論文のルールをドレスコードのようなものとして理解する

相変わらず論文の書き方の本ばっかり読んでいるわけだが、日本語学の石黒圭氏の本が面白い。

 

特に後半は、これは日本語学を専門とする著者ならではのものだと思うが、論文用の適切な日本語表現について力を入れている。

論文・レポートの書き方の本で、石黒さんの本では、ちょうど論文の参考文献の書き方を、「服装」にたとえているのが面白い。

引用は,服装のようなもの です。書き手は中身に力を入れますが,読み手は外見を見ていることが多いのです。 論文はフォーマルな服装が求められるジャンル ですから,あまりだらしないかっこうはしないほうが賢明です。学生のレポートによく見られるだらしなさは,手近な本しか調べていないことに現れます。おそらく,地域の公共図書館で調べたものを適当に並べたんだろうなあ,という文献リストを眺めていると気持ちが萎えてきます。ひどい場合は受験参考書が並んでいたりします。まともに本を買ったのは高校までで,大学では一切本を買わないようにしているのかもしれません(石黒圭『この1冊できちんと書ける!論文・レポートの基本』p.36)

なるほど。「だらしない」という感じはいいえて妙である。求められている場所でそれに相応しいものを出せないというのは、手抜き感につながってしまう。

「専門レベル」というのがリクルート・スーツのような正装で,「入門レベル」というのがクール・ビズのような軽装に当たります。「一般レベル」というのはTシャツにジーンズのような普段着です。つまり,「専門レベル」の文献は積極的に論文の参考文献に入れてよく,「入門レベル」の文献は時と場合により,「一般レベル」の文献は参考文献に入れてはいけないということになります。(同上、p.37)

レポートや論文を書く場合には、出典を示し、参考文献を挙げなければいけないのだが、参考文献に挙げてはいけないレベルの情報源は存在するのである。

こうして著者は、専門性の度合いによって、縦軸に文献のレベルを専門レベル/入門レベル/一般レベルの3段階に分け、さらに横軸に本(著書)、雑誌(学術誌)、辞典・事典の3種類に分けた3×3のマトリックスを作っている。詳しくは本書を参照されたい。

専門レベルでは、本ならば研究書。雑誌ならば原著論文があげられる、という。辞書・事典はそもそも入門レベルまでということなので、専門レベル相当のものはないという。

入門レベルでは、本ならば入門書・概説書、雑誌ならば調査論文、レビュー論文などが入る。辞書・事典では、分野ごとの専門辞典のものが区分される。

そして一般レベルでは、本なら一般書や実用書、雑誌ならエッセイ(高名な学者が書いたものでも、根拠がないもの)、辞書は一般辞書、とこう分けるわけである。

岩波新書とか講談社現代新書とか中公新書のような新書レーベルのものは、入門レベルの本に当てはまるので、「時と場合により」参考文献に入れたりしてよいが、もっと一般向けの、例えば『鎌倉殿の13人』の大河ドラマガイドのようなものとか、受験参考書とか、高校の用語集みたいな実用書は入門書とは呼べないので、参考文献に挙げてはいけないということになる。インターネット上に存在する事典類も、この基準で使っていいかどうか判別できそうだ。

また、いくら書くときに繰り返し読んだからといって、卒論・レポートの書き方の本とかを卒論の参考文献には挙げてはいけないのも、この方式で説明可能だ。実用書だからである。

一般レベルの辞典というのは、広辞苑とかだろう。『日本大百科全書』とか『国史大辞典』とかであれば分野ごとの専門家が書いている入門レベルに達しているけど、国語辞典では、執筆者の書名がないから、そういうのは引用してはいけない。こういう形式的な判断が可能になる。

広辞苑とか高校の日本史用語集がレポートの参考文献に載ってると、多くの教員は採点するときに「うわぁ…」となると思うのだが、学生同士で「え、それ出すのヤバくない?」と相談しあっているかどうかもわからないので、教えたほうがいいんだろう。新書・事典を注記に挙げるべきではないという主義の人もいるということは知っておいて損はない。

うまく言語化できていなかったが、よくできているなあと思う。

論文とその課題設定について

山内志朗『新版 ぎりぎり合格への論文マニュアル』を読んでいて、「そうそれ!」とものすごく同意できる一文があった。

立派な論文・著書を読んで、「私には付け加えることはありません、素晴らしい内容ですので理解して、整理したいと思います」という殊勝な心掛けで卒論に取り組む人は偉い。しかし、論文を書くことについて基本的な思い違いをしている。論文とは、問題・問いを設定し、その問いに対する答え・解決を提示することだ。内容を理解して、それを整理することはAIの得意分野だ。人間が人間として取り組むのは、名著の内容を一部分取り出してくることではなく、自分が知りたい事柄を問題として立ち上げ、問題に解決可能性を与え、その方法を準備し、自分の課題を自分自身で理解し深め、問題意識の原点に立ち戻り、自分自身を再発見することなのだ。論文を書くというのは、創造的行為であり、知的技術を鍛練し、自分を発見する行為なのだ。(山内志朗『新版 ぎりぎり合格への論文マニュアル』(2021、平凡社新書)p.26)

 
 

このあとに続く、「問題意識」をどうやったら磨けるか、についての記述も「そうなんだよなー」と論文指導をしていて思う。

 

著者は哲学だからこういう書き方だと思うが、歴史だと、本当にただある対象の過去から現在までの変遷を本から要約してきて、「で、何が課題なんだ?」と聞くと「え?」ときょとんとされる。

 

「何が課題なんだ」と聞くと「資料がまだ全部集まってないことです」といわれることもある。いや、そういう進捗上の課題じゃなくて、論文で回答を見出すべき課題のことを教えてくれ・・・。

 

こういうことが繰り返し起こる。論文を読み慣れていないから起こることなのだが、どうすればきちっと伝わるか、頭を悩ませ続けることになる。でもしばらくこの一節がいかに大事かわかるまで読んでくれ!っていうのでもいいのかもしれないが。

 

材料が歴史だから、学校で聞いた「お勉強」はとりあえず覚えればいいという思考パターンになってしまうんだろうか。多くの人が途中で気づくように、歴史の卒論て中盤以降は歴史知識の暗記能力より国語力なのだが。

 

所与の情報のなかから、解決すべきで、かつ、調査によって解決が可能な課題と、調べたり努力してもわかるのに果てしない時間がかかる問題とをわける。1年間でやりたいことは何ですか?って聞かれているわけなので、人事評価の話とかするといいのだろうか。ビジネスでも使う思考なんですよ、といってもなぜか信長に学ぶマネジメント式に脳内変換されて聞き流されてしまう。しかし世間一般でも歴史が何の役に立つかのイメージなんてそんなものなのかもしれない。

 

卒論を書いてねということと就活のリンクがうまくいかない人は、この手の思考のスイッチがうまくいっていないことが多い気がする。

 

卒論で自分のやりたいことを見つけなさいという課題は自己分析に、何をやっていいかわからなければ少し過去の論文を読みなさいというのは業界分析に、それぞれつながる文字通りの「演習」なのだと思うのだが。繰り返し説明はしているつもりなのだが、本人の意識に刺さるものがなければ響かないときもある。

 

それでいて大学で何にも教えていないと言われるのはなかなかつらいものもある。在学中に発芽しなかっただけで、後で本人が成長した種を蒔いておけたのなら、それでよしとすべきなのかもしれないが。

レポート執筆における主観と客観

レポートの書き方を授業で指導するなかで、「客観的」「論理的」に書こうねと話をする。自分の個人的な主張や感想を語るだけではダメなので、客観的な根拠が必要なんだよ、と話す。感想文とレポートは違うんだよ、というバリエーションもある。

 

例えば慶應のアカデミック・スキルズシリーズの1冊『学生による学生のためのダメレポート脱出法』には、こんな風に書いてある。

そこで必要なのが、自分の考えを客観的な根拠に基づいて論理的に示すことです。「客観的に見て●●だから、こう考えられるんだ!」と言えればいいわけです。では、客観的な根拠を示すためにはどうしたらよいでしょうか。そのためには講義内容を整理したり、書籍や雑誌論文を読んだり、何らかの調査を行ったりといったことが必要になってきます。自分の個人的な体験を出したり「誰かがどこかでそんなことを言っていた気がする」と言ったりするだけでは、根拠として不十分なのです。「この人がこの本でこう言っている」、「こうした事件があった」、「こんな調査結果が出ている」など、レポートには明確な根拠が必要です。読者がいることを考えて、冷静に議論を行うことが、レポートでは求められているわけです(慶應義塾大学教養研究センター 監修/慶應義塾大学日吉キャンパス学習相談員 著『学生による学生のためのダメレポート脱出法』(慶應義塾大学出版会、2014)pp.15-16)

 

 

こんな話を授業でしていたら、統計や調査結果の報告書に基づいて議論するというのはわかるが、何かの本に書いてあったことを紹介しながら自己の見解を述べるのが何で客観なんですか、みたいな顔をされたことがある。この前も、同じ話をしていてあんまりピンとこない様子だった。「主観を書いちゃいけないレポートであなたの意見を述べろって言われたらどうすればいいんですか」と質問されたこともある(これは真っ当な質問だと思う)。

 

レポートの書き方に関する本を色々見比べていて、実は、客観性を強調している参考書は意外と少ないことに気が付いた。

 

単なる事実を、自分の意見みたいに言うべきではない(事実と意見は区別すべきである)とか、議論は証拠を示しながら「論理的」に行うべきであるとかはよく書いてあるのだが、客観的で無いとダメという説明をハッキリしてくれているのが、探せば探すほど見つからない。

 

佐渡島香織・吉野亜矢子『これから研究を書くひとのためのガイドブック』第2版(ひつじ書房、2021年)では、「根拠を示さず推測をしている表現」=「私語り」を消す、というところで控えめに「客観性」への希求の話が出てくるが(p.97)、客観的でないレポートはダメみたいな言い方にはなっていない。

 
その理由について思い当たることとして、レポートの書き方本の著者が哲学者か社会学者か歴史学者かによって、「客観」という言葉の捉え方がかなり違う、ということが挙げられる。
 
読者の想定にもよるが、様々な分野にまたがるようなレポート指導であればあまり不用意に「客観」という難しい用語を使わないほうが無難である。このことは歴史学において、価値判断と事実をどう認定するかをめぐる問題を考えるだけでも、収拾が付かなくなりそうな予感はする。

それを踏まえた上で、私は次のように考え、教える。

  • 大学のレポートとは、受講者の思考力を問うものだが、人に説得力をもって学術的な主張を述べる練習でもある。

  • 主観と客観の間は、ハッキリ線を引いて区別できるようなものではなく、中間にいろんな段階が想定できる。そういうなかで、ただ根拠もなく感想だけが書かれている主観的なレポートと、複数の根拠を示しながらできるだけ客観的な記述を心掛けようとしているレポートは、参考文献の数や引用の仕方などの形式上の特徴から、採点者が優劣を判定可能である。

  • 感想より意見が、意見より主張が、より聞き手に迫る説得力が高いものを指すと考えられる。この場合の説得力が高さは、根拠の強さによる。

  • 以心伝心でわかってくれない相手に、文章、図画写真、音楽、映像、統計、その他なんらかの根拠を提示して共有ながら、自己の見解を述べることは、何にもなしでただ自己の見解を述べるよりずっと説得力の高い議論である。

  • 根拠を持って自分の意見を述べることは、根拠なしに感想をいうより優れている。しかし、自分と意見の近い著者の本を一つだけ取り上げて引用していたら、まだ読者に偏っているという印象を与えるかもしれない。その場合、反対の意見もあげて、反論を加えたり、あるいは複数の著作を比較してみるのもよい。参考文献にあげるものは一つより複数のソースを上げるのが断然よい。公平であろうとする姿勢は議論の客観性を高める。

  • ここに引用の重要性が現れる。人文系のレポートをテクストからの引用抜きで済ませるのは困難である。

  • この作業を繰り返した結果まとめられた意見は、まだ主観的かもしれないが、しかし単なる主観だけを述べたものではなく、読者を説得するために、客観的な視点を得ようと努力した形跡の認められる主張を持ったレポートであるといえる。

次世代デジタルライブラリー以後の歴史研究

NDLの次世代デジタルライブラリー、機械が文字を読み取って明治大正時代の資料まで検索できるということですごいものになっている。『樗牛全集』に関しては事実上全文検索ができるようになってしまった。

そんななかで次の記事を見た。

 
 

自分が書いている文章は別にして、基本的に我々はすでに誰かが読んだものを読んでいる。その誰かはこれまで人間だった。しかし国立国会図書館デジタルコレクション時代から感じていたことなのだが、今はあらかじめ機械が読んだものを人間が再読する時代になってきている。それをなぜ人間が再読するのかっていうと、今のところは読んでなにかを考えたり感じたりするからだと思う。ただし例えば明治三五年から四〇年までに書かれた小説の中から、面白い作品を機械に選択させることもできそうだとは考えている。(上記「次世代デジタルライブラリーとのつきあいかた」山下泰平の趣味の方法 より)

 

 

「デジタル化された資料を扱う文系の学問のあり方自体が変化してくるような可能性も感じている」というのは、おそらくそうだろと思う。というより、変わらなかったらおかしいかもしれない。

著者は『舞姫』の主人公ぶん殴りに行く明治の小説を発見して紹介して本まで書いた、間違いなく日本で最もデジコレを使い倒している方の一人だと思うので、その方の発言には考えさせられるものがある。 

 

 

 

 

ぼんやりと思ったのは、デジタル化された資料が研究素材の中心になっていき、研究者がそれをふんだんに利用して論文を書き、さらに若い世代がごく自然にそのような研究方法を当然のものとして受容していくと、現在図書館や文書館や博物館に入ってなくて埋もれてる史料は研究の主流からものすごいスピードで見捨てられていくのでは…ということ。古本屋で出ればいいけど、それはごく一部だろうし。

 

先日、自分の論文でも書いたが、ジャパンサーチで見つかる「史料」も、いま保存機関に入っていなければどうにもならないのであり、ネットを活用して史料を読んでいるつもりが、実はAIが見るべき資料を提案してくるようになったら、機械に史料を読まさせられている歴史研究っていうのは何なのか。幸福なのか不幸なのか。などと考えてしまった。

 

ジャパンサーチと歴史研究

本務校の紀要にこういう論文を書いた。

ジャパンサーチと歴史研究―日本近代史分野での活用を中心に―」『城西国際大学大学院紀要』25号(2022年3月)

ちょっと前に図書館史の勉強会で発表した内容を修正したもの。

 

歴史学である以上、史料は原本を見なければどうにもならないはずだ。という考えを一方に持ちつつ、そうはいってもコロナ禍でオンラインでの論文指導を余儀なくされていて、ネットで見つけた「史料」の扱いをどうすべきなのかについて、学生に、「少なくともこのくらいはやってほしい」というのを伝えるために書いた研究ノート。慌てて書いたので文は粗く、あまり練られていない。

研究者に向けて、いくつか意識した点(あまり明示的に書けていないかもしれないが考えていたこと)。

  1. デジタルアーカイブについて、初登場したころの2000年前後の近デジとかのイメージを引きずってると、今は全然違うので捉え損なってしまうおそれがあること(東日本大震災などを転機として2010年代に大きなうねりがあったこと)。文書館機能の電子版=デジタルアーカイブと考えない方がいい。

  2. 図書館情報学において「アーカイブ」(アーカイブズではない)は、理念としては、誰かが残すために集め、整理するプロセスが不可欠なものと定義される(根本『アーカイブの思想』参照)。歴史研究者はそのデータの一部分に、史料批判を加えて研究に使っているにすぎない。

  3. ジャパンサーチ以後、とにかくデジタルアーカイブには何かしらの単語を入れれば昔の本などのコンテンツが出て来るようになったのだから、そのなかから何を選び出すかが研究者の腕の見せ所。

  4. デジタルでも刊本でも歴史研究者は用いる史料を自分で批判して使うべきなので、その成果があまりよくないとしたら、責められるのはデジタルコンテンツの提供元機関ではなく、論文を書いた当人。

  5. 歴史研究者は、ジャパンサーチは第一次的な「史料」発見ツールとして使うことができると思う(コンテンツを「史料」にしていくためには、その後研究者の目での史料批判していく作業が必須として)。論文などの文献探索はNDLサーチで棲み分ければよいと思う。図書館のレファレンスサービスだとノイズが多いと嫌がる図書館員もいるかもしれないが、まさしくその点こそが研究者が使うべき点。そこに何かありそうだったら他の人に代わってでも全ての情報を確認するのが(とくに歴史では)研究者の仕事に思える。何が使え、何が使えないかをよく見極めて歴史研究のなかでも「史料」の検索ツールとして活用したらよいと思う。

 

 

 

 

 

ユーザーガイド含め、ちょっと最近新しくなったらしいので、まだまだ活用していきたい。

 

レポートの段落冒頭1字下げ問題考

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 学生向けに、日本語のライティング指導をしている大学教員にはなじみ深い話題であろうが、卒論やレポートの添削をしていると必ずぶつかるのが、文章の書きだしや、改行後の次の段落の冒頭を1字分あけるルールの不徹底である。

 レポートの教科書にはだいたいそうしろと書いてあるが、概ね、見やすさからそのようにすると書かれてはいるものの、いつからそのようにするのかというような立ち入った 説明はない。

 

 

 レポートの書き方入門の定番になりつつある?『アカデミック・スキルズ』のレポートの巻も、最初から字下げは当然のことのようになっているし、親しみやすい文章でおなじみ『論文の教室』などは、改行が多い司馬遼太郎の文体を模写して段落とパラグラフの違いを論じているが、段落の冒頭は一時下げにしてください。という余りにも基本的なことは省略されている。主人公の作文ヘタ夫君は改行したら次の文章の冒頭をちゃんと1字あけているのである!

 

新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス)

新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス)

  • 作者:戸田山 和久
  • 発売日: 2012/08/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 「それが日本語の文章のルールだ」「小学校の作文の時に原稿用紙の使いかたで習っていないか?」などといってみても、留学生には通じない。

 

 ある先輩に教えてもらったところによると、中国語圏では二字下げが標準であるらしい。私など、二字下げだと今度は地の文と区別した引用の表記のようになってしまう感じがするが、色々考えてみると、あやふやである。

 

 現時点で多くのWeb記事はこのような文章規則に準拠していないし、考えてみたら、私だってもはや電子メールで改行した後の字下げは行っていない。小・中学校の作文の授業では今どうなっているのだろうか。

 

 私の経験の範囲でいっても、「字下げ」というときの「下げる」という感覚的な表現が全く通わっていないように思われ、何人からから質問される。「横書きの文章を書き始めるときに一番左から全角1文字分スペースを取って書き始めること」だよ、といえば、何人かは納得してくれるが、それでもなお、それなら「字開け」でいいのではないか、と言いたそうな顔をされることがある。

 

 

 このことを考えるうえで非常に示唆に富んだ本に、石黒圭『段落論』(光文社新書、2020年)という本がある(後半は日本語学の学説史における段落評価の話もある)。

 それによると段落の一般的定義は、 

段落とは、形態的には、改行一時下げで表される複数の文の集まりであり、意味的には、一つの話題について書かれた内容のまとまりである。こうした段落という単位があることで、読み手は文章構成を的確に理解できるようになる。 

 とのこと。

 

 

 

 形式上と意味、そして段落の機能から定義していてわかりやすい。同書ではこのデジタルネイティブと紙の書籍のルールの伝統に親しむ世代との対比にも触れている。

 例えば同書には、Yahoo!ニュースは一字下げの伝統を守っている、という指摘がある。はっとして確認したら確かにその通りであった。

 

 さらには若い世代がLINEなどでマルを付けることを「冷たい印象を与える」として嫌うこと、日本人が感覚的にマルを付けるところに中国人はテンを置く等、思い当たる指摘が多々あり、とてもためになった。

 そうしてみると、やはり、断絶しているのは、文章を縦書きで活字で組み、印刷されたものを読むというカルチャーだろう。

 

www.youtube.com

 ※ある印刷所の作業風景動画。図書館史の授業などで重宝している。

 

 

 Webメディアではもはや段落のまとまりを1行あけによって表示することが標準になっていると思う(このブログでは原則段落冒頭は1字下げにしているが、行間を明けることも見やすさの関係から多少使っている)。

 このような記事もある。

www.bscre8.com

 

 まとめるなら、Webの文章は余白をふんだんに使えるので見やすさを追求すれば改行していけばよく、行を明けずにいちいち字下げしていくほうが煩雑なのだろう。

 これに対し紙は、紙を無駄にしないことを原則として、行をあけるのは極力抑え、段落冒頭を1文字分空けることになる。

 

 

 いつからこうなっているのだろうか。

 印刷(しかも木版ではなくおそらくは活字による)の普及によるものだろうとは容易に想像がつくものの、それがいつどのようにして始まったのかが気にかかる。

 

 江戸時代の版本などでは、改行後の字下げなどはない。大きさがそろっている活字による印刷が始まってから、段落の冒頭を見やすくするために字下げが始まったのであろう。

 

 鈴木広光『日本語活字印刷史』はこの問題に触れていて、

 

日本語のテクストが句読点の使い分けと段落始めの行頭の字下げによって分節され、構造化されるようになったことも、明治の活版印刷術以降に進んだ標準化の産物である。とはいえ、活版印刷術導入とともに直ちに行われるようになったわけではない。活字書体がジャンルや文体を表象することがなくなってくる――活字書体に何かを表象させようとしなくなる、といったほうが正確か――明治二〇年代以降、ちょうどそれと入れ替わるように、移行期ゆえの共存を見せながらも、句読点の使い分けと行頭の字下げは徐々に印刷物の版面に登場し、定着していったのである(p.266)

 

という。 ある種、近代になって「創られた伝統」化した段落冒頭の1字下げ。

 

日本語活字印刷史

日本語活字印刷史

  • 作者:鈴木 広光
  • 発売日: 2015/02/15
  • メディア: 単行本
 

 

 ただもちろん大正期に出た文章指南の本ですら、改行後の字下げを行なっていないものもある。

dl.ndl.go.jp

 

※ついでにいうと、この本、口絵の落書きがひどい。中村敬宇先生になんてことをするんだ。 

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『作文軌範』より

 作文における段落の利用法について、国立国会図書館のデジタルコレクションで見ると、いくつか見つかるが、明治35年(1902)の『今体文章活法』には、段落の項目はあっても、それを字下げせよと言うルールはないらしい。

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丹羽三郎『今体文章活法』(誠進堂、1902年)改行はしているが字下げはしていない

 

 

 明治37年(1904)に国文学者で歌人の武島又次郎(羽衣)が書いた『作文修辞法』なる本が見つかる。

dl.ndl.go.jp

 

 「早稲田大学卅七年度文学教育科第二学年講義録」とのシリーズ名を持つ同書によれば、段落については、次のように述べられている。

 

思想のまとまつてきた時には、そのまとまつたといふことを知らせるために何かのしるしをしなければならぬ。それ故に言語があつまつてきて、あるまとまつた思想となる時ににはそのしるしとして句点といふものを切る。その分があつまつてきてあるまとまつた思想となる時には、そのしるしとて、初めの行は一字おろしてかき、終の行は半分であらうと三分の一ばかりであらうと、とゞまるところで止めておく。而して次の段落はまた一字あけた新たなる行もてかきおこす。これが実に形から見た段落のしるしである(65~66頁)。

 

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武島羽衣

 

 ここでは、文章に句読点を打ち、さらに文が段落を為した際に、それを区切って、冒頭部分を「一字分おろしてかき」というルールが定められている。

 

 今度は漢文学者の久保天隋が、2年後に出た『実用作文法』(実業之日本社)のなかで次のように「段落とは何ぞや」の意義を説明している。

 

蓋し思想のまとまりしときには、そのまとまりしことを知らす為に、何等のしるしを付するを至当とし且つ便宜とす、要は読者に指示を与ふるの効あればなり、ゆえに言語聚合して或るまとまりし思想となる時には、その記号として、句点を附し、その文が聚合して或るまとまりし思想となるときには、その記号として、行を改め、又欧文の式に倣ひ更に見易からしめむが為に、初の行は一字を低くし、以下何行に亘るとも、行数に限りなく、唯だ行の終の行は半分なりとも、三分の一なりとも、又唯だ一字なりともその止まる処にて止めて、余白を存し、而して次の段落は又一字を低くせし新なる行より書き始む。これ形の上より身たる段落の切り方にして読者のすでに自ら為すところ(107頁)

 

  云々、と。なるほど、明治30年代ごろに発行された本は似たようなことを一斉に言い始めたのだな。というか、これは何というかほとんど先の武島の文章の真似でははないか。

 

dl.ndl.go.jp

 

 

 そう思って段落の冒頭を見ると、なんと説明用に引用している例文(富士谷成章伝)まで同じなのである。ちょっとびっくりした。いいのだろうか(二人とも筑摩書房の『明治文学全集』では同じ巻に収まるような近い存在の人ではあるけれど…)。

 

 

 

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武島『作文修辞法』(早稲田大学出版部、[1904年])

 

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久保『実用作文法』(実業之日本社1906年

 絶対見て書いてる。ちゃんと引用のときは引用の形式を守るんだぞ。コピペするなよと言っている手前、ちょっと困るのだが。

※ただ、久保のほうに登場する、「欧文の式に倣い」という点はちょっと面白い気がする。欧文を「蟹文字」という意識もまだあったであろうなかで、敢えて蟹になろうとする。明治維新後「智識ヲ世界ニ求メ」なければ、段落冒頭の1字下げ書記文化は生まれなかった(かもしれない)ということか...。

 

 

 1906年刊行、歌人の大和田建樹による『文章組立法』(博文館)には、思想の切れ目によって段落を設ける必要はあるが、特に段落の冒頭をしるしとして1文字分低くせよと言う風には書かれていない。NDLにも全部無いようだが、全部刊行されたのかどうか、「通俗作文全書」などという叢書を発行していたことにも驚く(24冊も出す気だったのがさらに驚く)。

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大和田『書簡作文法』広告のページ

 

 明治30年代から、中学校が拡充し始め、さらに少年たちの間で競い合うように雑誌投稿ブームが訪れた時代になって、文章規範もやや整備されたということであろうか。さきの広告にある「文明社会の人は皆文を以て互に意思を通じつゝある者と謂ふべし」がなかなか胸に迫る。

 

 

  本格的に調べたわけではないので、ちょっと始期などはずれる可能性が大だが、おおよそ、日露戦争後に模索され定着したかに見える段落冒頭1字下げの記法は、100年余りの時を経て、変質というか後退を余儀なくされているようである。

 しかし卒業論文が論文である限り、「ですます調」で書かれることもないだろうとも思われ、ある程度の形式は「作法」として、維持されるのかもしれない。

 

 私としては、指導をしながら、レポートの段落冒頭1字下げ日本語の常識だから直せ!というのは、日頃、当たり前を疑え!みたいなことを言っている口で、日本の文化や思想の歴史に関わる教員がそのまま言うのはなんか違うのではないかなあと思いながら、学生に伝えるための言い方を考えていたところだった。

 

 卒論やレポートは教員が印刷して読む可能性が高いので、そういうものは印刷文化を尊重した形式せよ、と言えばいいのかなとも思ったのだが、可能性の話では弱い。

 そんなときに、さきの『段落論』の著者の石黒氏が、紙の文章は最初から最後まで順番を守って読むことを想定したフルコースの料理のようなもので、Web文章は時間がない中で好きなもの、必要なものを取り分けても構わないような形で読むアラカルト、ビュッフェスタイルと表現しているのが目に留まり、これは秀逸だと思った。

 

 要は、論文とレポートはカジュアルではなくフォーマルなものだ、というのでもいいのかもしれない。式典のドレスコードのように。

 そんな風に思えてきたところであったが、学生には、果たしてうまく理解してもらえるかどうか。

 

補記

 そういえばちゃんと論文を調べてないなと思ってCiNiiで探してたら、こういうのがあった。未見だが、2009年ではどう言われていたのか。いまとどう違うか、少し気になる。

ci.nii.ac.jp

 

2020年に出た本で印象深かったもの

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コロナ禍でいままで経験したことの無いような年の暮れです。緊急事態宣言が出る以前のことは、なんだか今年の事だったか去年の事だったかすら記憶が曖昧で…。皆様もくれぐれもお気を付けください。

大学ではオンライン授業のため、在宅で仕事をする日が多くなり、いままで通勤時間におこなっていた読書ができなくなり、結果として、あまり本が読めなくなるという逆説的な状態になりました。そんななかで読んで考えさせられたもの、印象に残ったものなどをランダムに挙げていきます。

お送りいただいたものでご紹介できないものもありますが、ご容赦ください。

 

関わらせていただいたものでは、恩師の編著であるこちらが。 

官僚制の思想史: 近現代日本社会の断面

官僚制の思想史: 近現代日本社会の断面

  • 発売日: 2020/05/22
  • メディア: 単行本
 

また、兄弟子による外交文書の読み方を指南する本も刊行されました。あとがきの集中的な執筆の仕方を読んで、私にはマネできなかもしれない…と戦慄したことも記しておきます。

 

近代日本の外交史料を読む (史料で読み解く日本史 3)

近代日本の外交史料を読む (史料で読み解く日本史 3)

  • 作者:熊本史雄
  • 発売日: 2020/03/03
  • メディア: 単行本
 

 

また、『日本思想史事典』も刊行されました。 私は「思想の流通と出版文化」という一項目を書かせていただいたのですが、従来の思想史から連想されるようなテーマだけでない幅広く社会史的なトピックも網羅しているのが、この事典の特徴なので、文化史などに興味がある人は必読かなと思います。 

日本思想史事典

日本思想史事典

  • 発売日: 2020/05/02
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

 

昨年来、歴史学関係では、歴史学者がやっていること、暗黙知を対象化して、いわゆる「みえる化」を推進しようといった趣の本が増えているような気がしていたのですが、おそらくそうした系譜の延長上にある東大連続講義『歴史学の思考法』も、興味深く拝見しました。

これが学生時代にあったらどれだけよかったろう、と思ったくらいですが、まさに2020年の研究の論点を、幅広く初学者に伝える内容になっていると思います。

東大連続講義 歴史学の思考法

東大連続講義 歴史学の思考法

  • 発売日: 2020/04/25
  • メディア: 単行本
 

 

近代日本研究では、『明治史研究の最前線』が出ました。拙稿も取り上げていただいて大変おどろくとともに、恐縮しました。 

明治史研究の最前線 (筑摩選書)

明治史研究の最前線 (筑摩選書)

 

  

また、明治については『明治が歴史になったとき』がいくつ重要な点を整理し、取り上げているように思えました。とくに憲政資料室の話は、初めて知ったことが多々あって非常に刺激を受けたりして。学生時代『日本近代史学事始め』を初めて読んだときのことなどを思い出したりしていました。

明治が歴史になったとき (アジア遊学248)

明治が歴史になったとき (アジア遊学248)

  • 発売日: 2020/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

新書も2020年は、豊作だったのではないかと思います。

私が聴いた範囲では、コロナで自宅にいる時間が多くなったから執筆が進んだという方もいらっしゃるようでしたが、それはともかく、まとまった執筆の時間が作られたことが、優れた成果の誕生に貢献したところがあるのかもしれません。

 

読んで勉強になったのは、『メディア論の名著30』。これは著者が、「読書人としての「私の履歴書」」と書いている通り、高校時代から始まって著者の研究の歩みに関わるエピソードが随所に挟まれ、佐藤メディア史が立ち上がっていく過程を追いかけていくようになっています。

 

メディア論の名著30 (ちくま新書)

メディア論の名著30 (ちくま新書)

 

 図書館史にも役立つこと間違いなしですが、自分の勉強不足が急速に自覚されて、急遽これからちょっとずつノートを付けようという決意まで抱きました。 

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メディア史の成果としては『「勤労青年」の教養文化史』が、1960年代の勤労青年たちの知的教養に踏み込んでいました。これは、同じころ日図協で進められていた図書館運動とリンクさせながら読むとさらに面白くなるのでは?という期待もあります。

「勤労青年」の教養文化史 (岩波新書)

「勤労青年」の教養文化史 (岩波新書)

  • 作者:福間 良明
  • 発売日: 2020/04/18
  • メディア: 新書
 

 

 

 

 

『世界哲学史』などのシリーズがちくま新書から出たのは、インパクトがありました。いままでの各国思想史にない切り口だからです。それぞれの地域の専門家たちが同時代の出来事を集めて書くという編集スタイルも興味深かったです。

 

 

 

例えば宇野『民主主義とは何か』では、ismでないのに「主義」と訳された「民主主義」の展開について、思想史上の系譜をわかりやすくひらいて説明してくれています。個人的には本筋と全然関係ないところで、そうか世が世なら社会主義に共感してたかもしれない反エリートの人が、社会主義に幻滅したからポピュリズムに行くことがありえるのか、という発見がありました。

 

民主主義とは何か (講談社現代新書)

民主主義とは何か (講談社現代新書)

 

 

中公新書だと『五・一五事件』『民衆暴力』『板垣退助』など力作が多数刊行されています。『民衆暴力』からは、記録を残さない(残せない)まま、歴史の彼方に忘却されそうな人々の声をどうやって救っていくか、ということも意図されているようで、いま、この時代だからこそ出さなければならないという著者の意志が感じられた気がしました。

 

民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代 (中公新書)
 

 

 

 ほかに、講談社現代新書でもいくつか。 

 

なおこの小林、最新の論点を網羅しながら書かれていてすごく勉強になったのですが、さらに同書のあるトピックについて、今年刊行された『昭和陸軍と政治』が批判するなどしていて、軍事史研究の最前線がどんどん進んでいるのだな、と、感じました。

 

 

 

ほかに新書では白黒の写真をAIで彩色してくれるサービスがありました。この写真集は凄いなと思いました。

 

図書館史について、私が読んだ中では、これでしょうか。博士論文の書籍化で、戦前の日本の図書館の利用者のすがたを様々な資料を駆使して追いかけています。利用者から見る図書館という視点は、アメリカなどでは、すでに『生活の中の図書館』などで新聞記事などからある程度探求されているのですが、日本の場合は緒についたばかりという感じです。

 あとはメディア史に直接関係するものとして、印刷博物館の『日本印刷文化史』もあげられますね。長いスパンで日本の印刷文化史を概観しています。

日本印刷文化史

日本印刷文化史

  • 発売日: 2020/10/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

それと、今年本当に感銘を受けた本という意味では、たぶん『社会を知るためには』。「社会学者がいかなる「社会」イメージを持っているのか」という切り口から転回される議論がわかりやすかったです。ちくまプリマ―新書は今年とくに凄いんじゃないかと思った次第です。

社会を知るためには (ちくまプリマー新書)

社会を知るためには (ちくまプリマー新書)

 

 

ほかにも、村木さんの公務員の働き方についても、前職でのあれこれを思い出しつつ、静かに胸を動かされる思いをいだきながら読んでいました。

新しい部署に異動したとき、「役人の頭」になる前にその分野の本を読む努力をしていたくだりとか、大切なことだよなあと感じます。

 

公務員という仕事 (ちくまプリマー新書)

公務員という仕事 (ちくまプリマー新書)

 

 

村木さんが本に書かれていることの多くは、実は、歴博でやったジェンダー展のメッセージとも響き合うように思ったのです。

youtu.be

 

 

 漫画では、『鬼滅の刃』が完結しましたね。映画もなんだかすごいことになっています。自分の親の世代が知っているというので、今までのアニメの枠を超えた気がします。

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

結局最終巻まで読んでしまいました。本誌連載時から描き加えられたページが、この物語の主旋律と個人的に思っている「継承」「受け継いでいくこと」をより際立たせているような感じになっていて、印象的でした。

出版史的にも注目すべきことなのかと。

natalie.mu

 

漫画だと、読書×ヤンキーギャグマンガという、異色の組み合わせの『どくヤン!』もおかしかったです。読書家のこだわりって何かしら滑稽なところがありますよね。

 

 

Mr.childrenに関する長期取材をまとめた本が出たときもすぐに買って一気に読みました。ミスチルを愛する喜びに満ち溢れた本でした。桜井さんがボイトレに通い始めた話にびっくりしました。

Mr.Children 道標の歌

Mr.Children 道標の歌

 

 

 

年末にはギャラリーフェイクの35巻が出ていてほんとうにびっくりしました。

 

 

美術と言えば、『眼の神殿』の文庫化も驚きました。

 

 

 

 

2020年は、コロナ禍のなかでのオンライン授業に明け暮れた1年だったような気がします。 

 

コロナで予定していた調査に行けなくなったこともありますが、今年は、歴史学者が史料を残し、それらと向き合うことの必要性と意味を、改めて感じた1年もあったように思います。

 

なので関西大の菊池氏のこの記事は、私は大きな共感と共に読みました。

current.ndl.go.jp

 

公文書管理の問題も、コロナの記憶を将来にどう引き継いでいくかも、いま良ければとりあえず良いというたぐいの問題ではないように思えます。

 

公文書危機 闇に葬られた記録

公文書危機 闇に葬られた記録

 

 

 

オンライン授業になって一番戸惑ったのは、論文指導でした。メールやSlackでなんとかできるだろうと思いつつ、口頭で伝授していた方法(ショートカットキーやら、細かい添削の意図やら、校正記号の使いかたやら)を抜きで、いきなり修正原稿を学生とやりとりしても、なかなかうまくいかない。

 

レポートの書き方の授業でも、その辺をまた一から考え直す機会となりました。今年出たレポート指南の本では、以下にあげるものが優れていたと思います。 

 

大学1年生の君が、はじめてレポートを書くまで。

大学1年生の君が、はじめてレポートを書くまで。

  • 作者:川崎昌平
  • 発売日: 2020/04/10
  • メディア: 単行本
 

オンライン授業下でレポートや卒論を書くというところから、現役学生(立教の4年生)が自ら本を書いたというのもあって、「頼もしいな」と思うと同時に、こういう暗黙知の可視化は、私の中でも課題かなと思いました。WordやExcelPowerPointのほか、オンライン授業の受け方まで書いてある実践的な書です。

 

 

大学で導入するっていうので慌ててTeamsの勉強もしましたね…。

 

 

Microsoft 365 Teams120%活用術

Microsoft 365 Teams120%活用術

 

 

 

 

オンライン授業だと勢いネット頼みになるのですが、丁寧に「調べ方を教える」ということも、 難しさを感じました。そのようななかで、図書館を活用した本がいくつか出たことは、大きなヒントになりました。

 

浜田著への私の書評はこちらを

ci.nii.ac.jp

 

その点、『実践 自分で調べる技術』は、Cinii以上に、とくにNDLサーチを強く推しているのが印象的でした。たしかに今の外部連携の状態なら著者の主張にも筋が通っているかな?と思ったりしたところです。

実践 自分で調べる技術 (岩波新書)

実践 自分で調べる技術 (岩波新書)

 

 

来年はどんな年になるのでしょうか。

やりたくてできなかったこと、つい忙しさを理由にサボってしまったこと、心残りを数え上げればキリもありませんが、自分にできることをやっていくしかないなと考えています。

 

時節柄、みなさまもくれぐれもご自愛のほど。そしてよいお年をお迎えください。