敢えて読書史と読者史に思うことの断片いくつか

――和田敦彦『読書の歴史を問う―書物と読者の近代』読書メモ

読書の歴史を問う視点

 和田敦彦著『読書の歴史を問う―書物と読者の近代』(2014年、笠間書院)を読んだ。

読書の歴史を問う: 書物と読者の近代

読書の歴史を問う: 書物と読者の近代

 刊行前から楽しみにしていた本で、出たらぜひとも感想をまとめておきたいと思っていた。発売後すぐに読んだのに、身辺が少し慌ただしかったためにブログの更新自体が停滞してしまったが、以下、本書を通じて考えさせられたことについてまとめていきたい。

 本書の目次については、すでに版元が詳細なものを公開しているが、以下に掲げる全10章からなる。

第1章 読書を調べる

第2章 表現の中の読者

第3章 読書の場所の歴史学

第4章 書物と読者をつなぐもの

第5章 書物が読者に届くまで

第6章 書物の流れをさえぎる

第7章 書物の来歴

第8章 電子メディアと読者

第9章 読書と教育

第10章 文学研究と読書

 本書のスタンスの特徴は、冒頭のベトナム社会科学院にある日本関係図書との出会いに表れているだろう。これらの資料群は、ベトナム戦争の際に鉄の箱に入れて疎開された。そのことの意味を和田氏は次のようにまとめる。

「そこに書物があるということだけではなく、今までそれらが維持され、残されてきたこともまた、当然なことでも容易なことでもない。書物がそこにあるということ、そして読者に届くということが一つの驚きであるということを、そしてそれが調べ、考えるべき問いであるということを、この図書館の蔵書はまさに実感させてくれる」(『読書の歴史を問う』p.11、以下本書という。)

 ここから本書は、読書研究を「理解するプロセス」とその前段の「たどりつくプロセス」に区分する。そうして、「読者への具体的な働きかけを問うことなく出版史や流通史を記しても意味はない」(本書p.17)とまで言い切っている。本書では、表現の問題としてまず雑誌新聞が、ついで投書家が論じられ、読書空間、書物の仲介者、流通、検閲、電子メディア、国語教科書、文学理論のなかの受容史をめぐる問題といったテーマが手際よくまとめられて展開されている。

 手際が良すぎるといえば不当かもしれない。というのは、いずれも著者にとっては1997年の『読むということ』以来の、20年近い研究で開かれてきた独自の読書論のエッセンスにほかならないからだ*1

 構成としては、和田氏が中心に取り組んできたテーマが各所に配置されるとともに、前田愛永嶺重敏佐藤卓己日比嘉高各氏の近年の研究動向が整理されている。巻末の脚注では関連領域の情報まで整理されているので、読んでいて既知の文献だけでなく未知の文献が見つかることもしばしばだった。ほんとうにありがたかった。

 非常にコンパクトに、わかりやすく、多岐にわたる読書の歴史の論点をまとめている本なので、こういう本が読みたかった!と言っていた人は周りにも結構いたし、もっと若いころに読んでこういう視点を身につけたかったという感想も聞いた。同感だなと思う一方、感想が書きにくくなるようなある種の引っかかりも実は感じていた。

 いろいろな論点を示している本だけに、この本の全てが読書の歴史のトータルな形とされることに、軽い引っかかりを覚えたのだ。この本は新しい、ということと、だけどどこか全然新しくない気もするという読後感がぶつかりあっていた。そのことをもう少し掘り下げて考えてみたい。

たとえば読者の歴史について

 本書を読んで初めて読者研究の面白さを知った、という方もおられるだろうが、読者の歴史の研究は、少なくとも50年以上の「伝統」がある。そのことを踏まえて本書の新しさを考えないと、研究史的な読み方ではあんまり生産性がないことになってしまうと思うのだ。

 例えば1964年に『近代読者論』を書いた外山滋比古氏は、『異本論』のなかで「作者の手もとで古典になって世に送られる作品はひとつも存在しない」(p.13)という卓抜な表現で読者への注目を促して、次のように語る。

「作品が時間の流れに沿ってどのような運命にめぐり会い、どのように展開して行くか。それをたどって行く見方も必要なのではなるまいか。作品は読者に読まれることで変化する。そして、あとからあとから新しい読者があらわれる。文学作品は物体ではない。現象である。読者が新しい読み方をすれば、作品そのものも新しく生れ変る。後世、大多数の読者が、作者の夢想もしなかったような意味を読みとるようになれば、その新しい意味が肯定されてしまうのである」(『異本論』p.15)

異本論 (ちくま文庫)

異本論 (ちくま文庫)

 ただ外山流読者論と、和田流「読書の歴史」が、まったく別物であることは、簡単に想像がつく。もちろん、電子メディアが入っているからではない。

 絶妙なタイトルなのである。「読書の歴史を問う―書物と読者の近代」というと、書物の近代と、いわゆる近代読者の成立を問うと、本書が扱っている読書の歴史を問うたことになりそうに見えるのだが、それとは絶対に違う。

 前田愛氏によれば「文学研究者のあいだで、読者の問題が研究領域のひとつとして認められるようになった時期は、昭和三十年代に入ってからの数年間であったと思われる」といい、さらに1920年代から50年代の国民文学論までを「読者論小史」として描いている*2。文学は門外漢だけれど、そうしてみると読者論はもう古いと言っていいような分野なのかもしれないし、にもかかわらず文学研究における読者論は、続々刊行されていて活況を呈しているようにもみえる。読者の歴史を問わんとしているのは、何も本書だけの話ではないのだ。

書物の近代―メディアの文学史 (ちくま学芸文庫)

書物の近代―メディアの文学史 (ちくま学芸文庫)

近代読者の成立 (岩波現代文庫―文芸)

近代読者の成立 (岩波現代文庫―文芸)

読者はどこにいるのか--書物の中の私たち (河出ブックス)

読者はどこにいるのか--書物の中の私たち (河出ブックス)

 基本的にこれまでの書物・読者の近代から連想される研究史の蓄積は、基本的に「理解するプロセス」に属するものだったといえるかもしれない。その意味で、本書は基本的に、「読者」とはこういうものである、というような形で、いくつかの読者の型を設定するような問題の立ち上げ方をほとんどしていない。

 じゃあ何なのか?ということは、考えなければならないが、とりあえずはっきりした読者史ではないように思えるのだ。アルベルト・マングェル氏のエッセイのように、結局読者の歴史とは、本を読む者一人一人の歴史のような形で示されるほかないということなのかもしれない。そういえば、本書のタイトルはマングェル氏とちょっと似ているが、読書と読者の関係は考え出すとなかなか難しい。


歴史研究、思想史研究のなかの読書と読者

 読者を個人ではなくある社会的な階層に分けてとらえる視点なら、文学よりもむしろ歴史学や思想史の領分になってくるといえようか。新聞研究の分野では日本新聞協会が発行する『新聞研究』で、1961年にすでに「日本の読者」研究をしている。読者が新聞批判をすることを背景に組まれた特集で、統計なども出ている。

 1980年代までの研究史を包括的に知るためには、山本武利氏の『近代日本の新聞読者層』の第一章は必読である。すでに述べた文学分野における読者研究にくわえて、自由民権運動大正デモクラシー期における読者研究の方向性が示唆されている。言及された文献は日本史研究の古典なので、文庫でも復刊されて現在も入手できる。

明治精神史〈上〉 (岩波現代文庫)

明治精神史〈上〉 (岩波現代文庫)

 本書第2章「表現の中の読者」でも推奨されている個別の雑誌研究は、少なくとも明治思想史に関していえば、『明六雑誌』や『国民之友』『日本人』など、日本史の教科書に出てくるような主要雑誌の研究は90年代から相当に蓄積されている。近年でも明治期のナショナリズム研究でも、思想の担い手であり、読者としての「書生」の重要性が指摘されているので、この方面の研究は今後歴史学でも活発になっていくはずと思う。

 さらに歴史学からする読者の研究では、フランスの現代歴史学アナール学派(Annales School)が提唱する「社会史」の文脈で、ロジェ・シャルチエ氏の読書の文化史や、フランス革命期における出版物を分析したロバート・ダーントン氏の研究などからも直接的ないし間接的な影響を受けている。シャルチエ氏の方法は、それ自体取り上げてちゃんと勉強しなければな、と前々から考えている。さらにイギリスの歴史家ピーター・バーク氏の研究も重要だと思われる。

読書の文化史―テクスト・書物・読解

読書の文化史―テクスト・書物・読解

猫の大虐殺 (岩波現代文庫)

猫の大虐殺 (岩波現代文庫)

A Social History of Knowledge II: From the Encyclopaedia to Wikipedia

A Social History of Knowledge II: From the Encyclopaedia to Wikipedia

 また、本書が意識的に具体化しようとしている「たどりつくプロセス」に関しても、思想史の分野で注目がないわけではなかった。アダム・スミスの書誌学的研究で知られる水田洋氏は、著書『知の商人』のなかで、次のように問題点を整理している。

「思想史研究の中心は、いうまでもなく原典の解読であるが、一方ではそれの形成過程、他方ではそれの伝達・普及過程を明らかにすることが、ふたつの重要な支柱の役割をもつ。ふたつの方向での研究は、もちろんないわけではないが、しばしば--とくに形成過程は--伝記と混同され(中略)、あるいは伝記に埋没しているし、伝達・普及過程は、たいてい研究史に限定され、しかも正解か誤解かという正統・異端史観に支配されている。さいごの傾向の例は、とくにマルクス主義思想史に豊富にみられるが、普及史においては、正解と誤解は同権なのである」(『知の商人』p.241)

 書物の出版社が思想史のアクターとしてどう捉えうるかという点では、最近の『物語・岩波書店百年史』が参考になろう。とくに第3巻では、『日本思想大系』『日本古典文学大系』あるいは同時代ライブラリー、書目からどのような思想を生み出そうとしていたか、傾向を読み解こうとする試みがなされている。

 出版史の研究についても、むしろ電子化という新たな課題と直面するなかで、関心が高まっているといえそうである。こうした視点からの「たどりつくプロセス」の掘り下げは、喫緊の課題である。柴野京子氏の『書物の環境論』は、とくに流通に関して、本書と重なる部分も大きいように思うが、どうだろうか。

書物の環境論 (現代社会学ライブラリー4)

書物の環境論 (現代社会学ライブラリー4)

 歴史社会学的な視点でも、読書は重要な分析対象とされているようである。例えば佐藤健二氏は、『読書空間の近代』のなかで柳田国男の読書について取り上げる。

読書空間の近代―方法としての柳田国男

読書空間の近代―方法としての柳田国男

 柳田が「内閣文庫」に勤めるなかで、人があまり読まない記録というものがあることを発見していく過程で、彼の民俗学が立ち上がっていくことを指摘している。とくに柳田の読書が、まず歴史性を帯びた書物の塊との出会いからはじまったといい(『読書空間の近代』p.132)、文庫―蔵書は、柳田の学問構想の「産屋」だったとするのは、一冊の本の解釈史ではない、ある種のアーカイヴとの出会いが、人の思想形成にいかに関与するかという問題を投げかけている。

 自分の関心ももっぱらそこにあるが、歴史の中で読者同士のつながりを発見していく過程というのはかなり重要なのではないかと思っている。例えば「読者である信徒」によって担われる宗教思想運動として、内村鑑三の無教会運動が「紙上の教会」である雑誌を媒介に成り立っていたことを説明した赤江達也氏の研究は、ほんとうにおもしろく読んだ。

 これらの研究の成果を踏まえたときに、本書で描かれた「地図」はどう拡大していくのか、目が離せない。


図書館情報学のなかでの読書と読者

 本書の論点はまだまだあってとても語りつくせない。検閲なども論じれば大変なことになってしまいそうなので、いったんこの辺でやめて、図書館の話をしたい。本書でも図書館について言及されているので、注目した人は多そうである。例えば図書館史の有効性について次のように述べられる。

「ここで図書館史を評価したいのは、それが読書の歴史、すなわち読者への書物の流れがいかに形成され、あるいは制限されてきたかを教えてくれるからである。あるいは、こうした読者への書物の流れという観点から、これまでの図書館史研究の成果を今一度とらえなおし、整理していくことも可能だろう」(本書p.72)

 ただ、こういっては僭越極まりないが、私自身は近年研究が増えている図書館史でも、日本国内ではまだまだ読者≒図書館利用者への視点は弱いと感じている。図書館史から出発して読者論を立ち上げた唯一の例外が、本書でも言及されている永嶺重敏氏だと思うのだが、そのあとに続く人があまりいない気がする。

 最近出た図書館史の実践的な書き方の教科書でも、あくまでも図書館員が図書館史に関心を持つよう奮起を促す内容になっていて、結果的に、図書館員による図書館員のための歴史が要請される形に留まってしまっている。

 この場合、問題は図書館員のメンタリティであって著者の奥泉氏の責任ではないのだろうが、せっかく和田氏が読書の歴史という形で図書館にも目を向けているのに、図書館側でそれにこたえる視点が乏しいのは、正直どうなんだろうか。と私は思ってしまう。

 もっとも、最近知ったところでは、アメリカの図書館情報学における「専門性」をめぐる議論のなかで、読書の社会史についてちゃんと知っておくべきだろうという提言もなされているらしい。

 リチャード・ルービン氏の『図書館情報学概論』は、図書館とマイノリティやジェンダーの問題なども扱っていて、また、教育と情報の衝突とでも形容できそうな、図書館員の専門性をめぐる図書館学者と情報学者の間での論争について記述されていて、アメリカの事情がよくわかるのだが、この本によれば、図書館員の専門性のなかで読書の歴史に関する知識が必要だという提言が、1997年頃にすでになされているのだそうだ*3。提言しているのは、アメリカ図書館史研究の大家ウェイン・ウィーガンド氏*4

 はやく日本の図書館のなかでも読書の歴史、読者の歴史がもっともっと注目され、たくさん研究される日が来てほしいと思う。



 和田氏による本書の最大の特徴は、従来バラバラに研究されてきたいくつかの流れを、「たどりつくプロセス」と「理解するプロセス」に分類し、しかもそれを統合した研究領域がありうることを示唆した点にあると考える。

 ところで、こうしていろいろと考えてきて思うのは、和田氏の研究領域は、例えば「近現代の書物を対象にしたネオ書誌学」と呼んでしまって、よいのではないか?ということだった。

 もしかしたら、あえて「リテラシー史」を標榜する和田氏には、旧来の書誌学の在り方に対して疑問や批判がおありかもしれず、それを混ぜっ返して「書誌学」に再度分類してしまうのは乱暴極まりない話かもしれないのだが、近代書誌学というのは、ありそうでない、できそうでなかなか構築されない分野だということは、かねてから何人もの斯学の先輩方が言及してこられたところでもある。

 自分で言うのもなんだが、私が興味があるのは少し変な領域で、思想家の全集の本文の異同だったり、地方で出版され回覧された同人誌だったり、あるいは図書館史の歴史だったりするのだが、そういうものに興味を持ってきたのは、どこの誰にとっても、何かを読んで何かを考える経験は代替不可能でかけがえないもので、どんな媒体・形態で、あるいはどんな場所で、お金を払ったのか、借りたのか、その意味や意義をいい加減な推論で簡単に判断すべきでない。という考え方を多少なりとも歴史研究のなかで具体的にしたかったからと思っている。本書を通読し、「近現代の書物を対象にしたネオ書誌学」という着想を得たことで、もう少しだけその興味の対象が具体的になった気持でいる。

 タイトルから読書史や読者史として本書を読む方もおられると思うが、“敢えて”いえば、私にとってこれは「書誌学」の本だった、それも極めて新しい論点整理をした本だったというのが、読了後しばらくたった今の感想である。無論「ネオ書誌学を問う」よりは「読書の歴史を問う」というタイトルのほうが数十倍カッコイイことは、まったく否めないのであるが。

*1:和田氏の本については、かつて当ブログ内で『越境する書物』についての読書メモを書いたことがあるのでそちらも参照。

*2前田愛『近代読者の成立』(岩波現代文庫版)p.377

*3:リチャード・ルービン、根本彰訳『図書館情報学概論』(2014年、東京大学出版会)第二章による。

*4:まだ未見だが、次の文献がある由。急ぎ読んでみたいと思う。Wiegand, Wayne A, "Out of Sight out of Mind: Why Don't We Have Any Schools of Library and Reading Studies?" Journal of Education for Library and Information Science, 38(4), 1997.ウィーガンド氏のプロフィールについては、Wikipediaのほか、川崎良孝「ウェイン・A.ウィーガンドと図書館史研究--第4世代の牽引者」を参照