少し思うところがあって、ポスト・モダン系、現代思想系の本を読んでいる。就職してからすっかりご無沙汰になっていたのだが、やはり学生時代に愛読していた仲正昌樹さんの解説に助けられながらではあるが。また思想系の本を手にとってみようと思った理由の一つに、例えば今自分がやっている図書館の仕事(集めたり残したりすること)は、哲学的にいってどういう風に基礎づけられるのか、という点があった。年末にポスト・モダンの歴史学批判に応える本を読んでいたせいもあるし、また人から強く慫慂いただいたためでもある。
- 作者: 仲正昌樹
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ロゴス中心主義批判、差異と戯れ、脱構築、ポストコロニアル状況での文化批評、道具的理性の批判、否定弁証法、公共圏。馬鹿だと思われない程度におさえておこうと思いながら、おさえきれていないので、これから書くことも、見当違いが甚だしく、やっぱり馬鹿だと思われるんだろうなあと内心覚悟しつつ、気になることがあるのでメモ代わりに残しておく。門外漢の妄想ということで、ご容赦いただきたい。
気になること、というのは次のようなものである。違和感というほどのものでもないのだが、概して、現代思想の議論は、その源流に位置づけられるニーチェ以降、歴史への眼差しが甚だ厳しいように感じられることである。
むろんそれは、あまりにも歴史が権威づけられ、重大視されているからこそ、そこから脱却して新しい歴史概念を作るために、いわば方法的に、歴史を叩き直すというヨーロッパ思想圏での戦略があるだろうということは一応想像できる。けれど、書いてあることに一応納得しつつ、でもちょっと首をかしげてしまうような、そのような感慨は、例えばこういうベンヤミンの文章を読むときに沸いてきたりする。
歴史主義の歴史記述者はそもそも誰に感情移入しているのか、という問いを立ててみれば、この悲しみの本性がいっそう明瞭になる。勝利者に、と言う以外に答えようはない。だが、そのときどきの支配者とは、それ以前に勝利を収めたすべての者たちの遺産相続人にほかならない。したがって勝利者への感情移入は、いつも、そのときどきの支配者に役立っているのだ。これだけ言えば歴史的唯物論者には十分である。今日に至るまでそのつど勝利をかっさらっていった輩はみな、いま地に倒れている者たちを踏みつけて進んでゆく今日の支配者たちの凱旋行列に加わって、ともに行進している。この凱旋行列のなかを、いつもそうされてきたように、戦利品が伴なわれて行進する。戦利品は文化財と呼ばれる*1。
ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)
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なるほど、「文化財」がおぞましい暴力の結果、勝利者をたたえる形で残っているのはわかるけれど、政権が変わったので宗教施設ぶっ壊して文化財売ります、とかいう経験が非西洋圏ではかつてあった――そしてまた、いつ何どき起こるかわからない――ことを踏まえると、私などは、「権力的なものであろうと何だろうと、相続するだけ、遺してるだけマシなんじゃないですかね?」とツッコミたくなってしまう。もちろんこのようなツッコミを入れるだけでは、「文化財」を遺して無批判にありがたがることが、またさらなる被抑圧者を生んでいる、という問題提起に応えることにはならないのだけれど。
もう少し敷衍してみる。「進歩や発展のためには、過去を乗り越えるために、過去をよく認識し、学ぶ必要がある。だから歴史は重要である」というのは、理性的な命題だろうと思われるが、この理性の妥当性や信頼が揺らいで来れば、必然的に、上記の命題も疑わしくなってくる。「進歩や発展など所詮主観的なものなので、別に過去にとらわれる必要はない」という話の展開になりうる。むしろそのようなスタンスが未来志向に見えることもありうる。
ポスト・モダンの思想家たちが、理性批判の文脈で、この点に論及してくれないのが歯痒いのだが、彼ら/彼女らは頭の中で、歴史の無意味化を望んでいるのではなくて、むしろ歴史の重要性が自明であり過ぎるので、その脱構築が図られるべきだという考えているのかもしれない。その背景には――プロテスタンティズムの予定説とか、あるいはベンヤミンの歴史哲学テーゼの場合は、ユダヤ神学とかが絡んでいるのかもしれないし――上手く理解できていないけれど。だが、そうだとすると、そういう、どこまで叩いても残存し、形を変えて生き残る、ある意味では強靭な歴史の観念は、結局西欧思想圏に限定されるので、私たちが同じように考えて本当にそれで大丈夫なのか。という不安がぬぐえない。
新しくて良さそうな価値観が出てくれば、古いものは忘却する、またはその痕跡は捨てて二度と復活できないようにしてしまうというのは――抽象的に敢えて書くならば――非西欧圏に属する私たちの歴史の上でも何度かあった。明治維新後、廃仏毀釈でどういうことが起こったか。明治初期には正倉院の高床の下に潜り込んで焚火して暖をとる人がいたというぞっとする話もある*2。もちろん、心ある人がその中にいた、という歴史上のエピソードの掘り起こしはできるけれど、心ある人が2,3人いても流れは変えられなかったし、そんなに社会の価値観は軽くないはずだ。社会変動の結果に限らない。貴重な文化財が、文字通り理不尽な大規模自然災害で失われてしまうことさえ、身近に経験している。そういったときに理性批判も構わないのだが、その結果、「集めて遺して伝える」という活動の意味が掘り崩されてしまったら、手遅れなのではないか。
- 作者: 関秀夫
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アーカイヴ、という思想がここから出てくるはずだと思うのだけれども、周知のように、日本のアーカイヴ形成は国際的にかなり出遅れていて、今ようやく活性化しつつあるというところに来ているのに、ポスト・モダンの思想潮流が、いや過去の事実って再現不可能だし、厳密には理解だって無理だし、そんな営みに意味ないでしょ?という装いで説得力を持てば、そもそも取っておくこと、遺しておくこと自体が無意味化しかねない。資料デジタル化の進展で利用可能なコンテンツは増加していく。これは、控えめにいって、好ましい事態である。では、その思想的な根拠は?反対する人が出てきたときに説得するだけの材料は?「文化ナショナリズム」批判に耐えうるだけのプレゼンスが今本当にあるか?
アーカイブズが社会を変える?公文書管理法と情報革命 (平凡社新書)
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例えば、ドイツ語圏で今最も影響力があると思われるハーバーマスの公共圏の議論は、17世紀以降のヨーロッパの歴史社会学的な研究からもたらされている。そのなかには、「相当きめの細かい網の目をもった公共的なコミュニケーション」*3として、読書する公衆、図書館の意義を見出してくるような見解も示されている。牽強付会をおそれずいえば、部分的には、大学図書館で展開されているラーニング・コモンズに繋がる思想水脈ともいえそうである。とはいえ――「過ぎ去ろうとしない過去」のような重い論争があることは承知しているが――理性的なコミュニケーションが基礎になるならば、そこで参照され得るアーカイヴは、豊かであればあるほど良い、という議論には繋がる可能性があっても、アーカイヴを作り遺さねばならないという機能の議論には、どうも繋がらなさそうに見える。
- 作者: ユルゲンハーバーマス,Jurgen Habermas,細谷貞雄,山田正行
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「コミュ力があれば本読んでなくても別にいいじゃん」。これはもちろん問題提起の極端な(というか失礼なほど下品な)矮小化だが、ただ、大枠としてはやっぱりそうなってしまうのではないかという懸念は残る。隣国では「文化」と名前のつく革命の進行中に著しく読書の自由が制限され、自国の古典だけでなく、封建的・ブルジョア的とみなされる世界の名著も軒並み発禁となり、カントを読むにもその上に毛沢東全集を置いて偽装しなければならなかったというエピソードがあると知るにつけ、そしてその出来事が、自分が生まれるほんの数年前の出来事であったと知るにつけ*4。
中国が読んだ現代思想 サルトルからデリダ、シュミット、ロールズまで (講談社選書メチエ)
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ハーバーマスを批判しながら、電子メディアの議論に果敢に結び付けているノルベルト・ボルツのような論客もいるけれど、『啓蒙の弁証法』で「文化産業」を堕落、支配者が大衆を洗脳する装置と断じて、ジャズが大嫌いだったアドルノが生きていたら、音声・映像作品などの動画コンテンツまで含めて保存します。という昨今のWebアーカイヴを含めた図書館の音盤・フィルムの保存事業などは、「マジで意味がわからない。アウシュビッツ以降、詩を書くことだって野蛮なのに、それを遺すとか、狂ってる」とかいう回答が、真剣に出てくる恐れがあって大変困る。
- 作者: ホルクハイマー,アドルノ,Max Horkheimer,Theodor W. Adorno,徳永恂
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冗談はさておいても、しかし人々の活動遺産を、書かれたもの、作られたものをコンテンツとして収集し、一か所に集めて保存するという発想は、たぶんどのような階層の人々に利用の道筋が開かれていたとしても、アドルノあたりの眼で見れば、記録の物象化に見えてしまうのではなかろうか――私は何かにつけて否定的なことばっかり思わせぶりに言うアドルノの文体が、学生時代かなり好きだったのだが、それはともかく――ということはつまり、フランクフルト学派系の議論から、アーカイヴの積極的な意味を引き出すことはどうも無謀らしく思えても来る。
「文化」を遺す、という決意は、おそらく僭越なことで、おこがましく見えるだろうが、そのような態度は、1990年代以降、続々と紹介されるようになったポストコロニアル批評の文脈において、一層厳しく批判されるだろう。「文化」には境界が無く、複数の要素が絡み合うものだからである。
ただし例えばE.W.サイードは、『オリエンタリズム』の序説のなかで、自らが研究に投じた背景として、植民地と合衆国で教育を受けた自らのコースを振り返りつつ、グラムシの「批判的仕上げのはじまりは、人が現実には何であるかということについての意識、すなわち財産目録に整理されることもなく無限に多くの痕跡を各人のうちに残してこれまで展開されてきた歴史的過程の所産としての「汝自身を知れ」である」「はじめにしなければならないのは、このような財産目録を作ることである」といった言葉を引用しながら「私のつくった記録がグラムシの言う財産目録となっているかどうかは、私の判断すべきことではない。けれども私は、財産目録を作ろうとする自覚を大切にしてきた」と述べている意味は、一考に値する*5。
- 作者: エドワード・W.サイード,Edward W. Said,今沢紀子
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「文化」が混淆的なものだという前提を受け入れるとして、しかしながら、具体的には誰に、それを遺す責任や義務、あるいは権利が発生するのだろうか。文化は誰のものか。何を意図して遺すのだろうか。
ある時点において、現在では複数の国籍に分かれてしまった人たちが執筆していたジャーナルがあったとして、それが散逸してしまい、まとまった形ではたまたま一か国にだけ遺されていた、とう事態を想像してみる。そこには従来あまり認識されてこなかったけれど、世界的な思想潮流の前提になった重要な論文が載っていることが、近年「発見」され、学術的価値が極めて高いという評価を獲得できたとする。では、誰がそれをデジタル化するのか。あるいは、すべきなのか。遺されていた国の所蔵機関が、税金で?配信のためのインフラも、その国が持つべき?国家的なプレゼンスを高めるために率先してデジタル化しろという意見もありうるだろうし、何で税金使って他所の国の資料を自国でデジタル化してわざわざ提供するんだという反対意見もありうる。どちらにも、相応の説得力がありそうでもある。
そう考えると、決して軽い問題ではないのだが、「権力的なものであろうと何だろうと、遺してるだけマシなんじゃないですかね?」という私がふっと思った感想を超えて、文化の保存について、妥当性を持つ見地というのはどうやったら確保できるだろう。
ポスト・モダンの思想状況と、ハイパーテクストで書かれたコンテンツが交差する今の言論空間は、親和性が高いと思う。著者が誰なのかを問おうとすれば、一人で書いたものと呼ぶには色々なリンクが混ざっていて、主体は解体してしまっているし、ネットの文章はどこかで見たようなものが続々と匿名で書いてあるし、書いたものや発言の意味・意図について著者が一義的な意味を与えることが出来たとしても、読者はそれを、異なる文脈に組み込んで、どんどん好き勝手に解釈していった結果、別の意味になってしまうわけだから、まさに「散種」といえるのかもしれない。
TwitterやLINEで発信される呟きに至っては、フーコーが『知の考古学』で書いていたことを意識してみると、一義的な意味を読みとるかどうかの前に、多くの場合すでに文法的に破綻している(よくよく考えてみると、「渋谷なう」は文章ではない。しかし文でもあり得るだろうか?)――書いたものの生産者が、生産物を自己のコントロール下に置くことが出来ないのだから、その気になればそれも「疎外」と言えそうな気がするが、言葉を駆使するのも一つの特権的な技能に属するのならば、大した問題では無いかもしれない――いずれにせよ、そのようにして書かれたものの差異と反復を享受した後で、それを遺すことは、著者への抑圧になるのか否か。生産者の意に反して遺しますということの正義は何によって担保され得るか、などなど、色々考えてしまうのである。
- 作者: M・フーコー,中村雄二郎
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そうすると、ポスト・モダンの思想家から記録についての新しい見解を引き出すのは無理なのかなあ、と諦めかけていたところで、やはりちゃんと考えている人がいた。やや意外な感じはしたが、フーコーやデリダ、つまりフランス系の思想である。デリダの『アーカイヴの病』を読もうとして、これだけの思うことをまず書き出してみたのだが、いい加減長すぎるので、デリダの読書メモは次の機会にまわしたい。要するに、私に出来たことは、ぐだぐだと悩みながら、<アーカイヴ>を思想するとはどういうことなのか、その入口の手前でぐるぐると行ったり来たりを繰り返すことに過ぎなかった。しかもおそらく、かなり偏った理解の仕方で。