ICT時代の日本史文献管理・再考

※以前の記事「ICT時代の日本史文献管理考」の続編?です。

※例によって、自分のやり方を書いてみて、もっといい方法が無いか考え直す作戦ですので、アイデアがあったらおよせください。

 日本史の研究について、少し前に出た『わかる・身につく歴史学の学び方』は、問題意識の持ち方、概説書と研究書の違いはもとより、レジュメのまとめ方まで書いてある至れり尽くせりの本で、既に歴史学を学んだ大人がこれからの歴史学を学ぼうとする人に向けてできることは何かを考え抜いたと感じる良書だった。

 研究史の整理に関しては、「自分のオリジナルの文献リストをつくり、自分の視点からの研究史の整理をしていってもらいたい」と書いてある(p.172)。

 文献の整理が大事なのは、だいたいどんな研究分野も共通だと思うが、全くその通りだなと思う。

 個人的にこの本の白眉は第8章で「読書ノート」の作り方が書いてあることで、せめてこれを卒論書くときとは言わないまでも、修士論文を書いた頃から継続していれば・・・・と思うことしきりであった。

 図書館に入ってからは歴史だけでなく図書館の論文も読むようになって守備範囲が増えたので、むしろ就職してからより切実になったともいえる。

 

 この本では次のような表現で読書ノートの効用を3つあげている。何かというと

・備忘録

・比較するため

・後で必要な情報を引き出す

の3つである。これも良く分かる。何を読んだか忘れることは多いし、同じ著者の本ならどの本に書いてあったかわからなくなって混乱するから区別する必要があるし、記録を作っておくのは後で何らかのアウトプットに使いたいからである。

 私も以前は、ともかく読んだ本や論文のタイトルだけは控えておこうと思ったのだが、横着なせいもあり、手書きでノートを付けることに挫折したので、ウェブサービスで、後で読み終わった日付と簡単な書誌情報だけブログ形式に出力してくれるものを使ってまとめていた。

 だが、このとき侮っていたのが30代後半になってからの自分の記憶力の低下だった。もともと集中力がある方ではないけれど、こんなに忘れっぽくなると思っていなかった。

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 せつない話だが、確かに読んだ覚えがあり、読んだ本のリストを見ても確かに何月何日に読んだことが載っているのだが、印象に残った一部分だけが鮮明に残っていて、全体の結構や肝心の要点が思い出せない。精読をちゃんとしていないことのツケであろうが、読むものがいっぱいあるので、なかなかうまくいかない。

 

 「読みっぱなし」は読んでいないのと一緒と喝破したのは『読書は1冊のノートにまとめなさい』の著者である。この本が説いている手書きで完結させ、インデックスの機械でというやり方のの効用は私も良く分かっているのだが、切れ端のメモに書いてそれを後からノートに貼ることが多くて、だったらそれをカメラに撮ってevernoteに貼っても効果は似たようなものになるよな、と勝手に解釈しながら部分的に取り入れているのが現状だ。

読書は1冊のノートにまとめなさい[完全版]

読書は1冊のノートにまとめなさい[完全版]

 ノートに書くべき事柄など、大事なことがたくさん書いてあると思う。evernoteの日付を6ケタで入れる習慣があって、勝手に自分で思いついたのだと思っていたが、読みなおしてこの本からの影響だったことに気が付いた…。



 前回の記事で「図書・図書館史にまつわる本棚」などというのを作ってみたのも、結局ちゃんと文献を管理しておかないとマズイという、同じような動機による。


 学生時代に本を読んでいなかったことのコンプレックスがあり、その反動もあって、たくさん読まないといけない強迫観念にとらわれているところはあるのかもしれない。加藤周一がある程度早く読んだ本が、理解が深まるときがあると言っていたのをぼんやり信じつつ。

読書術 (岩波現代文庫)

読書術 (岩波現代文庫)

 もちろん、途中で大事だなと思う本はちゃんとメモなりを取ってevernoteに記録していたのだけれど、evernoteでノートを新規作成し、書誌事項を書いて、それから抜き書きのメモを載せるという工程も、一つ二つならいいが、増えてくると大変で、次の本も読みたいと思ってしまって復習する時間も取れないことがあった。とくにタイトルを無題で保存してしまうと、何だか後で絶対わからないのでそれは避けなければならない*1

 本の読み方も様々で、達人になると持ち歩くために解体し、あとでまた製本し直すというのもあるという。そこまで出来ないが。

 


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 それでもう少し試行錯誤を続けているうちに、図書と雑誌論文については以下のような形になった。


図書は―――

  • 紆余曲折・試行錯誤を繰り返しているが、最近はメディアマーカーに落ち着いている。
  • 本棚登録するときにevernoteの新規ノートを作成できるのがその理由。
  • 読み始めてから気になった箇所を途中で、スマホevernoteアプリからノートに入力しても良い*2
  • 最近の本は書影も入るので、後でノート整理していてちょっと楽しい。
  • Kindleのハイライト機能と併用。読みながらマーカーをつけたところが、あとでそのままEvernoteにコピーして貼り付けられるので、便利だと思う。

雑誌論文については―――

  • 入手した本文に書きこむなりしてメモを作り、それをスキャンスナップでスキャン。
  • そのままevernoteに登録し、タイトルに書誌事項を張り付けて保存。
  • その場で必要なメモはノート本文に入力してしまう。
  • 読みながら書いたメモも写真を撮って同じノートに貼ってしまう。
  • 引用関係の情報も書き込む。
富士通 ScanSnap iX500 (A4/両面)

富士通 ScanSnap iX500 (A4/両面)

 ある程度数が増えてくるとキーワードで検索してもいくつかの文献がヒットしてくるようになった。

 そこで、あまり自分の中で近いと思っていなかった著者同志の、あるいは文献同士の、妙な繋がりなどに気づくことも、まれにある。

 一つの文献が構成する関係性(relevancy)というのは、思った以上に大事なのかもしれない。これもちょっと前に出た『読んでいない本について堂々と語る方法』に、<共有図書館>という面白いアイデアが出てくるのを思い出す。この、一見奇を衒ったタイトルが意外と真面目に説いているのは、個々の本の単独の内容よりも大事なものの存在である。それはちょっと図書館的でもある。

ある本についての会話は、ほとんどの場合、見かけに反して、その本だけについてではなく、もっと広い範囲の一まとまりの本について交わされる。それは、ある時点で、ある文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体である。私はここでそれを<共有図書館>と呼びたいと思うが、ほんとうに大事なのはこれである。この<共有図書館>を把握しているということが、書物について語るときの決め手となるのである。ただし、これは<共有図書館>を構成している諸要素間の関係の把握であって、切り離されたしかじかの要素の把握ではない。そしてこの意味で、大部分の書物を読んでいないということはなんら障害にはならないのである(pp.35-36)。

もう何箇所か。

文学について考察しようとする真の読者にとって、大事なのはしかじかの本ではなく、他のすべての本の全体であり、もっぱら単一の本に注意を向けることは、この全体を見失う危険をともなう。あらゆる本には広範な意味の組織に与る部分があり、それを見逃すと、その本じたいを深層において捉えることもできない。(pp.64-65)

 この本の著者は、個々の本に対しても適度な距離をとって全体見極めるよう説く。それが「教養」だという。


教養とは、書物を<共有図書館>のなかに位置づける能力であると同時に、個々の書物の内部で自己の位置を知る能力である(p.66)。

 『読んでいない本について~』は、文学テキストについての本だが、これはたぶん研究史の把握や文献管理に要請されているものとだいたい同じことかもしれない。私がちょっと思い出していたのはWeb of Scienceの引用・被引用関係のことだった。

 本と本をめぐる情報は常に変動し続けているが、なんとか全体を見渡せるように付いていけるようにしたいので、お勧めがあったらぜひ教えてください。

*1:一応、ノートブックの下層に置かれるノートのタイトル欄には、論文の書誌事項を入力する。このとき面倒なので、NDL-OPACで署名を検索して書誌情報を表示させた後、「引用形式」で表示しなおしたものをコピー&ペーストで貼ることが多い。さらに研究文献の場合は、発行年月を6ケタの数字で書いている。というやり方は継続してやっている。

*2:これについては、以前は読了の日付が自動で入るよう、読了後にevernote生成にしていたのだが、一冊読み終わらないと何にも出来ないのは意外に不便であることに気づいたので読んでいる途中で書きこめるように変えた。読了日は最後のメモを付けるときに自分でいれるので間に合う。

「図書・図書館史にまつわる本棚」を作ってみた

 最近、図書館史ってどうやって勉強するんですか、と言われることが増え、また、人前でも話す機会が増えたので、その都度「独学です」と答えるのも心苦しく、言われたほうも困るだろうと思うので、ふと思いついて、ブクログのサービスを利用して、「図書・図書館史にまつわる本棚」というものを作ってみた。

 縁あって大学で「図書・図書館史」の講義を非常勤で受け持つようになったので、その準備のために読んだ本を中心にあげておくことにしたい。もしほかの人に活用してもらえるならありがたい。

 狭義には「図書館史」だが、図書館が収蔵しておくべき資料にも歴史的な変遷があり、文字による記録を伝えるという意味ではメディア史の研究書も無視できない。検閲や出版流通など、そもそも本が出版されるにいたる出版学の分野、また、文学や歴史、思想の研究についても、同様に対象として考えている。資料は随時追加する予定。


図書・図書館史にまつわる本棚

http://booklog.jp/users/library-daikon


 なお、一応自分がパラパラめくってでも最後まで読んだものに限定する(ただし性質上、参考図書類はこの限りではない。使ったことがあるものとする)。また、論文は省略するのでご了承いただきたい。

 できれば、形態別にカテゴリ分けし、国別・時代別など主題にそったタグを付けて「中国」図書館史の記述がある「教科書」とか、アメリカの図書館について書かれた本、とか検索できるようにしたいが、すぐには無理かもしれない。

 慌てて作ったため、おそらくは過去に読んだもののすっかり内容を忘れてしまっている本というのも、絶対にあると思うが、とりあえず。

図書館史ノートその4 印刷の歴史

 今日流通している本は紙に印刷されて複製、頒布されている。印刷という場合、紙などにインクを使って文字、図、写真を複製することを指すが、パソコンの普及や技術の発展などにより、昔の定義と今日の定義ではだいぶ様変わりしている。

 印刷の起源も、実は定かではない。紙とともに中国で始まったとされているが、かつてはインド起源の説もあり、日本発祥説もあった。出土遺物に大きく左右されるため、正確な起源ははっきりしていない。ただ、印刷術の発達には転写する紙とインクが不可欠なので、紙と墨、その条件がそろっていた中国で印刷が発達したという見解は首肯できるものである。

 印刷術については、蔡倫の紙と違い、文献上にも表れないようである。その理由としては、それだけ生活に密着した技術だったことが諸書では指摘されている。この分野の古典的な著作の一つといえるT・F・カーター『中国の印刷術』では、印刷の二つの源流を指摘している。

中国の印刷術 2―その発明と西伝 (東洋文庫 316)

中国の印刷術 2―その発明と西伝 (東洋文庫 316)

 一つは、印章。仏様の図像を彫ったハンコを捺して護符として所持する習慣が、やがて大きな仏画を刷ったりする行為となり、そこから木版印刷へ発達していったとする。もう一つは、石に掘られた碑文の拓本を取る摺拓(しゅうたく)から木版印刷への経路である。もっとも、ハンコの文化はシュメル文明にもあったとされている。


 書物研究家の庄司浅水は『印刷文化史』のなかで、上記に加えてさらにインドやペルシャで発達した布地に模様を染める捺染(なっせん)も挙げているが、より重要なのは、例えばギリシアで何故印刷が発生しなかったのか、という問いを立てていることだ。庄司は印刷の発生を阻む条件として次の4つをあげている*1

  1. 印刷に適する、かつ経済的な材料のなかったこと
  2. 適当な印刷インキの得られなかったこと
  3. 文書・書籍の需要があまり多くなかったこと
  4. 書写することが今日ほど煩わしくなかったこと

 これを逆にすると、印刷誕生に有利な場所が見えてくる。蔡倫によって実用化された紙があり、墨もあった中国では、唐代以降、仏典などの複製に印刷が用いられ始めたとみられる。漢字を一文字一文字書くのが大変であり、科挙などによるテキストの必要が中国の印刷術の発達を促した。

 アジア最古の印刷物についても、色々意見が分かれ、論争となっている。こうした諸説の紹介は、鈴木敏夫『プレ・グーテンベルク時代』に詳しい。鈴木によると、現存するもののうち、印刷年代がはっきりしている最古の印刷物に、日本の「百万塔陀羅尼」がある。これは770年に刷られたものであると記録に登場する。印刷された日付(刊記)が本文に刷ってある最古の印刷物は、1907年にスタインが敦煌で発掘した「金剛般若波羅蜜経」。また、韓国慶州仏国寺で発見された「無垢浄光大陀羅尼経」は、751年より前の印刷物とする意見があるが、はっきりしていない。日本の「百万塔陀羅尼」についても長年、銅版で刷った説と木版説が対立してきた。

 中国では、宰相である馮道(ふうどう)の進言により932年、木版印刷により、儒教の「九経」を印刷させたとされる。宋代に「科挙」の登用制度が確立したことで、多くのテキストが必要とされるようになり、印刷も発達した。ただ、北宋時代の印刷物は、中国本土では金の侵入などもあってほとんど残っていない。仏典以外だと北京大や台湾、それから日本に伝来したものを合わせても10程度に過ぎないと言う*2

図説中国印刷史 (汲古選書)

図説中国印刷史 (汲古選書)

 中国の印刷はさらに明・清期に絶頂を迎えることとなり、この過程で、楷書を直線で彫りやすくするための書体として、明朝体は発明されてくる*3。12世紀頃には活字による印刷も行われ、朝鮮半島へも伝来していったと考えられる。

明朝体の歴史

明朝体の歴史

 

 木宮泰彦『日本古印刷文化史』(初版は1932年)などをもとに、日本の印刷を見てみよう。日本では、奈良時代の百万塔陀羅尼の印刷以降、300年間は大規模な印刷が行われなかったとされているが、平安時代末期から寺院等で、経典類の印刷が行われるようになった。これを寺院版という。有名なところでは、平安末期~鎌倉時代にかけて、奈良・興福寺を中心に印刷された春日版、鎌倉時代紀州高野山でつくられた高野版、さらに室町時代にかけて、五山の禅僧らによってつくられた五山版などがある。

日本古印刷文化史(新装版)

日本古印刷文化史(新装版)

 戦国時代になると豊臣秀吉の頃に、朝鮮半島から銅活字などがもたらされたほか、天正遣欧少年使節が持ち帰った西洋式活字印刷により、きりしたん版という、キリスト教の布教のためのテキストが印刷された。ただし、きりしたん版は後の禁制により途絶してしまう。

 活字印刷に非常に関心を寄せた大名に、徳川家康がいる。家康は、金地院崇伝や林羅山に銘じて銅活字を作成し、『群書治要』などを印刷した。これを駿河版という。駿河版の『群書治要』は国立公文書館が所蔵している*4。また、京都・伏見でも木活字を作成させ、『貞観政要』などを印刷した。これを伏見版という。

古活字版之研究 (1937年)

古活字版之研究 (1937年)

 我が国の印刷史において特筆すべきは16世紀末から17世紀にかけての、嵯峨本の登場である。京都の豪商・角倉素庵が、本阿弥光悦俵屋宗達の協力を経て『伊勢物語』などを出版したもので一文字一活字ではなく、縦書きで崩し字で書いた数文字を単位として活字を作るなどしていた。また、装丁に意匠を凝らした大変豪華な本であった。

日本語活字印刷史

日本語活字印刷史

嵯峨野明月記 (中公文庫)

嵯峨野明月記 (中公文庫)

 ただし、江戸時代には、制作の手間がかかることから、活字による印刷技術はあまり広まらず、木版印刷が主流となっていった。

*1庄司浅水『印刷文化史』増補版(1973年、印刷学会出版部)6頁

*2米山寅太郎『図説中国印刷史』(汲古書院, 2005)48頁

*3:竹村真一『明朝体の歴史』(1986年、思文閣出版)74頁

*4国立公文書館「将軍のアーカイブズ」http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/shogunnoarchives/contents/10.html

図書館史ノートその3 文字の発明、文字の記録

 図書館に伝えられた様々な記録メディアが伝えるものの中核には「文字」の存在がある。

 文字がなかったら今と同じようなコミュニケーションは考えられないし、複雑な思想や知識を伝達することも困難であったろう。

 図書館で働いている私たちや、これから図書館員を目指そうという人たちは、文字のある世界を、当然と言えば当然だが、何かしらよいものとして捉えているのではないだろうか?しかし、少し立ち止まって文字のない世界のことも考えてみる意義はあるだろう。少し大きな話をすれば、人文学というものがよって立つ世界がどんなものなのか、反省的に振り替えることにもつながるかもしれない。

 言語があっても、文字がない社会というのは存在する。西アフリカの調査を元にした川田順造無文字社会の歴史』という本は、そのような好例を紹介してくれている。文献史学にどっぷりつかった人間からすると、一冊の歴史書もない、文字がないと歴史も伝えられないように思ってしまうが、そんなことはない。文字がない社会にも、一族の祖先から現代までの伝承が口伝えで語り継がれ、祭りの際などに再確認されていく。

無文字社会の歴史―西アフリカ・モシ族の事例を中心に (岩波現代文庫)

無文字社会の歴史―西アフリカ・モシ族の事例を中心に (岩波現代文庫)

 ホモ・サピエンスが誕生してからの歴史の方が、文字が生まれてからよりずっと長い。文字の使用はホモ・サピエンスの全体の歴史から見れば限られた時間のことに過ぎないという主張もある。「文字の文化」と異質な「声の文化」が存在するという比較論である(W.-J.オング『声の文化と文字の文化』)。声の文化では記憶が重視され、文字の文化とはおのずと異なった思考の在り方が生み出される(例えば詩でも、暗唱するために、リズミカルな常套句が多用される。)

 記録することによって人は頭の中に常に覚えておくことから解放されるが、それを堕落とする見方も、かつては存在した。有名なものだとプラトンの議論がある。彼は文字によって記憶が衰え、人は堕落するという議論を紹介した。知識のある人は真面目な目的で文字を書いたりはしないのだとまでいう。ソクラテス曰く、「言葉というのは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く…あやまって取りあつかわれたり、不当にののしられたりしたときには、いつでも、父親である書いた本人のたすけを必要とする」(藤沢令夫訳『パイドロス』(1967、岩波文庫)166頁)からだそうである。かくて、不確かで、書いた本人の意図を正確に伝えられない文字を書く人は結局「慰みのためにこそそうする」(同上、168頁)と見なされる。

パイドロス (岩波文庫)

パイドロス (岩波文庫)

 このように、文字の使用は、古代ギリシャの時代になってすら、しばしば人々に警戒すらされてきたのである。

 では、最古の文字はいつ、どこで誕生したのだろうか。

 スティーヴン・ロジャー=フィッシャーは、「文字」を定義して、「意思の伝達を目的としている」「紙などの耐久性のある表面、あるいはPCモニターなどの電子機器の表面に書かれた、人工的な書記記号の集合体である」「慣習的に分節言語(有意味の音声の系統的配列)と関係のある記号、あるいは意思の伝達がなされるようなコンピュータ・プログラミング関係の記号を使っている」という三つの条件を満たすものだとしたが、初期の文字はこれらの一部しか満たさないものも多い。

 いずれにせよこれは考古学、人類学、言語学などを巻き込んだ大問題であって、今でも議論の分かれるところだが、だいたい、シュメルのウルクで登場した絵文字の派生形である楔形文字が最古のものと理解されている。シュメルの文字の発生については、メソポタミア地域で、数量や種類を表わすために用いられたと考えられる粘土製品のトークンから派生したとする説もあるが(シュマント=ベセラの「トークン仮説」などと言われる)、批判もあるようだ。交易が活発化するにつれて記録が必要になり、そこから文字が求められるようになったとはいえるようである。文字の使用開始の年代推定も含めて、今後の考古学的調査などに待つところが大きい。

シュメル―人類最古の文明 (中公新書)

シュメル―人類最古の文明 (中公新書)

 世界の各地でさまざまな文字が使用された。楔形文字が書かれたものとしてハンムラビ法典などが有名だが、これのレプリカが池袋のオリエント博物館などにあって見られるので機会があったら見てみるとよい。楔形文字と同じ頃、前3000年ごろ、エジプトではヒエログリフが使用された。これの解読の上で注目を集めたのがロゼッタ・ストーンである。また中国の黄河流域では甲骨文字(前1400年ごろ)が使用された。インドの象形文字であるインダス文字は、まだまだ解読が進んでいない。

文字の歴史 (「知の再発見」双書)

文字の歴史 (「知の再発見」双書)

 文字の歴史のなかでも一つ重要なのは、アルファベットの発明(前1500年ごろ)であろう。フェニキア文字から派生したと言われるアルファベットは、楔形文字ヒエログリフに対して文字数が少なく、学習・習得が容易であり、情報伝達の効率化などに大きく貢献した。世界の様々な文字に関する本や展示会も枚挙に暇がない。

 さて、図書館において文字を記録する資料の中心になるのは、本といえるだろう。しかし、本とは何かということを考え始めるとこれもまた厄介なことである。束になって背表紙が付いている本というのは歴史的には自明ではないし、日本の伝統的な和本には背表紙がない。冊子である必然性もあるかどうか疑わしい。電子書籍などは本なのか本でないのか。

 日本人の書物観にも二重性があるという。例えば、橋口侯之介氏によれば、学術的な、専門的な<物の本>とそれに対するエンターテイメント志向の<草紙>が対のようにあって、『源氏物語』も成立当初は物の本とはみなされず、中世以降に古典に昇格した、とされてくるのである。

和本への招待 日本人と書物の歴史 (角川選書)

和本への招待 日本人と書物の歴史 (角川選書)

 しかし、そうやっていろいろ考えていると悩みが深まるばかりなので、ここでは樺山紘一氏の定義を紹介しておこう。氏によると、「本」とは、

  • 視覚によって伝達される情報の累積
  • 社会的な情報伝達の手段
  • 情報を運搬し保存するための手段(『図説 本の歴史』pp.6-7)

として定義される。視覚によるというのは基本的には文字や図像によるものといえる。また、社会的な情報伝達の手段というのは、本は個人的なものではないということでもある。

図説 本の歴史 (ふくろうの本/世界の文化)

図説 本の歴史 (ふくろうの本/世界の文化)

 こうした性質を備えたさまざまな記録メディアについて、歴史的にどのようなものがあり、どういった特徴があったか。まずメソポタミアで出土した粘土板であろう。楔形文字はこれらに書かれた。乾燥した地域だったから、固くなり、また火によって焼き固められるので、皮肉なことだが、戦乱や火災を潜り抜けて残った。石板に文字が書かれることもあった。古代エジプトでは、パピルスが用いられた。パピルスはPaperの語源である。ナイル河畔に茂っていた草で、これを薄く切って貼り合わせたものがパピルス紙として用いられ、死者の書などの文書が生み出された*1。『モノとヒトの新史料学』という本の中では、大根やかんぴょうで代用できないか試みた方の実験結果が出てくるのだが、大根だと透明になってしまって文字が書きにくく、かんぴょうだと分厚くなってしまうので、書写にはパピルスが適しているという*2

 また、植物性のパピルスに対して、パーチメントと呼ばれる羊皮紙も使われた。これは小アジアのペルガモン王国で作られたものだが、元々エジプトからパピルスを輸入していたところが、エジプトと争いが生じ、パピルスが輸入できなくなって開発されたものだという。羊のほか、牛やヤギの皮も使われた。作成にもかなり手間がかかる。羊皮紙の作り方については、先の八木氏が主宰されている羊皮紙工房のサイトが非常に詳しく、参考になる。

 このほか、古代中国では、甲骨、竹簡・木簡が、また、古代インドでは、貝葉(貝多羅葉)が用いられた。いわゆる「紙」は、紀元後105年頃、後漢蔡倫が実用化したものとされている。箕輪成男『パピルスが伝えた文明』という本には、各メディアについて、収容力、耐久性、コスト、扱いやすさ、機械的複製のしやすさ、読みやすさについて、独自評価を試みている。例えば粘土板はほとんど文字が書けないので収容力は低いが、耐久性に優れるとか、羊皮紙は読みやすいがコストが非常にかかるとかいった具合に。結論的には紙が最強のメディアなのだということを示しているのだが、色々それぞれの長所短所を考えてみるのもおもしろい。

 本について、材料を見てきたが、形態の違いも見ておこう。エジプトなどパピルスで作られた文書は多く巻物に仕立てられた。これを巻子本(scroll, volume)という。これに対し、コデックス(codex)と呼ばれる冊子体の本が、2世紀くらいから使用されるようになり。3~4世紀ごろに確立し、巻子本にとって代わって行った。これにより、場所を取らずに保管すること、持ち運ぶこと、表紙を使って中身を保護すること、特定の場所を選んで開くこと、などなどが容易になった。

 このことは、キリスト教の普及と大いに関係があるとする説がある。福音書の必要な箇所を開くことができるから、冊子体が好まれたということらしい。実際の普及にはもっといろいろな要素を考えないといけないだろうが、ローマ帝国によるキリスト教の公認・国教化と冊子体の発展の時期が重なっていることは無視できない特徴である。国教化は必然的に大量の写しを必要としたであろうし、それを巻子本でやるのはいかにも不便だったはずだと述べる本もある(F.G.ケニオン『古代の書物』129頁以下)。

 冊子本の誕生が記録メディア史上の一つの画期だということはすでに述べたが、それは巻子本から冊子体への以降が、ヨーロッパ古代から中世社会への以降に対応しているということでもある。中世は修道院を中心に写本が作成された時代であったが、やがて、活版印刷技術の登場により、さらに次の時代へと受け継がれていくことになるのである。

*1パピルスの作り方については、どうもエジプトで日本人観光客相手に実演しているらしく、旅行者が撮ったビデオが動画サイトなどに投稿されたりしているので、機会があったら見てみると面白いかもしれない。

*2:八木健治「製作者から見る「パピルスと羊皮紙」―その製法と特徴」『モノとヒトの新史料学』(2016、勉誠出版)p.49以下

図書館史ノートその2 図書・図書館史の参考文献

 順番が前後したが、図書・図書館史を学ぶために参考になるものを挙げておく。

 司書課程のテキストとして、主なものには以下のものがある。なお、教科書の比較については第20回関西文脈の会における佐藤翔氏の発表内容「司書養成科目「図書・図書館史」を考える 問題編と解答編」が非常に参考になる。あわせて参照されたい。

  • 北嶋武彦 編著『図書及び図書館史』(東京書籍、1998)
  • 寺田光孝編集『図書及び図書館史』(樹村房、1999)
  • 佃一可『図書・図書館史』(樹村房、2012)
  • 小黒浩司 編著『図書及び図書館史』(日本図書館協会、2013) 
  • 綿抜豊昭『図書・図書館史』(学文社、2014)
  • 千錫烈 編著『図書・図書館史』(学文社、2014)

 アジアの図書館の紹介に力を入れたり、現代に重点があったり、それぞれの教科書に代え難い特徴があるが、小黒編の教科書はメディアの歴史を論じたあと、世界の図書館、日本の図書館について論じており、メディアの歴史と図書館の歴史の相互の関係性を捉える上ではわかりやすい構成ではないかと考えられる。

図書や記録メディアの歴史を学ぶには、以下の文献がある。書誌学の伝統に加え、社会史の手法を用いた書物の歴史の潮流だけでなく、メディア論の文脈でも本の歴史は議論される。メディア史の研究は、日本国内では1990年代以降とくに活発だが、受け手に注目する成果も挙げている。

書物の歴史 (文庫クセジュ)

書物の歴史 (文庫クセジュ)

図説 本の歴史 (ふくろうの本/世界の文化)

図説 本の歴史 (ふくろうの本/世界の文化)

 図書館史の概説(日本)については、読みやすい一般向けの本は、あまり書かれていない。研究書や概説書が中心である。また、『図書館雑誌』連載記事をまとめた『図書館を育てた人々』シリーズもある。

 最近刊行された『源流から辿る近代図書館』は、独自視点で近代の図書館について語っている。もともと『日本古書通信』の連載なので、多少一般読者を意識した内容になっているが、典拠が書かれていないため、引用するには原典にさかのぼる必要がある。

 

 図書館史概説(世界)に関しても一般向けと言い得る本が少ないが、現存する海外の図書館を豊富な図版で紹介したものが近年少なからず刊行されており、これらから個々の図書館の歴史について調べて行くのが良いと思われる。また、研究所レベルでは以下にあげたもののほかに、各国の図書館史の本が存在する。米国については、邦訳が数多く出されており、ひょっとすると日本近代より研究書が多いかもしれないほどだが、非常に充実している。

  • E.D.ジョンソン著、小野泰博訳『西欧の図書館史』(帝国地方行政学会、1974)
  • 草野正名『図書館の歴史』三訂版(学芸図書、1975)
  • ヨリス・フォルシュティウス、ジークフリート・ヨースト 著、藤野幸雄 訳『図書館史要説』(日外アソシエーツ、1980)
  • 藤野幸雄『図書館史・総説』(勉誠出版、1999)
  • 川崎良孝『図書館の歴史 : アメリカ編』増訂第2版(日本図書館協会、2003)
  • 藤野幸雄, 藤野寛之 著『図書館を育てた人々. イギリス編』(日本図書館協会、2007)
  • 和田万吉『図書館史』(慧文社、2008)…戦前の図書館学教習所で行われた欧米図書館史を一冊にまとめたものの復刻版。蔵書数等簡単なデータだけだがアフリカなどの図書館まで載っていて驚く。
  • スチュアート・A.P. マレー 著、日暮雅通監訳『図説図書館の歴史』(原書房、2011.12)
図説 図書館の歴史

図説 図書館の歴史

 戦後の図書館史研究についてのレビューの主なものには以下のものがある。図書館史の研究動向を知るうえでは是非参照されたい。

  • 石井敦「わが国の図書館史研究について」『図書館文化史研究』20号(2003年)…戦後の研究についての回想。
  • 三浦太郎「CA1673 研究文献レビュー 図書館史」『カレント・アウェアネス』No.297(2008年9月20日

 このほか森縣氏の以下のウェブサイトは非常に充実しており、勉強になる。

  • 書物の歴史(森書物史概論 書物史ワーキンググループ編)

図書館史ノートその1 メディアの発展と図書館

これからしばらく、図書館の歴史について、ノートめいたことを書いていきたい。あとで直すための下書きのようなものなので、文章の乱れや議論の粗雑さはご容赦いただきたい。

図書館の歴史を考えるにあたって、まず最初に考えておきたいのは、図書館がどのようなものを保管保存してきたのかという点だ。

これは図書館情報資源論などの課題でもあろうが、図書館が何を持っているかということを考えることは、歴史上の図書館の性格を改めて考えなおすことにもつながるだろう。

例えば・・・古代の荘厳な神殿のなかにある図書館をイメージしてみる。そこでは文字が書かれた粘土板をたくさん所蔵していたり、あるいはパピルスの束が並んでいるかもしれない。しかし現在の普通の図書館でこういったものを持っているところは稀であろう。粘土板やパピルスは、今なら博物館の資料として扱われるだろうから。

詳しく見ていけば、実は図書館資料そのものも歴史的に変遷を遂げているのである。

 

図書館とは過去に生きた人々の思想・文化(のある側面)を伝える機能を持っている。

それを伝えるのがメディアだ。メディア(media)とは何であるか。

佐藤卓己氏が紹介するのは、名詞mediumの複数形であるという点である。mediumは、油絵などでも用いるが、「(伝達・通信・表現などの)手段、媒体、機関、媒介物、中位、中間…」といった意味を持つ名詞である。

佐藤氏によれば、メディアは「出来事に意味を付与し体験を知識に変換する記号の伝達媒体*1」と定義される。 

現代メディア史 (岩波テキストブックス)

現代メディア史 (岩波テキストブックス)

昭和に活躍した中井正一(1900-1952)という美学者がいる。

この人は戦前から文化運動に関わり、戦後国立国会図書館の副館長なども務めた。

中井の美学思想を一言で説明するのは至難の業だが、彼は自然の景観のなかにだけでなく、人間の技術のなかにも美があると言った。

中井はよくクロールを引き合いに出すのだが、クロールにおける美というのは、泳ぐ人が何回も何回も練習を重ねた末に、一番楽な形で上手に泳げるようになった形なのだという。

それは、「自分の肉体が、一つのあるべき法則、一つの形式、フォーム、型を探りあてたのである。自分のあるべきほんとうの姿にめぐりあったのである」(美学入門)からこそ、美しいものだとされる。

美学入門 (中公文庫)

美学入門 (中公文庫)

図書館の副館長だった中井は、「型」の発見による美の説明を、人間の文字文化の発展にも重ねているように見える。

「図書館に生きる道」という文章で、こういう。

 その「形」は常に破られて新たになる成長する形であるが、そのときには、そのときの「のりとられる」べき形である。それを証するものは、行動にともなう「楽になること」であり、爽かなる愉悦である。

 私たちが本をあつめ、その整理をし、それが、何人の求めにも応じて、とり出せるように準備することは、すなわち図書館の活動は、その文字をつらぬいて、文字の始源である生活の「文」、すなわち形を行動をもって捉え、より高い形にまで、それを高めることを本質とするのではあるまいか。

 私たちは書架に並ぶ本を見ているとき、その文字の背後に、無限に発展し、乗り越えてきた「形」の集積、今、まさに乗り越えようとして前のめっている、崩れたら、形成しなおそうとしている、成長の生きている形の展望を感ぜずにはいられない。

 図書館の中に生きることは、この「形」の発展の形成を、生き身をもって生きることにほかならない。(「図書館に生きる道」)

中井正一評論集 (岩波文庫)

中井正一評論集 (岩波文庫)

ここでいう「形」を、メディアと置き換えてみたとき、私が図書館史の前提としてメディアの変遷を重視する意味が了解してもらえるだろうか。

人々は文字を使い、自分たちのそのときそのときの生活のために、あるいは後世の記録のために、様々なメディアに書き遺した。そのメディアは時代の中で洗練され、発展し(「形」として限界まで発展し)、技術革新によって飛躍的に変わったりもした(「形」を乗り越えた)。世界のメディアの歴史において、伝達手段の変化と技術革新の歴史は連動している。

歴史の流れを一つの矢印で表したとき、メディアの発展はどのような時代区分で整理できるだろうか。

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それを少々大げさに図示すれば、次のようになろう。

まず、真中に大きな線を引く。15世紀のことである。メディアの歴史上で最も大きな事件は何かといえば、やはり印刷技術、ことにグーテンベルクによる活版印刷技術の発明であろう。ここに、メディアの歴史は画期を迎えたのである。その前は手書きの時代、その後は活字印刷の時代、とひとまず大雑把に分けられる。前半の手書きの時代は、4世紀頃を境にしてさらに二分割できる。4世紀より前は、古くは粘土板に、そしてパピルスなどの巻子本に文字が書かれていた時代、後半は冊子体が発明され、写本によって文化が伝えられていった時代といえる。

冊子体は活版印刷発明後も続くが、活字印刷の時代は18世紀から19世紀で更に二分される。印刷機の改良により、大量印刷が可能になったのである。これは新聞雑誌など、マスメディアの拡大ももたらし、人々の意識にも少なからぬ影響を及ぼした。強いて言えば、21世紀初頭の今日にも、点線くらいで分割して、電子書籍の時代という第三の変化を見いだすことも出来ようが、この行方は、まだ誰も知らない。

矢印は次のようになろう。

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以上のような記録メディアのあり方が、図書館のあり方をも規定していくと考えられるのであるが、その話はメディアと図書館の歴史を通観した最後に、また改めて考えてみたい。

(たぶん続く)

*1佐藤卓巳『現代メディア史』(岩波書店、1998)p.3

文庫と書籍館と図書館と―libraryはいつから「図書館」になったのか?

※修正中に消えてしまったので再投稿します。

※勘違いがあったので修正しました(2016/6/2)

図書館史中の最大疑問?

図書館史の勉強を始めると色々疑問がわいてくるのだが、そのなかでもっとも基本中の基本にして、しかも実は難問なのは、図書館はいつからあるのか。という問いに答えることなのではないだろうか。

もちろん、古代の図書館であれば、前7世紀にアッシリアのアッシュールバニパル王が作ったニネヴェの図書館だとか、紀元前300年頃の古代アレクサンドリアの図書館をあげることができる。日本なら、石上宅嗣芸亭もあげられる。

けれどこれは今日言うところの「図書館」とはちょっと違う。江戸時代は文庫と読んでいた。それをいつ「図書館」と呼ぶようになったのか。明治以降だろうという予想は出来ても、その先になかなか進めない。

日本語で図書館と名乗った図書館は、いつからあるのかという問いを立ててみる。それならある程度絞り込めそうな気がするけれど、いつ、日本人の暮らしのなかに「図書館」が定着したのかとなると、一気に難しくなる。

有名なのは福澤諭吉『西洋事情』における文庫<ビブリオテーキ>の紹介だろう。

「西洋諸国ノ都府ニハ文庫アリ「ビブリオテーキ」ト云フ日用ノ書籍図画等ヨリ古書珍書ニ至ルマテ万国ノ書皆備リ衆人来リテ随意ニ之ヲ読ムヘシ」

結論を先に書いておくと、日本に「図書館」が定着したのはいつかという問題は、色々な説が並立しており、ざっと調べた限りでも、最初と最後で実に30年近い開きがあるので一概に正解を出しにくい。

論じる人が何を大事と思うかによっても違ってくるということだ。

たとえば、最近出た高山正也『歴史に見る日本の図書館』には、明治41年(1908)に日本文庫協会日本図書館協会に変わったときをもって、「明治維新後に日本に移入されたライブラリー、ビブリオテーク等の外国語の概念を表す語として「図書館」という日本語が定まった象徴的な出来事*1」と評価している。一つの指標ではあるけれども、業界団体の話と社会の動きはそう綺麗に連動するものだろうか。

江戸から明治にかけて、文庫から書籍館、図書館へと変わってきた大きな流れがあるのだが、これらの言葉の興亡を、出来るだけ根拠を上げながら見ていきたい。私見では、歴史というのは、ある意味で思い込みや予断を揺さぶり、新しい観点の形成を促すところに一つの効能があると思うのだけれど、この作業も、図書館史の勉強が何か意味があるのか考える上では試金石になるかもしれない。

辞書から

語誌の探求のとっかかりとして、『日本国語大辞典』第二版の「図書館」の項目を引いてみると、こうある。

(1)幕末明治初期には、「文庫」「書院」「書庫」「書物庫」「書室」「便覧所(安中藩)」などの語が見える。明治10年代には、「書籍館(しょじゃくかん)」と呼ぶのが普通で、「図書館」が用いられるようになるのは明治20年代以降。

(2)当初、読みは「ずしょかん」「としょかん」の二通りがあり、もっぱら「としょかん」というようになるのは大正(1912~)以後。

ポイントが2つある。「図書館」が用いられるようになるのは明治20年代以降だというのが一つ。もう一つは読みである。もっぱら「としょかん」と読むようになるのは大正時代になってからだという話があって、それまでは「ずしょかん」という読み方もあった。これはおさえておくことにしたい。

言葉の定義に関して、辞書からさぐるという方法がとられることが多い。

翻訳語をまとめた杉本つとむ『江戸翻訳語の世界』は、明治21年(1888)の『和訳字彙 : ウェブスター氏新刊大辞書』でも、Libraryは書房、書庫、書籍館があてられているという点に注目して、いくつかの辞書と訳語の検証をしている。

なお、明治22年から数年かけて刊行された大槻文彦の『言海』には、ちゃんと「図書館」が出てくるようである。読みは「としょくわん」。「多ク書籍ヲ集メ置キテ人ノ覧ルニ供スル所」とあるようだ。

言海 (ちくま学芸文庫)

言海 (ちくま学芸文庫)

杉本氏は、ほかの辞書も対比しながら、明治二十年代にLibraryの訳語として作られたものと推定している。

なお、杉本氏が、図書館や書籍館の読み方について、漢音と呉音の区別意識がなくなり、ズショがトショになり、ショジャクもショセキと読まれるようになったと指摘している点は興味深い。昔からの教養を持ち続ける人はズショと読んでしまうわけである。

当然、図書館史研究でもこのことは問題になってきた。

このほか、図書館史の先行研究となる論文では、この問題をもう少し掘り下げている。少なくとも、明治13年東京図書館が出来たこと、さらにそれよりも3年早く、明治10年東京大学に「図書館」が設けられたことがわかっている。となると、明治20年代に「図書館」が辞書に載るようになるのは、初めて訳語が使われてから10年経過した後でということになる。言葉の定着はゆっくりである。

図書館の訳をめぐっては、例えば以下の論文がある。

  • 永峯光名「辞典に現われた「図書館」」(1)-(2)『図書館界』18(4)(5)(1966.11-1967.1)
  • 岩猿敏生「「書籍館」から「図書館」へ」『図書館界』35(4)(1983.11)
  • 三浦太郎「"書籍館"の誕生--明治初頭におけるライブラリー意識の芽生え」『東京大学大学院教育学研究科紀要』(38)(1998)

永峯論文では、英語、仏語などの辞書に表れた様々な名称を紹介しているが、ヘボン和英語林集成明治19年刊行に第三版から、libraryの訳語として、「図書館」が登場すると書いている。織田信義ほか『和仏辞書』(丸善、1899)だと、書籍館=Bibliotheque imperialeと図書館=Bibliothequeでどうも使い分けがなされていたらしいとの指摘もある。

文中「嘉永4年生れの亡父は大正末まで一生ヅショカンといった*2」という具体的な話があることも、重要な時代の証言であるといえる。

何故、書籍館から図書館になったのかについても、永峯論文や岩猿論文は言及していて、「書籍だけでなく絵図や地図も扱うからではないか」という示唆もなされている*3

なお、三浦論文はネットで全文が読める。

同論文では、「書籍館」を最初に使ったのは、幕末の遣米使節随行した森田岡太郎であるとし、アスター図書館を見学して日記に記したときに何故新たな語を作ったのか、色々な先行研究を踏まえながら考察している。

書誌学の成果も参考になる。大沼晴暉『図書大概』によれば、「図書」とは、聖人がこれをもって易を作ったとされる「河図洛書」の略であるとする。河図洛書とは黄河に表れた龍馬の背中の文様である「河図」と、洛水に表れる神亀の甲羅の文字である「洛書」を合わせた大変めでたいシンボルとされる。聖人が参考にしたのだから、図書はあらゆることが載っているという意味を帯びるのだろうか。

図書大概

図書大概

中国に逆輸入された「図書館」

ちなみに、「図書」は中国語由来なのだが、「図書館」は日本語から中国語に「图书馆」として逆輸入された言葉らしいことは、諸書で指摘がある。

近代日中語彙交流史 新漢語の生成と受容

近代日中語彙交流史 新漢語の生成と受容

しばしば、1905年に湖南図書館が開館したのが良く紹介されるが、小黒浩司『図書館をめぐる日中の近代』は、それをもう少し遡って、1904年の張之洞が作成した「奏定学堂章程」に「図書館」が見られるとしている(それまでは中国では「蔵書楼」などの表現が採られていたという)。なお、小黒氏によれば、早くも1899年に梁啓超が『清議報』で、『太陽』に載った論文を翻訳して「論図書館開進文化一大機関」という記事を載せている由だが、亡命中の梁の言論活動なので、すぐにこれが清国政府に影響を与えたという見方については慎重な評価を下している。

並存する図書館/書籍館

岩猿敏生『日本図書館史概説』は、図書館にはトショカンとヅショカンの読みがあったとしながら、明治13年(1880)の『東京大学法理文学部一覧』英文版に、同大学の図書館の紹介として、Tosho-Kuan (Library) of the Universityの記述が使われていることを上げている。「トショカン」は明治13年からあったのだ。他方、明治19年(1886)の東京図書館の洋書目録では、自館の名称をTokyo Dzushokwanと表現していてヅショカンもあったらしいことがわかる。また、書籍館についても、明治8年(1875)の東京書籍館が出した洋書目録の表題紙にはTokyo Shoseki-Kwanとあり、書籍館はショジャクカンと読むだけでなく、ショセキカンの読みがあったことがわかる。

日本図書館史概説

日本図書館史概説

そうして岩猿氏は、

明治の初期、ライブラリーに当る言葉として、書籍館と図書館があり、その読みもそれぞれ二通りあったと思われるが、1890年代には図書館という呼称に、読みもトショカンに統一されていった*4

という見方を提示している。

文部省の図書館施策との関係はどうか。

なお、書籍館から図書館への転換については、前掲『図書大概』が、「明治二十年十月、文部省は官制を改め、書籍館を図書館と改称し、学校教育の補助機関として取扱うべき旨布達している」という意見を述べているのが注目できる。同様の見解は、『図書大概』が典拠としている『八戸市立図書館百年史』にも見られる。これは何かというと、10月4日に文部省が官制を改正し、普通学務局を設けたこと、その所掌事務について書かれている個所が「書籍館」から「図書館」に変わったことを指しているようである。日本法令索引で確認すると、確かに次のように変わっている。

第十一条 第四課ニ於テハ専門学校其他諸学校書籍館博物館及教育会学術会等ニ関スル事務ヲ掌ル

第十一条 普通学務局ニ第一第二第三第四第五ノ五課ヲ置キ全国ヲ五部ニ分テ各其部内ノ尋常師範学校尋常中学校高等女学校小学校各種学校幼稚園図書館博物館及教育会通俗教育等ニ関スル事務ヲ分掌セシム…

図書館業務を統括する官庁が名前を変えたのだから重要事には違いないのだが、これによって書籍館を図書館と改称した決定的根拠とまでいえるかどうかはこれまた微妙だ。

なぜなら、同年の文部省の年報では、とくにこのことが書いていないからで、おまけに、統計表のタイトルは「書籍館」になっているからである。また、地方の書籍館が図書館に一斉に改称した形跡もとくにない。

文部省年報の統計表のタイトルが「書籍館」から「図書館」に変わるのは、確認したところ明治25年(1892)のようであるが、そうなると、また官制改正から5年ずれてしまう(確認したら勘違いでした。正しくは明治26年1月付でまとめられた、明治24年分の年報の記述から、でした。大変失礼しました。※後日追記)。なお、この頃はまだ「図書館」を標榜していたのは基本的に東京図書館帝国大学の図書館など、官立の施設が中心だった。地方の図書館は大阪をはじめとして書籍館の名称を用いているところが多かったようである。

新聞記事などで、この時期の用法を見ていると、大学図書館など参考図書館機能を持ったlibraryを「図書館」。地方で読書文化の普及に努める通俗教育機関としてのlibraryを「書籍館」と訳し分けているような印象がなくもないのだが、今ひとつ決定的な証拠を欠く。

政策的にいえば、明治30年帝国図書館設置、明治32年の図書館令公布も、結構影響が大きいのではないかと予想されるが・・・。


日本文庫協会草創期のメンバーの懐古談

明治25年は、日本文庫協会結成の年であるが、文部省年報の統計項目の変更とは何か関係があるのだろうか。当事者の回想も聴いてみたい。昭和6年1月、『図書館雑誌』には帝国図書館松本喜一が司会となって、市島謙吉太田為三郎、小林堅三、坪谷善四郎和田万吉らの「回顧座談会」が載った(開催は昭和5年11月)。

この座談は初期の頃の文庫協会の慎ましい活動が伺われて、非常に面白い記事になっている。明治32年の図書館令も帝国図書館長の田中稲城が出したとか、文部省あたりでも図書館のことがわからないとか、だから田中さんの口入れが大事だったとか。地方から図書館のことを聴きに来る人が上京してきても文部省も分からないので上野に回付されることも間々あったらしい。何というか時代である。そのくらい文部省に田中が影響力を行使できたのだとすると、年報の統計項目の変更くらいは、軽くゴリ押し出来そうにも思う。

この座談の中途に、大変重要な証言が載っている。

市島 文庫協会と云ふ文庫の字を選んだのはどう云ふ訳ですか?

和田 是は確かでありますが、そもそもの初めに会名を田中〔稲城―引用者註〕君西村〔竹間か?―引用者註〕君が按ぜられたので、其当時は図書館協会となつて居りましたが、後に文庫協会に変つたのです、初めは図書館協会でした。

(略)

太田 其頃は文庫と云ふ名前の方が普通です。

市島 是は一つ書いて貰ひたい。後にこれから問題が起るのだから。

太田 色々意見がありましたが、昔から文庫と云ふ名前で通つて来て居るのだから、図書館協会と云ふ新規な名前よりも其方が宜いと云ふことを頻りに主張する人があつて大分問題になつたやうです、新規な上野側では矢張り図書館協会が宜いと云ふ説であつたが、何分多数決でとうとう文庫協会になつてしまつたのです

松本 田中さんは、其新智識で欧米風に、ライブラリーと云ふものを図書館と云ふ風に訳して、それでやらうといふのに斯う云ふことで共鳴されなかつたのですか。

太田 外の人は皆文庫協会の方です。そうでせう、何しろ図書館と云ふ名前の所は上野の東京図書館の外には何処にも無いのですからね。皆文庫ですから*5

とくに図書館に反対して文庫説を支持したのが南葵文庫だったという。しかし議論をしていくうちにだんだん緩んできたらしい。坪谷善四郎は、高山樗牛が「図書館設立の趣旨」を書き、博文館の15周年事業として作られた大橋図書館の影響を述べている。

坪谷 其時分のことで、私が記憶して居るのは図書館と云ふ名前が非常に盛んになつて来たのは、大橋図書館が出来たと云ふことと、大橋図書館で全国図書館講習会と云ふのをやつたからです。それは田中さんが主となられてやつたものです。さうして全国からだいぶ集つて来て、今日全国に散らばつて図書館に従事してゐる人で、当時大橋図書館の講習生であつた人が大分居ります。それ等の人が地方に行つて図書館を鼓吹する事になつたのは、確か三十五年の秋だらうと思ひます。

松本 講習会は三十六年の八月一日から二週間貴方の大橋図書館でおやりになつたのですね

(略)

坪谷 とにかく全国に亘つて、皆図書館と云ふものを作られることになつたのです。さうして全国に所謂図書館の開設が叫ばれ、其当時では文庫と云ふ名を以て地方で作る人はございませんでした。あの図書館員講習会が、大変地方に図書館を作る素地をなしたのですから、今日の興隆には大いに与つて力あると思ひます*6

文庫と図書館の対立については石山洋『源流から辿る近代図書館』のなかで、文庫支持・図書館反対派の意見の中に「中国では、書館といえば娼楼を指す。そんな汚らわしい印象を含む語を会名に入れるな」というちょっとびっくりするものがあったという話を紹介している。ただ、これはためにする批判で、当時もそんなに説得力は無かったのだろうなというのは、中国語にすんなり「図書館」が訳されていることからもわかる。

読み方の問題に関しては、新聞記事に載っているルビなどを調べていくと、漸次「としょくわん」が増えていくものの、「ずしょくわん」も多い。同じ新聞でも東京と大阪、日によってルビが異なる場合すらある。明治39年(1906)に帝国図書館開館式典を報じた記事のなかですら「ていこくづしょくわん」というルビを振っているものがあったので、明治30年にすっかり「としょかん」に統一されたとまでは言い難いようである。


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戦前の図書館数と利用者を集計した表を見てみる。図書館の規模が様々なのでよしあしなのだが、これを見ると図書館の数が増え始めるのはやはり日露戦争後である。全国的な普及が進んでいくときに概念的な混乱が生じるのは避けがたいと思うものの、そのなかで図書館が、講習会などを経て定着していったというのは、それなりに妥当ともいえるかもしれない。


新村出の見解

最後に、図書館をめぐる言葉ということで、『広辞苑』の編者にして京都帝国大学附属図書館三代目館長・新村出『語源をさぐる』を紹介したい。

同書のなかで、図書館は明治二十年以降ズショと呼ぶ人が多かったが、「大正時代に入ると全くトショの方に統一されてしまった」としている。さらに考えさせられるのは、「ライブラリイ」を図書館と訳したのは正しかったのか?という疑問を発していることだ。

語源をさぐる (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

語源をさぐる (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

英語だと自宅の書斎もlibraryと云うのに、それを図書の館としてしまうと、国立や大学の図書館は良いが、規模がごく小さい町村立のライブラリーまで図書館と読んでいいのか疑問だというのだ。では文庫の方が良いのか(フミクラとしての文庫は、13世紀くらいから使われてきた昔からの言葉といえるらしい。)と考えてしまったりしてこの辺は難しいのだが、当たり前のようにして「図書館」を眺めているとちょっと揺さぶられる意見ではある。

今まで出てきた出来ごとを、年代順に、年表風にまとめておこう。

明治10年(1877) 東京大学が図書館を設置

明治13年(1880) 東京図書館開館

明治20年(1887)10月 文部省官制改正。普通学務局の所掌事務に「図書館」が明記

明治20年代 辞書類に「図書館」登場

明治25年(1892) 日本文庫協会結成。

明治26年(1893) この年1月にまとめられた明治24年分の文部省年報の統計が書籍館から図書館に変わる。

明治30年(1897) 帝国図書館設置

明治32年(1899) 図書館令公布

明治35年(1902) 大橋図書館開館

明治36年(1903) 大橋図書館日本文庫協会主催第一回図書館事項講習会

明治41年(1908) 日本文庫協会日本図書館協会に改称。

どれが大事かによって説が変わるというわけである。読み方はともかくとして、

規模の大小はあるけれど、図書館の設置数が増えるのが日露戦争以後だという事情も踏まえると、

書籍館や文庫でなく「図書館」が受け入れられるようになることに関し、先に紹介した坪谷の説はいい線を言っている気がするのだが、どうだろうか。

*1:高山正也『歴史に見る日本の図書館』(勁草書房、2016)p.59

*2:永峯光名「辞典に現われた「図書館」(2)」p.183

*3:永峯前掲論文(2)p.183。岩猿論文p.197

*4:同書151~152頁

*5:「懐古座談会」『図書館雑誌』25(1)(1931.1)p.9-10

*6:同上、p.11