オンライン授業でちょっと困った話―ゼミ編

前回の続きです。前回の記事はこちら。

negadaikon.hatenablog.com

 ブログ講義の一方で、あんまりうまくいかなかった気がするゼミの記録です。同時双方向型でテレビ会議を使って実施しました。

 どの辺を改善していくべきか、まとめてみたいと思います。

 

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かわすみさんによる写真ACからの写真

進め方の概要

 ゼミでは文献要約の発表を、担当者を決めて順番に行ってもらいました。基本は各回の1人発表→質疑応答→まとめ という流れです。

 ゼミの連絡はSlackを使用していました。

 資料(レジュメ)の共有はSlackで事前に送付してもらい、また画面共有は教員の手元で行なうか、発表者に操作してもらったんですが、そもそもWordの縦長のドキュメント自体が見づらいようでした。PowerPointスライドならいいのかもしれませんが、日本史の研究発表でPowerPointを使ったことがないので、私もどう作ればよいかうまく指導できませんでした。

 

  また、同時双方向の授業で、強制的にカメラをオンにしろということに私の中でどうしても心理的な抵抗感がありました。顔出したくないっていう学生もいましたし(画面の向こうでおやつ食べたりさぼってると困るんですが)。

 最低限のルールで、「発言者だけは顔表示をオンにするように」としたのですが、どんな顔でみんなが聞いているか見えないなかで、議論を活発化させることは、残念ながらできませんでした(家のネット環境が悪すぎて、コンビニのイートイン席で飛んでいるWi-fiをつかまえに行った話も本当にあったと聞いています。)

 うまくやっている方がどういう形で学生との信頼関係を構築しているか、私も知りたいです。

 

図書館が使えないなかで

 毎年前期は先行研究の文献要約をやることを課題としているのですが、勢い大学の図書館が使えなくなると、みんなネット情報だけでなんとかまとめようとします。当初、まあそれはしょうがないかなと思っていたのですが、そこで見えてきた、ちょっと大きめな問題点として、以下のことに気が付きました。

 

 もちろん、一概には言えないと思うのですが、ネットの無料情報だけで議論を構築した学生の発表は、共通してどうも議論の水準が古いということが気になったのでした。

 古いというのは、自分が大学に入ってから勉強したこと。90年代後半から2000年代以降に話題になったテーマが全然見えてこないというような意味であります。それ、最近研究あるんじゃないの?みたいなことです。 

 

 私はゼミの初回や第二回めなどで、テキストの要約なので、出てきてわからない単語は調べるようにということは話しておきました。また、無料のコトバンクの辞書の利用についても一通り教えています。

 あとはこのページを紹介したりとか。

negadaikon.jp

 

  今回、テキストに指定して読んだ本は岩波の『日本の近現代史をどう見るか』でした。たまたま1990年代以降の歴史学界で盛んに議論された国民国家論、総力戦体制論を総括するような日本近現代史の入門書だったというのが大きいかもしれませんが、例えば総力戦体制論という単語が出てくると、レジュメにはコトバンクで『世界大百科事典』の「総力戦」の項目の説明が引用されている。でもそれは総力戦の説明であって、総力戦体制論の説明ではないわけです。国民国家論についても似たようなリアクションでした。

 ジャパンナレッジですら「国民国家論」の検索結果はありませんって出ますからね。

 

 ということは、1990年代以降の学界で議論されてきたことがざっくり抜けていることになり、30年分の研究蓄積が全然反映された議論になってこない、ということになります。

  この本に書いている成田龍一氏の区分に従うとすれば、「戦後歴史学―民衆史―現代歴史学」の三区分のうちの、現代歴史学の部分の評価がそのまま消えている、ということでしょう。 学生は学生で、制約のなかで頑張ってくれたとは思っているのですが、そのことを話したうえで、以下の本も読んでほしいと伝えました。 

 

 私自身、これは気づいたときちょっと衝撃で、「いや、ネットで調べてるんだから新しい情報は手に入っているだろう」とぼんやり思っていたので、ちょっとぶん殴られたような気持ちになりました。文献と文献、学説と学説、何が新しくて何が古いのか、ネットの検索結果だと情報の関連性だけでフラットに表示されてしまいます。全部比較する努力を学生がしてくれればいいですが、急いでいたら、時間がなかったら、とりあえず上のほうにあるやつで済ませるでしょう。

 もちろん、それだと困るわけです。研究史の場合、関連性じゃなく、時系列でマッピングする能力が、情報を読む側にあらかじめそこそこ備わっていないと、学問的に有意義な議論を組み立てることが、ほとんどできなくなってしまいます。

 

 これは、私が学生だったころは、図書館のOPACもカタかったし、だいたいタイトル順か時系列順に並び替えて表示させるくらいしかできなかったので気にならなかったのですが、むしろデータがリッチになればなるほど、コツとして知ってないと情報に振り回されてしまう。私のときより今の学生のほうがたぶん大変なんです。 

  

 だからどういうサポートが有効かを考えるしかないのですが、適宜参考図書を教員側が適宜シェアしていくしかないんでしょうか。

  例えばこれとか

戦後歴史学用語辞典

戦後歴史学用語辞典

  • 発売日: 2012/07/09
  • メディア: 単行本
 

 

 これとか(自分も書いているのでなんですが、大変有益です)。 

日本思想史事典

日本思想史事典

  • 発売日: 2020/05/02
  • メディア: 単行本
 

  目次はこちら

https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/?book_no=303592

 

 

 なぜネット上では過去の学説が温存されるのか

 とっくに学界で否定された説が、なぜかネット上だと都合よく編集されたりしながら息を吹き返して使われていたりする例もあるんではないかと思いますが、何でこういうことが起こるのか、少し考えてみました。

 

日本史用語集 改訂版 A・B共用

日本史用語集 改訂版 A・B共用

  • 発売日: 2018/12/15
  • メディア: 単行本
 

  仮に、ネット上の研究水準が30年前だとすると、まず高校までの日本史教科書の内容と親和的なことが予想されます。だからごく普通に高校の日本史選択者に気づかれない。

 明治20年代の北村透谷や『文学界』グループ、30年代の与謝野晶子とかを、とりあえず一括りにして「ロマン主義」と評価して済ませる近代文学や思想史の研究者はもういないと思いますが、2014年に出た山川の『日本史用語集』だと全ての日本史Bの教科書に載っている重要語句になっている。新しい説はよほど決定的なのものでなければ評価として定まっておらず、教科書に入ってこない、というのがあると思います。

 

 無料の論文だってあるんだから、それを読めばどうにかなりそうなものではないかとはいえます。ただ研究史の流れが理解できていないとそれも難しいように思います。

 一応、私の担当授業のなかで、史学史の話もすることはあるのですが、勤務先は史学科ではないので、カリキュラム上、その授業を取らなくても私のゼミに参加することは可能です。その場合の専門性って何かということにはなるのですが…そもそもキーワードとして認識できていなければ論文を探すこともできないわけで、結果、総じて研究史全体への目配り発表が散見されました。

 

 こうなると発表者の報告後、私が史学史や研究動向についてまとめたり補足したりしているうちに時間が過ぎてしまい、学生同士が議論し合うのとは何かちょっと遠い雰囲気になってしまいました。

 むろん、授業を仕切る私の力量不足は否めないのですが、もうちょっと根深い背景として、ネット上の人文系の知識が新しくならないということがあるように思いました。

 

大学1年生の君が、はじめてレポートを書くまで。

大学1年生の君が、はじめてレポートを書くまで。

  • 作者:川崎昌平
  • 発売日: 2020/04/10
  • メディア: 単行本
 

  今年出た川崎昌平『大学1年生の君が、はじめてレポートを書くまで』(ミネルヴァ書房)という本のなかでは、インターネットでは今のことがよくわかる反面、弱点として「過去の言葉や思考」があまりカバーされていないという点があげられています(34ページ)。だから図書館で、過去から現代へ、どういう風に議論が発展してきたかを調べることが大事という話につながっていくのですが、いろんなサイトが立ち上げられるなかで、新しい情報なのか古い情報なのか、初見でわかりにくいというも問題もあるのではないかと思います。

 

 また、最近出た浜田久美子『日本史を学ぶための図書館活用術』(吉川弘文館)に、印象的な話があります。それは、2010年からジャパンナレッジで参照可能となった『国史大辞典』より、紙で出ている2009年刊行の『対外関係史辞典』のほうが、記述が新しいものがあるということです・もっとも『国史大辞典』の著者が故人となっている場合、国史チルドレンである『対外関係史辞典』でも、項目をそのまま継承して改訂されていないものがあることにも著者は注意を促していますが。辞書を引く側が、これはいつ頃の記述だろうかと、たえず意識する必要があるということだと思います。

 

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 コトバンク収録の辞典が改訂されているのかどうか、完全に把握できていませんが、『日本大百科全書』や、『世界大百科事典』が、CD-ROM版が出されたときのテキスト化したデータの流用ということであれば、更新されているものがあるとしても、1980年代か新しくても90年代の情報ということになるでしょう。参考文献で新しいものが増えているかどうか。この20年分の研究は、辞書だけだとわからないことになってしまう。もちろんコトバンクには、『知恵蔵』のほか、順次改訂が加えられているコンテンツも入っているようですが。歴史学上の概念などはどうして弱いように思えます。

 

 Wikipediaの記事の改定も含め、個々人で努力している研究者がいることはもちろん承知しておりますし、大学図書館なども努力して所属機関の紀要などを精力的に電子化していることも知っていますが、Wikipediaの項目でもコトバンクのみに依拠した項目がないわけではありません。

 最新の知識が辞書の形で売り物になっている以上(そして図書館で購入されたりする以上)、図書館も使わずにネットだけで仕入れられる知識はどうしても「型落ち」した古いものに寄ってしまうという現実は見据えないといけないように思えてきました。 

 情報はタダではない。情報を検索しているつもりが、いつのまにか検索させられている。ということに注意を促すのには、猪谷さんの本でも指摘がありましたね。

その情報はどこから? (ちくまプリマー新書)

その情報はどこから? (ちくまプリマー新書)

 

 

 

 そのことに気づいた日、学生向けにSlackに次のように書きました。

「今日改めて思ったことは、無料のネットの辞典は、便利なんだけど、下手をすると2,30年前の紙の辞書のデータをそのまま使っていて、更新されていないんですね。Wikipediaも、専門家が紙とネット両方を使って書いていればいいけれど、ネットだけで調べて情報を更新していると、むしろ研究史では批判されつつある30年前くらいの学説が温存されてしまう。発表も同じですね。図書館が使えない中でどうやって準備するのがいいのか、難しいなと思いました。本も買ってほしいけど…(中略)ネットで調べた後、その根拠は何か、何年ごろの議論なのかを確認する癖は付けたいですね。」 

 

 

 我々がネット上で色々な資源が検索できるように努力すべきなのはその通りだとして、しかしながら今の大学生の在学中に劇的に改善するということはないと思われます。また、すべてネットで調べられるときに、どのくらい学生の調べることへのモチベーションは高まるのか。図書館が閉まっているなかで考えると、何が正解かよくわからなくなってきたところがあります。Twitterにも書いたのですが、今の偽らざる心境です。

 

 どうするか?

 一人ひとり指名して全員にコメントを求めるということもできたかなと反省しています。毎回、発言してくれる学生がいて、それはそれで助かったのですが、特定の人に偏りがちではありました。

 ネット上の著作権を気にしなくていいということなら、自分の過去の論文を順番に批判的に読んでもらうということをするということはできたかもしれません。まあその場合、学生の知識の範囲に偏りが出てしまい、また違う意味で困る可能性があるのですが。

 あとは共通の資料を全員に予習してきてもらい、教員側で資料を画面共有して、学生を順番に指名して正しく読めるか読み上げてもらい、その解釈を問うとか、そういった使い方ならもう少しどうにかなったかもしれないなと思いました。

 そのほか、とにかく学生に新書など一般向けの研究成果の新しいところを少しでも多く読んでもらうようにすることでしょうか。

 

 非常に悩んでおります。