論文とその課題設定について

山内志朗『新版 ぎりぎり合格への論文マニュアル』を読んでいて、「そうそれ!」とものすごく同意できる一文があった。

立派な論文・著書を読んで、「私には付け加えることはありません、素晴らしい内容ですので理解して、整理したいと思います」という殊勝な心掛けで卒論に取り組む人は偉い。しかし、論文を書くことについて基本的な思い違いをしている。論文とは、問題・問いを設定し、その問いに対する答え・解決を提示することだ。内容を理解して、それを整理することはAIの得意分野だ。人間が人間として取り組むのは、名著の内容を一部分取り出してくることではなく、自分が知りたい事柄を問題として立ち上げ、問題に解決可能性を与え、その方法を準備し、自分の課題を自分自身で理解し深め、問題意識の原点に立ち戻り、自分自身を再発見することなのだ。論文を書くというのは、創造的行為であり、知的技術を鍛練し、自分を発見する行為なのだ。(山内志朗『新版 ぎりぎり合格への論文マニュアル』(2021、平凡社新書)p.26)

 
 

このあとに続く、「問題意識」をどうやったら磨けるか、についての記述も「そうなんだよなー」と論文指導をしていて思う。

 

著者は哲学だからこういう書き方だと思うが、歴史だと、本当にただある対象の過去から現在までの変遷を本から要約してきて、「で、何が課題なんだ?」と聞くと「え?」ときょとんとされる。

 

「何が課題なんだ」と聞くと「資料がまだ全部集まってないことです」といわれることもある。いや、そういう進捗上の課題じゃなくて、論文で回答を見出すべき課題のことを教えてくれ・・・。

 

こういうことが繰り返し起こる。論文を読み慣れていないから起こることなのだが、どうすればきちっと伝わるか、頭を悩ませ続けることになる。でもしばらくこの一節がいかに大事かわかるまで読んでくれ!っていうのでもいいのかもしれないが。

 

材料が歴史だから、学校で聞いた「お勉強」はとりあえず覚えればいいという思考パターンになってしまうんだろうか。多くの人が途中で気づくように、歴史の卒論て中盤以降は歴史知識の暗記能力より国語力なのだが。

 

所与の情報のなかから、解決すべきで、かつ、調査によって解決が可能な課題と、調べたり努力してもわかるのに果てしない時間がかかる問題とをわける。1年間でやりたいことは何ですか?って聞かれているわけなので、人事評価の話とかするといいのだろうか。ビジネスでも使う思考なんですよ、といってもなぜか信長に学ぶマネジメント式に脳内変換されて聞き流されてしまう。しかし世間一般でも歴史が何の役に立つかのイメージなんてそんなものなのかもしれない。

 

卒論を書いてねということと就活のリンクがうまくいかない人は、この手の思考のスイッチがうまくいっていないことが多い気がする。

 

卒論で自分のやりたいことを見つけなさいという課題は自己分析に、何をやっていいかわからなければ少し過去の論文を読みなさいというのは業界分析に、それぞれつながる文字通りの「演習」なのだと思うのだが。繰り返し説明はしているつもりなのだが、本人の意識に刺さるものがなければ響かないときもある。

 

それでいて大学で何にも教えていないと言われるのはなかなかつらいものもある。在学中に発芽しなかっただけで、後で本人が成長した種を蒔いておけたのなら、それでよしとすべきなのかもしれないが。