学びて時にこれを習う(1) 「実学」の「伝統」に関する覚書

 このところ「学問」とは何であるかについてぼんやりと考えている。

 図書館に就職してよりこの方、多くの「学問論」を目にしたし、また色々な人から学問観を聴く機会を得た。これは職業柄のせいかもしれないが、ある意味では、他の人よりも多く学問論に接してきたような気もする。

 その場合、論者が大学なりで修めた一つの学科をベースにして議論を組み立てているのが普通であった。それは当然の話で、自分の知らない分野の話からは刺激も受けたし、参考になったりしている。日々、全く自分が大学で専攻していたものと違う資料についての案内をしながら、例えば自分がやってきた歴史についての意義を、お客さんに話したら、へえそれは大事だね、と言ってもらえるのだろうか、ということもしばしば考えた。

 図書館は研究を支援する。読書普及とか、文化の醸成とか、地域コミュニティの結節点であるとか、館種の違いによって*1、程度の差こそあれ、学問と図書館というのは非常に近いものとして捉えることができるだろうと思う。

知識の経営と図書館 (図書館の現場8)

知識の経営と図書館 (図書館の現場8)

 ただ、多種多様な学問論を聴いて、学術支援をうたう図書館はどういうサービスをすべきなのかという話に結び付けようとしたとき、なんとなく面白い学問論に飛びついて、特定学科に偏ったものを作ってしまいかねないという不安も持った*2。そのほかにも色々な刺激を受けたこともあって、いわゆる学問論はどの程度まで一般化が許容されるのかについて、この頃、とくに考えてしまうことが多くなったともいえる。


学問の歴史と図書館

 私は歴史屋なので、わからないことは時系列で整理しようと考える癖がある。

 そういうわけで、過去の色々な学問観について読んだり調べたりしているうちに、どうもこれは相当に厄介であるということがわかった。少なくとも私一人が片手間に調べてどうにかなる問題では無いことがすぐわかった。

 さしあたり、一週間ほどあれこれ読む過程で、人がそれぞれに学問論を語りたいならば、それはみんな違ってそれでいいではないか、と思うこともあったが、あまりのややこしさに自分が整理しきれないことと、単に自分が納得するためだけに、少しだけまとめておきたい。

 こういう議論は、実は近代日本に限っていうと、なかなか図書館のコンテクストで共有されるようなハッキリした輪郭がないし、明治以降、西洋から輸入された近代の学問の刺激を受けて、旧来の学科がどう再編されていく過程で、図書館がいかに関わったのか、というかなり大きな話にもつながる(この文章を書きながら、一番知りたいのは、実はそこである)。

 歴史上の図書館の話は、研究活動というよりもむしろ教育政策のカテゴリで語られるのが一般的であって、そのことは今世紀に入ってから色々な批判的検討が加えられた学問編成のあり方と図書館との接点が微妙に見出しにくいという私個人の印象にもつながっている。そういう点は今後また改めて考えねばならないはずで、そのときに立ち返るべきポイントを一度整理しておきたいなあと思って、筆を起こすことにする。

日本の場合

 『日本国語大辞典』によれば、「学問」なる語は『孟子』にも見え、また『続日本紀』にも用例があるということだから、そもそも随分年季の入った語だといえよう。江戸時代以前からの用例でいうと、大まかに言えば武芸に対する学芸、文武という際の「文」にあたり、漢学や仏典の研究、ついで和歌などの習得について指すようになったものといわれる*3

 ただ、経書の読解を通じて成果を得る類のこうした学問は、現在では、繰り返し何の役に立つか問われていて、しかも実際には否定的なニュアンスで捉えられることが多い。

元来東洋流の学問は合理的でなく又客観的でないと考えられ、思弁的ではあるが、空想的であり、具体的でない。主として精神的修養が学問の基本と考えられ、現実から遊離した思考が尊ばれた。浮世離れをした人間が学者として高尚なものとされた。従って学問は回顧的となり、高踏的となる*4

 こういう認識は、特段変なものではなさそうである。

 「東洋」の学問は役に立たないのだという漠然とした観念は強くあるように感ぜられるし、人文系の学問、なかんずく「回顧的」な歴史学やら、あるいは形而上学を扱う哲学などはこのように見られているかもしれない(文系といわず、社会科学系と区別するためにここでは人文系と称する)。「実学」に対する「虚学」として、むしろ「虚学」に特化することで、形而上の学問領域を何とかして確保しようとするスタンスも成立しているように見える。


伝統的な朱子学は「実学」か否か

 が、調べてみると実際にはそうではないらしい。

 むしろ四書五経を読み習うことこそが「実学」という主張は江戸時代から存在していた。丸山真男福沢諭吉の学問観について触れた文章のなかで、こう言っている。

いわゆる空虚な観念的思弁を忌み、実践生活(中略)に学問が奉仕すべき事を求めるのは日本人の観念生活における伝統的態度だといっていい。いなむしろ、実践的必要から切り離された理論的完結性に対して無関心なのは東洋的学問の特色とさえいわれている。「実学」という言葉を盛んに主唱したのは、儒教思想のなかでも抽象的な体系性を比較的多く備えている、程朱学(宋学)であった*5

福沢諭吉の哲学―他六篇 (岩波文庫)

福沢諭吉の哲学―他六篇 (岩波文庫)

 そしてその朱子学もやっぱり観念的だと批判され、古学、陽明学から水戸学に至るまで、うちの学問こそ「実学」と言い合っている状況が出てくる。

 この文章は随分前にも読んでいたはずなのだが、今回改めて読み直して、あまりその重要性を認識していなかったことをハッキリと悟った。前段に述べた東洋学問観と真逆のことを言っている。おおざっぱな言い方で心苦しいが、実学でないものは認めない、という学問観が明治以前でなく、むしろ明治維新前から(少なくとも学者の主観的には)強固な伝統を形成していたといいうるのだとすれば、重くないだろうか。

 とりわけ幕末期にかけては、身分制社会に張り巡らされた拘束が、「学問」を理由にした場合にのみ特権的に突破でき、「学問」を足掛かりとして政治社会を上昇するタイプの人間が生まれたとも指摘されている*6

江戸の知識から明治の政治へ

江戸の知識から明治の政治へ

 幕末知識人にとっては、学問をきちんと修めれば、藩政にも関わるチャンスがめぐってくるわけで、その意味で学問するというのは高等で思弁的な言辞を弄する営みでは無くて、「実学」にほかならなかったわけである。


福沢諭吉西周

 そうして、そういう江戸時代の学問のあり方を全面的に批判して、新たな「実学」観へ転回させたのも、丸山が論じるように福沢諭吉であった。福沢は『学問ノススメ』(慶應義塾・デジタルで読む福沢諭吉)にいう。

学問とは唯むつかしき字を知り觧し難き古文を読み和歌を楽み詩を作るなど世上に実のなき文学をいふにあらず、これ等の文学も自から人の心を悦ばしめ隨分調法なるものなれども古来世間の儒者和学者などの申すやうさまであがめ貴むべきものにあらず、古来漢学者に世帯持の上手なる者も少く和歌をよくして商売に巧者なる町人も稀なり、これがため心ある町人百姓は其子の学問に出精するを見てやがて身代を持崩すならんとて親心に心配する者あり無理ならぬことなり畢竟其学問の実に遠くして、日用の間に合はぬ証拠なりされは今斯る実無き学問は先づ次にし専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり

学問のすゝめ (岩波文庫)

学問のすゝめ (岩波文庫)

 こうして福沢は、江戸時代以来の漢学や国学を「実学」から外した。丸山はこれを、「倫理学から物理学へ」の転回なのであると巧みに表現しているが、福沢がここで重視したのは、数学と物理学にほかならない。

 福沢の『学問ノススメ』のインパクトは、この点に尽きるものではなく、それゆえに名著なのだが、これに似た議論は実は『明六雑誌』にも出てくる。西周の「知説」に曰く、

事実を一貫の真理に帰納し、またこの真理を序で、前後本末を掲げ、著わして一の模範となしたるものを学<サイーンス>という。すでに学によりて真理瞭然たるときは、これを活用して人間万般の事物に便ならしむるを術という。ゆえに学の旨趣は、ただもっぱら真理を講究するにありて、その真理の人間における利害得失のいかんたるを論ずべからざるなり。術はすなわち真理のあるところにしたがい、活用して、吾人のために害を去て利に就き、失に背して得に向わしむるものなり*7

明六雑誌〈中〉 (岩波文庫)

明六雑誌〈中〉 (岩波文庫)

 西は学と術を厳密に分けているが、そうでない場合もある。「しかれどもいわゆる科学に至ては両あい混じて判然区別すべからざるものあり。たとえば化学<ケミストリ>のごとし*8」。ここでいう「科学」は、すでに「学」がサイエンスの訳語として当てられているので、個別学科の学という意味での「科学」なのだろう*9

 西は「知説」の外の部分で「普通の学」の分類に触れているが、長くなるのでここでは省略する。ポイントはむしろ、こういう新しい学の講究方法は何かという点で、丸山は福沢の「実験精神」を高く評価しているが、西はこうも言っている。

 空論を捨て、真理を得るためにはどうすればよいか。

西洋輓近取るところの方法、三つあり。曰く、観察<オブセルエーシウン>なり。曰く、経験<エキスペリエンス>なり。曰く試験<プルーウ>なり。三つのものの中、試験の一方法は、時にしたがい、物によりて用うべからざることありといえども、前の二つを欠くものは、一も講究というべからざるなり*10

observationとexperienceとproofとが「講究」に必要なのだというわけである。

学問観の一般化はどこまで出来るかの考えるために歴史的な素描を試み、とりあえず江戸時代の「実学」が明治に「サイエンス」の導入に伴って転回した、そこまでを確認した。問題はまだまだ尽きないので、もう少し続けたい。

*1:「館種」という概念がこうも強固にあるのかと思ったのも、そもそも就職しなければわからなかったと思う。

*2:「学問論」を一生懸命語っている方にしてみれば、まさにそれが狙いの可能性もあるわけだが。

*3:ということは江戸時代までは逆に、今日「人文学」に分類される文献学系の典籍読解を指して、「学問」と呼ばれていたことになる。

*4:『明治文化史』第5巻学術編(洋々社、1954)、460頁

*5:丸山「福沢に於ける実学の転回」『福沢諭吉の哲学他六篇』(岩波文庫、2001)41頁

*6松田宏一郎『江戸の知識から明治の政治へ』(ぺりかん社、2008)の例えば53頁以下。具体例として佐久間象山横井小楠などが挙げられている。

*7西周「知説四」『明六雑誌』中(岩波文庫、2008)234~235頁

*8:同上、236頁

*9:ちなみに、本記事を書き終えてから発見したのだが、読書猿さんのエントリ「philosophyとscienceが「理学」という名を競っていた頃:scienceはいつから「科学」というのか?」によれば、この西の「科学」の用例が「科学=サイエンス」の初出であるとのことだが、西がサイエンスの訳語を当てているのはあくまで「学」だと思われ、学と術を峻別する人が、学と科学を一緒に見るかなあ、という気がするので、私は留保したい。なお、追記ながら付言しておくと、このエントリは私が調べてあとで書こうと思ったことが先取りされて丁寧に叙述されており、とても勉強になった。少しだけ疑問に思ったのは、このサイエンスの箇所だけである。

*10西周「知説三」前掲『明六雑誌』中、203頁