという)。なお、小黒氏によれば、早くも1899年に梁啓超が『清議報』で、『太陽』に載った論文を翻訳して「論図書館開進文化一大機関」という記事を載せている由だが、亡命中の梁の言論活動なので、すぐにこれが清国政府に影響を与えたという見方については慎重な評価を下している。

並存する図書館/書籍館

岩猿敏生『日本図書館史概説』は、図書館にはトショカンとヅショカンの読みがあったとしながら、明治13年(1880)の『東京大学法理文学部一覧』英文版に、同大学の図書館の紹介として、Tosho-Kuan (Library) of the Universityの記述が使われていることを上げている。「トショカン」は明治13年からあったのだ。他方、明治19年(1886)の東京図書館の洋書目録では、自館の名称をTokyo Dzushokwanと表現していてヅショカンもあったらしいことがわかる。また、書籍館についても、明治8年(1875)の東京書籍館が出した洋書目録の表題紙にはTokyo Shoseki-Kwanとあり、書籍館はショジャクカンと読むだけでなく、ショセキカンの読みがあったことがわかる。

日本図書館史概説

日本図書館史概説

そうして岩猿氏は、

明治の初期、ライブラリーに当る言葉として、書籍館と図書館があり、その読みもそれぞれ二通りあったと思われるが、1890年代には図書館という呼称に、読みもトショカンに統一されていった*4

という見方を提示している。

文部省の図書館施策との関係はどうか。

なお、書籍館から図書館への転換については、前掲『図書大概』が、「明治二十年十月、文部省は官制を改め、書籍館を図書館と改称し、学校教育の補助機関として取扱うべき旨布達している」という意見を述べているのが注目できる。同様の見解は、『図書大概』が典拠としている『八戸市立図書館百年史』にも見られる。これは何かというと、10月4日に文部省が官制を改正し、普通学務局を設けたこと、その所掌事務について書かれている個所が「書籍館」から「図書館」に変わったことを指しているようである。日本法令索引で確認すると、確かに次のように変わっている。

第十一条 第四課ニ於テハ専門学校其他諸学校書籍館博物館及教育会学術会等ニ関スル事務ヲ掌ル

第十一条 普通学務局ニ第一第二第三第四第五ノ五課ヲ置キ全国ヲ五部ニ分テ各其部内ノ尋常師範学校尋常中学校高等女学校小学校各種学校幼稚園図書館博物館及教育会通俗教育等ニ関スル事務ヲ分掌セシム…

図書館業務を統括する官庁が名前を変えたのだから重要事には違いないのだが、これによって書籍館を図書館と改称した決定的根拠とまでいえるかどうかはこれまた微妙だ。

なぜなら、同年の文部省の年報では、とくにこのことが書いていないからで、おまけに、統計表のタイトルは「書籍館」になっているからである。また、地方の書籍館が図書館に一斉に改称した形跡もとくにない。

文部省年報の統計表のタイトルが「書籍館」から「図書館」に変わるのは、確認したところ明治25年(1892)のようであるが、そうなると、また官制改正から5年ずれてしまう(確認したら勘違いでした。正しくは明治26年1月付でまとめられた、明治24年分の年報の記述から、でした。大変失礼しました。※後日追記)。なお、この頃はまだ「図書館」を標榜していたのは基本的に東京図書館帝国大学の図書館など、官立の施設が中心だった。地方の図書館は大阪をはじめとして書籍館の名称を用いているところが多かったようである。

新聞記事などで、この時期の用法を見ていると、大学図書館など参考図書館機能を持ったlibraryを「図書館」。地方で読書文化の普及に努める通俗教育機関としてのlibraryを「書籍館」と訳し分けているような印象がなくもないのだが、今ひとつ決定的な証拠を欠く。

政策的にいえば、明治30年帝国図書館設置、明治32年の図書館令公布も、結構影響が大きいのではないかと予想されるが・・・。


日本文庫協会草創期のメンバーの懐古談

明治25年は、日本文庫協会結成の年であるが、文部省年報の統計項目の変更とは何か関係があるのだろうか。当事者の回想も聴いてみたい。昭和6年1月、『図書館雑誌』には帝国図書館松本喜一が司会となって、市島謙吉太田為三郎、小林堅三、坪谷善四郎和田万吉らの「回顧座談会」が載った(開催は昭和5年11月)。

この座談は初期の頃の文庫協会の慎ましい活動が伺われて、非常に面白い記事になっている。明治32年の図書館令も帝国図書館長の田中稲城が出したとか、文部省あたりでも図書館のことがわからないとか、だから田中さんの口入れが大事だったとか。地方から図書館のことを聴きに来る人が上京してきても文部省も分からないので上野に回付されることも間々あったらしい。何というか時代である。そのくらい文部省に田中が影響力を行使できたのだとすると、年報の統計項目の変更くらいは、軽くゴリ押し出来そうにも思う。

この座談の中途に、大変重要な証言が載っている。

市島 文庫協会と云ふ文庫の字を選んだのはどう云ふ訳ですか?

和田 是は確かでありますが、そもそもの初めに会名を田中〔稲城―引用者註〕君西村〔竹間か?―引用者註〕君が按ぜられたので、其当時は図書館協会となつて居りましたが、後に文庫協会に変つたのです、初めは図書館協会でした。

(略)

太田 其頃は文庫と云ふ名前の方が普通です。

市島 是は一つ書いて貰ひたい。後にこれから問題が起るのだから。

太田 色々意見がありましたが、昔から文庫と云ふ名前で通つて来て居るのだから、図書館協会と云ふ新規な名前よりも其方が宜いと云ふことを頻りに主張する人があつて大分問題になつたやうです、新規な上野側では矢張り図書館協会が宜いと云ふ説であつたが、何分多数決でとうとう文庫協会になつてしまつたのです

松本 田中さんは、其新智識で欧米風に、ライブラリーと云ふものを図書館と云ふ風に訳して、それでやらうといふのに斯う云ふことで共鳴されなかつたのですか。

太田 外の人は皆文庫協会の方です。そうでせう、何しろ図書館と云ふ名前の所は上野の東京図書館の外には何処にも無いのですからね。皆文庫ですから*5

とくに図書館に反対して文庫説を支持したのが南葵文庫だったという。しかし議論をしていくうちにだんだん緩んできたらしい。坪谷善四郎は、高山樗牛が「図書館設立の趣旨」を書き、博文館の15周年事業として作られた大橋図書館の影響を述べている。

坪谷 其時分のことで、私が記憶して居るのは図書館と云ふ名前が非常に盛んになつて来たのは、大橋図書館が出来たと云ふことと、大橋図書館で全国図書館講習会と云ふのをやつたからです。それは田中さんが主となられてやつたものです。さうして全国からだいぶ集つて来て、今日全国に散らばつて図書館に従事してゐる人で、当時大橋図書館の講習生であつた人が大分居ります。それ等の人が地方に行つて図書館を鼓吹する事になつたのは、確か三十五年の秋だらうと思ひます。

松本 講習会は三十六年の八月一日から二週間貴方の大橋図書館でおやりになつたのですね

(略)

坪谷 とにかく全国に亘つて、皆図書館と云ふものを作られることになつたのです。さうして全国に所謂図書館の開設が叫ばれ、其当時では文庫と云ふ名を以て地方で作る人はございませんでした。あの図書館員講習会が、大変地方に図書館を作る素地をなしたのですから、今日の興隆には大いに与つて力あると思ひます*6

文庫と図書館の対立については石山洋『源流から辿る近代図書館』のなかで、文庫支持・図書館反対派の意見の中に「中国では、書館といえば娼楼を指す。そんな汚らわしい印象を含む語を会名に入れるな」というちょっとびっくりするものがあったという話を紹介している。ただ、これはためにする批判で、当時もそんなに説得力は無かったのだろうなというのは、中国語にすんなり「図書館」が訳されていることからもわかる。

読み方の問題に関しては、新聞記事に載っているルビなどを調べていくと、漸次「としょくわん」が増えていくものの、「ずしょくわん」も多い。同じ新聞でも東京と大阪、日によってルビが異なる場合すらある。明治39年(1906)に帝国図書館開館式典を報じた記事のなかですら「ていこくづしょくわん」というルビを振っているものがあったので、明治30年にすっかり「としょかん」に統一されたとまでは言い難いようである。


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戦前の図書館数と利用者を集計した表を見てみる。図書館の規模が様々なのでよしあしなのだが、これを見ると図書館の数が増え始めるのはやはり日露戦争後である。全国的な普及が進んでいくときに概念的な混乱が生じるのは避けがたいと思うものの、そのなかで図書館が、講習会などを経て定着していったというのは、それなりに妥当ともいえるかもしれない。


新村出の見解

最後に、図書館をめぐる言葉ということで、『広辞苑』の編者にして京都帝国大学附属図書館三代目館長・新村出『語源をさぐる』を紹介したい。

同書のなかで、図書館は明治二十年以降ズショと呼ぶ人が多かったが、「大正時代に入ると全くトショの方に統一されてしまった」としている。さらに考えさせられるのは、「ライブラリイ」を図書館と訳したのは正しかったのか?という疑問を発していることだ。

語源をさぐる (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

語源をさぐる (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

英語だと自宅の書斎もlibraryと云うのに、それを図書の館としてしまうと、国立や大学の図書館は良いが、規模がごく小さい町村立のライブラリーまで図書館と読んでいいのか疑問だというのだ。では文庫の方が良いのか(フミクラとしての文庫は、13世紀くらいから使われてきた昔からの言葉といえるらしい。)と考えてしまったりしてこの辺は難しいのだが、当たり前のようにして「図書館」を眺めているとちょっと揺さぶられる意見ではある。

今まで出てきた出来ごとを、年代順に、年表風にまとめておこう。

明治10年(1877) 東京大学が図書館を設置

明治13年(1880) 東京図書館開館

明治20年(1887)10月 文部省官制改正。普通学務局の所掌事務に「図書館」が明記

明治20年代 辞書類に「図書館」登場

明治25年(1892) 日本文庫協会結成。

明治26年(1893) この年1月にまとめられた明治24年分の文部省年報の統計が書籍館から図書館に変わる。

明治30年(1897) 帝国図書館設置

明治32年(1899) 図書館令公布

明治35年(1902) 大橋図書館開館

明治36年(1903) 大橋図書館日本文庫協会主催第一回図書館事項講習会

明治41年(1908) 日本文庫協会日本図書館協会に改称。

どれが大事かによって説が変わるというわけである。読み方はともかくとして、

規模の大小はあるけれど、図書館の設置数が増えるのが日露戦争以後だという事情も踏まえると、

書籍館や文庫でなく「図書館」が受け入れられるようになることに関し、先に紹介した坪谷の説はいい線を言っている気がするのだが、どうだろうか。

*1:高山正也『歴史に見る日本の図書館』(勁草書房、2016)p.59

*2:永峯光名「辞典に現われた「図書館」(2)」p.183

*3:永峯前掲論文(2)p.183。岩猿論文p.197

*4:同書151~152頁

*5:「懐古座談会」『図書館雑誌』25(1)(1931.1)p.9-10

*6:同上、p.11