柳与志夫『文化情報資源と図書館経営』読書メモ

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日ごろお世話になっている柳さんから、以前お送りした本のお返しにということで、なんといただいてしまった、既発表論文集。

ご本人にお礼と感想をお伝えたものの、広く図書館関係者の関心が集まるとよいと思って、こちらにも読書メモを掲げておきたい。

本書の構成

田村俊作先生による序文では「図書館経営と文化情報資源政策に関するわが国初めての理論的な論集*1」とまで書かれている。

目次と、初出論文の発表年を※印で掲げておくならば、次のようになる。

  • 第1部 図書館経営論の思想的基盤
    • 第1章 図書館の自由―その根拠を求めて(共著) ※1985.6
    • 第2章 知の変化と図書館情報学の課題 ※1995.6
    • 第3章 公共図書館の経営―知識世界の公共性を試す ※2008.11
  • 第2部 図書館経営のガバナンス
    • 第4章 有料?無料?―図書館の将来と費用負担(共著) ※1983.12
    • 第5章 公共図書館の経営形態―その課題と選択の可能性(共著) ※1987.7
    • 第6章 都市経営の思想と図書館経営の革新 ※1988.3
    • 第7章 社会教育施設への指定管理者制度導入に関わる問題点と今後の課題―図書館および博物館を事例として ※2012.2
  • 第3部 図書館経営を支える機能
  • 第4部 新たな政策論への展開
    • 第13章 公共図書館経営の諸問題 ※2008.9
    • 第14章 図書館経営論から文化情報資源政策論へ ※書き下ろし

 著者略歴にもある通り、柳さんの就職した年が1979年だそうなので、そうすると図書館に就職して10年以内に書かれた理論的論考が多いことに、まず、結構焦る。

 図書館経営論に興味がある人は第2部の総論と第3部の各論が、アーカイブなど最近の動向に関心がある人は第4部が面白いのだと思うが、私は第1部をとくに面白く読んだ。

 読み終えて色々思ったことはあるのだが、とくに印象に残ったのは第一に、例えば第2章「知の変化と図書館情報学の課題」で論じられるように、体系的な「知識」が解体され意味連関を断ち切られた「情報」となり、消費物として消費者にのみこまれてゆくという前提(p.16)の下で、「図書館とは、歴史的にまさにこのような知識共有の場であろうとしたのであり、そこでは言葉(logos)だけでなく、場(topos)が重要な位置を占めている」(p.35)というように、場(topos)としての図書館に注目を促していた点である。

 「場としての図書館」をめぐる議論は、バーゾール『電子図書館の神話』以降の、電子図書館が実現していくなかでの図書館はどうなるのか?という問いが底流にあるといえるけれども*2、これは近年では、アントネラ・アンニョリさんの『知の広場』(みすず書房)解説にまでつながる。柳さんの一つの確固とした立場なのだろうと思った。

 第二には、「情報」化と関連して、柳さんの前著『知識の経営と図書館』でも展開されていた、ハイパーテクストをめぐる議論である。

知識の経営と図書館 (図書館の現場8)

知識の経営と図書館 (図書館の現場8)

 著者者人格権が近代特有の問題であるとした上で、ハイパーテクスト・マルチメディアの出現がもたらすものは、次のような事態である。すなわち他のテクストへのリンク、可変性、共同執筆が通例化する。そのことによって「テクストと著者それぞれのオリジナリティの意義が揺らいでくる」(p.37)のである。この視点は、図書館に就職してから改めて考えたときに結構感動し、以後図書館における近代を私なりに考えていく際の一つの手掛かりになっている。

 第三は、第1部のテーマそのものでもあるが、「公共性」への柳さんの強いこだわりだった。千代田図書館長の出向経験も踏まえて(『千代田図書館とは何か』も参照)、柳さんは「公共」の人なのだ。何を当たり前のことを言っているのだと言われそうなのだが、そのことを強く思った。

千代田図書館とは何か─新しい公共空間の形成

千代田図書館とは何か─新しい公共空間の形成

 「公共」をめぐる議論をいくつか抜き出してみるとこんな感じになる。

  • 「「公共性」が証明されない限り、無料原則は公共図書館およびその利用者にとって「伝統的な自明の理」ではなく、「既得権益」にとどまるであろう」(p.71)
  • 「すべての人間が学ぶ機会を与えられるべきであること、そして学ぶ人間が言葉を通じて「知の世界」を共有しうる可能性があること、これらは図書館のよって立つ最後の基盤であり、歴史を通じて守ってきた価値だと主張してもよいのではないだろうか」(p.77)
  • 「人々が同等な立場に立って参加し、活動する開かれた「公共領域」としての「公」という観念は、定着する余地がなかった」(p.87)

 このあたりに「公立」図書館と「公共」図書館を峻別すべきである(p.87)という主張をずっと展開してきた柳さんの問題意識の淵源を知り得たように思ったのだった。ちなみに、ここで柳さんが批判的に念頭に置いているのは、おそらく森耕一氏がユネスコのPublic Library Manifesto(公共図書館宣言。1949作成、1972、1994に改訂*3)に依拠しながら「公開、公費負担、無料制」の三要件を満たす図書館を「近代」の「公立図書館」とする定義だろうと思われた*4逆に森氏は公費の補助を受けるという点では国立も大学もパブリックライブラリーだという広い定義をし、それを「公共図書館」と訳して「公立図書館」と区別している。そう考えると、公立/公共の峻別という点では両者の前提は共有されているが、森氏はその上で「公立」に重きを置き、逆に柳さんは「公共」に重きを置いているという構図になろう*5

近代図書館の歩み (至誠堂選書 17)

近代図書館の歩み (至誠堂選書 17)

「公共」の図書館を考える

 

 これらの大部分が80年代から90年代にかけて書かれているのだが、今回通読して改めて思ったのは、アレントの公共領域に関する議論が、公共図書館を語る際にかなり参照されていることだった。岩波書店の思考のフロンティアで『公共性』が出たのは2000年代のことで、もちろん、本書のなかでもロールズなどもちょっとだけ触れられているものの(p.97)、なによりもアクセスの保証を第一義に捉えているようにみえる本書の「公共」概念が、ちょうど『人間の条件』における次のような「現われ」の考え方に通じるようにみえる。あるいは、公共図書館にとって譲れない一線は、誰でもアクセスできるという点に求められるのかもしれない。

「公に現われるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示されているということを意味する。私たちにとっては、現われ(アピアランス)がリアリティを形成する。この現われというのは、他人によっても私たちによっても、見られ、聞かれるなにものかである。…私たちが見るものを、やはり同じように見、私たちが聞くものを、やはり同じように聞く他人が存在するおかげで、私たちは世界と私たち自身のリアリティを確信することができるのである*6

公共性 (思考のフロンティア)

公共性 (思考のフロンティア)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 ただ、研究が盛んなアレント解釈について、本書の「公共」概念が今後どこまで通用し、どう受容されていくのかも少しだけ気になった。

 例えば、最近、谷口功一『ショッピングモールの法哲学』を読んで考えたことの一つに、共同性と公共性の峻別という問題がある*7。税金を投入されて運営されている公共図書館がミッションとして「コミュニティづくり」を掲げている場合、それはどんな風に止揚されるべきなのか。むろん、柳さんが分析哲学を大学で専攻していたとはいえ、哲学に関する学術論文をずっと書き続けてきたわけではないし、結局、実務と学理との対話の問題になるのだが、思想史の分野で議論され続けている「公共性」論と、図書館情報学は、もっと対話しなくてもよいだろうか。

マーケティング論と図書館

 本書のなかで重要な論文だなと思ったのは第8章だった。

 マーケティング論の古典と言われ、「製品志向」でない「顧客志向」を打ち出したT.レヴィットの議論を参照しながら*8、本書では、図書館のベネフィットとして、パッケージされた本の貸出でなく、知識・情報の提供こそをサービスの本質とみなす立場を打ち出してくる。これは、他の図書館経営の総論・各論に作用していて、図書館の本務は依然として紙資料だとか、いいやこれからは電子情報だとかいう議論と一線を画す視点が示されているといえる。つまるところこれが柳流図書館「経営」論のすべての前提になっているので、ここを外すと、本書全体の主張を見誤ることになるだろう。

 たんに情報環境が変化したから、ICT技術が普及したから、図書館のサービスの中核が、資料から情報へと変わったのではないのだ。PRはお知らせでなくPublic Relationなんだという意味を強調している第3部の各論も、そういう視点から読まれる必要がある。

 田村先生の序文でも「経営に論理を持ち込もうとする」柳さんの姿勢が言及されているが、図書館と経営論をきちんと接合させる試みがどれほど行われてきたかは、改めてちゃんと考えられる必要があるし、本書が古くなっていないのだとしたら、そのこと自体の問題が反省されなければならないはずだ。私は、柳さんの影響で、爆発的に流行る直前にドラッカーとかを読んだ記憶があるが、あるいはそれは幸福なことだったのかもしれない。普通に生活をし、仕事をしている限り、経営論から学ぶものが何にもないというのは、私にはにわかに信じられない。図書館と経営論は馴染まないという反論もおかしいように思われ、図書館に限らず、大学での文科系の教養カリキュラムと経営論の問題も取り沙汰される昨今、私などは一層その感を深くする。

 その意味で、第14章で論じられる、以下の図書館情報学への警鐘は改めて噛みしめていく必要があろう。

「日本の図書館と図書館情報学は停滞の中にある、というのが私の認識だ。しかもそれはそこにそのまま留まっているのではなく、新鮮な空気や水の流れにさらされないまま、少しずつ腐食しはじめている。私が危機感を持つのは、しかし停滞していることにあるのではない。上は国家から家族まで、あらゆる組織には発展期もあれば停滞期もある。学問分野も同じだろう。したがって、停滞そのものが悪いわけではない。問題は、停滞が長引くことによって、劣化が始まること、そして何よりも、今停滞している、限界にきていることの自覚が関係者の多くに共有されていないことにある。図書館という居心地のいい部屋にいたまま、電子書籍デジタルアーカイブ、MLA連携など、外からの風は北から南からあらゆる方向から吹いているにもかかわらず、窓の外を閉め切った生暖かい空気の中でまどろんでいるような感じだ。しかし部屋全体は、すでに具材が朽ち始めているのではないだろうか」(p.347)

むしろこの、何かちょっとひっかかる表現のなかに、20年、いや30年来言葉にしてきたことが通じてこなかったことへの著者のいら立ちを読むのは、穿ちすぎであろうか。

 その他、雑駁な感想になってしまうが、図書館情報学の学会誌に掲載されるもののうちに歴史の論文が増え、「新しい知見や分野を開拓するよりも、過去を振り返ることに関心があるよな印象をぬぐえない」という疑義が呈されることについては(p.358)、「経営に論理を持ち込もうとする柳さんが、因習を思い起こさせる歴史に興味を示さないにも、いかにも柳さんらしい」(p.iii)という田村先生の序文と相まって、反発する向き出てきそうなのだが、本書ではむしろ「歴史を通じて」というレトリックが随所でされているわけで、その逆説的な書きぶりは額面通りには受け取ってはいけないのだろうなと私は読んだ。

 むしろ、本書で述べられていることを踏まえていうならば、そもそも図書館史の論文が「製品志向」に留まっていて「顧客志向」に全くなっていないこと、否、「製品志向」があればまだいい方で、大きな展望もなく、ただ見つけた素材に手持ちの理論を反映させて喜んでいるだけ、というのが問題なのだろう。図書館が何を提供して来たかでなく、利用者が何を求めてきたのかの歴史を組み込んだうえでのみ、図書館史は書かれる意味があるものと思う。私自身は、その試みをこれからも学問史や思想史の次元で追求したいと考えるが、それはまた別の話だ。

 あとがきを読んで、柳さんが実践してきた図書館内で勉強会・研究会を自ら作っていくことについても、色々と考えた。その集大成が、いま柳さんたちが精力的にやっている文化情報資源政策研究会や、『アーカイブ立国宣言』の編纂なのだといえようが、ごく個人的には、図書館で勉強して、図書館について書くことの「意味」の可能性と限界――図書館だからできることと、あるいはできないことの両方のあれこれを、本書の巻末に付された柳さんの業績も見ながら考えた。そこのところは、引き続きじっくり一人で考えてみたい。

*1:田村俊作「刊行によせて」本書p.iii。

*2:根本彰「CA1580 - 動向レビュー:「場所としての図書館」をめぐる議論」『カレントアウェアネス』286号(2005.12)も参照。

*3日本図書館協会HPに掲載されている最新版1994年版の訳はこちら

*4:森耕一『近代図書館の歩み』(1986、至誠堂)pp.98-101。

*5:この点、柳与志夫「「ユネスコ公共図書館宣言」改訂へ」『カレント・アウェアネス』177号(1994.5)参照。

*6:ハンナ・アレント、志水速雄訳『人間の条件』(1994、ちくま学芸文庫)pp.75-76。初版は1973年、中央公論社刊。

*7:これについては、元々『国家学会雑誌』に掲載された論文「「公共性」概念の哲学的基礎」が参考になる。谷口功一『ショッピングモールの法哲学』(2015、白水社)参照。

*8:例えば、自動車や航空機によって鉄道が衰退したのは、人や物を目的地に運ぶことではなく、車両を動かすことをサービスの本質と定義したからだと批判し、顧客は商品そのものではなく商品がもたらす価値を購入しているという考え方を広めた。