新聞記事による帝国図書館探訪

先日、連休を利用して図書館で古い新聞記事を漁っていたら、大変変わったものが見つかった。いくつかの図書館史の文献をみるとたまに引用されているようなので、別段珍しいものでもないのだろうが、ブログにあげて紹介してみる。

記事は履霜生という人の「帝国図書館」と題するもので、陸羯南が主催する『日本』の「雑録」欄に、に明治35年(1902)末から翌月にかけて何度かにわけて連載されたものである。

陸羯南 (人物叢書)

陸羯南 (人物叢書)

陸羯南―自由に公論を代表す (ミネルヴァ日本評伝選)

陸羯南―自由に公論を代表す (ミネルヴァ日本評伝選)

何度か、というが、数えてみると(漏れがなければ)14回。毎回、一段か二段か分の分量が掲載されている。変な言い方だが、時として、正岡子規が書いていたスペースより記事の扱いが大きいようにすら見える日もある。なぜこんなに力の入った記事がずっと載り続けたのか、雑報欄の記事にしては、長すぎるのではないか、と思ったのが、面白いと思った理由である。

ちなみに、石井敦氏が竹林熊彦氏の収集した切り抜きをもとにして記事の収集、再編集した図書館史史料集の基礎文献である『新聞集成 図書館』(大空社)にも、この連載は一部しか取られていない。

図書館 第3巻~第4巻―新聞集成

図書館 第3巻~第4巻―新聞集成

まずは初出と思われる明治35年12月28日の記事から。

○図書館とは何ぞや、曰く、近代の諸大家が思想の仕入に行く所なり、とはアービング氏が英国図書館を見て下したる批評であるが、如何にも図書館は人の思想を豊富にし知識を発達せしむるの役目を持つてをる者である、今代の吾人が何事を研究するにも単独で出来る者でない幾多の学説に頼り、他人の経験を以て自己の経験を補ひて以て研究を完全に為し得るものである。過去幾百年の間古人が幾多の研究を積み其結果を著書として残しあるを以て、吾々は之を本とし之を参考として研究に資せねばなるまい

図書館は「思想の仕入」に行くところなのだそうだ。


帝国図書館は上野公園の奥にあつて極めて静粛なる位地を占め、敷地も広い、庭園には青き蘿の纏へる松樹あり、天下の秋を告ぐる梧桐あり、胭脂に飽く楓もあり、柳もあれば桜もある梅が馥郁たる匂ひを放ちたる後は桃が妖姚たる花を開き、春夏秋冬花絶えざるパラダイスに取巻かれて飴色木造の帝国図書館が厳然として立つて居る

ううむそうか「花絶えざるパラダイス」か。

○此極楽園の小径を通り、厳然たる建物の内部に這入りたるものは、必ずアービング氏の観察を呼び起さぬものはあるまい、此所にも青白き顔の勉強家は塵積りたる古文書を引繰り返へして連りに其内容を写し取つて居るを見るであらう。室内は恰も打ち水を打ちたるが如く極めて静粛にて只物を書く音、書籍の開閉の音のみ聞ゆ、時々此寂寥の主配を打破つて勉強の重荷を訴ふるの声はアチラコチラの隅より歎息の声となつて起る。日本全国に図書館の数三十八個、書籍の合計五十四万六千五百五十七冊で、入館者の合計は十六万三千三百零八人である(三十二年中の統計)此中に就て官立のものは帝国図書館のみで、其蔵書の数は十八万八千二百五冊に達し、閲覧者は十一万千六百三十人であつた(同年調)今年は尚増加してをる事は明かである、現今日本一の図書館とは帝国図書館なりと称して異議を唱ふるものゝないのは無論のことである。

永嶺重敏氏が書いている「黙読」を強いる装置、ここにありという感じである。

当時はなんでも椅子を傾けて座っているだけでも注意されたとかなんとか。

記事はそのあと沿革に入る。

○此大図書館も今迄種々の変遷を経た、初め東京書籍館と云ひ、明治五年四月文部省の創立したるもので茗渓の聖堂に設けて公衆の閲覧を許したるものであつた、此時代の事は予は少しも知らず、下つて十三年七月東京図書館となり、現今の場所に移転したのが十八年の六月頃で、即ち今の家屋は既に十七年の寿命を保つてをる予未だ当時の物語を為し得る年齢に達してをらぬで遺憾ながら其有様を写すことは出来ぬ

そもそも、書いた履霜生という人がどういう人なのかいまひとつハッキリしないのであるが、記事を読むと明治10年代後半の上野に移ったころの東京図書館の様子は知らない、30年代になって帝国図書館を使うようになった、というくらいの人なので、そんなに年ではないのかもしれない。20代くらいの人であろう。あるいは、『日本』の読者団体で機関誌『日本青年』を発行していた会員の一人なのかとも思ったが、調査しきれていないので後日の課題としたい。

続けて同35年12月30日では、「満員」の窮状が訴えられる。

○満員 満員とは悦ぶべき事象であるや否や、其源因如何、真面目の研究者を増加したるに非ずして、図書館へでも遊びに行かうかと云ふ連中即ち小説読みの仲間の増加したる為なるか、此解決を求むるは先づ数字的説明に由らねばなるまい、故に三十四年度に於ける統計を挙げて見よう、最も多数に読まるゝ書籍は哲学、理学、医学で二割二分一厘、次は歴史、伝記、地理、紀行で之が一割九分八厘に当る、次は文学、語学で一割九分五輪である、第四が国家、法律、経済、財政、社会及統計学で一割四分七厘を占め最も少数は神書及宗教で二分である、其他の科学、芸術の書籍は複雑を避けて挙げぬ、以上の数字によりては余り立入りたる事実を求むることが出来ない、若し医書が何冊、歴史書が何冊、小説が何冊、就中之れに細別を加へて当今流行の恋愛小説が何冊貸した位の統計が出て居れば大に予等の議論の根拠になるであらう、今挙げた丈では十分に云ひ尽すことが出来ぬ、けれども文学、語学書は決して他の書に劣らず一般に愛読せられつゝあることは明かである、文学、語学書殊に小説は一般に読まるゝの証拠は予の実験せし所を本とするより外はない、予の屡々見受ける所を云へば、小説は少くとも一冊は他の書籍に伴ふて借りて読む人は極めて少くないのも一つの事実である

この辺、読書傾向の分析とかが入っていてちょっと面白いのだが、当時図書館で一番読まれていた本は理学、医学関係、というのが判明する。また、文学の地位はたいへん芳しくない。満員になるんだから小説なんか読みに来るな、と言わんばかりの筆者の憤りが文面に表れているようでもある。

そのあと閲覧室の描写に入る。

満員とは幾人以上の事かと云ふに、閲覧室は階上と階下とあり、階下は尋常室ばかりで机の数二十台、一台に付六人詰、但し一台は十人詰のがありて、総計百二十四人、階上は尋常室と特別室、婦人室とより成り、尋常は机の数十六台で一台が同じく六人詰、別に三台の机ありて百三人を容れ、特別室は六台あり、一台は四人詰別に小机が二台、二人詰で、合せて二十八人、貴重書籍閲覧机は一台に七人詰であり、故に階上は婦人室を除きて人員は百三十八人を入るゝを以て、階上階下で累計して二百六十人を以て満員とするのである、此計算にて一年に三百三十四日開館するとせば(会館日数は毎年此の日数と見て然るべし)総計八万三千五百人が即ち一年の満員である、此故に明治十一年以来此の数に満たざりし年は平均の上で満員でないと云ふてよろし、今図書館の報ずる毎年の人員表に由るときは、明治十七年に十万の数を見たるばかり三十年までは甚だしきは三万人、多くて七万を出ないのである、シテ見れば此時代は満員は例外として、三十年以後は満員は原則と見るべきであらう、何となれば三十年は八万五千、三十一年が十万、三十二年が十一万、三十三年も十一万而して三十四年は十三万と云ふ大数であるを以て、到底満員は脱れ難たき結果であらう、満員が僅か三百に足らぬとは何と云ふ小規模の図書館か、かく現在の閲覧室は狭隘を告ぐるを以て、多数の読書家の満足を与へたるには茲に一大拡張を要するから、八年間の継続事業として三十二万円を以て一大新築を音楽学校の隣地に起しつゝあることは人の知る所である。

この計算が妥当なのかどうかはちょっとわからないが、明治18年から30年の帝国図書館開館までは、あまり満員になることはなかった、という指摘は一考に値する。というのは、明治18年から、東京図書館では閲覧料を取り始めたらしいからである。

そしてさらに紹介は続き、今度は開館時間。

○開館時間 近頃は午前八九時開館、午後九時閉館である、併し八時半に馳せ付くるときは大約百人は詰掛けて居る、九時になると二百人近の人数となる、而して此人数は番号札の順序に依りて入場せしむるのであるが、此の番号札に付ても中々狡猾なる事をする者がある、朝早く来たものが人に代て早い番号を取て来る、別に札を看守しているものがないから勝手次第である。そして近傍に家のあるものは開館時間まで家に待てをつて人の取た札を貰ひ、総て其時間になればノコノコ出て行て人より早くに這入るのである、これでは少し早く行ても早ひ札は取れるのではない、故に看守が札の番号を呼ぶに当り往々之れに応じないものがある、大方其時間までに間に合はなかつたからでもあらう、此辺は充分の取締りありたいものである。

私自身は、夜9時までやってた、というのに結構驚いたのだが、もうひとつ順番待ちの不正を取り締まれ、という意見が印象的である。当時は満員になって席が埋まると、もうとにかく入口に満員の札をあげて、出てくるまで人を入れなかったそうなので、8時半からもう順番待ちが行われていたのだそうである。

この記事なかなか面白いと思うので、また機会があったら取り上げて紹介してみたい。