講義で「史料と史料批判」について説明する際、自分は次のような説明を行っている。
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史料とは、歴史研究者が読み解く素材であり、文学研究者や思想、美術の研究者が「作品」に対するように、社会学や経済学の研究者が統計を分析するように、あるいは理系の実験系の研究者がデータに対するように、歴史研究になくてはならないものだ。
高校まで日本史の教科書や、受験科目で日本史を使おうとした人は「史料問題」というのがあったはずだ。あのような体験を受験生にさせるというのは、単なる暗記科目としての歴史ではない、歴史の作業の実態を少しでも体験してもらおう、という狙いがあってのことだと思われる。2022年からの新課程歴史総合でも史料の解釈が重視されるようになってきているのは、教える内容を考える側の願いということであろう。
タイムマシンのようなものがないので、歴史家は直接過去を経験することができない。亡くなった人の魂を現代によみがえらせて話を聞くこともできない。そうすると、史料を媒介として過去の事実に触れるしかない。史料がないと歴史の研究はできないということになる。
他の入門書などを読んでみると、少なからぬ歴史学者にとって、ここでいう史料とは、ちょうど料理を作るときの食材のようなものとしてイメージされているように思う。肉じゃがを作りたいのに豚肉がないというのはつらいものだが、素材である史料がないと歴史の研究ができないのも同じことである。研究では、史料がないことを想像で論じてはいけないというルールがある。
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史料が食材であれば、先行研究は、さしずめクックパッドのようなレシピを集めたサイトに載っている調理例(一定の手順で食材を加工して作ってみたもの)ということになるか。また、「素材」から導かれる「解釈」は味付けのようなものか。
大日方純夫先生が、こんなことを語っている。
歴史の本や論文を読むよりも、史料を読むのが一番おもしろい。研究書や論文は、史料の要約や部分引用から構成されているから、書き手を仲立ちとして過去に案内されているといった感じが否めない。なにかかゆいところに手がとどかないようなもどかしさ。ここに書かれていることは本当だろうか。自分自身で確かめてみたい、もとの史料から当時の息づかいを感じてみたい。そんな思いに駆り立てられる。史料はじかに過去の人々の語りや思いを伝えてくる。他の人々の解釈や取捨選択が加わらないままの過去(もちろん、すぐ読めるのは、活字化されたり史料集に編集されたりしているものだから、過去の史料そのものではないが)、それを読みながらいろいろなことを考えてみる。これは一体何を物語っているのだろうか。この人はどんな状況の中で、何のために、何を考えて、こんなことを書いているのだろうか、などなど(大日方純夫「近代史料との付き合い」『卒業論文を書く』(1997年、山川出版社))
そしてしばしば、史料に書いてある大事なことは、仮説を裏切る形で見つかる。それを受けて自説を修正しつつ、先行研究でも見つかっていないことを発見して論証しくことが、歴史の論文を書くというプロセスになってくる。
史料とは何かについての定義は、以下も参考になる。