今日流通している本は紙に印刷されて複製、頒布されている。印刷という場合、紙などにインクを使って文字、図、写真を複製することを指すが、パソコンの普及や技術の発展などにより、昔の定義と今日の定義ではだいぶ様変わりしている。
印刷の起源も、実は定かではない。紙とともに中国で始まったとされているが、かつてはインド起源の説もあり、日本発祥説もあった。出土遺物に大きく左右されるため、正確な起源ははっきりしていない。ただ、印刷術の発達には転写する紙とインクが不可欠なので、紙と墨、その条件がそろっていた中国で印刷が発達したという見解は首肯できるものである。
印刷術については、蔡倫の紙と違い、文献上にも表れないようである。その理由としては、それだけ生活に密着した技術だったことが諸書では指摘されている。この分野の古典的な著作の一つといえるT・F・カーター『中国の印刷術』では、印刷の二つの源流を指摘している。
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一つは、印章。仏様の図像を彫ったハンコを捺して護符として所持する習慣が、やがて大きな仏画を刷ったりする行為となり、そこから木版印刷へ発達していったとする。もう一つは、石に掘られた碑文の拓本を取る摺拓(しゅうたく)から木版印刷への経路である。もっとも、ハンコの文化はシュメル文明にもあったとされている。
書物研究家の庄司浅水は『印刷文化史』のなかで、上記に加えてさらにインドやペルシャで発達した布地に模様を染める捺染(なっせん)も挙げているが、より重要なのは、例えばギリシアで何故印刷が発生しなかったのか、という問いを立てていることだ。庄司は印刷の発生を阻む条件として次の4つをあげている*1。
- 印刷に適する、かつ経済的な材料のなかったこと
- 適当な印刷インキの得られなかったこと
- 文書・書籍の需要があまり多くなかったこと
- 書写することが今日ほど煩わしくなかったこと
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これを逆にすると、印刷誕生に有利な場所が見えてくる。蔡倫によって実用化された紙があり、墨もあった中国では、唐代以降、仏典などの複製に印刷が用いられ始めたとみられる。漢字を一文字一文字書くのが大変であり、科挙などによるテキストの必要が中国の印刷術の発達を促した。
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アジア最古の印刷物についても、色々意見が分かれ、論争となっている。こうした諸説の紹介は、鈴木敏夫『プレ・グーテンベルク時代』に詳しい。鈴木によると、現存するもののうち、印刷年代がはっきりしている最古の印刷物に、日本の「百万塔陀羅尼」がある。これは770年に刷られたものであると記録に登場する。印刷された日付(刊記)が本文に刷ってある最古の印刷物は、1907年にスタインが敦煌で発掘した「金剛般若波羅蜜経」。また、韓国慶州仏国寺で発見された「無垢浄光大陀羅尼経」は、751年より前の印刷物とする意見があるが、はっきりしていない。日本の「百万塔陀羅尼」についても長年、銅版で刷った説と木版説が対立してきた。
プレ・グーテンベルク時代―製紙・印刷・出版の黎明期 (1976年)
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中国では、宰相である馮道(ふうどう)の進言により932年、木版印刷により、儒教の「九経」を印刷させたとされる。宋代に「科挙」の登用制度が確立したことで、多くのテキストが必要とされるようになり、印刷も発達した。ただ、北宋時代の印刷物は、中国本土では金の侵入などもあってほとんど残っていない。仏典以外だと北京大や台湾、それから日本に伝来したものを合わせても10程度に過ぎないと言う*2
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中国の印刷はさらに明・清期に絶頂を迎えることとなり、この過程で、楷書を直線で彫りやすくするための書体として、明朝体は発明されてくる*3。12世紀頃には活字による印刷も行われ、朝鮮半島へも伝来していったと考えられる。
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木宮泰彦『日本古印刷文化史』(初版は1932年)などをもとに、日本の印刷を見てみよう。日本では、奈良時代の百万塔陀羅尼の印刷以降、300年間は大規模な印刷が行われなかったとされているが、平安時代末期から寺院等で、経典類の印刷が行われるようになった。これを寺院版という。有名なところでは、平安末期~鎌倉時代にかけて、奈良・興福寺を中心に印刷された春日版、鎌倉時代に紀州高野山でつくられた高野版、さらに室町時代にかけて、五山の禅僧らによってつくられた五山版などがある。
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戦国時代になると豊臣秀吉の頃に、朝鮮半島から銅活字などがもたらされたほか、天正遣欧少年使節が持ち帰った西洋式活字印刷により、きりしたん版という、キリスト教の布教のためのテキストが印刷された。ただし、きりしたん版は後の禁制により途絶してしまう。
活版印刷人ドラードの生涯 リスボン→長崎 天正遣欧使節の活版印刷
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活字印刷に非常に関心を寄せた大名に、徳川家康がいる。家康は、金地院崇伝や林羅山に銘じて銅活字を作成し、『群書治要』などを印刷した。これを駿河版という。駿河版の『群書治要』は国立公文書館が所蔵している*4。また、京都・伏見でも木活字を作成させ、『貞観政要』などを印刷した。これを伏見版という。
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我が国の印刷史において特筆すべきは16世紀末から17世紀にかけての、嵯峨本の登場である。京都の豪商・角倉素庵が、本阿弥光悦・俵屋宗達の協力を経て『伊勢物語』などを出版したもので一文字一活字ではなく、縦書きで崩し字で書いた数文字を単位として活字を作るなどしていた。また、装丁に意匠を凝らした大変豪華な本であった。
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ただし、江戸時代には、制作の手間がかかることから、活字による印刷技術はあまり広まらず、木版印刷が主流となっていった。