京都府立総合資料館開館50周年記念シンポジウム「総合資料館の50年と未来」 参加記(前篇)

京都に行ってきました。

実は2週間ぶりだったのですが、前回は日程がキツキツであまり市内も回れなかったところ、今回は夜行で行ったので、秋の京都を少しだけ堪能できました。

平安神宮周辺。岡崎から南禅寺方向を眺めて

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五条大橋から鴨川風景

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…こう書くと観光目的みたいですが、本当の目的は、京都府立総合資料館開館50周年記念シンポジウム「総合資料館の50年と未来」に参加することでした。リンク先をご覧いただければおわかりいただけると思いますが、超豪華メンバーのセッションで、かねてから気になっていたイベントです。

そこで文化資源に関する「いま」の議論を聞くことができ、とても刺激を受けました。行って良かったと思っています。

ポスター

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会場

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すでにtogetterなども作られているようですが、今回の全体のコーディネートにあたられた総合資料館のF氏から、「記録はブログに書いていい。どんどん宣伝してくれ」とご了解をいただいたので、2回に分けて記録を上げたいと思います。

なお、以下は私が、聞きとれて理解できてメモできて、かつ思い出せた範囲のメモですので、この点あらかじめご了承ください。ちなみに、本文中にところどころ挿入させていただいた書籍は、とくに断りがない限り、私が関連しそうと思った本であって、報告中で言及されていたものではありません。念のため申し添えます。

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総合資料館開館50周年記念シンポジウム「総合資料館の50年と未来」

日時:平成25(2013)年11月16日(土) 10:30~17:00

会場:京都府職員研修・研究支援センター

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開会挨拶 山内修一氏(京都府副知事)

新総合資料館の建設にあたり、府民にとって郷土を振り返り、資料の蓄積を活用し、未来を語る交流の場となれるかどうか、五十周年は一つの転機である。開かれた資料館にしていきたい。北は舞鶴から、南はけいはんな学研都市から、情報発信をしていく基盤の整備をしている。これまでは建物になかなか投資ができなかったが、これからは文化。国際京都学センターを核としつつ、資料館と大学をつないだ施設を作っていきたい。そのためにはコンセプトをきちっとしていかねばならない。今日は、これからの文化財行政のあり方を大いに議論していただければありがたい。



基調講演 吉見俊哉氏(東京大学副学長)「文化資源の保存・活用のために」

構成は次の通り。

序 文化とは何か

1 グローバル化と情報爆発の500年

2 エンサイクロペディアと集合知

3 アーカイブと記録知

4 知識循環型社会と価値創造基盤


序 文化とは何か

まずそもそも「文化」とは何かということについて。耕すというプロセスを含むCultureを「文化」という語にしてしまったのは、実は誤訳だったのではないかというところから始めて、近代的な意味の文化の出発点についての説明*1

国境の越え方―国民国家論序説 (平凡社ライブラリー)

国境の越え方―国民国家論序説 (平凡社ライブラリー)

「文明」と「文化」の対抗軸は十七世紀まではなかった。もちろん、人々の文化的営みはあったが、ヨーロッパの人々において、文化的な営みは、宗教的な過程としてあった。しかし中世的な大学がその使命を終え、世俗化が進むにつれて、教養を身につけるという概念から、今日の文化の意味に近づいていく、近代の大学は国民の文化を正当化する根拠になっていった。そこではたとえばイギリスではシェイクスピアを持っていることが重要とされたように、古典があるということが重要とされた。

大学とは何か (岩波新書)

大学とは何か (岩波新書)

ところが、これを受容した日本ではボタンのかけ違いが起こってしまった。どういうことかというと、「文明」と「文化」の間の明確な対抗構造がない。「文明開化」と「文化」もごっちゃになって使われてしまう。「文明」は一元的・普遍的であるのに対し、「文化」は多様なもの。それは「文化」を扱う学が民俗学、人類学、社会学など複数に分かれていることとも関連がある。「文化」とは多様性である。耕すというプロセスの概念があることを踏まえて言うならば、いわば生成する多様性である。生み出されていく多様性を文化は持っている。これはcivilizationとは違う「文化」の特徴である。グローバルな文明秩序を形成する多様性として文化は位置づけられる。

大航海時代とはある意味で銀を介したグローバル化だった。16世紀の初頭に起こっていたことは大きく一周して現代にもう一度起こっている。つまり再グローバル化である。同じ頃起こっていたのがグーテンベルクの印刷革命。これは情報の世界を決定的に変えていくことになった。コペルニクスの発見に重要だったのは印刷された大量の本(天文学データ)を比較参照できたということが大きな発見につながったわけである。遠くの修道院に行かなければ見られなかったものが見られるようになったことは、ある種のメディア革命・情報革命だった。それは本の劇的な増加をもたらし、情報爆発が起こった。

それにともなって、社会的な記録も秘伝とされたものが公開されるように、大きく変わっていく。社会の記憶のあり方もかわっていく。メディア史の観点から見れば、宗教革命は教会堂と印刷本との戦いという側面がある。ルターは印刷の力を知っていた人である。科学ではコペルニクスの発見がそうだった。こうしたメディアの力は、国民と国語の形成にも関係している。

マルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)

マルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)

20世紀末から21世紀初頭つまり現代において再び情報爆発が起こっている。16世紀のものは、送り手と受け手が一対多の関係になっている。この意味では以後はマスメディアの発達過程だった。文化の大量生産・大量消費という構図だった。しかしネット社会のインフラはこれとは違う。すべての人が送信者になる。印刷の力ではなく、デジタルの力による情報革命。情報爆発が起こっている。

乱暴な言い方だが、16世紀と21世紀は似ている。今、新たなるグローバル化と情報爆発に直面している。右肩あがりの近代の入口と出口にあたるのではないか。21世紀はどういう方向に向かうのか。グローバルな知識循環型社会に向かっていくのではないかというのが私の予想。このとき、デジタルアーカイブの活用から価値を創造していくことがきわめて重要になってくる。

大衆消費から知識循環へと時代は変化している。大衆消費社会は近代の行き着く先だったが、その次のフェイズはどうなるか、実は難しい。大衆消費の時代であれば、とにかく情報を大量に生産し、消費していけばよかったが、この後は質の問題に変わってくるのではないか。そのときには、リサイクル(アップサイクルと呼ぶべきか。)による価値創造が大事になってくるのではないか。知識・情報のリサイクルは、現在技術的に可能になってきている。マスコミ型からネット・アーカイブ型知識社会へという構想では、MALUI連携によるデジタル文化資源の活用が大事になってくる。

非西洋圏で、日本はかなり長い間、近代と戦ってきた。そうした近代との格闘のなかで翻訳しながら創造していくということが、培われてきたのであるが、それを維持するための仕組みがまだないのが課題である。東日本大震災では、大量の文化財が消失したが、足下の文化資源を見つめ直さなえればならない。

ここで、「図書館・フィールド」などの資料のある知識基盤/「授業・研究指導」などの教室・教育の空間/論文を発表し社会に還元していく場、という三つを頂点とする、研究/価値創造のトライアングルを考えてみる。教室でディスカッションをするのは、対話的なネットワーキングで、いっぽうにアーカイブ、リサイクルの機能がある形になっている。

すでにネットワークはどんどん活発になっている。TwitterFacebook、あるいはLINEなどSNSを通して様々な情報がやり取りされる。しかしこれには蓄積がない。これを仮に「集合知」とすると、他方でアーカイブ化された「記録知」というものを考えることができる。この両者をどのようにして、デジタル化によって繋いでいくか。この仕組みが知識基盤として、とても重要なのである。



2 エンサイクロペディアと集合知

時間がないのでちょっと飛ばすが、ここで強調したいのは、知識はエレメント(断片)ではないということ。連関した構造を持っており、その全体が知識である。知識と知識との関係は、過去との対話を含んでいる点に注意してほしい。京大人文研の桑原武夫氏らのチームが研究されていたが、フランスの「百科全書」のなかでもっとも重要なことは、大量の執筆者がいて、そのなかの半数以上が実行派だったとされている。

知識を作っていくということはネットワーキングの運動であった。「エンサイクロ(en-cyclo)」とは「円環を為す」ということだろう。その意味で、明治の哲学者・西周が「百学連環」として西洋の学問を紹介したのは、じつに正しい訳語だった。ちょっと余談になるが、日本の百科事典の歴史のなかで面白いのは、百科事典を作った出版社の多くが倒産すること*2。出版社は、それでも作る。何故か。知識のネットワークの運動になってしまって途中でやめられないからなのではないか。エンサイクロペディアの訳に近いと私が考えるのは、実は「研究会」のつながりである。明治文化「研究会」、唯物論「研究会」、思想の科学「研究会」などなど・・・。



3 アーカイブと記録知

3・11以降生み出された震災記録が膨大にある。しかし現在、それを統合していくシステムがない。記録を活かしていく道はいろいろあるはずだ。それを集積していくことは私たちの使命でもあろう。3・11で私たちが学んだことの一つに、今までのアーカイブ施設では収容仕切れない、どこにも属さない情報記録が、文化資源として、私たちの社会にはあふれつつあるということがある。新たな情報爆発で生まれる新たな情報記録を集める必要があるのだ。図書館が図書を、博物館が博物資料を集めていればいい時代ではなくなった。

二つほど例をあげる。例えば放送脚本。伝説的な名番組など、すべてに脚本があったのだが、いま、脚本の大半は失われてしまった。なぜか。脚本は、図書じゃなかったからである*3。脚本は百数部印刷されたら、役者さんに渡されて終わってしまう。だが脚本は文化資産の設計図にあたる。国立国会図書館が収集を少しずつ始めたところだが、デジタル技術ならその保存はできる。

もう一つは、岩波映画などの記録映画。有名な劇映画は残るが、記録映像は失われてしまう。誰もそこに経済的な価値を見いださないからである。しかし戦後の世界の歴史は、誰もが気付くように、文字以上に映像で描かれてきた。したがって私たちが20世紀の歴史を学んでいくためには映像が不可欠になってくるはずである。

岩波映画の1億フレーム (記録映画アーカイブ)

岩波映画の1億フレーム (記録映画アーカイブ)



4 知識循環型社会の価値創造基盤

文化資源を大量に生産し流通させていく社会から、保存活用を考えていく循環型の社会に移行しつつある。従来の施設のままでは、新しい要請に対応できないだろう。そのために必要なのは、まず実態を把握し、総合的に共有し、権利処理を効率化し、アーカイブを標準化し、公共的資源として横断的に活用していく。こうした循環的な活用の道を考えていかねばならない。

その際に重要なのはメタデータの標準化、さらにオーファン資料*4の処理が難しい。それを公共的に活用していく仕組み、さらに人的な仕組み。デジタルキュレーター、デジタル技術をベースにした活用をしていける人を専門職として雇用していくことが大事である。博士課程の人材がだぶついてしまっている。一生懸命研究して論文を書いたのに就職が見つからない。とくに文系でこの問題は顕著である*5

以上の問題を踏まえて、これからは、ナショナル・デジタル・アーカイブの設置に向けて取り組んでいかないといけない。その拠点は、具体的に京都・東京、それから東日本大震災以後の情報を集める場所として、仙台にもそうした施設が作られるべきではないかと考えている。2020年の東京オリンピックの開催が決まっているが、オリンピックはスポーツの祭典であると同時に、ロンドン五輪以降、文化の祭典になってきている。そのときに京都の総合資料館も一つの情報発信の拠点になっていけばいいなあと考えている。その期待を最後に述べて、今日の話のしめくくりとしたい。


2013.11.19 一部修正しました。

(後篇に続く)

*1:この点は、西川長夫さんの議論をふまえておられるように思われた。

*2三省堂などのことであろう。

*3:お話のメインは、吉見先生も関わっている放送脚本のアーカイブと思われるので、少し論点がずれそうだが、「脚本が図書じゃなかった」点について、気になったのでちょっとだけ付け加えておくと、京都府立図書館には映画関係資料があり、そのなかに昭和30年代の映画脚本(シナリオ)が所蔵されていたと思う。太秦映画撮影所などがあるからと聞いたような気がする(違っていたらすみません)。

*4:持ち主がわからない資料。いわゆる孤児著作物

*5:この点に関連して、吉見氏が、文系の大学院生の就職先として司書・アーキビスト学芸員を例に挙げて、人文系学問が「役立つ」ことを社会に示すことの意義を強調していることは注目される。吉見俊哉「大学院教育の未来形はどこにあるのか」『中央公論』2011年2月号所収。個人的には、近年話題の若手研究者問題を考える上で、議論の前提になるような必読の記事だと思う。