ジャック・デリダ『アーカイヴの病』読書メモ―<アーカイヴ>を思想する、その手前で。

※前回前置きで終わってしまった記事の続きです。

原題は”Mal d’archive.”1995年刊行。英訳すると”Archive Fever.” “mal”は「苦痛」。外務省のHPにも咄嗟のフランス語みたいなページがあって、それを見ると、頭痛は” mal de tete”とかあるので、そういうニュアンスのものらしい。Amazonで英訳本を見ると、燃え上がる火が表紙に用いられている。

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しかし何故デリダが、ということをまず思った。私の貧しい哲学知識を駆使すると、脱構築をキーワードにして、形而上学を批判し、ことばと意味のズレを強調し、むしろ次々と意味の連鎖が生じてくるところから、構造主義を乗り越えようとする思想家が、なぜ資料の保存、アーカイヴについて思索するのだろう。


フランス的伝統?

そんな風に考えると同時に、別の観点からいえば、まさにそれがフランス的伝統だという感じがしなくもなかった。フランスの国の文書館(Archives nationales)は、フランス革命の直後に出来た近代的公文書館の嚆矢とされるものであるし、国内の出版物をあまねく集めるための納本制度にしても、そういえばフランソワ1世治世下のフランスで始まったものである*1。ただの思いつきでしかないが、国家が強力に図書や記録を集める、その事が国家の国民に対する責任であると考える知的伝統が、おそらくフランスでは他国と比べた場合、相対的に強いのではなかろうか*2。フランス元国立図書館長のジャン・ノエル・ジャンヌネー氏がGoogle電子化プロジェクトと戦っていたことは記憶に新しい。

さらに、書物の社会史を構想し、図書館の文化保存の機能について、過去の読書スタイルも含めて媒体を保存するべき、と説いたシャルチエの研究も、フランスの知的伝統を引くものとして読むと考えさせられるところが多い。

「文字遺産のデジタル化によって、修正・加筆が容易な、開かれた書き言葉(エクリチュール)が生まれる可能性があります。それは、18世紀以来の習慣である、書物をまとまった著作としてとらえる読書のあり方を揺るがすものです。(中略)デジタルテキストは、そのアーカイブ化、保存の問題を図書館につきつけています。そして図書館には、これまで読まれてきた媒体を保存し、専門家だけでなく一般に開放することも求められています。図書館は、文化遺産を保存する場所であると同時に、人々が文化遺産を介して研究や教育などのコミュニケーションをもつための公共的な空間でもあります。様々な言葉――言説や書き言葉、そして語られる言葉(パロール)が交わされる場所なのです。一部の図書館では、蔵書をマイクロ化あるいはデジタル化した後に、廃棄したり閲覧させないというような悪しき政策がとられたことがありました。しかし、たとえあらゆる文字遺産がデジタル化されたとしても、昔の媒体を保存し伝えることは、図書館の何よりも重要な使命です。図書館は、新しい技術を見据えるとともに過去からの継承をふまえ、デジタルテキストの世界における新しい秩序を構築する方法を探っていかなければなりません。*3

書物から読書へ

書物から読書へ

グーテンベルク以降、印刷技術は確かにドイツで発達していたけれど、領邦が存続して統一国家形成ではフランスに遅れる形となったドイツの思想圏のテクストでは、言うまでもなくヘーゲルや、マルクスのように、「歴史とは何か」という、いわば歴史の目的論の議論は発達しているけれど、哲学や思想の分野において、歴史を紡ぐ資料を提供する図書館なり文書館のアーカイヴの主体に関する議論が、どうも相対的に希薄な印象がある*4


1994年6月5日、ロンドン、国際会議「記憶―アーカイヴの問い」

さて、『アーカイヴの病』である。副題に「フロイトの印象」とある。この「印象」という単語に、印刷機械を使って外部に刻印する(impression)というところから始めて、デリダは二重三重の意味を被せていて頭を抱えてしまうのだが、省略する。

デリダの本にしては丁寧に書いてあってわかりやすいという評も見かけるが、以下に述べる事情によって、普通には理解はしにくい本であると思う。たぶん、それが同業者の間で、主題の割に、本書を読んだ感想が上がらない理由の一つなのかなと思う。

このデリダの講演は、1994年に、ロンドンにあるフロイト博物館が定期的に行っている講演会の一環として行われたものだそうである。フロイト博物館Freud Museum London)は、ナチスドイツのオーストリア併合に際して、ロンドンに亡命したフロイトが、亡くなるまで住んでいた家なのだそうである。ちなみに、ウィーンにもシークムント・フロイト博物館(Sigmund Freud Museum)がある。だから、聴衆はある程度フロイトに関心を持っていることが前提とされている。また、本題にあたるthesis(諸命題)の前置きが本書の7~8割を占めているという謎の構成になっているし、しかも前置きのほとんどが、デリダが発想のヒントを得たとされるヨセフ・ハイム・イェルシャルミの『フロイトモーセ』(“Freud's Moses”)の読解と解釈に充てられているし、しかもイェルシャルミのこの本は、今のところ邦訳が存在しないようである(私も読んでいない)。

この時点で、なんだかもう私には語る資格が全く無いようにしか思えないのだが、一つの哲学用語として<アーカイヴ>が位置づけられるとすれば、それは一体どういうものなのか、何とかしておさえておきたいという個人的な思いだけで、続きを書いてみる。

この本の書き出しは<アーカイヴ>の語源、アルケーから始まる。

Arkhēというその語は、始まりと掟を同時に名指すことを思い出そう。この名は、外見上二つの原理を一つにまとめ上げている。一つは、自然あるいは歴史に従う原理で、物事が始まるところ――自然学的、歴史的あるいは存在論的原理――である。しかしそれはまた、法に従う原理であり、人々と神々が支配するところ、権威が、社会秩序が行使される場であって、この場所においてそこから秩序が与えられる――法規範論的原理でもある*5

すでに最初から二重の意味を帯びた語として、アルケーがある。

どのアーカイヴも、われわれはそれからいくつかの結論を引き出すだろうが、創設するものであると同時に保守するものだからである。革命的にして伝統的である。この二重の意味で、経済―法的なアーカイヴは、保管し、保留し、貯めるが、非自然的な仕方で、つまり、法を作り従わせるか、人々に法を尊敬させることによってである*6

この箇所、原文が参照できないので大変辛い。日本語としても不自然な気がするけれど、始まりであると同時に保守するところで、しかもそれを法の力で行うという理解でとりあえず良いだろうか。

ところで私は、正直にいえば、なんでフロイトから<アーカイヴ>の概念が取り出せるのか、最初全く想像がつかなかった。

しかし、最後まで読んで少しだけわかった気がする。ごく当たり前の話として、<アーカイヴ>は「記憶」に関わるからだ。そしてフロイトは「記憶」をめぐる哲学的思考に、新地平を切り開いた一人ということが確かにできる。

デリダフロイトの局所論(前意識・意識・無意識)と、それに関連する「記憶」のあり方、「想起」「自発的記憶」」「抑圧された記憶」等々の構造的な議論を意識している。そうして「記憶」が書き込まれる場所の存在を問題化しようとしている。これも当然の話に思えるが、<アーカイヴ>は次のことを前提にしている。内側から「外部」に記録されたものを作成するという行為である。

記載の場所のない、反復の技術のない、何らかの外在性の存在しないアーカイヴは、存在しない。外部のないアーカイヴはない*7

この外的なものに、文字などといった人工的な記憶が位置づけられてくる。フロイトもそれを受け入れた。記憶を再生するための補助的な装置として。


外部記憶

ここで、アーカイヴの外部性が問題になっていることを理解するために、補助線として、プラトン以来の「記憶」の問題――文字を獲得することによって、より人は忘れるようになり、イデアに至る道がむしろ閉ざされていくようになる、という問題――を思い浮かべるべきなのだと思う*8

ソクラテスパイドロスとの対話のなかで、文字を持つことの意味を説明するために引き合いに出したエジプトの昔話にこうある。

人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられるということだろうから。それはほかでもない、彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫り付けられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。じじつ、あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ。また他方、あなたがこれを学ぶ人たちに与える知恵というのは、知恵の外見であって、真実の知恵ではない。すなわち、彼らはあなたのおかげで、親しく教えを受けなくてももの知りになるため、多くの場合ほんとうは何も知らないでいながら、見かけだけはひじょうな博識家であると思われるようになるだろうし、また知者となる代わりに知者であるといううぬぼれだけが発達するため、つきあいにくい人間となるだろう*9

パイドロス (岩波文庫)

パイドロス (岩波文庫)

ところでフロイトは、記憶を再生するための補助的な手段としてであれ、文字。人工的な、外部化された<アーカイヴ>を容認した。

<アーカイヴ>を思想するということは、「記憶」を相手にするという場所に開かれていく。

だからデリダは、フロイト精神分析が<アーカイヴ>の思想に決定的な影響をもたらしたことをこうも言う。

確かに、フロイト精神分析はアーカイヴについての新しい理論を提起していることになる。それは或る局所と死の欲動を考慮に入れており、それらがなければ実際に、アーカイヴに対するいかなる欲望も可能性も存在しないであろう*10

もはや誰も、前もって何らかの仕方で、このフロイトの印象によって跡づけられてしまうことなく、これについて語ると主張することはできず、できないはずであろうし、よってそうする権利も手段も有していないのである。ここでフロイトの印象と呼ぶものを、良かれ悪しかれ、首尾一貫してもしなくても、承認しても否認しても、組み入れることなしにそうすることは不可能であり不当である*11


アーカイヴの病とは何か

そうすると気になるのは、やはり「アーカイヴの病」とは何なのかである。

これは保存の欲求に対置されるフロイト死の欲動に対応するもので、次のように説明されている。

それは働いているが、つねに沈黙のまま作用するからには、それにとって固有であるようなアーカイヴを残すことは決してない。この欲動はそれ固有のアーカイヴをあらかじめ破壊する。あたかもそれこそまさに、その最も固有の運動の動機そのものであるかのように。それはアーカイヴを破壊するために、すなわち、それ「固有」の諸痕跡を抹消するという条件でのみならず、それらの痕跡を抹消することを目指して働く*12

このアーカイヴを消しつくそうとする欲動が、アーカイブ化の条件の核心において、アプリオリに導入されている。

デリダフロイト精神分析に寄りながらアーカイブの特性として見出したのはこの点であり、そういう暴力的なものによってもたらされる緊張、あるいは矛盾した状態に置かれていることが、アーカイヴの病にほかならない。

では、アーカイブはそうして自閉的な場で死の欲動に喰いつくされながら病んで終焉にむかっていくのだろうかというと、どうもそうでもないらしい。何故だろうか。

アーカイヴは、未来に対して、未来から開かれているからである。ここから、一気にデリダのメシア性とメシア主義の議論に飛んで行ってしまって話が混乱するが、「何のためにこれを保守するか」その理由を今現在からははかることができない。だが、未来にとっては役立つことがありうるという保存の理念に近いものとして見れば、それなりに理解可能な記述である。

アーカイブの問いは、繰り返し言えば、過去の問いではない。それは、われわれが既に所有していたりいなかったりする、過去すなわちアーカイヴについてのアーカイヴ化可能な概念に関する問いではない。それは未来の問いであり、未来そのものの問いであり、明日に対する応答、約束、責任〔応答可能性〕の問いである。アーカイヴは、それが何を意味するだろうかをわれわれが知りたくても、われわれはそれを、来たるべき時においてしか知らないだろう。おそらく。明日にではないが、来たるべき時に、もうすぐか、それともおそらく決してないか。亡霊的なメシア性がアーカイヴの概念を働かせて、それを宗教のように、歴史のように、科学自体のように、約束という非常に特異な経験に結びつける*13

アーカイヴは、欠乏に苦しむところから、求められてくる(フランス語でいうと、本書標題の“Mal d’archive”は“en mal d’archive”とすることで、このような意味になる…らしい)。アーカイヴが無いところで、原初の起源に帰ろうとする強迫的な欲望(これがノスタルジーと呼ばれる)を自らに抱え込む。

アーカイヴの病が、欠乏からアーカイヴ化を求めていく欲動と、アーカイヴを隠し、破壊しようとする欲望において二重化される。

なお、1960年代から活動を開始したデリダの思想は、初期には「脱構築」や「グラマトロジー」についての理論的叙述がまさっていたが、70年代以降、『散種』(La Dissémination)等の著作で、書くこととそのものを思索の遂行と並行させる叙述をし出し、文学作品を解釈するテクスト理論として受容された。ところが80年代以降になると、正義とか応答責任とかいった主題が前景化してくるようになり「倫理―政治的」転回を遂げたとされている*14

ビフォア・セオリー―現代思想の“争点”

ビフォア・セオリー―現代思想の“争点”

その点で、この1994年の講演である『アーカイヴの病』も、記憶の問題を手掛かりにして、応答責任といったことを考えようとしているものだということはできそうである。

面白いのは、フロイトが「これを印刷(≒印象)すべきかどうか」と自分のメモ類について悩む部分から、「何を隠したかったか」「何が隠せたのか」を問おうとする発想かもしれない。「歴史記述のあるべき姿とは」が書いてある本だとか、Amazonの内容紹介に載っているが、私が読解できた範囲でいうと、正直誇張だと思う。ただ、次のような、フロイトの伝を書く可能性が示唆されているにすぎない。

人はつねに、彼がこのアーカイヴの病において、何を燃やしえただろうかを自問することだろう。人はつねに、誰がこのアーカイヴの病を共苦のうちで分かちあいつつ、彼の秘密の情念、彼の書簡、彼の「人生」から、何が燃え立ちえたのかを自問することだろう*15

フロイトが「何を遺そうか」と悩んだことを例えば今の自分に引き付けてみたらどうだろう。これは残したいと思って下手なりに文章をブログに書いているけれど、では一本書くごとに毎回作っているWordの草稿、ノートの抜き書き、あるいは読破した論文のファイルは本当に合わせて私自身でアーカイヴしておくべきだろうか。コストと、後々に得る利益とを天秤にかけたときに、どう判断されるか。私の実感から率直にいって普通にライフログとかは要らないが、必要だという人との違いはどこから来るか。

デリダの「差延」は、「差異」と「遅延」という二つの意味を合わせもつもので、脱構築思想の基本概念の一つとされる。

同一性の内部に差異性を見出して、しかもそれを運動として捉えて「差延」を編み出したデリダは、これが本書の多分一番重要なポイントだと思うのだが、<アーカイヴ>それ自体の中に、保守しようとする動きと、「死の欲動」に対応する形で痕跡を消そうとする動き(「アーカイヴ-原-暴力」という訳語が宛てられている)の緊張関係を持ちこんだのだと思われる。

そうすると、<アーカイヴ>の暴力は、単にそれが権力的な仕方で君臨することへの告発とか異議申し立てという素朴な話ではなくて、むしろ「アーカイヴ管理人」=Archivistが、アーカイヴの病に、本質的には苦しんでいる、という話になるように読める。ただのイデオロギー暴露でないところがいい。権力者たる管理人でさえも、未来に対して開かれる<アーカイヴ>のなかでは、望んだ仕方でアーカイヴを遺すことはできないということを言っているようにも読める。これは俗化した見方に過ぎないだろうか。

脱線

脱線するが面白かったところで、デリダがもう一つ注目しているのは、E-mailのあり方だった。

それは公的なものや現象的なものの間の境界を変える。アーカイヴの生産、印刷、保管、そして破壊までのプロセスを瞬間的に行なってしまう。アーカイヴが法的な力を伴うとすれば、E-mailの登場は同時にこの法の変化を伴わずにはいない。未来の精神分析も、フロイトが考えていたものと違うものになってくるはずだ、というのである。これは間接的には、メディア論的な話とも関わってくるところだろう。

とりわけ思い出すべきなのは、当該のアーカイヴ技術は、もはや保存記録の唯一の瞬間を決めはせず、今後決めることもないが、アーカイブ可能な事件のまさに創設を決めるのだということである*16

デリダが予見するのは「変わる」というところまでである。破壊の欲動が強化されるのか、あるいは簡便に保守できるのか、を言っていない。1994年の講演だということは頭に入れておいてよいかもしれない(ほぼ20年前の問いなのである!というのは改めてちょっと驚く。)。だから、それはまさにこれからの思考課題だともいえる。

とにかく難解だし、何を言ってるのかしばしば(もとい、頻繁に)わからないし、言葉遊びのようにも見えてしまうし、ハイデガーにおけるドイツ語のように、フランス語を理解できなかったら全く理解できないんじゃないかと、いいもんどうせ語学できないもん、と一方的にイジけたくなるデリダの思想だが、アーカイヴについて否定し去るのではなく、未来に開かれたものとして、病を抱えながら存立することを説いている、という風にはおぼろげながら読めた。その続きを考えることは、これからぼちぼちやっていきたい。


アーカイブのつくりかた―構築と活用入門

アーカイブのつくりかた―構築と活用入門

デジタルアーカイブの思想とか、メディア論の成果も踏まえつつ、本格的に考えたら、どういうことができるだろうか。いや、松岡正剛さんとか、すでにやってるのか。

参考

この記事を書くのに、先行するいくつかの書評に助けられた。むしろこっちを読むと、自分が大変余計なものを書いて話を混乱させている気にさえなってくる。本書読解の手引きとしては以下のほうが遥かに良いと思うので、最後に紹介する。

ジャック・デリダ “Mal d’archive”その1 - 生きてみた感想

ジャック・デリダ “Mal d’archive”その2 - 生きてみた感想。こちらは内容の詳しい紹介。

デリダが「歴史小説」として取り上げているフロイトの『モーセ一神教』については、松岡正剛の「千夜千冊」にも紹介がある。

895夜『モーセと一神教』ジグムント・フロイト|松岡正剛の千夜千冊

アーカイヴ一般についての図書館員からの別なアプローチとして。

過去をコントロールするものは - Traveling LIBRARIAN ―旅する図書館屋

後で気がついたが、こんな本もある模様。

Functions of the Derrida Archive: Philosophical Receptions

Functions of the Derrida Archive: Philosophical Receptions

Functions of the Derrida Archive: Philosophical Receptions

*1春山明哲納本制度の歴史像と電子出版物への接近―「納本学」のための研究ノート」『図書館研究シリーズ』34(1997.7)

*2:ちなみにフランスでは、ミシェル・フーコーの遺稿などが国宝指定されている。「ミシェル・フーコーアーカイブがフランスで国宝指定に」『カレント・アウェアネス・ポータル』2012年4月16日付の記事。出典はこちら1984年に亡くなった人の遺稿が30年後に「国宝」になってるって凄くないか…。

*3:「本とは何か―ロジェ・シャルチエ氏の講演から」『国立国会図書館月報』601号(2011.4)p.7。本文はこちらから

*4:そのことと、一般に州ごとの独立性が強いとされているドイツの図書館事情は何がしか関係しているかもしれない。ただし他方、ドイツではランケが実証主義史学を確立しているし、ベルンハイムは『歴史とは何ぞや』の「史料学」の項において図書館に関する知識の必要性を説いている、という面もあるから、一概には言えない。

*5:『アーカイヴの病』1頁。

*6:同上、10頁。

*7:同上書、17頁。

*8:こういう問題は私などがあれこれ気づく前に疾うに誰かが指摘しているはずである。と思っていたらやっぱり森さんが言っていた。半ば予想通りだったが、その博覧強記ぶりは予想を超越している。森さん凄い…。
書物といふトポス |【書庫】*書物のトポス=書物のトピック

*9プラトン・藤沢令夫訳『パイドロス』(岩波文庫版、2010年改版)164頁。275A-275B。太字は引用者。以下同じ。

*10:前掲『アーカイヴの病』46頁。

*11:同上書、49頁。

*12:同上書、15頁。

*13:同上書、56~57頁。

*14:田辺秋守『ビフォア・セオリー』(慶應義塾大学出版会、2006年)200頁。

*15:前掲『アーカイヴの病』167~168頁。

*16:同上書、p.28。