- この記事は、オンライン授業の事例紹介です。
- 2020年度春学期 城西国際大国際人文学部の「歴史・文化の視点」の授業のうち1回分を、「思想史研究の事例―もの言う読者たち―」と題して行った回の一部改変です。
- 改変を加えた個所は授業出席のフォーム(Googleformを利用しました)や連絡事項、授業外で使用するのが微妙と思われる図版などですが、内容についてはおおむねこんな感じです。
- なお、講義内容は以下の図書掲載の拙稿「読者―「誌友交際」の思想世界」に基づいています。
(以下、本文)
今回から、少し歴史研究(思想史研究)の具体例について、お話をしていきたいと思います。『近代日本の思想をさぐる』第14講と併読してもらえれば、理解が深まると思います。
今回は私の研究テーマに即して、思想史の「読者」について取り上げます。
思想史の研究のなかで、「読者」という存在は、従来あまり注目されてきませんでした。というのも、思想史の主役はやはり思想家であり、研究の対象にするのは、思想家の書いた著作(哲学書や文学作品、時事論説)の分析がメインだったからです。
この講義でも色々お話ししてきた「歴史学における思想史」はどのようにやったらいいか、長く考えてきて、私なりの視点が見えてきたのが、この読者を歴史の舞台に登場させることによってです。
1.読者研究とは
なぜ読者か
それにしても、なんで読者を研究するんでしょうか。
文学の研究では、批評家のロラン・バルトの「作者の死」というテーゼのもとで、作品を作者の思った通りに解釈するというのは時代遅れである。文学作品は作者と切り離された独立したものとして評価すべきである。という見方が一定程度定着しつつあります。
たとえば読者論については、前田愛『近代読者の成立』という本があり、すでに古典になりつつあります。作品の内容だけでなく、それがどのように受け入れられたかをとらえること、どんな読まれ方をしたかを調べることが、大事な課題になってきつつあるんですね。
このへんの文学史における研究史整理は、早稲田の石原先生の『読者はどこにいるのか』という本がコンパクトにまとめていますが、1970年代までは作家の伝記研究が主流で、それから1つの作品について深く掘り下げる論が登場しました。その後、テクスト論といって、文学作品を作者の意図や狙いではなく、独立したテクストとして様々な読み方を試みる潮流が出てきました。
じゃあ思想史もそういう傾向が出てきたのかというと、そうでもなくて。
むしろ最近は、著者の復権というか、いろいろな読者によってずっと誤解されてきたけれど、著者が本当に言いたかったことは実はこれだ!ということを研究者が代弁するような研究が出始めています。
なんで文学と思想の研究でこんなに違うのでしょうか?
一つには、思想家が言いたいことを込めるのが思想作品ですので、言いたいことが伝わらないというのは、思想として致命的だという問題があります。
それに、思想については、読者が自由に解釈すればよいというのは、思想家から見た場合、コミュニケーションの放棄にもなりかねません。だから思想史の研究では、その作品に著者が込めた意図から完全に自由にはなれないという面があります。
そういうなかで、読者研究が目指すものとは何なのか?という話になるわけですが、私は、思想の受け止められ方を分析することは、その思想が生まれた時代の理解を豊かなものにするうえで意義があると思っています。
ある思想について誰が正しい理解か、誰が誤解したかではなく、誤解さえも1つの意味ある史実として扱えるのが、読者の歴史研究の開拓する領域と捉えています。
みんな騙されてきた?とか、みんな間違って来た?といっても、正しい答えは誰が担保するのかという問題は残ります。なんで読者が騙されたか、間違ったかにも意味はあるのではないか?そういうことを考えてきました。
きっかけは、私の高山樗牛研究の過程から得られたものです。高山樗牛という人は、明治時代に若い人から熱狂的に支持されたという風に言われるのですが、それが具体的にどういうことかわからなかった。そこで、何とか思想の発信者と受信者の両方を視野に入れて研究したいと思うようになりました。
最初は埼玉県の行田で発見した『鴛鴦文学』という雑誌でした。
https://www.lib.pref.saitama.jp/item/pdf/2018301702.pdf
これ、行田の図書館で見ていたら、高山樗牛が発表した論文の感想が書いてあるんですね。ちょっと誤解かな?と思ったのですが、書いている人が熱心なファンであることはわかった。それが、高山の支持層をはっきり見つけられた瞬間だったんです。
そこからさらにいろいろな同じ時代の雑誌を見比べていくことで、色々な思想傾向が混とんとしながら受け入れられていて、青年たちはハッキリ一つの思想に染まるわけではなくて、色々な思想に触れながら、あるいは部分的につまみ食いしながら、好き勝手にというと語弊がありますけど、自分の意見や考えを作って世の中に対峙しようとしていた。
私たちの大半だってみんなそうなんだと思ったんですよ。一部の思想家は、一貫してブレない主張をするかもしれないけど、その時々で多くの人がいいなと思ったものを支持していく。民衆の思想というのも、まあもちろん当時中学校を卒業できるのは相当なエリートですから、以前お話しした色川大吉先生のような農村の民衆の思想とは少し違うかもしれないけれど、歴史を支えているのはこういう人たちじゃないのかと。
彼らは大きくなったら地域社会のなかで、村会の議員とか、小学校の先生くらいにはなったかもしれない。あと、親の家業を継いだり。郷土史の大家になっていった人もいます。そういう様々な可能性が、この雑誌の世界には秘められていると感じました。
歴史研究ですから、やっぱり史料のこと、つまりどういう材料から研究するか。という問題が発生します。何度も申し上げてきたように、歴史研究の材料を史料(歴史資料)といいます。史料というのは、「史学の認識が汲みとられる材料」(ベルンハイム)であり、史料批判とは「史料」の歴史的価値を判定することでした。
では読者の史料は?
読書家が克明に付けた読書ノートは無いのだろうか。あったとしても簡単に見つからないです。国立国会図書館の蔵書には、高山樗牛の全集に利用者がペンで書き込みしたのが残っています。
「一切の冗談を避けて真面目に樗牛を読まう」って図書館の本に書き込みしないでほしいですよね。「嗚呼哲人何処にいます」という書き込みの横に「あの世にいます」って書いたり、匿名掲示板かトイレの落書きの世界みたいです。
その著作がどう受け入れられたかについて、たとえば新聞の書評を探せば、多少は見つかる可能性もあります。あとは、図書館などに残っている本への書き込みなども手掛かりになります。ベストセラーになった本かどうかという点はありますが、単行本の発行部数というのは、第二次世界大戦前に関してはじつはほとんどわからないというのが実情です。
そこで、私が注目したのが、明治時代に地方で発行されていた複数の同人雑誌でした。それなら話題の本の感想なども載っているのではないか?と考えたんですね。
地方文芸同人誌の世界
これは調べ始めてからわかったんですが、明治時代、地方で同人雑誌が1900年代~10年代にかけて各地で多数発行されていました。10代から20代前半の少年たちが集まって、自作の詩、小説、短歌などを載せる雑誌を作ってたんです。この雑誌は、全国各地にちょっとずつ残存するのですが、まとめて研究しているひとはあまりいませんでした。
雑誌の研究には、大宅壮一文庫のほかに、東京大学に明治新聞雑誌文庫というのがあります。今年はコロナの前から耐震工事で休館中なのですが、明治時代のマイナーな雑誌を研究しようと思ったら、平日に東大の赤門をくぐってここに行くしかない。
あとは古本です。古本の値段の付け方は品物の状態とか、店主の判断で値段の付け方が極端に違いますが、日本の古本屋というサイトだと横断検索できます。古くてもよければ、Amazonなんかよりはるかに安く買えるときがあります。卒論でどうしても手元に資料が必要になったときなど、知っておくとよいです。
2.誌友交際の時代
驚いたことに、この同人雑誌に書いている人たちは、なぜか知り合いで、互いに文通しているんです。メールもLINEも無い時代です。携帯電話だってない。千葉県の雑誌に書いてた人が、熊本県の雑誌や茨城県の雑誌にも書いている。明治時代、とくに日清戦争の後から、読者参加型の雑誌がすごく増えます。そこに投稿してた常連のはがき職人のような人がいて、彼らは雑誌の読者投稿欄を通じたネットワークが出来上がっているんですね。当時中学生くらいの人は、実にいろんな人がはまっていたことがわかりました。
この地方同人雑誌は、明治のSNSといえるのではないか。ということに気が付いたんですね。今も短歌や俳句のコミュニティはありますが、この芸術作品を通じたコミュニケ―ションは、たとえばPixivとか、現代の若者にも通じるようなものがあるように思います。
たとえば愛知県発行の雑誌で『文壇』というのがあるんですが、ひらくと10代の子供たちの顔写真が載っている。これは何かっていうと、文章や作品を投稿だけでなくて、この雑誌を読んでくれる友達を紹介してくれた人たちの功績をたたえるものなんですね。それで、みんなが競い合って雑誌を読む仲間を誘って応募する。写真が載れば、学校で自慢できる。こういうブームが起きてくるんです。
なんでこの時代に読者投稿が増えるのかっていうと、(旧制の)中学校が整備され、1900年代から一県一校でなくなってきたというのがあります。国語で読み書きがある程度実力の付いた子たちが、投稿して注目を集めたいという行動をとるようになります。
明治の雑誌の読者投稿欄を見ていくと、もちろん友達募集とかもあるんですが、盗作疑惑の通報とか、意識高い人のマウントとか、なかなか混とんとした状況です。「誌友」という言葉があって、同じ雑誌を読んでいる「友達」の意味ですね。この人たちのコミュニティを、私は「誌友交際」という風に名付けて研究をしてきました。
このことに関連して、地方雑誌の収集について、以前の授業でもご紹介した私のエッセイ「名もなき地方雑誌を求めて」の話は、これにつながってきます。
http://www.hozokan.co.jp/rekikon/pdf/tu248.pdf
さて、この雑誌発行は、基本的には男子生徒中心の文化でした。
というのは、女子生徒が文学をするのは怪しからん(?!)といわれるような時代であったからです。女子は女子同士で、もっぱら文通とか花の種の交換とか、小物の交換をしていたらしいです。ただ一方で、女性を装って読者欄に近づこうとする不逞の男子生徒もいたらしくて、読者欄で「私は××さんが男子であることを告発いたしますわ」みたいな投書もあります…。なんというかこの辺は考えさせられますね。
誌友の作り方について、木村小舟という人がこんな風に書き残しています。
さて自分の書いた文章が、相ついで二三の雑誌に掲載されると、又実に不思議なもので、彼方からも此方からも、未見の人々が文通して来る。投書家にとつては、之が絶大の趣味でもあり、名誉でもある。そこで此方からも、此の人と思ふ所へ向けて交際を求めてやる。其また文意が殆ど皆同じで、『未だ謦咳に不接候へ共、御芳名は某誌上に於て拝承致し敬慕罷在候』とか『永遠に水魚の交を賜らんことを』とか、殆ど之が定り文句であつたが、併し大概は一年か二年で、其文通が杜絶してしまふから滑稽だ。私の如きも多い時には二十余人の誌友を有つてゐた。九州、中国、近畿、四国、関東々北と殆ど各地方を網羅して、三日にあげず書信の往復をするので、其忙しさは並大抵でなく、其費用もなかく馬鹿に出来ない。そして或は写真の交換、新聞紙のやりとり、延いては互に誌友を紹介し合ふなど、少くとも毎日五六本の手紙を認めねばならぬ。無用の閑文字を並べて、而も相応に文句を練るのだもの、今ならば迚も出来ない仕事であるが、其頃は又なかく面白いと思つた(木村小舟『足跡』(1930年、桐花会出版部)32~33頁。)。
これを見ると、誌友の作り方がわかる。
まず、雑誌の入選者に手紙を出す。すると、受けた方が選んでこれはという人に返信するというところから文通が始まっていくのがわかります。友達募集の文にもテンプレがあったこともわかりますね。なかには写真の交換をすることもあったようで、そこから友人として交際が始まる。一生合うことは無かった人もいるみたいですが、そういうやり取りがあった。
写真を印刷する技術がまだない1890年代は、雑誌の口絵に似顔絵の版画で顔載せてるんですよ。凄いですよね。
3.「誌友交際」の担い手たち
そのなかで、私がとくに注目したのが岐阜出身の小木曽旭晃(1882-1973)という人です。このひとは、『地方文芸史』という本を書いていて、明治時代の地方の同人雑誌の基本情報を今日に書き残してくれた人です。
彼は、小学校の時事故で耳が不自由になってしまって、それから文学と文通にはまりました。全国に分散している「誌友」たちの中核として活動していた、有名なブロガーやツイッタラーみたいな感じですね。日本史上では全くマイナーですけど、岐阜県に行くと結構有名。私、コロナで伺えなくなってしまいましたが、岐阜でご遺族と連絡が取れて、本当は3月に資料を見せていただく予定になっていました。また機会を改めてお伺いし、お話しをうかがいたいと思っています。
この小木曽が発行していた雑誌『山鳩』というのがあります。発行地は岐阜なのですが、埼玉や熊本の友人たちが主要論文を執筆していまして、「誌友交際」を元にして作られた雑誌といえます。岐阜県立図書館にまとまって残っているこの雑誌を通してみたとき、他県の団体とも雑誌を寄贈交換していることなどもわかりました。雑誌発行に結構お金がかかってるんですけど、どうも親に借りたり、学校の先生からカンパを募ったりして出してたみたいですね。
小木曽のように、交際のハブになる人たちの手元には、全国各地から送られてくる書籍と雑誌が溜まります。彼らはその資料をもとに、ごく簡易な図書館を作ったり、お互いに本を回覧し、貸し借りしたりしていました。小木曽は岐阜県の教育界にも深くかかわり、戦後まで『地方文化』という雑誌を一生懸命発行していきます。
面白いのは、この時代の雑誌に、モノ自体としての独特の価値があったことです。同じころの東京のある青年会では、会員総会みたいなのをやるのに合わせて、雑誌の展示会を催しています。
◎別項広告の如く、十月二十二日を期して会員大会を開くべきに付ては出席諸君の閲覧に供せんが為め会場内に雑誌閲覧場を設け度く、是等の事は地方雑誌会の景況を知り又他に益する所も少からずと存じ候に付汎く全国の会員諸君より御寄贈を忝ふし度候。
一、政治、文学、実業、の何種たるを論ぜず
一、最近発刊の分を望むとはいへ、既に廃刊したるものにても苦しからず、又数年以前の発刊にかかれるものにてもよろし
一、可成種類を多く聚め度候に付、同じ題号のもの数部よりは、異りたるものゝ数多きを望み候
一、全国中に於ける雑誌の種類を普く聚め度き心組に付き地方の会員諸君は幸にして御尽力を給はり度候
(中略)
◎土地遠隔の為め御出席出来がたき諸君は、可相成は写真一枚宛御送付相願度、大会々場へ陳べ可申候、さすれば親しく膝を交へて相語るの感も有之、大に懇親の一助と相成申すべきかと存候。(「会員諸君に望む」『桜州青年』第5号(1900年)、前付2頁。東京大学明治新聞雑誌文庫所蔵)
どんな種類でもいい。最新号がいいけど、廃刊になってしまってもいい。とにかくできるだけたくさんの雑誌を集めたい。全国中の雑誌をこんなになるんだって示したい。
本屋さんも今のように大型の書店があるわけでなく、本の流通機構も整っていない時代のことです。珍しい雑誌を集める機会なんてそうそうなかったんですね。そうした時代の雰囲気に近づくのに、雑誌は非常にいい史料になるということです。
4.「誌友交際」と思想伝達
ところで、こうした少年たちの間に広まったささやかな雑誌発行ブームは、日露戦争後になると、ちょっといろいろな圧迫が加えられていきます。
一つは、日露戦争のときに増税が行われるのですが、その講和で賠償金が取れなかったことで不満をもった民衆が暴発して暴動が起きました。このほかにも都市部で暴動が頻発していきます。政府はこれをかなり過敏に警戒して、新たな政府批判の火種を警戒していきました。
雑誌発行でも、ちょっとでも政府に批判的なことが書いてあったり、ちょっと戦争反対みたいなことが書いてある雑誌が、警察に差し押さえられて発売禁止処分にあいます。戦前の日本には検閲があって、道徳上に問題があるとか、社会不安をあおったりするものは警察によって発売禁止になったりしたんですね。
また、郵便のルールも厳格に取り扱われて、原稿が集まらずに刊行できない雑誌は定期刊行物じゃないからといって郵便料金を安くしてもらえなかったり、こういったことの積み重ねが、少年たちの雑誌発行継続を困難にしていきます。
1910年は、地方雑誌の廃刊が相次いだ年でした。小木曽の『山鳩』も、黒枠の広告(これは昔、新聞などで訃報・お悔やみを伝えていた書式です)を出す。あたかも自分の子供が病気で亡くなったような広告を出して廃刊を宣言していきます。
この時期になると、書籍流通のシステムが変化していき、地方にも東京で発行された雑誌が大量に入ってくるようになりました(それまでは、東京の雑誌はごく一部しか入ってこず、岡山などの地域では、1か月遅れて入ってきても売れていたという証拠があります)。
地方の同人誌は、東京からの文学雑誌があまり入ってこないなかで、意欲的な若者が自分たちも文学で一旗揚げるというのを目指して始めたものが多かったのですが、東京発行の大量の書籍流入は、地方文化を変えていきました。少数しか読まない地方同人誌に書くより、東京発行の雑誌が地元に届くのなら、そこに自分の名前が載るほうが嬉しいからです。少年たちは地方から東京の雑誌に投稿していくようになりました
それは、誌友交際が終わり、新しい時代が来たことを意味していました。
地方の同人誌は、ごく一時のブームだったのですが、東京の投稿雑誌が作家への登竜門として一元化されていくようになり、これ以降、流通網整備による全国の読書圏が成立していくことになります。
それでもこの時期(およそ15年間)に発行された地方の同人雑誌の数は、未確認のものもありますが、200種類近くあります。「読者」が、ただ受け身だけでなく自らも意見を書き、雑誌を発行していった稀有な時代なわけですが、彼らの意見を救い上げることによって、従来思想史で説明されてきたのとは違う、人と人とのつながりの広がり、歴史的な事件の庶民の意外な受け止め方、地域社会の歴史の隠れた動向などが、もっともっと調べていくほど明らかになっていくのだと思います。
ほかにやってくれる人がいないので、私自身、ライフワークとして、明治のSNSである地方のいろいろな雑誌を追いかけていきたいと思っています。