ピーター・バーク著・井山弘幸訳『知識の社会史2』読書メモ

「本書では、思想を語らないというわけではない―制度を理解するうえで思想を省くことはできないのだから―、ただ、思想の内在的歴史より外在的歴史を、知的な問題より知的な環境の方を重視するということだ」(p.13)

 本書は、イギリスの歴史家、ピーター・バーク(Peter Burke)のA social history of knowledge II : from the Encyclopaedie to Wikipedia. Cambridge: Polity, 2012. の邦訳である。

 2というからには1もあって、1は2000年に原著が発行され、2004年に邦訳が発行されている。1の副題は、邦訳では意訳されてしまっているが、「グーテンベルクからディドロまで」なので、18世紀中葉にディドロが作った百科全書からウィキペディアまでを副題に持つ本書はまさに続編ということになる。

 自分は門外漢であるために(ことに高校時代世界史が結構苦手だったために)、学術的な水準からいうとどうなのかよくわからないけれど、豊富なアイディアに満ちていて、そのひらめきに触発されて、さらに発展的に議論すべく個別の論点を検討してみたくなるような本というのはある気がする。本書もそういう一冊として読んだ。

 ピーター・バークは、歴史学と社会理論の関係を扱った本や、学説史の展開から文化史とは何かに迫った本もあるが、彼の本は試論的なものが多いようなので、私のような読者も許してもらえるかもしれない。

歴史学と社会理論

歴史学と社会理論

 このところ、新しい図書館史の記述の仕方について色々考えているところでもあったので、本書を読んで思い浮かんだことが結構あった。それを書きとめておきたい。

情報・知識・知恵

 『知識の社会史』(以下『1』という。)の方で、バークは、知識と情報の関係をあくまで便宜上と断ったうえで、次のように整理している。

 バークによれば、情報(information)は、生の素材であり、思考によって処理されたり、体系化されたものが知識(knowledge)とされる。知識は調理された素材である(『1』p.25)。また、知識と知恵の関係について、バークは、時代の経過によって、知的進歩(intellectual progress)という仮定を持ち込むことをやんわり拒否している(『1』p.26)。知識に関する文献は世紀を重ねるごとに増えていったが、知恵については、次のようになる。

「他方、知恵(wisdom)は累積的なものではない。むしろ人それぞれが多かれ少なかれ苦労して体得すべきものである。知識の場合でさえ、個人のレベルでは進歩があると同時に退化も存在したし、今もある。最近の世紀では特に、学者集団や大学の専門化が進み過ぎ、以前にもまして(知識の広さが犠牲になった分、知識の深さが増した、ということがあろうとなかろうと)限られた知識しかもたない学生が数多く輩出している。」(『1』p.27)

 科学革命は問題を解決するばかりでなく、新たな問題も生み出していったと見るわけである。このような観点から、1では、知識人はいつ誕生したのか?の系譜が辿られ、15世紀から18世紀にかけて起こった学識者や図書館をめぐる制度や思考の変化が追求される。

 知識と情報に関しては、最近『学術書を書く』という興味深い本のなかで、「学術情報」という用語の発生をめぐって、バークとは異なる角度から考察が試みられていて面白かった。

学術書を書く

学術書を書く

 情報として処理され流通する「学術情報」は、ある種の知識の断片化でもあり、そういう形で加工することによって見えてくるものが存在する反面、伝統的な学術出版では想定されていた「読者」のあり方を見えにくくし、学問のあり方そのものにも影響を与えているのではないかという指摘である。すぐその是非は判断しがたいが、視点としては重要だと思う。

図書館の役割

また、バークの本では、例えば図書館について、こんな風に論じられる。

 図書館の意義と規模は、印刷術の発明以降飛躍的に増大した。少なくとも一部の地域では、大学構内の図書室は講義室と張り合うようになっていた。ルーヴァン大学は1639年の時点でも図書館は不要であると主張していた。「教授こそがあるく図書館だから」と いうのである。しかしライデン大学では、これと対照的に、図書館は週に二日開いていて、教授は学生に鍵を貸すこともあったという。大学の外ではこれから述べる私立図書館公共図書館が学問の中心に成り、単に読書をするだけでなく、学識者の社交の場であるとともに情報や思想の交換の場となった。当時、図書室 で沈黙を強いることは不可能だったし、想像すらできない状況にあった。書店や珈琲店と同様に、図書館は活字によるコミュニケーションと話し言葉によるコ ミュニケーションとの連携を促進した*1

 私にとって『知識の社会史』は1よりも2のほうが面白く感じられたのは、2が扱っているのが、1の中心に据えられた近代初期の問題ではなくて、日本の近代史とも関わる19世紀以降の問題だったからだと思う。日本が近代化の過程で模倣した図書館像も、1に登場した図書館像だけを読んで考えているとむしろ間違ってしまうだろう。

近代図書館の歩み (至誠堂選書 17)

近代図書館の歩み (至誠堂選書 17)

 本書の目次は出版社のホームページにも掲載されているが、以下のとおりである。

序文

 第一部 知識の実践

第一章 知識を集める

第二章 知識を分析する

第三章 知識を広める

第四章 知識を使う

 第二部 進歩の代価

第五章 知識を失う

第六章 知識を分割する

 第三部 三つの次元における社会史

第七章 知識の地理学

第八章 知識の社会学

第九章 知識の年代学

 本書で面白かった論点をとくに三つ取り上げたい。「大衆化」「知識の喪失」「専門化の時代」である。

知識と大衆化

 第一部では、知識の実践と題して、知識に対する一連の行為として、集める(Collection)、分析する(Analysis)、広める(Dissemination)、使う(Action)のプロセスが注目される。最初は知識の収集だが、18世紀半ば以降、researchという単語が増えていく(p.23)ことや、保存書庫の問題(p.76)、目録機械化の進捗を受けてカードカタログを燃やしてお祭り騒ぎをするアメリカの某図書館の話(p.79)などが出てきてここに興味深い。

 とくに面白かったのは、知識の広まりにあたって「大衆化」という形容を用いるときの注意点をめぐる指摘だった。

 バークは、専門家にとって非専門家が話したり書いたりすることは何であれある種の大衆化であるとしたうえで、「問題はこうした非専門家が文化的には同種の集団ではないことである」(p.135)といい、「エリート」と「大衆」と言う二元的モデルでは単純化しすぎだと述べている。

 彼らの持つ知識の違いから、集団をさらに分割して、男性と女性、大人と子供、中産階級と労働者階級などに分けるべきだというのである。これは、図書館数や蔵書が増加を指標に、ともすれば安易に知の大衆化を語ってしまいそうになる図書館史でも留意すべき重要な指摘だと感じた。また、知識の社会学を論じたくだりでは、労働者階級の登場に触れて、美術観や博物館がパブリックな場所として広く公開されると中産階級の連中がホームレスを入れるなと苦情が寄せられたとする指摘(p.365)もあり、カーネギーが理想に燃えて作った公立図書館がたくさんあっても、そこでの「パブリック」は誰のことなのかという問題がつきまとうのである。

知識を失うこと

 第二部では「進歩の代価」と題して、知識を失うことや、知識の分割(ジャンル化)が論じられる。いずれも、単純に知識の発展を予想するところからは出てこない大事な論点だと思う。

 知識は、役に立たないと思われた時点で失われ、忘れられる危険が生じる。新しい技術が現れると、時代遅れになってしまった機械を動かすのに必要な方法知識(ノウハウ)は失われてしまう(p.218)というのは、おそらくその通りだろう。何かそれはある課題を解決するために改修されたシステムが、問題を解決すると同時に別の新たな問題を惹起するのにどこか似ている。「ある種の知識を得るには、他の種の知識を排除するよう構造化されている、という意味において、多くの文化には暗い面も明るい面もある」(p.218

 テクノロジーは、情報を集めるのと同様に、情報を隠すためにも駆使される。スパイウェアに対抗するためにアンチ・スパイウェアをインストールするように(p.223)。また、故意に誤った知識がばらまかれ、ノイズのなかで見つけられなくするのも知識を隠す方法として活用される。

 古くなり、陳腐となったと見なされた知識は、その結果失われる場合もある。逆説的な書きぶりだが、「この忘却の過程は情報過多の時代になって加速されてきた」(p.229)とバークはいうのである。学問のはやりすたりもある。過去には華やぐテーマだったものが、禁忌となってしまった優生学のような例もある(p.246)。そのなかには、後代に別の形で痕跡を残していくこともある。

専門化の時代

 知識が爆発的に増加し情報過多になってくると、専門化が避けがたく進行してくる。

 初めはアマチュアたちが学会を組織したが、これと差異化を図るべく専門家が学会を組織し、雑誌を刊行し、集会が行われるようになれば、改めてその学問の「分野」が意識されることになる(p.258)。19世紀の前半には、ボランティア組織が多数を占めていたが、後半になると大学による新分野の設立と制度化が相次いでいく(p.261)。バーク自身は、20世紀までの専門化と、それに抗う形で出てきた学際化の潮流を対比的に論じた後で、「綜合知識人は以前にもまして必要である」(p.286)と述べ、専門化の潮流に抵抗して全体図を描く者の登場を要請する。

江戸の知識

 ここで本書とちょっと似ているなと思ったのは、加藤秀俊先生の近刊『メディアの展開』である。

 本書では江戸の豊かな知的鉱脈を発掘しているが、バークと共通の論点も指摘している。例えばバークは、近代初期から18世紀にかけて、ヨーロッパには「学問の共和国」が存在し、ラテン語の教養を背景に、書いたものを贈呈したり、情報を送ったり、旅行中に訪問したりしていた一定の人々がいたことを指摘しているが(p.305)、18世紀の百科事典の時代は、「グローバリゼーションの時代」として以下のように書かれる。

「ここですくなからず興味をそそられるのは東西で展開した十八世紀の「百科事典の時代」が知識のグローバリゼーションの時代でもあったことだ。まずフランスの『百科全書』についていえば、そこにはディドロじしんの筆になる「シナ哲学」の項目もある。かれは明から清へと王朝が移行した時期の大陸の文化と文明を観察してその社会制度を尊敬のまなざしでえがいた。また古典についてもふれることが多く、儒教、仏教はもとより、老子宋学についても論じている。十八世紀のヨーロッパには、すでに「大航海時代」以来のアジア知識があり、また宣教師や旅行者による見聞記のたぐいも入手できるようになっていた」逆もまた真で東洋人の西欧認識もかなりはっきりしてきていた(p.183)

 科学史の文脈では、学問の歴史に関しては、ドイツに大学が出来ていく19世紀から、学者の専門職業化が開始するのであって、それ以前は助走期とする見方が存在する。

 この点は実はバークとも一致する。もし、以上のような観点から、18世紀当時の学問状況の国際性について評価するにしても、19世紀以降のナショナリズムの問題は、やはり別個に考えていく必要もあるのかなあと思う。ここに出てくる「専門化と国家主義」(p.305)は、原書ではspecialization and nationalism.となっているが、バークが、1810年に創設されたベルリン大学を引き合いに出しながら、戦争に負けると大学が出来るといっていることも合わせて想起しておきたい。

 戦争と科学というのも、意外と本書中のあちこちに出てくる比較的重要な論点と思う(例えばp.185)。

 第一次世界大戦で科学者が果たした役割の話が出てくるが、行動する前に知識を集め、分析し、広めることの必要性は帝政国家の方が明瞭に存在する。なぜなら領地の知識が欠如しているからである(p.199)という説明はなるほどと思う。日本における近代学問の形成と図書館との関係については、前に論文を書いたこともあり、その経緯から私自身も考えてみたいと思ってきたが、植民地と近代図書館というテーマも、まだまだ深める余地がありそうに思われる。

近代学問の起源と編成

近代学問の起源と編成

 まとめの部分として、バークは知識の年代学を辿りながら、そのなかでも時代区分として1850-1900は専門化の歴史において重要だとする。一連の学問分野が国家内部で中央集権化し、政府企業から直接経済支援を受けるように転換したからであるという。学問の分野化(p.401)が進んだのである。

 他方、1900年以降になると、知識の危機が訪れる。西洋の没落が喧伝された第一次世界大戦では、戦争協力に向けて学者が動員され、さらに諜報機関も増加した(p.407)。調査機関が増えてきてそこに資料が集積されていくのも、この時期のことである。その後の見通しとして、こんなことも言っている。

「知識社会が発展してゆくことは、とりも直さず、大学が知識生産の中心としての重要性を失っていくことを意味した。知識の複数性を認めるならば、大学はもはや知識の生産を独占できないことは明白で、大学の「市場占有率」はこの期間、確かに減少していった。これは企業の研究所(略)とだけでなく、二十世紀後半に増加しますます多くの国々に広がっているシンクタンクとの競争が激化した結果でもある」(p.413)

 このほか、バークが、記述に関して「自己批判」しながらより完成度の高さを目指していこうとするウィキペディアのあり方をかなり評価していることも印象的だが(p.426)、後半に論じられていることは日本近代史のなかで向き合った欧米の図書館の様子が、やはりある特定の時代の所産であったことを気づかせてくれる。

 バークの著述とどういう風な関係にあるのかまだ把握できていないが、最近も、印刷技術の普及を扱った『印刷という革命』のような本も出ている。オンラインカタログの時代になったから16世紀までの全著作が参照できるようになって、そこから貴重書扱いされてきた本をもとに語られたストーリーとは違う歴史を紡ぎ出すという展開は、端的に燃える。新しい図書館史や出版史はこういう風にも描けるのだなと思う。

 さしあたっては、学問の専門家とナショナリズムという問題を手掛かりにして、19世紀における国民国家の形成期に、近代的図書館としてパブリックライブラリーの創設を目指した(そして挫折した)という方向性でのみ、日本の図書館史の発展が描かれていいかどうか、色々な議論を検討するところから、私自身は初めてみようかなと思っている。複数の源流を確認することも、その意味で非常に重要である。

*1:ピーター・バーク 著、井山弘幸、城戸淳 訳『知識の社会史』(新曜社、2004)p.89。なお、引用中では「公共」となっているが、訳書中ではPublic Libraryは「公立」図書館で訳されている例が多いようだった。