私のささやかな「人文学」

 ところで「人文学」というのは結局何なのだろうか――と、この半年くらい(正確にはもうちょっと長い間)考えている。

「人文学」という言葉の由来については、私自身、過去に気になって語誌を辿ってみたことがあるのだが、1920年代には「人文学」は「地文学」に対応する言葉…学問領域でいうと、今でいう「人文地理学」とほぼ同義で用いられていたらしい。

 「人文」については、「文化」という訳語が成立する前の単語という見方もできる。大正時代に「文化」という単語がはやったというのは割と色んな本に書いてある事柄だが、「文化」に相当する語として、明治から「人文」が使われていた。

 西周が書き、山本覚馬が発行した『百一新論』には、「人文ノマダ十分ニ開ケナイ間ニハ法トモ教トモ就カヌ交セ混セナ事デモ甘ク治マル者デゴザルガ」(『百一新論』十六丁裏。近デジ)という一節があるが、これなどはむしろ「文明」の意味っぽい。ちなみに、『百一新論』は”Philosophy”を「哲学」と訳した最初の文献であると言われている。

 また、高山樗牛の全集に姉崎正治が付けた解説にこんなのもある。

所謂るKulturについては、ドイツでも後に出た様な理くつつぽい概念はなく、日本では訳語もなく、自然に対する人事、人文といふ意味で、我々は人文と呼んでゐた。それで樗牛の此書も、初めは世界人文史と名づけやうと話しをしてゐたが、出版社の考へとして、それでは世間に通じないとの事で、文明史とした位である。(文化といふ訳語はそれから十年ばかり後に出たと思ふ)*1



ちなみに、この単語については、姉崎が相当気に入っていたのか、彼が組織した高山樗牛顕彰会・樗牛会の会誌名も『人文』である。


それにしても人文学は、その範囲もややこしいし、名称も問題がある。

人文学と制度

人文学と制度

 

英語でHumanities:ヒューマニティーズといっている「人文学」は、ドイツ語では「精神科学」というらしい。またフランスでは、「人文学」に対応する語句として「人文科学」があり、構造主義の思想運動を経て人口に膾炙するに至ったとされている。ミシェル・フーコーの『言葉と物』は「人文科学の考古学」という副題を持ち、この語の意味が20世紀以降拡大し、言語学や人類学、精神分析の分野とともに「人間についての学問」を指し示すようになったと指摘されている。ただし、これは漠然とした総称としての「人文学」と異なり、明確に「科学」を志向した語として位置づけられ、英語のヒューマニティーズから直接に読みとることのできないものとされている*2

追記】この記事を書いた後、複数の方から、京大人文科学研究所は戦前(1939年)からあるんじゃないの?というご指摘をいただきました。ありがとうございます。そしていい加減な書き方でごめんなさい。

 私もフーコーのはるか前から、大学の学科に「人文学部」はあったような…?くらいの認識でいましたが、京大の場合「人文科学」とハッキリいっていますし、その目的についても、「国家ニ須要ナル東亜ニ関スル人文科学ノ綜合研究」を掌る機関として勅令で定められているので、「人文科学」の語自体は昔からあるようですね。ただこの場合、何の訳語として想定されていたのか、盛られた意味が重要なんだろうと思います。フーコーと同じ意味というのは無理だと思いますし、だとすればどう違ったのか。ちょっとわかりません。今回は起源の特定が目的ではないのですが、それにしてももう少し概念の調査をちゃんとやりたいと思います。【以上2013/9/1追記

 

言葉と物―人文科学の考古学

言葉と物―人文科学の考古学

 また鈴木貞美氏が日本の「文学」概念の編成について記述する際、「人文学」のあり方についても触れているが、結構重要と思われるのは、「宗教」を日本では「人文学」の中に取り込んでいるという指摘ではないだろうか*3

「日本文学」の成立

「日本文学」の成立

 宗教が哲学や思想のテクストと同列に論じられることに、違和感はあまり感じない。Wikipediaデジタル・ヒューマニティーズの項目(こんな項目があることを今回知った)のなかでは、宗教は普通に対象になっているようである。

 

 図書館の分類ではどうか。

 例えばデューイ十進分類では哲学・心理学と宗教が100番台、200番台にキッチリ分けられたことは一つの時代の思考を反映しているし、そのときにまさかデジタル神学という単語は使わないと思うので、人文学がいわゆる神学の領域といかに対話できるのかは、実は問われているともいえるかもしれない。ただし、アメリカ議会図書館(LC)の分類だと、哲学・心理学・宗教は全て同一の分類が使われている。


 こうした、概念の混乱を踏まえた上で、「人文学」の定義ににかなり明確な答えを与えてくれるのは、実はエドワード・サイードの議論(『人文学と批評の使命』掲載の議論)は比較的受け入れられているように思った。

 サイードはこういう風に「人文学」とアーカイブとの関係から規定したりもしている。


人文学の営みと達成は、つねに個人の努力となんらかの独創性をもとにしているからだ。とはいえ、作家や音楽家や画家が、白紙状態から作品に取り組むかのようなふりをするのは愚かだろう。この世界はすでに、過去の作家や芸術家の作品だけでなく、今日個々人の意識を取り囲み押し寄せる情報や言説、サイバースペース、そしてあらゆる面から五感を襲撃するデータが集まった巨大なアーカイヴなどによって、重苦しくも大量の書き込みがなされているからだ*4

 そのうえで、次のようにも言う。

 現代の人文学者は、二つの決定的な動き――受容と抵抗と呼びたい――のなかで読むことに関わっているのだと論じよう。受容とは、見識をもってテクストに自らを委ね、それらをまずは暫定的にそれぞれ独立したものとして扱うこと(というのも、最初はこのようにテクストに出くわすのだから)である。それから、はっきりせず目に見えないことが多いテクストの存在の枠組みを、拡大し解明することによって、そのテクストが生み出された歴史状況や、特定の態度や感情やレトリックの構造が、なんらかの潮流、そのテクストの文脈を作っている歴史的・社会的公式とどう絡みあっているかという問題へ、移っていくことなのである*5

 なお、「受容」に対する「抵抗」では、サイードはテクストの読解に「批評」を対置させている。両方がセットになって、人文学が成立するという立場だ。

 このサイードの記述の見出しには「文献学への回帰」と振られている。「文献学」は、同書解説などによると、サイードの理論からの後退だとか保守化とか散々に言われることもあるのだそうだが、<過去に生み出され今なお産出され続けている「テクスト」をどうやったらもっと深く意義深く読めるか>をひたすら考えていく学として「人文学」を考えているように見え、哲学、文学、歴史学を包括する人文学の定義として、私自身の実感にはかなりしっくりくるものがある。

 テレビドラマに散りばめられた元ネタ探しに躍起になるように、持っている知識を総動員してテクストにあたること…は、やはり「読む」ことの、一つの洗練された形なのだと思う。

これが現時点での、という留保つきだけれど私にとっての人文学理解だ。前回の記事で触れた「デジタル人文学」は、だから、地図アプリケーションの開発にせよ本文批評にせよ、どれだけテクストの理解を深化させるかが、鍵なのではないか。

文学テクスト入門 (ちくま学芸文庫)

文学テクスト入門 (ちくま学芸文庫)

 ちなみに、この「テクスト」は、前田愛か誰かをを読んでいて偶々知ったのだが、元来「テクスチャ」すなわち「織物」に通じるのだそうである。

クリオの顔―歴史随想集 (岩波文庫)

クリオの顔―歴史随想集 (岩波文庫)

 すこし連想をたくましくすると、この「織物」の比喩は、例えばハーバート・ノーマンのいう「歴史」の定義そのものにつながっていく。

巨匠たちの歴史作品に見られるように、歴史は決して一直線でも、単純な因果の方程式でも、正の邪に対する勝利でも、暗から光への必然の進歩でもなかった。 それよりも歴史は、すべての糸があらゆる他の糸と何かの意味で結びついているつぎ目のない織物に似ている。ちょっと触れただけで、この繊細に織られた網目をうっかり破ってしまうかもしれないという恐れがあるからこそ、真の歴史家は仕事にかかろうとする際にいたく心をなやますのである*6

 ノーマンのことを思い出したのは、その精神を継ごうとする(?)ジョン・ダワーの『記憶のしかた、忘却のしかた』に入っていたノーマン論を読んでいたからだが、ダワーがノーマン以降の「歴史のもちいかた」を考察しつつ、たとえば本の序文で「私は歴史家の仕事と著作のおもな目的が、自国の誇りを涵養することであるとは信じていないが、歴史家の主要な責務が、たんに啓蒙し、人間の経験における暗愚の数章から学ぶことだとも思っていない*7」と言っているのが印象に残った。

 先日、「デジタル人文学」についての本を読んで、感想を書きながら、そもそも「人文学」って何だと人に聞かれたときに、自分なら何と答えるだろうか、とずっと考えていた。いまだに答えはでないけれど、少し考えを整理するためのメモである。雑な話になってしまったが、ご容赦いただきたい。

*1姉崎正治「序言」『改訂注釈樗牛全集』第5巻(博文館)序言4頁。本文はこちら

*2:宮崎裕助「ヒューマニズムなきヒューマニティーズ」西山雄二編『人文学と制度』(未来社、2013)所収、44頁。【補記】この部分についても、引用箇所の要約が不正確ではないかとのご指摘を受けたため、原文を再度確認し、再修正しました。感謝します。

*3鈴木貞美『「日本文学」の成立』(作品社、2009)77頁

*4エドワード・W・サイード著、村山敏勝、三宅敦子訳『人文学と批評の使命:デモクラシーのために』(岩波書店、2006)52~53頁

*5エドワード・W・サイード著、村山敏勝、三宅敦子訳『人文学と批評の使命 :デモクラシーのために』(岩波書店、2006)76~77頁

*6:E.H.ノーマン、大窪 愿二訳『クリオの顔』(岩波文庫、1986)13頁

*7:ジョン・W・ダワー、外岡秀俊訳『忘却のしかた、記憶のしかた』(岩波書店、2013)x頁。