文化と社会のパラドクスについて――明治時代の「美術」問題から

 芸術は誰のものなのか。みんなのものなのか、あるいは見る人が見て分かれば良いものなのか。マルクス主義なら使用価値に対する交換価値としてこれを論じるだろうし、文化人類学なら生存財に対する威信財としてこれを論じるだろう。そのパラドックスは、私が愛してやまない『ギャラリーフェイク』第一話のモネのつみわらの話に集約的に表現されている。

ギャラリーフェイク(1) (ビッグコミックス)

ギャラリーフェイク(1) (ビッグコミックス)

 何故急にこんなことを考えついたのかというと、最近、芸術は社会に役立つべきか、とか、あるいはモラルに著しく反する芸術は許容されるべきか、とかいう話題を立て続けに見たからである*1

 ここで時事的な問題をあれこれ批評する趣味は全くないし、当事者の人たちがしかるべく対応されているので、何にもできない私が介入して付け加えるべきことはないのだが、ただ一つ、こういう問題設定による議論が立て続けに起こり、反復されるということが、今現在の時点で、それなりの説得力と波及力を持って見えてきたことに、少々面食らった。

 面食らった理由は二つ。

 一つは、日本の文脈に限定しても、この問いは120年近く前にあった問いと酷似していること。まさしく、「なんと悠長な、とお叱りを受けるかもしれないが、悠長なことだけが長い時間軸でものごとを考える歴史屋の取り柄だからしかたない*2」というほかない感想である。120年前のことが忘却されている苛立ちとでもいおうか。

 二つめは、むしろこっちの方こそ考えるべき問題だと思うのだが、似た形の問いが反復されるとして、発生条件・環境の違いはどこにあるかである。

 以前も書いたかもしれないが、高校生の頃画家になりたくて、その後結局大学で歴史を学ぶことにして、ただ興味の赴くままにどういう風に歴史を考えようかと彷徨ってきた私にとって、芸術と社会の関係というのは、割と切実な問題だった。結局、図書館に就職した今も、図書館史の勉強を初めて、恥ずかしながら顕著な成長もないままに、文化だの社会だのにまつわるあれこれをしょっちゅう考えたりしている。

 もちろん図書館の本は芸術作品ではなくて、また複製技術の産物なのだけれど、しかし文化の構成要素ではあろう。私の場合、文化についてきちんと定義しようとするといつも話が拡散してしまい、おそらく以下の文章も全くそのような代物になっていく予感しかしないのであるが、それはともかくとして、面食らうような出来事を一つのきっかけにして、芸術とそれを包摂するカテゴリとしての文化について、文化と社会との関係とか、文化と道徳の関係とか、思いつくままに書いて、後日検討の材料にしたい、と思った。

 また前置きが長くなった。その上になお、今回もまたダラダラと長いので(しかも大した結論が出ていないことも)ご容赦いただきたい。

近代美学の語り

 まず、近代美学の前提として、「美」というものは利害や真とか善とかいう価値に規制を受けない、それ自体で自立した価値を持つという説がある。カントが『判断力批判』で提示した無関心説は、これも解釈についての長い論争史が存在するけれど、極めて乱暴にいえば、役に立つという功利性を第一義とした製作物は、すでに芸術というよりも実用品であり、また、道徳的な善を志向するもののみが美であるということはできないということを示唆している。反道徳的な美は存在してきたし、また美は道徳に従属するものでもないからである。

判断力批判 上 (岩波文庫 青 625-7)

判断力批判 上 (岩波文庫 青 625-7)

 この説は、場合によっては聞いた人の嫌悪感を催す可能性はあるが、しかしその論理を極限まで推し進めると、盗みを働く行為を描くのは大変悪いことだから、映画「レ・ミゼラブル」を見てはいけません、みたいな、やはりどこか変な話になってしまう。また、実在しない、フィクションでも美しいものはあるのだから、もちろん美は真にも従属しないことになる。カントが、ケーニヒスベルクの地を一歩も出ないで、例えばピラミッドとか実物を一度も見たことがないのに、書物のなかで美論を組み立てた、という批判?もあるけれど、それでも彼の美学思想は高く評価されている。

美学の逆説 (ちくま学芸文庫)

美学の逆説 (ちくま学芸文庫)

 ついで、この無関心の美は、利害を考慮に入れないという話であるとともに、人間には共通感覚が備わっているので、利害が入って来なければ、逆に、多くの人にとっても普遍妥当性を持つという話へと接続して行く(通常、それが美学という学問の成立根拠だとされる)。つまりこれによって、主観的な話ではなく、美は共同性の次元において論じられることになるのである。

 ハンナ・アレントはカントのこういう構想を政治哲学の次元に結び付けて新解釈したので、美と政治という、一見関係が自明で無いようにみえる主題が、むしろ最近では、政治思想の一局面として前掲化してくることになった。例えば美的な、あるいは文化的なナショナリズムの問題と接する形で。

 他方、芸術は資本主義社会の中ですっかり商品化されてしまっており、利害抜きで美を云々するのは、そもそも無理だといわんばかりの見解もある。ベンヤミンとか、フランクフルト学派の場合である。ただ、その場合であっても、芸術だけが持っている特性が、資本の論理に晒されながらも、社会に欠落しているもの、忘れられている価値を照らし出す、という一種の啓示的なニュアンスが芸術の意義として分析されるし、複製技術がもたらす知覚の変容は、芸術の領域においてもっとも先鋭的に表れるという分析もなされる*3

ヴァルター・ベンヤミン――「危機」の時代の思想家を読む

ヴァルター・ベンヤミン――「危機」の時代の思想家を読む

美のイデオロギー

美のイデオロギー

明治日本の「美術」をめぐる諸問題

 ところで、真善美とは西洋哲学由来の価値の体系であり、哲学的なニュアンスを含む日本の「美」というのは、明治思想史をかじったことがある人ならおそらく周知の話になるのだが、翻訳語である。もちろん、「うつくし」とか「うるはし」とかいう古語はあり、形が整っているとか味が美味しいとかそういう意味では使われていたのだが。また、白川靜が「大きな羊」をみんなで分け合うことが美なのである、と言っていた気もする。

翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)

翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)

 

 明治初期には「美学」という語自体が安定せず、西周によって「佳趣論」とか「善美学」とか訳されていた。森鴎外は「審美学」にこだわった。そうして、美的価値の意義を他との関係でどう位置付けるかという、こののっぴきならない翻訳と苦闘が、近代日本の美学史を彩ることになる。

近代日本「美学」の誕生 (講談社学術文庫)

近代日本「美学」の誕生 (講談社学術文庫)

 ついでにいうと、やはりこれもファインアートの翻訳語だが、「美術」は、少なくとも明治初期において、たぶん今でいうクールジャパンとか何とかと次元が違うレベルで、対外的に重い位置付けを与えられていたということも重要である*4本当に国の威信がかかっていて<日本は世界に冠たる「美術」の国なのである>という戦略的な言い方が、条約改正交渉を課題とする政府でも民間でもなされていくようになる。

眼の神殿―「美術」受容史ノート

眼の神殿―「美術」受容史ノート

〈日本美術〉誕生 (講談社選書メチエ)

〈日本美術〉誕生 (講談社選書メチエ)

 もっとも、この時期の「美術」振興論に分け入っていくと、「この茶碗は茶碗として売ると、買い叩かれるけれど、美術品として売れば高く売れて国が豊かになるので、是非とも「美術」を振興すべきである」みたいな発言も(衆議院の議事録などにも)あって、今だといいのかなあとちょっと思ってしまうレベルかもしれないが、それだけ当時としては色んな人に問題が共有されていたことの証左でもあろう*5

 そんなこと言ったって小説家も画家も安定してご飯食べられないし、国が口先だけ「美術」の価値を説いて何になるんだ!という意見は(たぶん)当時もあったと思うのだが、あまり表面化しなかった。「美術」が世界で評価されることは、それだけ日本の対外的な地位向上に貢献したわけで、その声の方が大きかった。

明治国家と近代美術―美の政治学

明治国家と近代美術―美の政治学

 こうして、日清戦争の後にたぶん頂点を迎える「美術」振興のなかで、改めて登場してくることになったのが、「芸術は社会に役立つべきか」とか「あるいはモラルに著しく反する芸術は許容されるべきか」という問いなのである。展示会場に裸体画を置いたら布で隠した、とか、口絵にヌードの洋画を入れたら雑誌が発売禁止になった、とかそういう話である。1900年のパリ万博は、日本史学の分野でも重視されているが、まさしく「美術」を通じて日本の来歴を語ろうとする、一大イベントとなった。

 高山樗牛のように、大学でちゃんと哲学や美学を学び始めた美学者は、「日本主義」を掲げて国民道徳の重要性を訴える反面、内心では、美が道徳の下に置かれるのは馬鹿馬鹿しいと考え、美の真義を理解しない社会の風潮のほうが悪いのであると思っていた節がある。例えば裸体像を見たら、劣情を催す奴が馬鹿なのであって、そんなやつのためにこれから発展の余地がある美術が汚されてたまるか、みたいな話である。

高山樗牛―美とナショナリズム

高山樗牛―美とナショナリズム

 彼は、「美術」とは一国の花であるといい、その花がつぼみもつけぬ前に枯らされてたまるか、と、あるときは国家主義的な見地から、またあるときは個人主義的な見地から、さらには宗教的世界にも思索を進めながら、そのことを弁証しようとした。美術家に対しても、好き勝手に物を作るのではなく、社会にもその意義が十分伝わるような作品は、どういうことに留意したら作れるか、語った。彼は、32年間の生涯の最後の10年をほとんどそれに費やしたように私には思える。

f:id:negadaikon:20000815125524j:image:w360

高山樗牛墓地・静岡県静岡市清水区(2001年8月撮影)勧富山龍華寺

 道徳からの自立性を担保しつつ、本当にみんなが美しいと思えるような芸術作品の登場を待ち、しかもそれを社会全体でバックアップできるように、社会的な合意を調達できる方向に繋げていく、というのは、何か針の穴に縄を通すような難題というか曲芸のような話なのだが、明治時代の人がやろうとしていたのは、要するにそういうことだった――そしてこの文化と社会のパラドックスとでもいうべきジレンマは、「東洋一の大図書館を作るぞ」という理想を掲げながら3分の1が完成したところで日露戦争に突入してしまい、賠償金が取れなくて、軍事費が増大しつづけるのに外債と増税で国家予算をなんとかしていくしかなくなってしまって、結果としてずっと増築が後回しにされ続けた某国の図書館においても無関係とはいいきれまい――。

 だからとりあえず、この点を抜きにして、いいとか悪いとか個々人の想いだけで是非を判断するのは、悠長な歴史屋としては、近視眼的に過ぎてあまりよくないように思えてしまうのである。大問題だから、考えるなら、私も、色んな人巻き込んで一生懸命考えます。だからすぐ結論に飛びつくのはやめにしませんか、と言いたかったりする。


「批評」は変わるのか、それとも変わらないのか。

 第二の問題として挙げた、似た形の問いが反復されるとして、発生条件・環境の違いはどこにあるかについてもちょっとだけ触れておきたい。要するにそれは「批評」に関わっている。「批評」の活動は、社会というスクリーンを前提にしており、難解な作品の意義について作者に代わって広く一般に向けて発信したり、あるいは作者が意図していないことを様々なコンテクストをつなぎ合わせることで明るみに出して、芸術の発展に貢献する理論構築をしたり、という役割を引き受けることになる。

僕が批評家になったわけ (ことばのために)

僕が批評家になったわけ (ことばのために)

 新しい文化の発展には、新しい批評家が必要なのだ、と確か以前どこかで東浩紀氏も言っていた気がする。「批評」という言葉も、いわゆる人文学を専攻した以外の人にとっては、あまり肯定的に受け入れられないニュアンスを持ったものかもしれないのだが、ごく限定的な意味では、芸術批評の意味で用いられてきた。そしてそのことによって、近代日本の思想史を読みなおそうとする試みも、少なくない蓄積が出てきている。

近代日本の批評3 明治・大正篇 (講談社文芸文庫)

近代日本の批評3 明治・大正篇 (講談社文芸文庫)

 「批評」の歴史については、明治の一定期間は、批評家の格は美術の価値を論じることのできる「美学」にどれだけ通暁しているか、によって決していたといってもよい。それが激しい「大喧嘩」にもなった。

文豪たちの大喧嘩―鴎外・逍遙・樗牛

文豪たちの大喧嘩―鴎外・逍遙・樗牛

 小林秀雄が「様々なる意匠」において、「近代批評」を確立したというのは、良く言われることだが、そのなかではもはや「美学」なんか役に立たないよとも言っていた。この辺の意味を、昔から計りたいと思いながら上手く出来て来なかったのだが、一つ思いついたのは、小林の「様々なる意匠」は、言説それ自体はもちろんのこと、円本ブーム以後の、読者の拡大というコンテクストを踏まえた上で読まれるべきなのではないか、ということだ。

 すでに指摘のあることなのかもしれないが。「美学」が利害関心を顧慮しない快感情を「美」と名付けて、それによって保たれていた均衡は、見方によっては、読者の拡大によって当てにならないものとして清算されてしまったともいえるのかもしれない。それはアイロニカルだが、<戦前的価値>であるとも。少なくとも戦後民主主義の価値観ではない。そう思ってみるとアドルノ小林秀雄は、確か、一歳違いの同時代人である。

小林秀雄初期文芸論集 (岩波文庫)

小林秀雄初期文芸論集 (岩波文庫)

 「読者」が増えれば、「批評」も変わる。昔と同じ形式では持続が不可能かもしれない。とすれば、ネットが普及した今ではどうか。コンテンツも変わっている。批評家の職業的自立性も(それが以前存在したと仮定した上での話だが)よくわからなくなってきたなかで、改めて次のベンヤミンの発言が目を引く。

十九世紀の終わり頃、ある変化が生じた。新聞・雑誌がますます拡大し、たえず新しい政治的・宗教的・経済的・職業的・地域的機関紙(誌)が読者に提供されるに従い、しだいに多くの読者が―はじめは散発的に―書き手の側に加わっていった*6

 受け手が書き手に自由に交換可能になる空間。そうすると今浮上してきている問題は、価値や概念の再分配、芸術なり文化なりの再定義の必要性という新しい事態なのだろうか。

 芸術とは何のために、あるいは文化とは何かという問いが出てくるのは、面食らうけれど、そのように考えてみるとこれはやはり、私も含めてちゃんと認識すべき、変化の兆しなのだろう。「社会に役立つ芸術」って、あれそんな素朴な話に肯定的でいいの?とか、私などは反射的に思ってしまうけれど、「役立つ」という言葉にしても直接間接のいくつかの次元がありうるし、またそういうのを考え直すべきときに来たんだという見方も成り立つかもしれない。

 120年前の出来事について、ゼロから考え直すのではあまりに寂しい。さりとて結論が出ている問題というわけでもない。文化が積み重ねであるならば、そして図書館が文化を守り伝えるんだという使命を有しているのならば、そういうなかでは、きっと歴史の知見が役立つこともあるだろうし、気づきもありえると思う。今回、ちょっとした刺激から始まって色々考えてみたのは、社会と文化を徹底的に対立させるでもなく、あるいは、社会の論理の圧倒によって、文化の領域が閉塞していかないような議論の積み重ねをしたいというありふれた感想だった。

 自分でも結局何が言いたいのかよくわからないオチになってしまって愕然とするほかないが、文化と関わる図書館の末端であえぎつつ、この問題、もう少しまだ考え続けてみる。

*1:そういえば思い出したが、科学的合理性に著しく反する疑似科学の本を、図書館の分類で科学の棚に置くべきか、という話も見た。ついでのように書くなとおしかりを受けそうである。

*2與那覇潤「日本化する中国?毛沢東という「国体明徴」」東洋経済ONLINE -2013年1月17日 Last access-2013年2月12日)。

*3仲正昌樹ヴァルター・ベンヤミン』345頁の「ネット時代」にベンヤミンを読み直す意義についての記述参照。またイーグルトンは、アドルノにおける「芸術」を「存在の理想化された領域といったものではなく、むしろ矛盾の具体化」と形容している。『美のイデオロギー』484頁。

*4:「美術」は、明治5年、ウィーン万博の出品目録に登載されたものが最初となっている。詳細はこちら。第22区を参照。割注で「西洋ニテ音楽画学像ヲ作ル術、詩学等ヲ美術ト云フ」と説明されている。

*5:余談だがこの構造は「デジタル化」っていうと予算が付きやすいという都市伝説みたいな話にうっすら似ている気がする。「美術」振興は、何よりもまず、殖産興業の一環でもあった。この辺詳しくは佐藤道信『明治国家と近代美術』(吉川弘文館、1999)参照。私が卒論で計り知れない影響と恩恵を被った本でもある。

*6ヴァルター・ベンヤミン・浅井健二郎訳「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン・コレクション』Ⅰ(ちくま学芸文庫版、一九九五年)所収、六一二頁。