レポートの段落冒頭1字下げ問題考

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 学生向けに、日本語のライティング指導をしている大学教員にはなじみ深い話題であろうが、卒論やレポートの添削をしていると必ずぶつかるのが、文章の書きだしや、改行後の次の段落の冒頭を1字分あけるルールの不徹底である。

 レポートの教科書にはだいたいそうしろと書いてあるが、概ね、見やすさからそのようにすると書かれてはいるものの、いつからそのようにするのかというような立ち入った 説明はない。

 

 

 レポートの書き方入門の定番になりつつある?『アカデミック・スキルズ』のレポートの巻も、最初から字下げは当然のことのようになっているし、親しみやすい文章でおなじみ『論文の教室』などは、改行が多い司馬遼太郎の文体を模写して段落とパラグラフの違いを論じているが、段落の冒頭は一時下げにしてください。という余りにも基本的なことは省略されている。主人公の作文ヘタ夫君は改行したら次の文章の冒頭をちゃんと1字あけているのである!

 

新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス)

新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス)

  • 作者:戸田山 和久
  • 発売日: 2012/08/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 「それが日本語の文章のルールだ」「小学校の作文の時に原稿用紙の使いかたで習っていないか?」などといってみても、留学生には通じない。

 

 ある先輩に教えてもらったところによると、中国語圏では二字下げが標準であるらしい。私など、二字下げだと今度は地の文と区別した引用の表記のようになってしまう感じがするが、色々考えてみると、あやふやである。

 

 現時点で多くのWeb記事はこのような文章規則に準拠していないし、考えてみたら、私だってもはや電子メールで改行した後の字下げは行っていない。小・中学校の作文の授業では今どうなっているのだろうか。

 

 私の経験の範囲でいっても、「字下げ」というときの「下げる」という感覚的な表現が全く通わっていないように思われ、何人からから質問される。「横書きの文章を書き始めるときに一番左から全角1文字分スペースを取って書き始めること」だよ、といえば、何人かは納得してくれるが、それでもなお、それなら「字開け」でいいのではないか、と言いたそうな顔をされることがある。

 

 

 このことを考えるうえで非常に示唆に富んだ本に、石黒圭『段落論』(光文社新書、2020年)という本がある(後半は日本語学の学説史における段落評価の話もある)。

 それによると段落の一般的定義は、 

段落とは、形態的には、改行一時下げで表される複数の文の集まりであり、意味的には、一つの話題について書かれた内容のまとまりである。こうした段落という単位があることで、読み手は文章構成を的確に理解できるようになる。 

 とのこと。

 

 

 

 形式上と意味、そして段落の機能から定義していてわかりやすい。同書ではこのデジタルネイティブと紙の書籍のルールの伝統に親しむ世代との対比にも触れている。

 例えば同書には、Yahoo!ニュースは一字下げの伝統を守っている、という指摘がある。はっとして確認したら確かにその通りであった。

 

 さらには若い世代がLINEなどでマルを付けることを「冷たい印象を与える」として嫌うこと、日本人が感覚的にマルを付けるところに中国人はテンを置く等、思い当たる指摘が多々あり、とてもためになった。

 そうしてみると、やはり、断絶しているのは、文章を縦書きで活字で組み、印刷されたものを読むというカルチャーだろう。

 

www.youtube.com

 ※ある印刷所の作業風景動画。図書館史の授業などで重宝している。

 

 

 Webメディアではもはや段落のまとまりを1行あけによって表示することが標準になっていると思う(このブログでは原則段落冒頭は1字下げにしているが、行間を明けることも見やすさの関係から多少使っている)。

 このような記事もある。

www.bscre8.com

 

 まとめるなら、Webの文章は余白をふんだんに使えるので見やすさを追求すれば改行していけばよく、行を明けずにいちいち字下げしていくほうが煩雑なのだろう。

 これに対し紙は、紙を無駄にしないことを原則として、行をあけるのは極力抑え、段落冒頭を1文字分空けることになる。

 

 

 いつからこうなっているのだろうか。

 印刷(しかも木版ではなくおそらくは活字による)の普及によるものだろうとは容易に想像がつくものの、それがいつどのようにして始まったのかが気にかかる。

 

 江戸時代の版本などでは、改行後の字下げなどはない。大きさがそろっている活字による印刷が始まってから、段落の冒頭を見やすくするために字下げが始まったのであろう。

 

 鈴木広光『日本語活字印刷史』はこの問題に触れていて、

 

日本語のテクストが句読点の使い分けと段落始めの行頭の字下げによって分節され、構造化されるようになったことも、明治の活版印刷術以降に進んだ標準化の産物である。とはいえ、活版印刷術導入とともに直ちに行われるようになったわけではない。活字書体がジャンルや文体を表象することがなくなってくる――活字書体に何かを表象させようとしなくなる、といったほうが正確か――明治二〇年代以降、ちょうどそれと入れ替わるように、移行期ゆえの共存を見せながらも、句読点の使い分けと行頭の字下げは徐々に印刷物の版面に登場し、定着していったのである(p.266)

 

という。 ある種、近代になって「創られた伝統」化した段落冒頭の1字下げ。

 

日本語活字印刷史

日本語活字印刷史

  • 作者:鈴木 広光
  • 発売日: 2015/02/15
  • メディア: 単行本
 

 

 ただもちろん大正期に出た文章指南の本ですら、改行後の字下げを行なっていないものもある。

dl.ndl.go.jp

 

※ついでにいうと、この本、口絵の落書きがひどい。中村敬宇先生になんてことをするんだ。 

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『作文軌範』より

 作文における段落の利用法について、国立国会図書館のデジタルコレクションで見ると、いくつか見つかるが、明治35年(1902)の『今体文章活法』には、段落の項目はあっても、それを字下げせよと言うルールはないらしい。

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丹羽三郎『今体文章活法』(誠進堂、1902年)改行はしているが字下げはしていない

 

 

 明治37年(1904)に国文学者で歌人の武島又次郎(羽衣)が書いた『作文修辞法』なる本が見つかる。

dl.ndl.go.jp

 

 「早稲田大学卅七年度文学教育科第二学年講義録」とのシリーズ名を持つ同書によれば、段落については、次のように述べられている。

 

思想のまとまつてきた時には、そのまとまつたといふことを知らせるために何かのしるしをしなければならぬ。それ故に言語があつまつてきて、あるまとまつた思想となる時ににはそのしるしとして句点といふものを切る。その分があつまつてきてあるまとまつた思想となる時には、そのしるしとて、初めの行は一字おろしてかき、終の行は半分であらうと三分の一ばかりであらうと、とゞまるところで止めておく。而して次の段落はまた一字あけた新たなる行もてかきおこす。これが実に形から見た段落のしるしである(65~66頁)。

 

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武島羽衣

 

 ここでは、文章に句読点を打ち、さらに文が段落を為した際に、それを区切って、冒頭部分を「一字分おろしてかき」というルールが定められている。

 

 今度は漢文学者の久保天隋が、2年後に出た『実用作文法』(実業之日本社)のなかで次のように「段落とは何ぞや」の意義を説明している。

 

蓋し思想のまとまりしときには、そのまとまりしことを知らす為に、何等のしるしを付するを至当とし且つ便宜とす、要は読者に指示を与ふるの効あればなり、ゆえに言語聚合して或るまとまりし思想となる時には、その記号として、句点を附し、その文が聚合して或るまとまりし思想となるときには、その記号として、行を改め、又欧文の式に倣ひ更に見易からしめむが為に、初の行は一字を低くし、以下何行に亘るとも、行数に限りなく、唯だ行の終の行は半分なりとも、三分の一なりとも、又唯だ一字なりともその止まる処にて止めて、余白を存し、而して次の段落は又一字を低くせし新なる行より書き始む。これ形の上より身たる段落の切り方にして読者のすでに自ら為すところ(107頁)

 

  云々、と。なるほど、明治30年代ごろに発行された本は似たようなことを一斉に言い始めたのだな。というか、これは何というかほとんど先の武島の文章の真似でははないか。

 

dl.ndl.go.jp

 

 

 そう思って段落の冒頭を見ると、なんと説明用に引用している例文(富士谷成章伝)まで同じなのである。ちょっとびっくりした。いいのだろうか(二人とも筑摩書房の『明治文学全集』では同じ巻に収まるような近い存在の人ではあるけれど…)。

 

 

 

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武島『作文修辞法』(早稲田大学出版部、[1904年])

 

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久保『実用作文法』(実業之日本社1906年

 絶対見て書いてる。ちゃんと引用のときは引用の形式を守るんだぞ。コピペするなよと言っている手前、ちょっと困るのだが。

※ただ、久保のほうに登場する、「欧文の式に倣い」という点はちょっと面白い気がする。欧文を「蟹文字」という意識もまだあったであろうなかで、敢えて蟹になろうとする。明治維新後「智識ヲ世界ニ求メ」なければ、段落冒頭の1字下げ書記文化は生まれなかった(かもしれない)ということか...。

 

 

 1906年刊行、歌人の大和田建樹による『文章組立法』(博文館)には、思想の切れ目によって段落を設ける必要はあるが、特に段落の冒頭をしるしとして1文字分低くせよと言う風には書かれていない。NDLにも全部無いようだが、全部刊行されたのかどうか、「通俗作文全書」などという叢書を発行していたことにも驚く(24冊も出す気だったのがさらに驚く)。

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大和田『書簡作文法』広告のページ

 

 明治30年代から、中学校が拡充し始め、さらに少年たちの間で競い合うように雑誌投稿ブームが訪れた時代になって、文章規範もやや整備されたということであろうか。さきの広告にある「文明社会の人は皆文を以て互に意思を通じつゝある者と謂ふべし」がなかなか胸に迫る。

 

 

  本格的に調べたわけではないので、ちょっと始期などはずれる可能性が大だが、おおよそ、日露戦争後に模索され定着したかに見える段落冒頭1字下げの記法は、100年余りの時を経て、変質というか後退を余儀なくされているようである。

 しかし卒業論文が論文である限り、「ですます調」で書かれることもないだろうとも思われ、ある程度の形式は「作法」として、維持されるのかもしれない。

 

 私としては、指導をしながら、レポートの段落冒頭1字下げ日本語の常識だから直せ!というのは、日頃、当たり前を疑え!みたいなことを言っている口で、日本の文化や思想の歴史に関わる教員がそのまま言うのはなんか違うのではないかなあと思いながら、学生に伝えるための言い方を考えていたところだった。

 

 卒論やレポートは教員が印刷して読む可能性が高いので、そういうものは印刷文化を尊重した形式せよ、と言えばいいのかなとも思ったのだが、可能性の話では弱い。

 そんなときに、さきの『段落論』の著者の石黒氏が、紙の文章は最初から最後まで順番を守って読むことを想定したフルコースの料理のようなもので、Web文章は時間がない中で好きなもの、必要なものを取り分けても構わないような形で読むアラカルト、ビュッフェスタイルと表現しているのが目に留まり、これは秀逸だと思った。

 

 要は、論文とレポートはカジュアルではなくフォーマルなものだ、というのでもいいのかもしれない。式典のドレスコードのように。

 そんな風に思えてきたところであったが、学生には、果たしてうまく理解してもらえるかどうか。

 

補記

 そういえばちゃんと論文を調べてないなと思ってCiNiiで探してたら、こういうのがあった。未見だが、2009年ではどう言われていたのか。いまとどう違うか、少し気になる。

ci.nii.ac.jp