人文系必読書をめぐる議論について・その3

 正直に告白すると、私は本を読まない高校生だった。いや、中学生のころも小学生のころも、読まなかった。

 そもそも高校2年の秋まで美大進学をかなり本気で考えていたので、活字の本などむしろ邪魔だくらいに思っていた。そんな人間が今図書館で働いているのだから、世の中はわからない。

(余談だが、なので子どもの頃の思い出の本が、私にはない。絵本とか小説とか好きな作品を熱っぽく語る同僚に会うと、恨めしそうな羨望のような目で反射的に見てしまう癖が今も抜けない)

 それでも難しくてもとにかく本を読まないとまずいらしい、とおぼろげに思ったのは、大学進学が決まってからである。絶対に落ちた、と思ったのに受かったので、何か少しでも勉強らしい勉強をしておかないと恥ずかしいと思ったのだ。

 そこからの記憶が定かでないのだが、多分、高校の担任にこれから何を読むべきか聴きにいったのだろう。

 それで以下の本を買ってきた。

自分のなかに歴史をよむ (ちくまプリマーブックス (15))

自分のなかに歴史をよむ (ちくまプリマーブックス (15))

日本社会の歴史〈上〉 (岩波新書)

日本社会の歴史〈上〉 (岩波新書)

日本社会の歴史〈中〉 (岩波新書)

日本社会の歴史〈中〉 (岩波新書)

日本社会の歴史〈下〉 (岩波新書)

日本社会の歴史〈下〉 (岩波新書)

歴史とは何か (岩波新書)

歴史とは何か (岩波新書)

 ちなみに、この本を買ったのはいつも参考書を買っていた本屋なのだが、私はこのとき初めて参考書以外の棚に行った。なるほどこんな本もあるのかと思って見ていると、ふと岩波文庫が目にとまり、歴史や倫理の授業で習った本が、北畠親房が、孔子が、ニーチェが現代語訳付で、文庫本の価格で読めるらしいという事実を知って、天地が覆ったような衝撃を受けた。大学で研究している人がいるくらいなのだから、ハードカバーの高い本で出ているのだろうと思い込んでいたのだ。今となっては「お前のお粗末な認識が衝撃だよ」と、10余年前に戻って説教したいくらいである。

 さて、そのような過程で出会った本で、今も辛いことがあったら読みかえすことにしている本がある。この本である。

クリオの顔―歴史随想集 (岩波文庫)

クリオの顔―歴史随想集 (岩波文庫)

 もうこれは正真正銘の名著である*1。必読とは言わないが、歴史学をやる人でこの本を読んでいないなんて信じられない、という程度には思い入れのある本である。

 本書が私にとって得難いものになった理由の一つは、この著者の文体の温かさ、印象的なほどの慎ましさだけではなくて、私に

 <歴史は偉大な巨匠の手によって描かれるときに芸術になる>

という命題を物凄く根深い所で教えてくれたからだと思っている。

 油絵を描きたいと思って美大を志望しながら、実力のなさに愕然として歴史学に鞍替えしたまま、結局自分のなかの明確なテーマを自覚し得ずに彷徨っていた無知な10代が、例えば

歴史家の仕事は写真家の仕事よりはむしろ画家のそれに似ている。

という一節に傍線を施して泣きそうになったのは、恥ずかしい本当の話である。小学校の頃から、学校で習う歴史は興味があったけれど、それを学問として志すことがどういうことなのか、講義に出てもさっぱりわからないままにいたところで、やっと自分の場所を見つけた思いがしたとでもいえばいいのか。

 案外、この手のロマンチシズムが鼻につく人もいるのかもしれないが、たぶんそういう人と私は話が合わない。

 その後ノーマンの悲劇的な生涯と本書のメッセージ性を意識するにつけ、本書への思いはますます強くなっていき、気がつくと、他分野の同期と議論するときにもついノーマンを引き合いにだしてしまう、という風に変わっていった。

 歴史学にも多様な立場があるのだけれど、この本に書かれている歴史の定義が、私の歴史学というイメージを形作っている。図書館史の勉強会を始めたりして、歴史学というのはどういう学問なんですか、と同僚に聞かれたときに、実際私が述べている答案は、ほぼ、この本の引き写しでしかない。

 同じようにノーマンを慕う丸山真男色川大吉の本も読んで、主張や立場が異なるにも拘わらず、両者に惹かれながら思想史を志した。

 結局私は、ロールズベンヤミンはそれほど流行り始めていなかったが、まわりはウォーラーステインだ、アンダーソンだ、ギデンズだ、というのを語り始めていた頃に、1950年代に書かれたノーマンの講演の引いて戦おうと本気でしていたのである。

 だから私は、たいして思い入れがない本を、みんなが読んでいるという理由で武器にしようとする発想に積極的には賛同できない。というか、元来思い込みが激しい私なぞは、賛同できないというよりは、そういう人に出会ったら反射的に頭に来て徹底的に論難してしまうのではないかとさえ思う。

 無論、知的虚栄心はとても大事なのだけれど(相手が何を言っているかわからなければ論拠は知らなければならない)、これが自分の武器になると思えるものを見つける前に、あんまり小器用なことはしない方がいいと思ってしまう。

 どうしても最初の一冊、読むべき本を知りたいという気持ちは、以上の経緯から、私には痛いほどわかるのだけれど、だったら当たり外れは自分の責任であることを覚悟して人に聞くのが正解で、それを回避して自己解決を図ろうとすると逆に一生の恥になるんじゃないかと、目下思っている。

 図書館の選書の参考にはならないかもしれないが、あと、思い入れのある本は、身銭を切らないとダメだとも思っている。

*1:本書標題のクリオ(クレイオ)とは、ギリシヤ神話に登場する歴史を司る女神のことである。フェルメール「絵画の寓意(画家のアトリエ)」に登場する月桂冠を被りトランペットと本をたずさえる女性のモデルが、このクリオに扮しているという事実は、ずいぶん後に「栄光のオランダ・フランドル絵画展」を見たときに知った。内気でいたずら好きで、めったにその真実の表情を見せないクリオの顔については、ノーマンの描写が秀逸過ぎるので触れないが、なるほどこんな顔なのかもしれない、と微笑してしまう。