三たび、<アーカイヴ>を思想する、その手前で。

highway61さんから、拙文へのコメントを頂戴いたしました。

「<アーカイヴ>を思想する、その手前で」を読んで - 本の地図、真夜中のグランドで

ほんとうに恐縮してしまうほど、丁寧に読んで下さり、また拙文の問題点を指摘してくださっています。弁解じみたところも出て来てしまうかもしれませんが、応答することを通じて、お礼にかえたいと思っております。

以下、通常の文体でご容赦ください。

ベンヤミンの思想について。

「ちょっと引っかかるところ」として、ベンヤミンの歴史哲学テーゼの私の解釈を挙げられている。私が「相続するだけ、遺してるだけマシなんじゃないですかね?」と書いたところである。

ベンヤミンがここで批判しているのは「従来の歴史家が、支配者の残した文化財をもとに歴史を描いてきた」ということである。そして、それと同時に、彼は「なしうるかぎり[文化財の]そうした伝承から離れ」て、従来の歴史記述を「逆撫で」するのが歴史的唯物論者の使命(ベンヤミンの立場)だと述べている。

この「逆撫で」するというのは、「これまで見向きもされてこなかった対象に目をやって、新たに歴史を描き直し、従来の歴史観をゆさぶる」といった意味合いだと私は理解している。

negadaikonさんの言及では、残されなかった文化財に着目しようとするベンヤミンの主張が抜けており、やはり「遺してるだけマシなんじゃないですかね」というツッコミは片手落ちな気がしてしまう。(ご自身で「問題提起に応えることにはならないけれど」とも付言されているが)

筆が滑ったというのは言い訳にもならないが、ここで批判頂いたことは、正当だと思う。確かに私の書き方だと、ベンヤミンが「歴史」に対してもっている切迫感を故意に切り捨てている印象は否めない。また、以下に指摘されている、地下出版の問題など、排除されてきた資料を含めて歴史を再構成していかないといけないという指摘も、異論はない。

ただ一点、私がベンヤミンを読んだときに気になったところは、言い訳めくが、「そういった歴史に残るか残らないか分からないような文化財も含めて歴史は再考されていくべきだという主張が、ベンヤミンの主眼だと思う」というとき、そういった排除された資料群を、果してベンヤミンが「文化財」と呼ぶかどうかだった。呼ばないのではないか、と思ったのである。

図書館なり文書館なり博物館なりが「文化財」を保護するという論理で蒐集していくものを多様化していく努力を行なったとしても、それは結局、ベンヤミンに言わせれば、どこまでも「勝者たち」の財産目録を豊富にするだけであって、終わりなく「文化財」から排除される資料を生み出すことになっていくという議論になっていくのではないか。つまりどこまで行っても、資料保存機関はベンヤミンの期待に答え得ないのではないか…。

そういう問いを、「遺してるだけマシなんじゃないですかね」という形で切り返した私は軽率に違いないが、ベンヤミンの議論からは、すでに別エントリで指摘されているように、色々な物語を引き出して行く、読み方、解釈の面白さがあるし、また、多くの議論があるように、メディア理解の知見を引き出すことも可能である。『複製技術時代の芸術作品』に見られるような展示的価値の議論など、ある資料群を理解したり、活用する方法については、ベンヤミンの議論はなお魅力的であり、学ぶところがたくさんある、と私は思っている。

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

けれどやはり、ベンヤミンの書いたものから、歴史解釈に関するヒントは引き出せても、資料保存機関の積極的な意義を引き出すのは難しいという印象を私は持った。その辺は、歴史叙述と、資料保存の間にある、ズレということがあるのかもしれない。あまりちゃんと認識していなかったと後でそのことに気付いたので、これは後半でも再度取り上げる。

歴史の重要性について

コメントいただいた「進歩や発展のためには、過去を乗り越えるために、過去をよく認識し、学ぶ必要がある。だから歴史は重要である」というのは、これは明らかに私の書き方のミスだが、一例として提示した判断にすぎず、私自身の主張というわけでは必ずしもない。そうもいえるな、と思うことはあっても、私が自分の言葉で第三者に歴史の意義を説明しようと思うときには、この論法は使わないと思う。

進歩や発展という理念は、仰る通り、「前後・上下の価値観を少なからず含んでおり、ある種の差異化を図るために、使いやすい・濫用されやすいものだ。だから、現代思想でも植民地主義等の文脈で批判の対象になってきた」のであり、このような命題が、徐々に説得力を失いつつあると感じている。では、どのように歴史の意義を説明すべきか、そのことを考えていきたいと思っている。

歴史を哲学する (双書 哲学塾)

歴史を哲学する (双書 哲学塾)

まだ、なかなかうまく説明できないのだけれど。逆に「大きな物語」終焉後においても、歴史を「物語」(story)としてでなく「物語る」(narrative)ものとして、再定義を試みるものからも学んで行ける気がする*1

最後に、私が書いたなかで示した

現代思想についての懸念について

一番核心の部分について「「歴史の否定→資料の不要」といったイメージをやや抽象的に描いていないだろうか。」という指摘をいただき、正直自分の書いたことを反省した。歴史の価値が相対的に減少するとそれに対応して資料が不要になる、というのは、確かに自明ではない。集積してきた資料を使って何かを導き出す営みがあるとして、それが歴史だとは限らないからである。

現代思想に通じる人からは、「多様な資料を残すべきだ」という主張はなされても、「資料は要らない」という話は出てこないはずだ。ベンヤミンでもよいし、現代思想から派生したポストコロニアル批評でもカルチュラル・スタディーズでもよい。遺す資料の偏りについては、批判される可能性は十分にあるが、それは資料保存に携わる者は傾聴すべき事柄だ。

これも、その通りだな、と思った。先ほどのベンヤミン理解ともしかしたら矛盾するかもしれないが、人文学の最大公約数的な特徴が、他者の声に耳を傾ける、自分以外の誰かが作った作品なりテクストを「読む」―その上で再構成していく、ことにあるのだとすれば、近代的な知の布置や、あるいはそこにもたらされるカテゴリを批判していくためには、結局のところ、従来型の資料からでは立証することができなかった「新しい資料」の要請が生じてくるはずである(それが当面「文化財」と呼ばれなかったにしても)。そして恥ずかしながら、私自身これを過小評価していたと思う。

指摘されているボルツのハーバーマスへの抵抗は、まさに今読み進めているので(だから余裕があったらまた感想を書いてみたい)十分に消化した上でお答えすることができないが、例の記事を書いたあと、デリダの国際哲学コレージュの取り組みや、『条件なき大学』などを読んでいて、むしろ彼が人文学の存亡に強い危機を持っていることを改めて知り、現代思想系の議論にあらためて興味がわいてきたところだ。それを消化して自分なりの言葉に変換して行くのは、まだ相当時間がかかりそうだけれど。

哲学への権利

哲学への権利

前のエントリを書いたときに、ぼんやりとしか考えられていなくて、明確な形で表現できていないな、と今回コメントをいただいて改めて気付いたことが、いくつかある。第一に、歴史に対する現代思想の攻勢というのが、例えばイーグルトンのポストモダニズム批判――「大きな物語」を批判する論者たちが取り上げている小さな物語の存立根拠が結局全体の存在を前提にしている、というのを、私がかなり俗化した形で理解していたこと。

第二に、自分がそういうイーグルトンの立場に身を寄せるかというと、決してそうではなくて、本当はもっと現代思想の議論から学びたいなあと思っているところを斜に構え過ぎて、かえって素直に読めない見方をとっていたかもしれないこと。

第三に、歴史の記述方法ということと、図書館で資料を遺すという別個の問題群を、何か一緒にして一気に考えようとしていたこと。これは、反省点でもある。そして、先のエントリを書いたときの私の興味の重心は、どちらかといえば後者にあった。要するに、図書館のミッションなりが今までのような形で立ちいかなくなってきたときに、とくにその利活用のレベルの話でなくて、利活用とセットで論じられていいはずの<アーカイヴ>をめぐる理論的な構築というのは、新しい価値観を作っていこうとしている現代思想の議論を参照にして、どういう風に学べていけるか考えたいと思っていた。

タイトルに「、その手前で」と付けたのは、照れ以前に自信がなかったからなのだが、コメントをいただいて改めて考えながら、あらためて思うのは、図書館というのは、やはり多くの場合、思考の「外部」なのだろうと。フーコーが図書館好きだったり、そこから言表の集蔵体(アルシーブ)を構想した、ということはあるのだけれども、逆にデリダが、

「記載の場所のない、反復の技術のない、何らかの外在性の存在しないアーカイヴは、存在しない。外部のないアーカイヴはない」

と語っていたように、思考の自律的な展開のうちにア・プリオリに、過去のあらゆる知識を納めるようなデータベースは、格納されてこないのだろうと、思った。私自身は、直接「使える」言葉やレトリックや考え方を、思想家にせっかちに求め過ぎていたかもしれないと思う。「遺す資料の偏りについては、批判される可能性は十分にあるが、それは資料保存に携わる者は傾聴すべき事柄だ。」と仰っていただいた通り、結局、それを考えるのは、最終的に図書館にいるわれわれの仕事だということを、いまになってようやく思い始めている。

改めて、コメントを下さったhighway61さんに御礼申し上げたい。

*1:全然追いかけられていない、ヘイドン・ホワイトの問題提起などもこれから読んでみるつもり