レポートの書き方を授業で指導するなかで、「客観的」「論理的」に書こうねと話をする。自分の個人的な主張や感想を語るだけではダメなので、客観的な根拠が必要なんだよ、と話す。感想文とレポートは違うんだよ、というバリエーションもある。
例えば慶應のアカデミック・スキルズシリーズの1冊『学生による学生のためのダメレポート脱出法』には、こんな風に書いてある。
こんな話を授業でしていたら、統計や調査結果の報告書に基づいて議論するというのはわかるが、何かの本に書いてあったことを紹介しながら自己の見解を述べるのが何で客観なんですか、みたいな顔をされたことがある。この前も、同じ話をしていてあんまりピンとこない様子だった。「主観を書いちゃいけないレポートであなたの意見を述べろって言われたらどうすればいいんですか」と質問されたこともある(これは真っ当な質問だと思う)。
レポートの書き方に関する本を色々見比べていて、実は、客観性を強調している参考書は意外と少ないことに気が付いた。
単なる事実を、自分の意見みたいに言うべきではない(事実と意見は区別すべきである)とか、議論は証拠を示しながら「論理的」に行うべきであるとかはよく書いてあるのだが、客観的で無いとダメという説明をハッキリしてくれているのが、探せば探すほど見つからない。
佐渡島香織・吉野亜矢子『これから研究を書くひとのためのガイドブック』第2版(ひつじ書房、2021年)では、「根拠を示さず推測をしている表現」=「私語り」を消す、というところで控えめに「客観性」への希求の話が出てくるが(p.97)、客観的でないレポートはダメみたいな言い方にはなっていない。
それを踏まえた上で、私は次のように考え、教える。
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大学のレポートとは、受講者の思考力を問うものだが、人に説得力をもって学術的な主張を述べる練習でもある。
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主観と客観の間は、ハッキリ線を引いて区別できるようなものではなく、中間にいろんな段階が想定できる。そういうなかで、ただ根拠もなく感想だけが書かれている主観的なレポートと、複数の根拠を示しながらできるだけ客観的な記述を心掛けようとしているレポートは、参考文献の数や引用の仕方などの形式上の特徴から、採点者が優劣を判定可能である。
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感想より意見が、意見より主張が、より聞き手に迫る説得力が高いものを指すと考えられる。この場合の説得力が高さは、根拠の強さによる。
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以心伝心でわかってくれない相手に、文章、図画写真、音楽、映像、統計、その他なんらかの根拠を提示して共有ながら、自己の見解を述べることは、何にもなしでただ自己の見解を述べるよりずっと説得力の高い議論である。
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根拠を持って自分の意見を述べることは、根拠なしに感想をいうより優れている。しかし、自分と意見の近い著者の本を一つだけ取り上げて引用していたら、まだ読者に偏っているという印象を与えるかもしれない。その場合、反対の意見もあげて、反論を加えたり、あるいは複数の著作を比較してみるのもよい。参考文献にあげるものは一つより複数のソースを上げるのが断然よい。公平であろうとする姿勢は議論の客観性を高める。
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ここに引用の重要性が現れる。人文系のレポートをテクストからの引用抜きで済ませるのは困難である。
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この作業を繰り返した結果まとめられた意見は、まだ主観的かもしれないが、しかし単なる主観だけを述べたものではなく、読者を説得するために、客観的な視点を得ようと努力した形跡の認められる主張を持ったレポートであるといえる。