江上敏哲『本棚の中のニッポン』読書メモ

本棚の中のニッポン―海外の日本図書館と日本研究

本棚の中のニッポン―海外の日本図書館と日本研究

日本人の知らない「海外の日本図書館」。そこはどういうところで、今何が必要とされているのか――。

待望の本が出た。

海外の人が日本研究をするための資料はどういう風に整えられていて、どう使われているのか。日本人が国内で作成した資料は、どう海外に渡っていくのか。それを媒介するための「橋」は、いまどうなっているのか。をとても丁寧に論じた本である。

本書については、著者のブログなども参照。

目次については、このほか版元のHPも。

一つの思い出から始めたい。

もっぱら国内出版物を集める担当をしている今の職場と異なり、以前はカウンターに出ていたので、図書館の仕事のなかで英語を話す必要とすることがあった。

一度戦前の文献を読みに来た方がいらっしゃって、「旧仮名旧漢字だけど本当にその当たり所をつけられるのだろうか…」とか思いながら、英会話がひたすら苦手なので、応援を頼んで、質問を同僚に聞いてもらいながら、必死で私がパソコンを叩く、という二人がかりのレファレンスをやったことがある。

うまく回答できたとはいえなくて、なんとも悔しい思い出として、未だに私のなかに苦い記憶として残っているのだが、本書を読み終えた今、そもそも「本当に当たり所がつけられるのか」などという不遜な予断を持っていた自分の不明を恥じるしかない。

同じくつい先日、某所にて、「口先でナショナリズム批判する日本研究者ほど、海外の研究者と日本の話をするときに日本語を用いることを自明と思っているのは何なんだろうか」という話を聞いて、顔面蒼白になりかけたりもした。

とにかく日本のことを知ろうとしている人がいる以上、そのハードルを下げる努力を、図書館員はしなければならない。

随所で指摘されている、日本資料のデジタル化の遅れは、この橋を狭めているというわけだ。それは日本のスタンスに直接帰ってくる問題だろう?というのが、著者の主張である。

デジタルでない=不便だという単純な問題ではありません(p.121)。

そうなのである。それも文化発信とか国際化のお題目ではなくて、もっとストレートな理由が本書に書いてある。

そもそも日本以外の、たとえば東アジア地域なら、中国や、韓国の資料が電子ジャーナル、電子書籍、データベースが普及して、それを使って研究することが定着した後になっていくとどうなるか…

日本語の資料・文献だけは紙に頼るしかない、となったときに、熟練した研究者ならともかく、これから研究・学習を進めていこうという若年の学部学生・大学院生が、果たして自ら“日本研究”という分野を選択してくれるでしょうか。同じことなら、e-resourceがふんだんに整備されていて検索も資料入手も圧倒的に簡単な、日本以外の別の分野・国・地域を選択したい、と考えるのが人情ではないでしょうか(p.121)※太字は引用者による。

力いっぱい線を引いてしまった個所である。そのうえで、例えば経済問題・領土問題などの国際的な分野で、web・デジタル・英語で入手しやすい国・言語の主張と、そうでない国・言語の主張では、どちらがより読まれやすいのか、という問いもなされる(p.124)。

事例の紹介も豊富であり、図書館員の期待値の高い本であることは疑いないので、あんまり図書館員が書かなそうなことを書こうと思う。

それも、できれば著者自身が思ってもいないようなことを。

海外の日本研究の資料と図書館が対象なので、書いていなくて当たり前なのだが、私は就職来かねて、国内での日本研究のモチベーション自体が低下し続けているのではないか、といううっすらした不安を持ち続けてきた。

たんに杞憂ならよいのだが、大学院重点化の「失敗」などがまことしやかに語られ、日本研究の博士課程進学者をみると留学生のほうが多いとかいう事象を読んだり聞いたりするにつけて*1、本当に大丈夫なのか、と言い知れぬ感じを抱くようになってきたのである。

繰り返すが、たんに杞憂ならよいのだ。日本の歴史の勉強をしてきた人間が、周りにもっと日本の昔のこと勉強しろよ、とまくし立てて鼻で笑われているうちは、客観的には平和なのだから。

色んな地域の人が日本を研究してそれが広まっていくならいいではないか。そうである。だが一方で反発もあるのだ。本当にそのことを素直に喜んでいていい時期がまだ続いているのかどうかと。

今考えると、「翻訳でもなんでももう少し日本史の勉強する上で海外の文献読んでおいたほうがいいのではないか、英語の勉強にもなるし」、という趣旨の話でもりあがった友人と「近代日本の英書を読む会」を立ち上げた院生の頃から、そういう危機感は、ひそかに私のなかに確かにあったのだと思う。同会はその後、メンバーが忙しすぎて「近代日本の英書(だった本)を読む会」に縮小され、今は休会中だったりするのだが。

それはともかく、そのときの会立ち上げの中心人物で、今話題のあの人が、「日本という地域のキャパシティ」について、次のように語っていたことを、本書を読む過程でずっと思い出していた、

現状の問題点を批判し変革していくポテンシャルを秘めた正統化のあり方、すなわち自らの国家を何がしかの普遍的な理念によって基礎づけるというやり方について、日本人はあまりにも下手なのではないかということである*2。。

翻訳の政治学 近代東アジアの形成と日琉関係の変容

翻訳の政治学 近代東アジアの形成と日琉関係の変容

力いっぱい線を引いてしまったのはこういう理由である。海外で日本研究がされなくなるのが、インフラの不備に基づく「人情」だとすれば、同じことは日本国内の、母語を日本語とし、日本列島で生活する人々にだっていえるはずなのだ。いや、それはすでに起き始めているのではないか。そしてその危機感が共有されているからこそ、私の観測範囲に限定されるけれども、同世代の日本史研究者は、必死になって、日本への関心を繋留するためのパフォーマンスを、それこそ血道をあげて開発しようとしているのではないのか。

本書では、日本について書かれた情報を読んだり見聞きして内容を理解する能力を「日本リテラシー」と定義している。また、p.29には、それが高度な「日本研究者」―中度の「学部学生」―日本が専門でない一般の人、他分野の研究者へと階層的に展開していく図が描かれている。

ところで、そうするとごく普通の日本人の「日本リテラシー」とは、今いったいどの辺りに位置づけられるのだろうか。リテラシーと関心の高さは違うだろう。日本が好きでも、関心が高くても、どういう風に理解するかのノウハウがなければ、リテラシーは高くならない。日本文化論や日本人論が好まれ、よく読まれるとされる「国民性」とも、リテラシーは厳密には関係ない。だから、愛国心に篤いとか薄いとかではなくて、日本人は日本リテラシーが高度なのである、と今胸を張っていえるのだろうか。

本書のハイライトだと個人的に思うのは、Google Bookサーチで“Japan”を含む書名を検索し、刊行年別に並べたときの量について、2008年の水準が、なんと1930年代まで落ち込んでいるという指摘であった(p.113)。

それはピンチなのか、チャンスなのか。メディアに大量に露出してチヤホヤされていたアイドルが演技派女優に生まれ変わるような定着の兆しなのかもしれない、という巧みな比喩で著者は慎重に断定を避けている。

ただ、ピンチならば手を打たねばならないし、チャンスだからといって胡坐をかいていれば、駄目に決まっていることだけは私でもわかるのである。

本書には、この問題への「援軍」を求める記述がある。ついでにいうと、図書館員の頭の中がどうなってるのか、何を考えているのかについて、図書館員向けでないことを意識しつつ(むろん、専門用語は出てくるけれど)、ここまで噛み砕いて書いた本も珍しいように思う。だから私は、今歴史でも文学でもなんでもよいので、日本という対象を選んで研究している国内の研究者の人にこそ、広く読まれたらよいなあと思うのである。大学の講義や演習で読んでもらって、図書館がどういうところで役に立てそうか、学生さんからいろんな意見が聞こえてくるようになったらもう最高である。

最後にもっとも感動したのは、本書のあとがきの最後の段落なのだが、今述べたように、図書館員に限らず、限らずというかむしろ今日本の歴史や文学や思想を研究している人にこそ、読んでいただきたいので、ここではあえて触れないでおこう。

*1:例えば、吉見俊哉「大学院教育の未来形はどこにあるのか」『中央公論』2011年2月号所収、参照。

*2:與那覇潤『<翻訳>の政治学』(岩波書店、2009)p.270)。なおこの「普遍的な理念」による基礎づけが何で日本で上手くいかないのかについて、普遍化に向かおうとするベクトルと、それに頑強に抵抗するベクトルとの対立を日本史のなかに見出そうとしたのが、例の『中国化する日本』(文芸春秋社、2011)であろうことは、もっぱら蛇足だが一応書いておく。