山梨あや『近代日本における読書と社会教育』読書メモ

近代日本における読書と社会教育

近代日本における読書と社会教育

 書評が出来るほどの身分ではなし、またその能力も全然ないのだが*1、読んでおかなきゃなあとずっと思っていた本でもあり、また図書館史の勉強会をやったりする上でも話題に上る本なので、何かの参考になるかもしれないという淡い期待だけ込めて読書メモをあげておきたい。気になったことを赴くままに列挙していくだけなので、誤読・妄評の段は著者はじめ皆様にあらかじめお詫びしておかなければならない。

 本書は著者が慶應義塾大学に提出した学位論文である。まず目次をあげておく。極めて長いスパンで、読書という営為を取り上げているのがわかる。

序章 教育問題としての読書

一 本書の研究目的

二 読書に関する研究前史

三 研究方法・資料

四 本書の構成・内容

第一章 近代化と読書行為の普及

一 「読み」の形態の変化―音読から黙読へ

二 「読む」対象の多様化―特定の読者層を対象とした書物の登場

三 「読む」主体の拡大―公教育の普及・リテラシーの向上と読書

小括

第二章 教育的営為としての読書―社会教育成立との関連で

一 地方改良運動の展開と読書への注目―内務官僚・井上友一の図書館構想

二 第一次大戦後の教育「改造」と読書―文部官僚・乗杉嘉寿と川本宇之介の図書館構想

三 社会教育の成立と読書―『図書館雑誌』にみる図書館員の構想

小括

第三章 都市公共図書館における教育活動の模索―今澤慈海の図書館論を視点として

一 東京市立図書館の成立―「教育改造」と図書館

二 今澤慈海の図書館論―「生涯的教育」機関としての図書館

三 社会教育機関としての図書館―中田邦造による「読書指導」論の展開

小括

第四章 戦時下における読書指導の展開―長野県を中心として

一 社会教育における「読書指導」の模索―「思想善導」から「読書指導」へ

二 図書館における読書指導の展開

三 長野県下伊那地方における読書指導の実践―三穂女子青年団の読書会を事例として

小括

第五章 戦後における読書活動の展開―長野県下伊那地方における読書運動を中心に

一 戦後読書活動の展開―読書会連絡会を中心に

二 女性の読書運動の展開―飯伊婦人文庫の活動を中心に

三 女性にとって「読書する」ということ―集団で「読む」ことの意味

小括

終章 近代日本における読書の教育的位置づけ

資料編

 著者の主眼は、それまで「読むこと」を非日常的なものとして行なってこなかった人々が、近代化にともない、知的営為としての読書にどう参入していったのかという点にある。

読書は日本における近代化の所産の一つである(p.3)

という著者は、「文字を一字一句拾い読みするレベル」の「読むこと」が、黙読を中心とした認知的なレベルでの「読書」に再編されるのは、明治30年代以降に展開されるようになる社会教育実践の結果であるとする。そして、そこに図書館を中心とする教育活動がどう関わったか、が本書の分析対象となる。文学やメディア史、あるいは歴史社会学の成果によってこれまで光を当てられてきた「読書」について、第一に教育史の立場から、第二に、性差・階層差・地域差の視点を導入して歴史的な見取り図を描くというのが著者の構想のようである。

 先行研究の整理のところで、1960年代に社会教育の分野で活発に論じられた読書の問題が*2、90年代以降、アンダーソンやシャルチエの影響下に「復活」(p.12)したとする著者が参照しているのは、前田愛氏の「黙読」論と、永嶺重敏氏の「読書国民」論と、和田敦彦氏のリテラシー論、のようである。

近代読者の成立 (岩波現代文庫―文芸)

近代読者の成立 (岩波現代文庫―文芸)

メディアの中の読者―読書論の現在 (未発選書)

メディアの中の読者―読書論の現在 (未発選書)

 前田愛氏のシェーマについては、最近批判もあるのだが、それに乗っかってあれこれ穿鑿的な批評を下すのは、何か匿名が人の褌で相撲を取っているようで恥ずかしいので、ここでは措いておく。

 第1章は、先行研究における「読書」論の位置付けを咀嚼しなおした印象が強いが、明治30年代以降の読者層の拡大にともなって生じてくる正系のエリートコースに乗った人々とそうでない人々との「分裂」のなかで*3、そこに強力な「国民」統合の意志をもって内務省が参入してくる、という見取り図が描かれているのは興味深かった。

 この視点は第2章でさらに具体的に述べられるが、日露戦後において、

読書行為の教育的効果にいち早く注目し、これを社会教育の枠組みの中で普及させていこうとしたのは文部省ではなく、内務省だった(p.65)。

という指摘はかなり重要に思われた。これに文部省が関わってくるのが大正6年(1917)に設置された臨時教育会議の答申以降のことで、それまでの「通俗教育」に代わる「社会教育」という政策を掲げて登場してくる普通学務局第四課(後の社会教育課)課長の乗杉嘉寿らの仕事の分析が進められる。

 著者はまた『図書館雑誌』の時系列的な変化も分析していて、第17回全国図書館大会(1922)における文部大臣諮問「図書館をして社会教化の中心たらしむるに適切なる方法如何」への答申以後は、

文部省の「社会教化」と相反する図書館像を提示することは許されず、また暗黙のうちにこれを図書館員に理解させることによって、文部省の政策と矛盾する図書館のあり方は事実上封じ込められていくことになった(p.109)

と論じている。

 確かにこの答申の記事は私も『図書館雑誌』で読んだが、誰も反対していない上に、仕方ないから受け入れるという雰囲気ではなくて、率直にいってこれは図書館のチャンスなのだからもっとやれという雰囲気を感じた(その証拠に、続々登壇者があらわれてここぞとばかりに思いのたけを陳べるので、議論の総括ができない事態が発生している)。戦前の図書館員の待遇は始終問題になっていたので、そのこととの関連で捉えられるべき問題だろうと思う*4

 第3章では、都市の図書館として、今澤慈海児童図書館論も含めた、学校教育の外で自己を教育するための機関として図書館を積極的に位置づけようとする言説の系譜が辿られる。その延長線上に中田邦造の読書指導論も分析されるのだが、附帯施設論争についてはごく簡単に触れられているに過ぎないのが惜しまれる。中田の理念の形成は、石川県(無論それは四高のある学都でのことなのだが)という場で形成されたはずなので、一括して都市のフレームに収めてよいのかは少し迷った。

 第4章・第5章は趣が変わって長野県の事例が分析される。

 「思想善導」から「読書指導」へという第一節の副題は、第一に、両概念の関係性を著者がどう考えているのか若干不明なことと、第二に中田の「読書指導」と同じに見えてしまうがよいのか、ということが気になるが、1942年に日本図書館協会が出した『読書会指導要領』あたりから、図書館経営の側でも良書の奨励どころか積極的な読書内容への干渉を行なうようになっていき、読書はかつて「一個人の智徳の研磨」のためといわれていたが「時局下」にあっては「大日本人としての修養」のため、「国家の一員として御奉公を致す為」という言説が踊るようになっていくとされる(p.183)。

 第5章は戦後の長野の下伊那地域に住む女性たちの読書会活動に焦点があてられる。

 読書会に出ることについて、「大体うちで許してくれん」(p.227)とその困難が語られたり、「結婚してからは自分の過去は天竜川に投げ捨てて、自分を抑えていました」と語る、鳥取から飯田に越して来た女性が読書会で石坂洋二郎に影響を受けて、一歩踏み出していこうという決意した回顧など、1960年代までの会報や文集、そしてインタビューをもとに構成された数々の挿話は、読ませる。

 尋ねたことはないが、案外うちの伯母が、誰も本を読まない我が家で唯一の読書家なのは、こうした雰囲気に接し続けていたからなのかもしれない、という想像まで沸いた。

 ただ、性差や階層差への言及は本書の随所に見出されるものの、地域差、ということを著者がどう考えているかについては、本書読了まで明確な結論が得られなかったように思う。長野に土地勘がない、とあとがきで著者が断っているので酷だが、飯田に先祖代々の墓があって土地勘があり過ぎる私の場合、どうにもそこが気になってしまった。

 もう一つは、1960年代の婦人読書会会報のなかで、どういう本を選ぶかについて、「ベストセラーにも注意して」という一節があることも目にとまった。

 1960年代における読書の問題は、別な本で読んだことがある。

高度成長期に愛された本たち

高度成長期に愛された本たち

それだけでなくなにしろ『中小レポート』が出された時期でもあり、読書と図書館をめぐる問題が大きく変わった時期と考えても間違いなかろう。

 そういうなかで地域の図書館がどう変わっていったのかを見据えることも図書館史の課題であろうな、と改めて認識した。

 全体としては、各章の趣が、方法の上でも資料の上でもかなり異なっていて、「読書」というキーワードはあるのだけれど、通史として読むよりは、時期ごとに色々な視点を出した本だと思った方が、すんなり読める気がした。引用されている文献も時々年代が前後していて、1年1年のもつ意味が違っている、という風に歴史を眺めれば、もうちょっと踏み込んで欲しいとも思う個所はあったが、現状の図書館史自体がそのような構成をとっていないので、これはまた私自身がどう考え、どう示すかの課題として、少し大事に持っておきたいと思う。

*1:本書については既に奥泉和久氏が『図書館界』vol.63 no.3(通号360号、2011)に既に書評を書かれているので、キチンとした書評を御覧になりたい方はそちらをご一読されたい。

*2:この件をみてとっさに思いついたのが外山滋比古の『近代読者論』だが、註を見る限りそういうことではないらしい。ただ高度成長期の読書文化の変容や貸本屋の盛衰の話と合わせて、60年代の読書論ブームという現象自体は興味深い気がする。

*3:これ自体はよく言われる「教養」論と「修養」論の対立に相当すると言える気がするが。

*4:ちなみにこの点に関しては、田中稲城和田万吉のような輝ける明治以来の指導者が引退したので、図書館が国家に対する気概を喪ったのだと慨嘆する歴史家もいるが、私は支持しない。