次世代デジタルライブラリー以後の歴史研究

NDLの次世代デジタルライブラリー、機械が文字を読み取って明治大正時代の資料まで検索できるということですごいものになっている。『樗牛全集』に関しては事実上全文検索ができるようになってしまった。

そんななかで次の記事を見た。

 
 

自分が書いている文章は別にして、基本的に我々はすでに誰かが読んだものを読んでいる。その誰かはこれまで人間だった。しかし国立国会図書館デジタルコレクション時代から感じていたことなのだが、今はあらかじめ機械が読んだものを人間が再読する時代になってきている。それをなぜ人間が再読するのかっていうと、今のところは読んでなにかを考えたり感じたりするからだと思う。ただし例えば明治三五年から四〇年までに書かれた小説の中から、面白い作品を機械に選択させることもできそうだとは考えている。(上記「次世代デジタルライブラリーとのつきあいかた」山下泰平の趣味の方法 より)

 

 

「デジタル化された資料を扱う文系の学問のあり方自体が変化してくるような可能性も感じている」というのは、おそらくそうだろと思う。というより、変わらなかったらおかしいかもしれない。

著者は『舞姫』の主人公ぶん殴りに行く明治の小説を発見して紹介して本まで書いた、間違いなく日本で最もデジコレを使い倒している方の一人だと思うので、その方の発言には考えさせられるものがある。 

 

 

 

 

ぼんやりと思ったのは、デジタル化された資料が研究素材の中心になっていき、研究者がそれをふんだんに利用して論文を書き、さらに若い世代がごく自然にそのような研究方法を当然のものとして受容していくと、現在図書館や文書館や博物館に入ってなくて埋もれてる史料は研究の主流からものすごいスピードで見捨てられていくのでは…ということ。古本屋で出ればいいけど、それはごく一部だろうし。

 

先日、自分の論文でも書いたが、ジャパンサーチで見つかる「史料」も、いま保存機関に入っていなければどうにもならないのであり、ネットを活用して史料を読んでいるつもりが、実はAIが見るべき資料を提案してくるようになったら、機械に史料を読まさせられている歴史研究っていうのは何なのか。幸福なのか不幸なのか。などと考えてしまった。