「新書」と「教養」

 末端の事務屋とはいえ、図書館の禄をはむものとして、出版界の動向はいつも意識せざるをえないでいる。カウンターに出ていた頃は、「最近の司書は本のことを碌に知らん!」というお叱りを受けたこともあって、ただただ申し訳ない、と思いつつ、その日の帰りにふと考えた。

 今、年間何タイトルくらい本が出ているのだろうか。

 この手の話題は『出版年鑑』などをきちんと見れば良いのだけれど、当時の上司に薦められて読んだこの本に、おおよそ以下のようなことが書いてあった。

本の現場―本はどう生まれ、だれに読まれているか

本の現場―本はどう生まれ、だれに読まれているか

 年間の発行タイトル数は2008年時点で7万6千タイトル(10頁)。その後も上昇傾向にあって、八万に届くとか届かないとかいう話を聴いたが、昨年は減少したというニュースを見た記憶がある(きちんと『出版年鑑』で確認してません…)。

 ただ、当時この本で見て驚いたのが、1960年で1万強、1970年時点で2万弱、となっていて、3万を超えるのが1982年という点であった。つまり40年前と比べると年間の発行部数は3~4倍になっているのである。言い訳がしたいのではなく、本のことに精通した司書になるのは、三十年前と比べてどれだけ至難の業なのだろうか、と少々たじろいだのである。

 ついでにいうと、雑誌を除く書籍の販売高が上昇から現象に転じたのは1997年だそうで、その理由は消費税の3パーセントから5パーセントへの引き上げにともなう消費の落ち込みと、本の割高感の充満であろうと著者は見ている(9頁)。

 

 この『本の現場』は、色々面白い本なのだが、私が気になったのは「新書ブーム」の話であった。過去数回のエントリで人文系の「教養」について若干関わるところもあったので、この際触れておきたい。ジュンク堂池袋本店の副店長(当時か?)だった方のインタビューにこうある。

「新書って、かつては教養書でしたよね。大学の授業の副読本だとか、なにか勉強するときの入門書だった。すごく偉い先生が、読みやすく軽く書いていて、だけど内容的にはレベルが保たれているというイメージです」(131頁)。

これはかなりの方に共通するイメージと思える。同僚にもそういう思いを抱えた人がいて話したことがある。また、実際私が大学に入ったときも、関連分野の新書は全部買って読むくらいの心意気がいるからねとさらりと言われて慄いたりした覚えがある。だが、長じるにつれて、結局「昔はそうだったのかもしれないが、今これからは別にそうでもないのではないか」という印象だけが蓄積されていった。同じ本の別のジュンク堂の方のインタビューにこうある。

「2匹目のドジョウとはよく言うけれど、いまは平均すると4匹目、5匹目までは出る。最近の新書なんて、ほとんどが一昔前なら雑誌で16ページの特集を組めば済んじゃうようなものですよ」(17頁)

これはちょっと唸った。『なぜ…なのか』型の新書がやたらに増えたのは多分さおだけ屋のヒットによるのだろうけれど、16ページで済むならそれでよいではないか。『中央公論』に載ったら載ったで読まねばと思えば買うし。

 ところがそうではない。続く永江氏の分析は冴えている。まず論壇誌が売れなくなった。論壇が凋落した、という現象があり、それに、読者の側で読まないページに敢えて金を払いたくないムードが醸成されてきたのだという。この感覚はちょっとわかる。それならば興味のあるテーマに絞った新書のパッケージで出た方が売れる、ということのようである。

 永江氏は、このブームの結果として、若手の学者を新たな書き手として発掘した点は評価しているようだが、同時に、読みたいテーマだけお金を払って、そうでないものを無駄とする思考からは、結局、知の「タコツボ化」*1しか起こらないのではないかとの危惧を表明している。

 ところで、「新書ブーム」とはいつから始まったのだろうか。

 これも出版統計などを碌に見ないでWikipediaから引いてきた情報ではあるが、過去創刊・廃刊されたものも含めると新書のタイトルは130近くあったという。そのなかで主なものを抜き出してみると以下のようになる。

主なものを抜き出しただけなので恣意性は免れないが、90年代後半から大きな変化の流れが来ているのは確かだろう。さらに2008年には中央公論新社の主催で「新書大賞」の選定受賞が始まった。『生物と無生物の間』や『日本辺境論』を私が読む気になったのも、これに釣られてのことである。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)

 新書大賞のサイトを見て更に驚いたのは、その選定の母数だ。

 何とその数1500タイトル。

 「御三家」といわれる岩波・講談社・中公の三社が仮に月5冊出すとして、15×12=180だから、意識していない新書がいったいどれだけ出ているのか、本のことを知るとはこんなに大変なことなのかと気が遠くなる。大学の図書館の選書担当者がどれだけ腐心しているかこの数値を見ただけでもわかった気がする。

 こうしてみると、世紀末とミレニアムを間に挟んでいた私の学部生時代から院生時代にかけてというのは、今書店に並んでいる新書が創刊され続けて来た過程ということになる。書店員さんのインタビューでは、転機は2003年の『バカの壁』だったんじゃないですかね、ということだが、永江氏は近著で別の答えを出している。

筑摩書房 それからの四十年 1970-2010 (筑摩選書)

筑摩書房 それからの四十年 1970-2010 (筑摩選書)

 新書の流れを変えたのは、1999年の『もてない男』だった、というのである。この一節を読んだときに、「ああ、そうなのか、そうだったのか」と私は思った。

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)

 してみると、私の学生時代というのは、「教養」を担ってきた(とされる)新書の大衆化の過程とパラレルであって、そもそも、友人と議論して「教養」なるものを語る資格が自分にあるかどうかすら疑わしく思えてくる。大学には院生や先輩たちがいて、その残り香をかげないわけではなかったのだから、幸せだったといえばいえると思うが…。

 そんなわけで「教養」論を語ることの困難を何だか思い知ったのであった。

*1丸山真男『日本の思想』(岩波新書)からの引用という点で気が利いていると思う。