文庫と書籍館と図書館と―libraryはいつから「図書館」になったのか?

本記事執筆後、鈴木宏宗「明治10年代「図書館」は「書籍館」に何故取って代ったかー「図書」の語誌に見る意味変化と東京図書館における「館種」概念の芽生え―」金沢文圃閣編・刊『文献継承』第34号(2019年7月発行)が出た。「図書」というものと「書籍」というものが、江戸時代から明治初期にかけてどういう使われ方をしてきたか?という点から出発して、明治10年代に「図書館」を名乗った施設の志向、参考図書館と通俗書籍館という対比の可能性など、本記事の内容を刷新する重要な指摘が含まれているので、あわせて参照されたい。

 

 

 

※修正中に消えてしまったので再投稿します。

※勘違いがあったので修正しました(2016/6/2)

図書館史中の最大疑問?

図書館史の勉強を始めると色々疑問がわいてくるのだが、そのなかでもっとも基本中の基本にして、しかも実は難問なのは、図書館はいつからあるのか。という問いに答えることなのではないだろうか。

もちろん、古代の図書館であれば、前7世紀にアッシリアのアッシュールバニパル王が作ったニネヴェの図書館だとか、紀元前300年頃の古代アレクサンドリアの図書館をあげることができる。日本なら、石上宅嗣芸亭もあげられる。

けれどこれは今日言うところの「図書館」とはちょっと違う。江戸時代は文庫と読んでいた。それをいつ「図書館」と呼ぶようになったのか。明治以降だろうという予想は出来ても、その先になかなか進めない。

日本語で図書館と名乗った図書館は、いつからあるのかという問いを立ててみる。それならある程度絞り込めそうな気がするけれど、いつ、日本人の暮らしのなかに「図書館」が定着したのかとなると、一気に難しくなる。

有名なのは福澤諭吉『西洋事情』における文庫<ビブリオテーキ>の紹介だろう。

「西洋諸国ノ都府ニハ文庫アリ「ビブリオテーキ」ト云フ日用ノ書籍図画等ヨリ古書珍書ニ至ルマテ万国ノ書皆備リ衆人来リテ随意ニ之ヲ読ムヘシ」

結論を先に書いておくと、日本に「図書館」が定着したのはいつかという問題は、色々な説が並立しており、ざっと調べた限りでも、最初と最後で実に30年近い開きがあるので一概に正解を出しにくい。

論じる人が何を大事と思うかによっても違ってくるということだ。

たとえば、最近出た高山正也『歴史に見る日本の図書館』には、明治41年(1908)に日本文庫協会日本図書館協会に変わったときをもって、「明治維新後に日本に移入されたライブラリー、ビブリオテーク等の外国語の概念を表す語として「図書館」という日本語が定まった象徴的な出来事*1」と評価している。一つの指標ではあるけれども、業界団体の話と社会の動きはそう綺麗に連動するものだろうか。

江戸から明治にかけて、文庫から書籍館、図書館へと変わってきた大きな流れがあるのだが、これらの言葉の興亡を、出来るだけ根拠を上げながら見ていきたい。私見では、歴史というのは、ある意味で思い込みや予断を揺さぶり、新しい観点の形成を促すところに一つの効能があると思うのだけれど、この作業も、図書館史の勉強が何か意味があるのか考える上では試金石になるかもしれない。

辞書から

語誌の探求のとっかかりとして、『日本国語大辞典』第二版の「図書館」の項目を引いてみると、こうある。

(1)幕末明治初期には、「文庫」「書院」「書庫」「書物庫」「書室」「便覧所(安中藩)」などの語が見える。明治10年代には、「書籍館(しょじゃくかん)」と呼ぶのが普通で、「図書館」が用いられるようになるのは明治20年代以降。

(2)当初、読みは「ずしょかん」「としょかん」の二通りがあり、もっぱら「としょかん」というようになるのは大正(1912~)以後。

ポイントが2つある。「図書館」が用いられるようになるのは明治20年代以降だというのが一つ。もう一つは読みである。もっぱら「としょかん」と読むようになるのは大正時代になってからだという話があって、それまでは「ずしょかん」という読み方もあった。これはおさえておくことにしたい。

言葉の定義に関して、辞書からさぐるという方法がとられることが多い。

翻訳語をまとめた杉本つとむ『江戸翻訳語の世界』は、明治21年(1888)の『和訳字彙 : ウェブスター氏新刊大辞書』でも、Libraryは書房、書庫、書籍館があてられているという点に注目して、いくつかの辞書と訳語の検証をしている。

なお、明治22年から数年かけて刊行された大槻文彦の『言海』には、ちゃんと「図書館」が出てくるようである。読みは「としょくわん」。「多ク書籍ヲ集メ置キテ人ノ覧ルニ供スル所」とあるようだ。

言海 (ちくま学芸文庫)

言海 (ちくま学芸文庫)

 

杉本氏は、ほかの辞書も対比しながら、明治二十年代にLibraryの訳語として作られたものと推定している。

なお、杉本氏が、図書館や書籍館の読み方について、漢音と呉音の区別意識がなくなり、ズショがトショになり、ショジャクもショセキと読まれるようになったと指摘している点は興味深い。昔からの教養を持ち続ける人はズショと読んでしまうわけである。

当然、図書館史研究でもこのことは問題になってきた。

このほか、図書館史の先行研究となる論文では、この問題をもう少し掘り下げている。少なくとも、明治13年東京図書館が出来たこと、さらにそれよりも3年早く、明治10年東京大学に「図書館」が設けられたことがわかっている。となると、明治20年代に「図書館」が辞書に載るようになるのは、初めて訳語が使われてから10年経過した後でということになる。言葉の定着はゆっくりである。

図書館の訳をめぐっては、例えば以下の論文がある。

  • 永峯光名「辞典に現われた「図書館」」(1)-(2)『図書館界』18(4)(5)(1966.11-1967.1)
  • 岩猿敏生「「書籍館」から「図書館」へ」『図書館界』35(4)(1983.11)
  • 三浦太郎「"書籍館"の誕生--明治初頭におけるライブラリー意識の芽生え」『東京大学大学院教育学研究科紀要』(38)(1998)

永峯論文では、英語、仏語などの辞書に表れた様々な名称を紹介しているが、ヘボン和英語林集成明治19年刊行に第三版から、libraryの訳語として、「図書館」が登場すると書いている。織田信義ほか『和仏辞書』(丸善、1899)だと、書籍館=Bibliotheque imperialeと図書館=Bibliothequeでどうも使い分けがなされていたらしいとの指摘もある。

文中「嘉永4年生れの亡父は大正末まで一生ヅショカンといった*2」という具体的な話があることも、重要な時代の証言であるといえる。

何故、書籍館から図書館になったのかについても、永峯論文や岩猿論文は言及していて、「書籍だけでなく絵図や地図も扱うからではないか」という示唆もなされている*3

なお、三浦論文はネットで全文が読める。

同論文では、「書籍館」を最初に使ったのは、幕末の遣米使節随行した森田岡太郎であるとし、アスター図書館を見学して日記に記したときに何故新たな語を作ったのか、色々な先行研究を踏まえながら考察している。

書誌学の成果も参考になる。大沼晴暉『図書大概』によれば、「図書」とは、聖人がこれをもって易を作ったとされる「河図洛書」の略であるとする。河図洛書とは黄河に表れた龍馬の背中の文様である「河図」と、洛水に表れる神亀の甲羅の文字である「洛書」を合わせた大変めでたいシンボルとされる。聖人が参考にしたのだから、図書はあらゆることが載っているという意味を帯びるのだろうか。

図書大概

図書大概

 

中国に逆輸入された「図書館」

ちなみに、「図書」は中国語由来なのだが、「図書館」は日本語から中国語に「图书馆」として逆輸入された言葉らしいことは、諸書で指摘がある。

近代日中語彙交流史 新漢語の生成と受容

近代日中語彙交流史 新漢語の生成と受容

 

しばしば、1905年に湖南図書館が開館したのが良く紹介されるが、小黒浩司『図書館をめぐる日中の近代』は、それをもう少し遡って、1904年の張之洞が作成した「奏定学堂章程」に「図書館」が見られるとしている(それまでは中国では「蔵書楼」などの表現が採られていたという)。なお、小黒氏によれば、早くも1899年に梁啓超が『清議報』で、『太陽』に載った論文を翻訳して「論図書館開進文化一大機関」という記事を載せている由だが、亡命中の梁の言論活動なので、すぐにこれが清国政府に影響を与えたという見方については慎重な評価を下している。

並存する図書館/書籍館

岩猿敏生『日本図書館史概説』は、図書館にはトショカンとヅショカンの読みがあったとしながら、明治13年(1880)の『東京大学法理文学部一覧』英文版に、同大学の図書館の紹介として、Tosho-Kuan (Library) of the Universityの記述が使われていることを上げている。「トショカン」は明治13年からあったのだ。他方、明治19年(1886)の東京図書館の洋書目録では、自館の名称をTokyo Dzushokwanと表現していてヅショカンもあったらしいことがわかる。また、書籍館についても、明治8年(1875)の東京書籍館が出した洋書目録の表題紙にはTokyo Shoseki-Kwanとあり、書籍館はショジャクカンと読むだけでなく、ショセキカンの読みがあったことがわかる。

日本図書館史概説

日本図書館史概説

 

そうして岩猿氏は、

明治の初期、ライブラリーに当る言葉として、書籍館と図書館があり、その読みもそれぞれ二通りあったと思われるが、1890年代には図書館という呼称に、読みもトショカンに統一されていった*4

という見方を提示している。

文部省の図書館施策との関係はどうか。

なお、書籍館から図書館への転換については、前掲『図書大概』が、「明治二十年十月、文部省は官制を改め、書籍館を図書館と改称し、学校教育の補助機関として取扱うべき旨布達している」という意見を述べているのが注目できる。同様の見解は、『図書大概』が典拠としている『八戸市立図書館百年史』にも見られる。これは何かというと、10月4日に文部省が官制を改正し、普通学務局を設けたこと、その所掌事務について書かれている個所が「書籍館」から「図書館」に変わったことを指しているようである。日本法令索引で確認すると、確かに次のように変わっている。

第十一条 第四課ニ於テハ専門学校其他諸学校書籍館博物館及教育会学術会等ニ関スル事務ヲ掌ル

第十一条 普通学務局ニ第一第二第三第四第五ノ五課ヲ置キ全国ヲ五部ニ分テ各其部内ノ尋常師範学校尋常中学校高等女学校小学校各種学校幼稚園図書館博物館及教育会通俗教育等ニ関スル事務ヲ分掌セシム…

図書館業務を統括する官庁が名前を変えたのだから重要事には違いないのだが、これによって書籍館を図書館と改称した決定的根拠とまでいえるかどうかはこれまた微妙だ。

なぜなら、同年の文部省の年報では、とくにこのことが書いていないからで、おまけに、統計表のタイトルは「書籍館」になっているからである。また、地方の書籍館が図書館に一斉に改称した形跡もとくにない。

文部省年報の統計表のタイトルが「書籍館」から「図書館」に変わるのは、確認したところ明治25年(1892)のようであるが、そうなると、また官制改正から5年ずれてしまう(確認したら勘違いでした。正しくは明治26年1月付でまとめられた、明治24年分の年報の記述から、でした。大変失礼しました。※後日追記)。なお、この頃はまだ「図書館」を標榜していたのは基本的に東京図書館帝国大学の図書館など、官立の施設が中心だった。地方の図書館は大阪をはじめとして書籍館の名称を用いているところが多かったようである。

新聞記事などで、この時期の用法を見ていると、大学図書館など参考図書館機能を持ったlibraryを「図書館」。地方で読書文化の普及に努める通俗教育機関としてのlibraryを「書籍館」と訳し分けているような印象がなくもないのだが、今ひとつ決定的な証拠を欠く。

政策的にいえば、明治30年帝国図書館設置、明治32年の図書館令公布も、結構影響が大きいのではないかと予想されるが・・・。


日本文庫協会草創期のメンバーの懐古談

明治25年は、日本文庫協会結成の年であるが、文部省年報の統計項目の変更とは何か関係があるのだろうか。当事者の回想も聴いてみたい。昭和6年1月、『図書館雑誌』には帝国図書館松本喜一が司会となって、市島謙吉太田為三郎、小林堅三、坪谷善四郎和田万吉らの「回顧座談会」が載った(開催は昭和5年11月)。

この座談は初期の頃の文庫協会の慎ましい活動が伺われて、非常に面白い記事になっている。明治32年の図書館令も帝国図書館長の田中稲城が出したとか、文部省あたりでも図書館のことがわからないとか、だから田中さんの口入れが大事だったとか。地方から図書館のことを聴きに来る人が上京してきても文部省も分からないので上野に回付されることも間々あったらしい。何というか時代である。そのくらい文部省に田中が影響力を行使できたのだとすると、年報の統計項目の変更くらいは、軽くゴリ押し出来そうにも思う。

この座談の中途に、大変重要な証言が載っている。

市島 文庫協会と云ふ文庫の字を選んだのはどう云ふ訳ですか?

和田 是は確かでありますが、そもそもの初めに会名を田中〔稲城―引用者註〕君西村〔竹間か?―引用者註〕君が按ぜられたので、其当時は図書館協会となつて居りましたが、後に文庫協会に変つたのです、初めは図書館協会でした。

(略)

太田 其頃は文庫と云ふ名前の方が普通です。

市島 是は一つ書いて貰ひたい。後にこれから問題が起るのだから。

太田 色々意見がありましたが、昔から文庫と云ふ名前で通つて来て居るのだから、図書館協会と云ふ新規な名前よりも其方が宜いと云ふことを頻りに主張する人があつて大分問題になつたやうです、新規な上野側では矢張り図書館協会が宜いと云ふ説であつたが、何分多数決でとうとう文庫協会になつてしまつたのです

松本 田中さんは、其新智識で欧米風に、ライブラリーと云ふものを図書館と云ふ風に訳して、それでやらうといふのに斯う云ふことで共鳴されなかつたのですか。

太田 外の人は皆文庫協会の方です。そうでせう、何しろ図書館と云ふ名前の所は上野の東京図書館の外には何処にも無いのですからね。皆文庫ですから*5

とくに図書館に反対して文庫説を支持したのが南葵文庫だったという。しかし議論をしていくうちにだんだん緩んできたらしい。坪谷善四郎は、高山樗牛が「図書館設立の趣旨」を書き、博文館の15周年事業として作られた大橋図書館の影響を述べている。

坪谷 其時分のことで、私が記憶して居るのは図書館と云ふ名前が非常に盛んになつて来たのは、大橋図書館が出来たと云ふことと、大橋図書館で全国図書館講習会と云ふのをやつたからです。それは田中さんが主となられてやつたものです。さうして全国からだいぶ集つて来て、今日全国に散らばつて図書館に従事してゐる人で、当時大橋図書館の講習生であつた人が大分居ります。それ等の人が地方に行つて図書館を鼓吹する事になつたのは、確か三十五年の秋だらうと思ひます。

松本 講習会は三十六年の八月一日から二週間貴方の大橋図書館でおやりになつたのですね

(略)

坪谷 とにかく全国に亘つて、皆図書館と云ふものを作られることになつたのです。さうして全国に所謂図書館の開設が叫ばれ、其当時では文庫と云ふ名を以て地方で作る人はございませんでした。あの図書館員講習会が、大変地方に図書館を作る素地をなしたのですから、今日の興隆には大いに与つて力あると思ひます*6

文庫と図書館の対立については石山洋『源流から辿る近代図書館』のなかで、文庫支持・図書館反対派の意見の中に「中国では、書館といえば娼楼を指す。そんな汚らわしい印象を含む語を会名に入れるな」というちょっとびっくりするものがあったという話を紹介している。ただ、これはためにする批判で、当時もそんなに説得力は無かったのだろうなというのは、中国語にすんなり「図書館」が訳されていることからもわかる。

読み方の問題に関しては、新聞記事に載っているルビなどを調べていくと、漸次「としょくわん」が増えていくものの、「ずしょくわん」も多い。同じ新聞でも東京と大阪、日によってルビが異なる場合すらある。明治39年(1906)に帝国図書館開館式典を報じた記事のなかですら「ていこくづしょくわん」というルビを振っているものがあったので、明治30年にすっかり「としょかん」に統一されたとまでは言い難いようである。


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戦前の図書館数と利用者を集計した表を見てみる。図書館の規模が様々なのでよしあしなのだが、これを見ると図書館の数が増え始めるのはやはり日露戦争後である。全国的な普及が進んでいくときに概念的な混乱が生じるのは避けがたいと思うものの、そのなかで図書館が、講習会などを経て定着していったというのは、それなりに妥当ともいえるかもしれない。


新村出の見解

最後に、図書館をめぐる言葉ということで、『広辞苑』の編者にして京都帝国大学附属図書館三代目館長・新村出『語源をさぐる』を紹介したい。

同書のなかで、図書館は明治二十年以降ズショと呼ぶ人が多かったが、「大正時代に入ると全くトショの方に統一されてしまった」としている。さらに考えさせられるのは、「ライブラリイ」を図書館と訳したのは正しかったのか?という疑問を発していることだ。

語源をさぐる (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

語源をさぐる (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

 

英語だと自宅の書斎もlibraryと云うのに、それを図書の館としてしまうと、国立や大学の図書館は良いが、規模がごく小さい町村立のライブラリーまで図書館と読んでいいのか疑問だというのだ。では文庫の方が良いのか(フミクラとしての文庫は、13世紀くらいから使われてきた昔からの言葉といえるらしい。)と考えてしまったりしてこの辺は難しいのだが、当たり前のようにして「図書館」を眺めているとちょっと揺さぶられる意見ではある。

今まで出てきた出来ごとを、年代順に、年表風にまとめておこう。

明治10年(1877) 東京大学が図書館を設置

明治13年(1880) 東京図書館開館

明治20年(1887)10月 文部省官制改正。普通学務局の所掌事務に「図書館」が明記

明治20年代 辞書類に「図書館」登場

明治25年(1892) 日本文庫協会結成。

明治26年(1893) この年1月にまとめられた明治24年分の文部省年報の統計が書籍館から図書館に変わる。

明治30年(1897) 帝国図書館設置

明治32年(1899) 図書館令公布

明治35年(1902) 大橋図書館開館

明治36年(1903) 大橋図書館日本文庫協会主催第一回図書館事項講習会

明治41年(1908) 日本文庫協会日本図書館協会に改称。

どれが大事かによって説が変わるというわけである。読み方はともかくとして、

規模の大小はあるけれど、図書館の設置数が増えるのが日露戦争以後だという事情も踏まえると、

書籍館や文庫でなく「図書館」が受け入れられるようになることに関し、先に紹介した坪谷の説はいい線を言っている気がするのだが、どうだろうか。

*1:高山正也『歴史に見る日本の図書館』(勁草書房、2016)p.59

*2:永峯光名「辞典に現われた「図書館」(2)」p.183

*3:永峯前掲論文(2)p.183。岩猿論文p.197

*4:同書151~152頁

*5:「懐古座談会」『図書館雑誌』25(1)(1931.1)p.9-10

*6:同上、p.11

続・「図書館記念日」をめぐるあれこれ

人間だれしも誤りはあるものなので、間違った情報をうっかり人に伝えてしまうのは、ある意味では避けられない仕方ないことなのだが、大事なのは、間違いに気付いたときに、開き直らずに、それをちゃんと認めるということなのかなと思う。自分もやれといわれてもなかなか難しいけれど。

最初に書籍館が設置された湯島聖堂のお土産で買った鉛筆にこんなことが書いてある。すなわち、

f:id:negadaikon:20160408232414j:image:w360

―――過ちては則ち改むるに憚ることなかれ(論語)。



さて、前回の記事(「「図書館記念日」をめぐるあれこれ」)を書いて以来、思いのほか色々な人に読んでいただけたようで、twitterなどでも感想もたくさんあってありがたかった。なかには

というのもあり、これは奮起してさらに調べてみなければ、という気持ちになった。歴史屋の意地のようなものもあるし、いつかこういうレファレンスを受けるかもしれない。

実際調べてみた結果、軽いつもりで考えていた事態が思いのほか大きな話になり、当初の予想が大幅に裏切られたので、少し回答のプロセスを意識しつつ書いておく。


辞典は図書館記念日をどう取り上げているか?

まずは辞典類を引いてみるのがよいだろうと考え、国語辞典や「記念日」関係の辞典、百科事典に「図書館記念日」が載っているかどうかを探す。

記念日の辞典に関しては、レファレンス共同データベースに、ちょうど

「今日は何の日」のような本はあるか(香川県立図書館)- レファレンス協同データベース

http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000012829

という事例があり、これが良さそうなので、事例で取り上げられた本をいくつか開いてみた。

その結果色々なことがわかったのだが、それぞれの辞典が提示する情報を、細かい表現を適当にまとめなおして抽出してみると



ということが書いてある。私が参照したものに偏りがあるのかもしれないが、なんと大抵の本に「現在の図書館記念日は4月30日、1950年の図書館法の公布を記念して、日本図書館協会が1971年に定めた。」という正解が書いていないのである。レファレンスでならだれもが引くであろう超有名辞典にも間違いが載っていた。

また、東京書籍館に至ってはそもそも明治8年の成立である。4月30日が書籍館が出来たという話も、これでは図書館法が浮かばれない。4つ並べると、センター試験のひっかけ問題のようだが、とにかくこれは大変なことだ。うっかり司書課程の教科書に載ったりしたら…と思うと恐ろしい。

最初の公共図書館という意味では京都の集書院を挙げている方もおられたが、これも開設は明治6年の5月15日なのであり、残念ながら図書館記念日とは直接関係がない。

ただし流石に専門事典はしっかりしている。図問研の作った『図書館用語辞典』(1982年、角川書店)では、次のように紹介している。

「図書館を記念して制定された日。(1)戦前は、4月2日を記念日とした時代がある。1931(昭和6)年4月2日、時の帝国図書館松本喜一(まつもときいち 1881-1945)が天皇に図書館に関する進講をしたのを記念して、昭和7年5月、全国図書館大会において制定した。各地であまり十分な反応はなかったが、当時大日本帝国の植民地であった台湾では、山中樵(やまなかきこり)が提唱して盛大な記念行事が行われた。なお、この日を1872(明治5)年に文部省が湯島に書籍館(じょじゃくかん)を開設した日を記念したとする説があるが、誤りである。(以下略) *1

この点は、書物蔵さんも指摘しておられた。


石井敦氏の整理

次は雑誌の記事を当たる。何かこのことを検証した論文があればしめたものだと思いながら、「図書館記念日」などのキーワードでNDL-OPACCiNii Articlesを調べる。すると以下の文献が見つかる(リサーチ・ナビの調べ方案内「総合的な雑誌記事(和文)の検索ツール(人文・総記分野)」なども参照になるかもしれない)。

石井敦図書館記念日と図書館週間」『図書館雑誌』71(5) 1977年5月。

石井敦氏といえば『日本近代公共図書館史の研究』をはじめとする日本の公共図書館史研究の草分け的存在であり、その記事には大いに期待できる。

この記事と、記事中で紹介されている石井『PRと図書館報』(1967年、日本図書館協会)の特に「序論 日本の図書館のPRの歴史と思想」が色々有益な情報を提供してくれている。

また、記事中で紹介されている清水正三『戦争と図書館』(1977年、白石書店)にも、戦前の図書館記念日の制定過程について詳しく書かれている。

これらから以下のような情報が得られた。図書館のPR行事について、もっとたくさん書いてあるのだが、関係しそうなものだけに絞って並べてみると以下のとおりである。

  • 1923(大正12)11月1日~7日 図書館週間
  • 1937(昭和12) 図書館記念日を国民教化運動宣伝実施計画に再編
  • 1940(昭和15) 図書館記念日を読書普及運動に一本化
  • 1947(昭和22)年11月 日本出版協会が読書週間を開始、図書館も協力。
  • 1950(昭和25)年1月15日 日本図書館協会、図書館法制定にむけた世論を喚起するため、「図書館デー」制定(ただし、この年限り)
  • 1959(昭和34)5月1日~7日 日本書籍出版協会児童書部会主催「こども読書週間」

いくつかのことが分かる。戦前の図書館記念日といっても、もう1940年以降はわざわざ図書館記念日だけを図書館が祝うのでなくなっていたということが一つ。それから、戦後も別な図書館デーを作ろうとした形跡があるが、長続きしなかったということが、一つ。

1940年の後、図書館記念日が新たに制定されたのが1971年ということになると、30年間、何にもやっていないので、図書館が続いていても、そこで働くスタッフはほとんど入れ替わってしまっているはずで、4月に図書館記念日が出来た経緯について、職場内での継承もできなかったことだろう。

図問研の戦前の図書館記念日に若干批判的なニュアンスからすると「各地であまり十分な反応はなかった」というのがどこまで本当か不明だが、本当だとしたらなおさらのこと、図書館員の間でも記念日が忘れ去られることはありえたろう。

結局、図書館記念日日本図書館協会が制定して「この日にする」と言っているものなので、『図書館雑誌』での議論が知りたくなってくるのだが、1981年の評議員会では次のやり取りがあった由である。

図書館記念日だが4月2日ということで新聞に出ていた。確認の上、是正の必要がある」「…(略)。ご指摘の通り年鑑その他誤まりがある。朝日新聞の日曜版カレンダー欄には昨年から採用してもらっている。今後も努力したい*2

新聞社に話してカレンダー欄の図書館記念日を書き変えてもらったということだろうか。だとすると問題は、新聞やメディアにおける図書館記念日の扱い方にうつってくる。


新聞紙面の「図書館記念日

そう思って新聞のデータベースを引いてみるといくつか見つかる。71年以降の場合、4月2日前後の記事が怪しいと思いながら調べると次のようである。まずは「天声人語」.

きょう二日は図書館記念日だとものの本に書いてある。明治五年の四月二日、東京書籍館が出来たのを記念したものだという。筆者もそう思い込んでいたのだが、これは間違いだった。図書館に対する認識の低さを恥じるわけだが、実は五年前から図書館法制定の「四月三十日」を記念日に改めているという*3

これなどは、間違いを見つけて改めたものだ。若干、明治5年に東京書籍館が出来た(繰り返すが東京書籍館書籍館よりも後、明治8年に設立されたものである)と書いてある“ものの本”とやらの所在が気になるが、まだなんとも手掛かりがないので保留にしておく。

書籍館開設の日というのは、1971年に図書館記念日が出来る前から広まっていた誤解かもしれないので、そう思って1970年の記事を見てみると、一層誤解が大きい。

週間メモ(3月29日~4月4日)

2日(木) 図書館記念日。明治5年文部省が東京湯島にヨーロッパ風の東京図書館を設置した日。春の図書館は明るく静かで読書が楽しめる*4

「ヨーロッパ風の東京図書館」というのはどうだろうか。湯島だと書いていても、聖堂跡とは気付かないものだろうか…。聖堂は関東大震災で焼けて再建されて現在の形になっているようだけれども、それにしてもいくらなんでもヨーロッパ風はないのではないか。なお、くどいかもしれないが、東京図書館は、明治8年東京書籍館のさらに後の図書館で、明治13年の設立である。

この手の誤情報で、いつ頃の記事が一番古いのかを調べてみたら、昭和31年(1956)の以下のようなものが見つかった。

きょう二日が「図書館記念日」であることは案外知られていない。明治五年四月二日に文部省が東京湯島に「東京書籍館」という西洋式の近代的な図書館をひらいたのを記念した日である*5

1940年代に図書館記念日は色々な事情で止めになったものの、別に日図協が取り消したわけでもないし、記念日にしたということ自体は生きていたといえるかもしれない。図書館関係の新聞記事検索ということになれば、竹林熊彦の切り抜きをもとに編まれた石井敦編『新聞集成 図書館』全4冊(1992年、大空社)を繰らねばならないが、第4巻、戦後編の4月2日の記事だけを重点的に探してみたところ、これより古いのは見当たらないようだった。まだ探せば見つかるかもしれないが、1950年代にこういう誤解があったことの意味は大きい。

図書館 第3巻~第4巻―新聞集成

図書館 第3巻~第4巻―新聞集成

初代国立公文書館長の岩倉規夫氏の『読書清興』(1982年、汲古書院)には、「図書館あれこれ」(初出は1962年4月)と題するエッセイが収録されているが、そこで中で次の新聞記事を紹介しているのが興味深い。

読書清興 (1982年)

読書清興 (1982年)

福島県の吉田さんの投書と、それに対する埼玉の司書・石黒さんの反応である。まずは吉田さんの投書から。

わが国の図書館のはじめは、千百七十年ほど前の奈良朝時代の「芸亭(うんてい)」であるとされている。石上宅嗣卿が自分の家の一部に本を備え、一般に利用させたのにはじまる。それはさておき、近代的図書館としては明治五年四月二日に、東京湯島につくられた国立「東京書籍館」がはじまりで、それによって毎年四月二日が図書館記念日になっている*6

吉田さんは福島県の教員らしいのだが、次のようにもいっている。「図書館設立運動に寄与した市川清流のことばに「りっぱな人をつくるには図書館にまさるものはない」という一節があるが、それを思うにつけ、年に比べて教育環境と条件に恵まれない農山村の学校図書館の充実が、教育上きわめて必要であることを、記念日に当って強調したい」。教員として学校図書館の充実を図りたいので、図書館記念日にそのことを強調するというのだ。市川清流を引用するあたり、かなり図書館史の勉強をされているようにも見える。

ただし、やはり書籍館開館日ではないのだ。

これに対する、埼玉の石黒さんは、「提案を興味深く読んだ」としながら、4月2日の由来については「これは何かの誤解ではあるまいか」として次のように述べる。

なお、「書籍館」の創設は明治五年八月一日で、それが「東京書籍館」になったのは同八年五月十七日のはずである。東京書籍館はその後、東京府書籍館東京図書館を経て帝国図書館となり、戦後、国立国会図書館の創立に伴いこれに統合された*7

教員が図書館記念日を覚えていたが、その由来が間違っており、それを司書が正している形だ。

それにしてもなぜ明治5年4月に、書籍館ですらなく「東京書籍館」なのか?というのは確かに気になる。一番古い記事が間違っていたということかもしれないが、ただ、図書館記念日について何か言いたい人が皆、古い新聞記事を一々参照しているとも思えず、これは記者の人が使う手帖か何かに誤情報が載っているのではないかと疑い始めたところ、果たして、上の記事の発行された翌年に出た共同通信社の『記者ハンドブック』(1957年、共同通信社出版部)に次の記述が見つかった。

四月二日 図書館記念日(明治五年四月二日文部省が東京湯島に東京書籍館をつくったのが近代的図書館のはじまり)*8

天声人語の記者が言っていた“ものの本”、誤情報の拡散の原因は、これなのではなかろうか。もちろん確定とは言い難いが、影響範囲を考えるとかなり可能性は高いように思われる。いつの改訂版まで上記の情報が掲載されていないのかは未確認だが、よく確認しないハンドブックの編者が悪いのか、戦後になって記念日について曖昧なままに放置していた図書館側が悪いのかは、こうなるとよくわからない。ただ、新聞記者さんが用字用語のチェックをする手帖に、4月2日が図書館記念日で、それは東京書籍館が出来た日と書いてあったら、それは新聞を経由して広く伝わることになるだろう。

何か図書館にひっかけて4月2日に本の話をすればいいのだから、コラム欄のネタには申し分ない。そして新聞にも載っているネタであれば、辞典編纂者もそれほど悩まずに社会的な広がりを持つ者として採用してしまうかもしれない。



何故、4月2日は書籍館開設の日と誤って伝わったのか――ひとつの仮説。

色々なことがわかったし、拡散の原因もほぼ突きとめられたかと思うのだが、それにしてもなぜ1950年代に4月2日は書籍館の開設日だという誤解が生じたのだろうか。今回の調査でもその決定的証拠は見つけられなかった。だから、普通のレファレンスではここで回答を終了すべきなのだが、ちょっと気になる仮説を思いついたので、書いておく。

何故4月2日に書籍館開設日だと思われたのか。図書館記念日の由来をよく知る人が、あくまでも図書館は民主主義の砦であると捉え、戦前の図書館界が御進講の成果を誇らしく感じてお祭り騒ぎしていた事実そのものを隠蔽したいと考えた、と見ることはできなくもない。

しかし、そのように捉えた最初の人はおそらく新聞記者や『記者ハンドブック』を編んだ人であって、要するに図書館関係者ではない。1950年代の逆コースの流れと、それに対する進歩的文化人の活動は時代背景として踏まえておく必要はあるかもしれないが、図書館関係者でもない人がそういうことをたくらむ動機づけにはやや弱い気がする。

では何が理由か。ここからは完全に私の推測になるが、つまり「勘違い」である。

今日ほどデータベースが普及しているわけでなく、物事の検証に膨大な労力を要したとはいえ、少し調べれば4月2日が御進講の日であることには気づけたと思う。そのときに、図書館記念日は御進講以外の何かも合わせて記念していると勘違いしたのではないか。それを採ったのではないか。

何と勘違いしたのか。先の石井敦図書館記念日と図書館週間」、が紹介している清水正三の『戦争と図書館』の50頁以下に、忘れ去られたもう一つの「図書館記念日」の存在が示唆されていて興味深い。

ときは昭和3年(1928)12月7日。京都帝国大学新村出らが中心メンバーとなって開かれた、第22回の全国図書館大会の大会5日目のことである。奈良県立奈良図書館長の堀内竹蔵が「全国図書館記念日ヲ制定シテハ如何」という議題を提案した。その理由として次のように言っている。

「流行を追ふ訳ではないが、我図書館協会も、全国図書館が記念すべき日を設定しては如何かと云ふのである。而してこの記念日としては、我図書館界に最も崇敬すべき所の石上宅嗣卿の薨じられた其日を以て為したならば如何、卿の薨じられたのは天応元年の六月十二日である。これが若し適当であるとするならば、其日を全国の図書館記念日と定め度いと考へる。

図書館記念日は、石上宅嗣卿を記念して6月12日にしようというのだ。これには石川啄木文庫の保存で有名な函館図書館の岡田健蔵が、記念日は各地にあるという理由を掲げて反対した。

「地方の図書館は各自の必要から夫々記念日を定めて居る。若し斯くの如く全国的図書館記念日が定められたとすると、その地方的記念日と衝突することになりはしないであろうか。図書館の宣伝の意味ならば、現在の図書館週間を以て十分である。であるから別に設定する必要はない」

これに賛成の声が出、採決では多数をもって否決された(じゃあ何でその3年後の御進講を受けて改めて設定することにしたのか?という点に、清水は「政治的な意味」を読み取りながら答えている)。

『やまとのふみくら』などにも出てくるが、奈良県立奈良図書館や天理図書館は、松本喜一の御進講の一年前、昭和5年(1930)に行われていた石上宅嗣顕彰事業を活発に展開していた。

石上宅嗣卿 (1930年)

石上宅嗣卿 (1930年)

石上宅嗣が作った貴族子弟のための公開図書館「芸亭」は、日本初の公開図書館であるとされているが、この表現、「日本初の官立公共図書館」という表現と少し似てはいないだろうか。先の提案者の堀内館長はすでに奈良図書館を退職していたが、昭和9年(1934)奈良図書館月報に次の記事が載ったのは、石上宅嗣を全国的な図書館運動の元祖として訴えようとする並々ならぬ気迫すら感じられないか。

松本帝国図書館長の謹話を拝しますと、この日は、わが石上宅嗣卿顕彰会で建設いたしました「石上朝臣宅嗣卿顕彰碑」の拓本を御持参申上げ、陛下の御許しを得て、これを壁間に掲げて朗読し、我国公開図書館事業の由つて来る所の遠いことを御説明申上げられたさうであります。この拓本は顕彰会から松本帝国図書館長に贈呈したもので、私達のとつた拙い手拓を展覧に供し奉つたことは畏い事でありますが、千二百年の後、石上宅嗣卿の事蹟が昭和聖帝の天聞に達し上げられた事を思へば、卿の余栄、之に如くものはありません。ひいては宅嗣卿を生んだ我が大和の特に図書館事業にたづさはる私達にとつても甚だ光栄の次第であります*9

してみると、4月2日は、帝国図書館松本喜一が、石上宅嗣についても御進講を行なった日になる。何か4月2日が石上宅嗣の記念日にすら見える。それが「芸亭」の業績と相俟って、最初の公開図書館の日であると勘違いされ、次いで最初の公開図書館が、やがて芸亭でなく、書籍館になっていったのではないかというのが私の仮説である。

問題解決のためのレファレンスサービス

問題解決のためのレファレンスサービス

ただ、改めて考えさせられる問題は、小さなこととは言え、新聞を中心に誤解が広まると、辞書の記述もとくに吟味されず訂正もされないで広がっていってしまうことだ。今後、ウェブ情報が増えていく中で、本当のことが埋もれてしまったら、それを見分けるためにどういう仕組みを作っていくことが可能だろうか。文献を示して質問に対して正しい答えを教えるだけがレファレンスのすべてではないし、図書館利用者とともに考えるということだって大切なことだ。「図書館記念日」に関わることでさえ、このような現状だとしたら、レファレンス担当の図書館職員にはいったい何が出来るだろうか。少々重い課題を突き付けられたような気持ではある。

*1:図書館問題研究会図書館用語委員会 編『図書館用語辞典』(1982年、角川書店)p.443

*2:『図書館雑誌』75(5)より。

*3:「天声人語」1976年4月2日 朝日新聞朝刊一面。

*4:「今週の暮らし」『読売新聞』1970年3月29日

*5:「ここに地方図書館のお手本――成果をあげる「所沢図書室」の実例から」『読売新聞』1956年4月2日8面

*6:「図書館記念日」『朝日新聞』1962年4月2日付夕刊2面

*7:石黒宗吉「「図書館記念日」」『朝日新聞』1962年4月7日付夕刊、2面。

*8共同通信社 編『記者ハンドブック』改定版(1957年、共同通信社出版部)215頁

*9:「図書館記念日石上宅嗣卿の余栄」『奈良県立奈良図書館月報昭和9年4月1日

「図書館記念日」をめぐるあれこれ

ある質問から

図書館史を勉強するようになって、図書館関係者から最も聞かれたことに次のような質問がある。

「4月2日は図書館記念日で、それは明治5年に書籍館が開設されたことに由来するらしいが、本当か?」

いろんな人がネットで調べて疑問に感じるらしく、以前にも聞かれたことがあり、先日もまたちょっと人に聞かれたりした。最近でもネット上で、4月2日は、明治5年に日本初の近代公共図書館が出来た日であるという話がいくつか出ており、ちょっと誤解が拡散しているようなので、整理しておくことにする。


結論からいうと、この説明は正しくない。

書籍館が日本初の近代公共図書館だというのも突っ込みどころはある気がするが、それはともかく、ネットでこの話がなくならないのは、紙の本でもこうしたことが書いてある文献がおそらく存在するからなのだと思う。

明治5年に書籍館が開設されたのは4月2日ではない。もう少し慎重に、正確に言うと、4月2日設置を裏付けるちゃんとした証拠について、かつて結構調べたことがあるが、結局私は見つけることがまだできていない。

手元にあった岩波書店の『近代日本総合年表』第三版は、『上野図書館八十年略史』を典拠として、旧暦6月(日時不明)に「東京湯島博物館内に書籍館を開設」と書き、さらに8月1日開館という風に書いている。

近代日本総合年表 第三版

近代日本総合年表 第三版

 

書籍館はいつできたのか?

文部省の書籍館が、いつ何を持ってできたとするかは、厄介な問題ではあるのだが、『東京図書館一覧』など、官制上つながりのある後の機関が、要覧などに載せている沿革は、ある種の公式見解といっていいのだろうと思う。そこでは概ね、

「本館ハ明治五年四月文部省ノ創設ニ係リ…」

という表現が採られている。だから、4月開設というのは大きな間違いではなさそうである*1。問題は日付である。

奥泉和久『近代日本公共図書館年表』は、明治5年4月28日(太陽暦では6月3日)に、文部省が書籍館を設立したと記述している。これは、『国立国会図書館三十年史』の年表をもとにしたものであるらしい。

近代日本公共図書館年表―1867~2005

近代日本公共図書館年表―1867~2005

 

さらに石山洋『源流から辿る近代図書館』を見ると、4月28日の根拠が少し具体的になってくる。この日は、文部省博物局が「書籍館建設ノ伺」を出して、文部卿による決裁を受けた日とされているのである。つまり、「作ってよし」と許可が下りた日をもって開設の日としているということだ。作るための準備はそれ以前にもしていただろうが、4月2日設置というのは決裁が下りる前なのだから準備中になってしまい、その日をもって設立の日とするのは少々苦しい説明である。

また、日本法令索引(明治前期編)で「書籍館」を引くと、「文部省仮書籍館ヲ設ケ書籍縦覧ヲ許ス」という文部省布達が見つかる。この日付は明治5年5月17日である。(典拠は『太政類典』)

5月17日付「書籍館開業ノ儀届」として『公文録』にも載っている。国立公文書館のデジタルアーカイブで検索してみると、文部省から太政官の正院にあてて次のように言っている。

「当省中ニ有之候旧大学ノ講堂当時ハ不用ノ処書庫手狭ニテ差支候ニ付右ヲ以仮書籍館ト仕有志ノ輩ニ官籍拝見差許候ハヽ文化進歩ノ階梯ト可相成候間諸府県ヘ別紙ノ通相達申候依テ此段申上置候也」

旧大学の講堂は湯島の大成殿だろう。

f:id:negadaikon:20160403004512j:image

(2014年10月撮影)

5月17日の時点で、書籍館を作ることになったから別紙の書式で各府県に通知しますと言っているわけである。この通知については、6月付で刷られたものが残っていて、東京国立博物館のHPに画像が出ている。見ると利用規則などが載っている(このほか、『上野図書館八十年略史』などにも翻刻が載っているし、アジ歴などでも各省に通達されたものが検索可能である)。

なお、書籍館の実際の開館の日付は旧暦8月1日である。どうせ記念日にするならば、開館して利用者が来ても良い状態になったときを指定しそうではある。

さて、明治5年は太陰暦が採用されていたのであるが、どの日付を太陽暦に換算しても4月2日にはならない。そこで、「何でこの日が図書館記念日なんだ?」という疑問が生じるというわけである。

戦前の図書館記念日が4月2日だった

何故4月2日なのかというと、この日は戦前の図書館記念日であったからである。日本図書館協会昭和7年5月に制定し、翌年から図書館で色々記念行事が行われるようになった。この、4月2日を図書館記念日にしようと決めたのは、昭和6年(1932)、当時の帝国図書館長・松本喜一が、昭和天皇に「図書館の使命」という題で1時間余にわたる御進講を行なった日だからである。

昭和天皇実録 第五

昭和天皇実録 第五

 

昭和天皇実録』には次のようにある。

「午後二時、御学問所に出御され、帝国図書館松本喜一より「図書館ノ使命」と題する講話をお聴きになる。松本は、日本における図書館発達の沿革と現在の情勢、英独米の諸国における図書館の概況、近代図書館の意義と使命、図書館の国際化等につき言上する*2

松本喜一がどんな人かについては『図書館人物伝』に載っている伝記が詳しい。昭和6年における「図書館の国際化」が何を意味していたのかは、考えるとなかなか興味深い。

翌7年5月、日本図書館協会が主催する全国図書館大会では「四月二日ヲ「図書館デー」ト定ムルノ件」(提出者:東北北海道図書館聯盟)が議題に出され、東北帝大や大阪帝大の図書館に勤務した田中敬が、提案理由として、

「聖上陛下が我国図書館事業に大御心を傾けさせられましたのは我図書館界に特筆さるべきことと思ふ」

と述べている。この年、東北では先行して4月2日を早速「図書館デー」として記念行事を行ったらしいが、参加者から「「デー」は止めろ」と言われたのであろうか、

「「デー」を「紀念日」と改める事の御注意もありし故、左様訂正してこの事を全国的にいたされ度く満場の御賛成を得て大御心の萬一に添え奉りたい」

と続けている*3

大会では、反対者はいないのだが、次に掲げるような疑問がいくつか出た。意訳して載せる。

――毎年秋にやっている図書館週間もこれにあわせるのか?

――社会的な運動は春秋2回やっているものも多いから別個。4月2日は学生も休みでのんびりしているから、学生・一般公衆を図書館に引き付けるのにも適当だ。規定は設けず各館随意にやっていただければよいのでは。

――4月2日は小学校の入学式のところもあるのでは?

――入学式のところもあるのであれば、「大体四月二日と定めて日を異にして行つても差支へない。希望としては出来るだけ四月二日にいたされ度く又学校図書館も共に行つてほしい」

いやいや、そんなだいたいでいいのだろうか。

このあと意見の表明があったが、採決では満場一致で可決された。『図書館雑誌』に載った全国図書館大会の記録を瞥見する限り、「文部省が書籍館開館っていったから、4月2日は図書館紀念日」という議論は一切なされていないということは押さえておきたい。書籍館が4月2日に設置された記録が仮にどこかにあったとしても、戦前の図書館紀念日が4月2日であることとの関係は、薄いのである。

戦前期の図書館は、御大典記念式典と深く関係していたことは、夙に指摘がある。

図書館の近代―私論・図書館はこうして大きくなった

図書館の近代―私論・図書館はこうして大きくなった

 
図書館の政治学 (青弓社ライブラリー)

図書館の政治学 (青弓社ライブラリー)

 

戦争の時代の図書館のあり方に対する反省の上に出発した戦後の図書館運動は、図書館記念日の見直しも進めた。現在は日本図書館協会が、新たに4月30日を図書館記念日に制定し直した。

今度の根拠は、日本図書館協会のHPにあるとおり、図書館法の公布によるものである。

図書館記念日について

昭和25年4月30日、画期的な文化立法である図書館法が公布され、それを契機として日本の図書館活動は新しく生まれ変わりました。サービスとしての公共図書館の機能が明らかにされ、無料原則がうちたてられ、わが国は、真の意味での近代的な公共図書館の時代をむかえたのです。日本図書館協会は、今日の図書館発展の基盤となった図書館法公布の日を記念して、4月30日を「図書館記念日」とすることにいたしました。

戦前の記念日(4月2日―帝国図書館長が天皇に図書館についての御進講をした日)との決別も意図しています。

戦前と戦後で図書館記念日が違い、しかも運動上便利だから元々秋と区別されて両方4月に設定されきたことが、このような誤解を生んだのだろうか?決定的な証拠が出てくるまで、勘違いともなんとも言いにくいのだが、ともあれ戦前に使われていた4月2日の図書館記念日が、少なくとも当初の議論とさえかけ離れながらいま新たに広まっていく過程は、何でなのかも含めて、それ自体興味深い。『八月十五日の神話』ではないが、記念日が選びとられていくことにも、たぶんなんらかのメディア史的、社会思想史的な意味があるからだ。


何故まだこの問題が?そして…

それにしても何でまた最近聞かれるのだろう?という疑問がわいて調べているうちに、変なオチがついた。それを最後に書いておく。

以前聞かれたときには、国立公文書館の「歴史公文書探究サイト「ぶん蔵」」に載っていた内容を送って回答した記憶があるのである。だから今回の質問に対しても、それを見てもらえれば解決したのではなかろうか?じゃあ、質問してきた人にメールで送ろうか。などと考えていた。

ところがそこで「ぶん蔵」の運営が2015年に終了していたことに気がついた…。公的機関のページだって消えるのであった。

思わず国立国会図書館インターネット資料収集保存事業(WARP)から当該サイトを引いてしまったが、やはりこれの説明が最もわかりやすいと思う。

惜しい哉ぶん蔵。

他にもこのことを検証している記事が、過去に見た記憶があるのだが、上手く探し出せなかった。個人ブログは消えてしまうこともあるし、移転してしまうこともあるから仕方ないのであろうか。

それにしても、図書館記念日についてあれこれ調べているうちに、インターネット情報源を典拠とするレファレンスのあり方まで考えさせられる羽目になってしまった。レファレンスツールが開発されれば、今すぐにはわからないことも、いつかわかるようになるかもしれない。そんな希望がある反面、悠長にしているといつかわからなくなってしまうことも、やっぱりあるのかもしれないと…いやはやなんとも。

 

*1:ただし、明治5年書籍館の蔵書は、その後の博物館との合併分離過程で、明治8年設立の東京書籍館に継承されなかったので、両者の連続性を強調することに批判的な見解が存在する。

*2:『昭和天皇実録』第五、p.797

*3:『図書館雑誌』第26年第7号による

John Palfrey. BiblioTech(『ネット時代の図書館戦略』)読書メモ

 英語の勉強をしようと思っていたところ、副題の“Why Libraries Matter More Than Ever in the Age of Google”が気になり、さらにAmazon図書館情報学のベストセラーのサイトを見ていたらなんだか評判が良かったのをたまたま見て、昨年11月くらいからチマチマkindleにダウンロードして読んでいた本。密かに何人かの同僚にも勧めていた。

 今年になって邦訳が出たとの話を聞き、「仕事はやいな!」と感服しつつ、邦訳も買って、このほどようやく読み終わった。

 著者はハーバード大学の法学の先生であるが、ロースクールの図書館長をやったり、さらには米国デジタル公共図書館(DPLA)設立委員長として有名な方*1。たぶん、デジタルアーカイブの将来とかをめぐる著者の考え方へのコメントは、自分には出来ないし、ほかの方が絶対に書かれると思うので置いておいて、もっぱら図書館史に関心を持っている私でも非常に感銘を受ける部分があったので、そのあたりのことについての読書メモを書いておこうと思う。

 全体の構成は次のような形。邦訳の目次を掲げる。

はじめに

第一章  危機:最悪の事態

第二章  顧客:図書館利用法

第三章  空間:バーチャルとフィジカルの結合

第四章  プラットフォーム:図書館がクラウドを用いる意味とは

第五章  図書館のハッキング:未来をどう構築するか

第六章  ネットワーク:司書の人的ネットワーク

第七章  保存:文化保全のため競争せず連携を

第八章  教育:図書館でつながる学習者たち

第九章  法律:著作権とプライバシーが重要である理由

第十章  結論:危機に瀕しているもの

謝辞

訳者あとがき

 全体を通してとくに印象的だったのは、次の3点だった。

 一つ目は、著者の卓越したバランス感覚。例えばあなたが育った図書館での夢のような経験を引きずっているのは良いけれど、古き良き図書館に対するnostalgiaは危険だよ、とたびたび警告するのだけれども、資料のデジタル化が進展し、Googleがあるから図書館は要りません。というようなタイプの主張に対しても、くみしない。

 二つ目は、ポジティブなこと。楽天的ということではないのだが、極力、特定の誰かを腐すことなく、しぶとくメッセージを発信しようとしている。これは一面では八方美人的で、個々の議論についての掘り下げが物足りなく感じる一因にもなるのかもしれないけれど、とかく自分が属していないグループのヘンテコな何かを批判しないと自説が述べられないような、「業界」にありがちな議論の立て方を超越しているのは、素直に「凄い」と思った。

 例えば、全部の学校にiPadを!と主張する生徒との対話や、ご自身の娘さんとのやり取りなど、抽象的なところからではなくて、具体的な経験から話を始めているのも、こういう議論の立て方と関連していると想う。抽象的と云っても、繰り返し出てくる「民主主義にとっての図書館が必要だ」という著者の主張は抽象的ではないのかという話にもなりそうなのだけれど、それも、最後の方に出てくる、例えば子供が投票できる年になる前に、きちんと情報にアクセスできるように(p.256)、といった具体的なイメージと結びついているのだなと読んだ。

 三つ目は、アメリカ図書館史への強い関心と、それに裏打ちされた図書館への信頼・矜持のようなものを強く感じた。なにしろ本書はボストン公共図書館(BPL)に刻まれた“FREE TO ALL”の文字から始まってジョシュア・ベイツの思想に触れ、終りの方では21世紀のカーネギーが待望されているのだ。ところで、邦訳にselected bibliographyが無いのは残念だった。邦訳p.237では「図書館の未来について驚くほどすばらしい理論を考え出し、それを行動に移す人」として何人もの名前が挙げられているのだが、それはどんな本なのか、知りたくなる人がいてもおかしくないと思った。色々な事情があったのだろうが・・・(なにか『銃・病原菌・鉄』を思い出してしまう)。

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 著者が「司書はアーキビストとともに、われわれの社会や暮しの歴史記録を保持していくのだ」(邦訳p.16)と述べて、歴史史料を残していくことを図書館の使命としてきちんと考察しているのは、本書の大きな特色の一つのような気がする(ひんぱんにhistorical societyが出てきて驚く。)。なにより、図書館史が図書館の未来を考えるための材料を提供していて、それが議論にしっかりと組み込まれていることが、羨ましい。

 保存に関しては、合併されて自社出版物がなくなってしまった出版社にとって、大きな大学図書館などでむしろ所蔵がある――現にグーグルは図書のデジタル化を試みた時に大学図書館を利用したではないか――という指摘は、当たり前なのだが眼から鱗のようで、ごく個人的には大きな収穫だった(邦訳p.180)。図書館は出版物・出版という行為によって生み出された資料を永久に保存する機関たりうるのだ。

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 原著の参考文献で上げられているもので気になった図書館史の文献については、比較的邦訳も出ているようだ。

図説 図書館の歴史

図説 図書館の歴史

本棚の歴史

本棚の歴史

 訳に関しては、私の語学力はまあお話にならないので、誤解もありそうだが、storehouseが、文脈によってたんに倉庫と訳されたり、本や資料を収めた「宝庫」と訳されたりしているのが気になった。もちろんどっちでもよいのだろうが、図書館の役割がかつてのstorehouseからplatformへと変わっていくべきなんだ。というのが、4章あたりで展開されている本書の主張の核心的な部分の一つに思えたので、良いのかなと思った。これは、1990年代に議論されていた「電子図書館」と「場としての図書館」の議論をある意味では止揚するものであろう*2。「フィジカルな図書館とデジタルな図書館は相互依存する。それぞれがお互いをさらに効果的で価値あるものにすることができる」(邦訳p.17)というのが、本書のモチーフでもある。

 また、“ダークアーカイブ(dark archive)”について、 “陰のアーカイブ”と訳している個所がある。普段は使えないようにしていて、災害時のために別に保存しておくという説明があるので、意味は問題なく取れるのだけれど、陰のアーカイブという表現のは、まだそんなに定着している言葉でもないように思うがどうだろう。

 また、重いなあ、と思ったのはこんな箇所。邦訳だとp.138あたり。materialsを「物質」と訳しているけれど、ここは利用者重視と対比する意味で、資料重視の方がいいのかなとも思ったので英語で引用してみる(Kindleのページの示し方がいまひとつわかっていなくてすみません)

A strategy of focusing on people rather than on materials is risky and would require libraries to stop doing some valuable things that they’ve done in the past, especially those activities related to building and managing redundant collections. In any given metropolitan area or consortium of colleges, such a strategy would entail holding and caring for fewer copies of physical materials, for instance, and relying more on digital, networked configurations and materials. But there is greater risk in failing to make this change in orientation.

 利用者を重視する方針は危険で、図書館がこれまで集めていた多様な資料の蒐集ができなくなってしまうおそれもある。その結果デジタル化した資料に頼るようになると。だけれども、そのように転換しなければもっと大きなリスクが待っている…。

 本書の結論は最後に10か条にまとめられている。未来の図書館を構想する際には、ノスタルジーに浸ること無く、だけれども利用者が経験をするための場所として、フィジカルとアナログを排除してはならないとするのも、著者のバランス感覚の面目躍如という感じがして、ふむふむと思う。出版と図書館の連携についても、近年の貸出をめぐる議論を見ていると、非常に心強い提言だという風に感じる。そのほかにもいいことがたくさん書いてあるが、この辺は実際にそれぞれの方が読んでどう考えるかだろうと思うので、いちいち掲げないことにする。

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 紙と電子とどっちが大事なんだ?というときに、それはどっちも大事なのだよ。少なくともしばらくの間は。というと、なんだか中途半端な印象をもたれる向きもあるのかもしれないが、フォーマットが多様化していくなかで、たった一つのフォーマットを選択することは図書館的にあまり賢明ではないように感じてきた。徐々に電子資料が増えてはいくだろうけれど、でも自分が図書館員として仕事をしている間は、完全に紙もなくならないのではなかろうか。少なくとも今存在している紙資料の全てをデジタル化するのはおそらく無理だから。そのくらい、紙資料も数があるから。歴史史料も入れたらもっと大変だ。

 私は本書をはじめ原書はKindleでダウンロードして、その後に邦訳が出たことをしって紙で読んだ。紙で読んだらあっという間だった。その後で訳を脇に置いてKindleの方を読み直すということをしていた。そういう読み方もできる時代になった。いつまで有効かは、これも逆にわからないのだけれど、さしあたって図書館のあれこれを考える際には、電子と紙のハイブリッドな情報資源を念頭においておくことのほうが生産的に思える。一方的な立場でなく、バランスをとって、ポジティブに。そういう本が出たことを喜びつつ、本書は折に触れて参考にすることになりそうだ。

※DPLAやハーティトラストやユーロピアナの話は一切取り上げていませんが、デジタルアーカイブの話を抜きにしてプラットフォームとして図書館を再定義する話だけ抜き出しても、これからの図書館構想として凄くバランスが取れた議論だというのが、本書の凄みなのではと密かに思ったりしています。

ピーター・バーク著・井山弘幸訳『知識の社会史2』読書メモ

「本書では、思想を語らないというわけではない―制度を理解するうえで思想を省くことはできないのだから―、ただ、思想の内在的歴史より外在的歴史を、知的な問題より知的な環境の方を重視するということだ」(p.13)

 本書は、イギリスの歴史家、ピーター・バーク(Peter Burke)のA social history of knowledge II : from the Encyclopaedie to Wikipedia. Cambridge: Polity, 2012. の邦訳である。

 2というからには1もあって、1は2000年に原著が発行され、2004年に邦訳が発行されている。1の副題は、邦訳では意訳されてしまっているが、「グーテンベルクからディドロまで」なので、18世紀中葉にディドロが作った百科全書からウィキペディアまでを副題に持つ本書はまさに続編ということになる。

 自分は門外漢であるために(ことに高校時代世界史が結構苦手だったために)、学術的な水準からいうとどうなのかよくわからないけれど、豊富なアイディアに満ちていて、そのひらめきに触発されて、さらに発展的に議論すべく個別の論点を検討してみたくなるような本というのはある気がする。本書もそういう一冊として読んだ。

 ピーター・バークは、歴史学と社会理論の関係を扱った本や、学説史の展開から文化史とは何かに迫った本もあるが、彼の本は試論的なものが多いようなので、私のような読者も許してもらえるかもしれない。

歴史学と社会理論

歴史学と社会理論

 このところ、新しい図書館史の記述の仕方について色々考えているところでもあったので、本書を読んで思い浮かんだことが結構あった。それを書きとめておきたい。

情報・知識・知恵

 『知識の社会史』(以下『1』という。)の方で、バークは、知識と情報の関係をあくまで便宜上と断ったうえで、次のように整理している。

 バークによれば、情報(information)は、生の素材であり、思考によって処理されたり、体系化されたものが知識(knowledge)とされる。知識は調理された素材である(『1』p.25)。また、知識と知恵の関係について、バークは、時代の経過によって、知的進歩(intellectual progress)という仮定を持ち込むことをやんわり拒否している(『1』p.26)。知識に関する文献は世紀を重ねるごとに増えていったが、知恵については、次のようになる。

「他方、知恵(wisdom)は累積的なものではない。むしろ人それぞれが多かれ少なかれ苦労して体得すべきものである。知識の場合でさえ、個人のレベルでは進歩があると同時に退化も存在したし、今もある。最近の世紀では特に、学者集団や大学の専門化が進み過ぎ、以前にもまして(知識の広さが犠牲になった分、知識の深さが増した、ということがあろうとなかろうと)限られた知識しかもたない学生が数多く輩出している。」(『1』p.27)

 科学革命は問題を解決するばかりでなく、新たな問題も生み出していったと見るわけである。このような観点から、1では、知識人はいつ誕生したのか?の系譜が辿られ、15世紀から18世紀にかけて起こった学識者や図書館をめぐる制度や思考の変化が追求される。

 知識と情報に関しては、最近『学術書を書く』という興味深い本のなかで、「学術情報」という用語の発生をめぐって、バークとは異なる角度から考察が試みられていて面白かった。

学術書を書く

学術書を書く

 情報として処理され流通する「学術情報」は、ある種の知識の断片化でもあり、そういう形で加工することによって見えてくるものが存在する反面、伝統的な学術出版では想定されていた「読者」のあり方を見えにくくし、学問のあり方そのものにも影響を与えているのではないかという指摘である。すぐその是非は判断しがたいが、視点としては重要だと思う。

図書館の役割

また、バークの本では、例えば図書館について、こんな風に論じられる。

 図書館の意義と規模は、印刷術の発明以降飛躍的に増大した。少なくとも一部の地域では、大学構内の図書室は講義室と張り合うようになっていた。ルーヴァン大学は1639年の時点でも図書館は不要であると主張していた。「教授こそがあるく図書館だから」と いうのである。しかしライデン大学では、これと対照的に、図書館は週に二日開いていて、教授は学生に鍵を貸すこともあったという。大学の外ではこれから述べる私立図書館公共図書館が学問の中心に成り、単に読書をするだけでなく、学識者の社交の場であるとともに情報や思想の交換の場となった。当時、図書室 で沈黙を強いることは不可能だったし、想像すらできない状況にあった。書店や珈琲店と同様に、図書館は活字によるコミュニケーションと話し言葉によるコ ミュニケーションとの連携を促進した*1

 私にとって『知識の社会史』は1よりも2のほうが面白く感じられたのは、2が扱っているのが、1の中心に据えられた近代初期の問題ではなくて、日本の近代史とも関わる19世紀以降の問題だったからだと思う。日本が近代化の過程で模倣した図書館像も、1に登場した図書館像だけを読んで考えているとむしろ間違ってしまうだろう。

近代図書館の歩み (至誠堂選書 17)

近代図書館の歩み (至誠堂選書 17)

 本書の目次は出版社のホームページにも掲載されているが、以下のとおりである。

序文

 第一部 知識の実践

第一章 知識を集める

第二章 知識を分析する

第三章 知識を広める

第四章 知識を使う

 第二部 進歩の代価

第五章 知識を失う

第六章 知識を分割する

 第三部 三つの次元における社会史

第七章 知識の地理学

第八章 知識の社会学

第九章 知識の年代学

 本書で面白かった論点をとくに三つ取り上げたい。「大衆化」「知識の喪失」「専門化の時代」である。

知識と大衆化

 第一部では、知識の実践と題して、知識に対する一連の行為として、集める(Collection)、分析する(Analysis)、広める(Dissemination)、使う(Action)のプロセスが注目される。最初は知識の収集だが、18世紀半ば以降、researchという単語が増えていく(p.23)ことや、保存書庫の問題(p.76)、目録機械化の進捗を受けてカードカタログを燃やしてお祭り騒ぎをするアメリカの某図書館の話(p.79)などが出てきてここに興味深い。

 とくに面白かったのは、知識の広まりにあたって「大衆化」という形容を用いるときの注意点をめぐる指摘だった。

 バークは、専門家にとって非専門家が話したり書いたりすることは何であれある種の大衆化であるとしたうえで、「問題はこうした非専門家が文化的には同種の集団ではないことである」(p.135)といい、「エリート」と「大衆」と言う二元的モデルでは単純化しすぎだと述べている。

 彼らの持つ知識の違いから、集団をさらに分割して、男性と女性、大人と子供、中産階級と労働者階級などに分けるべきだというのである。これは、図書館数や蔵書が増加を指標に、ともすれば安易に知の大衆化を語ってしまいそうになる図書館史でも留意すべき重要な指摘だと感じた。また、知識の社会学を論じたくだりでは、労働者階級の登場に触れて、美術観や博物館がパブリックな場所として広く公開されると中産階級の連中がホームレスを入れるなと苦情が寄せられたとする指摘(p.365)もあり、カーネギーが理想に燃えて作った公立図書館がたくさんあっても、そこでの「パブリック」は誰のことなのかという問題がつきまとうのである。

知識を失うこと

 第二部では「進歩の代価」と題して、知識を失うことや、知識の分割(ジャンル化)が論じられる。いずれも、単純に知識の発展を予想するところからは出てこない大事な論点だと思う。

 知識は、役に立たないと思われた時点で失われ、忘れられる危険が生じる。新しい技術が現れると、時代遅れになってしまった機械を動かすのに必要な方法知識(ノウハウ)は失われてしまう(p.218)というのは、おそらくその通りだろう。何かそれはある課題を解決するために改修されたシステムが、問題を解決すると同時に別の新たな問題を惹起するのにどこか似ている。「ある種の知識を得るには、他の種の知識を排除するよう構造化されている、という意味において、多くの文化には暗い面も明るい面もある」(p.218

 テクノロジーは、情報を集めるのと同様に、情報を隠すためにも駆使される。スパイウェアに対抗するためにアンチ・スパイウェアをインストールするように(p.223)。また、故意に誤った知識がばらまかれ、ノイズのなかで見つけられなくするのも知識を隠す方法として活用される。

 古くなり、陳腐となったと見なされた知識は、その結果失われる場合もある。逆説的な書きぶりだが、「この忘却の過程は情報過多の時代になって加速されてきた」(p.229)とバークはいうのである。学問のはやりすたりもある。過去には華やぐテーマだったものが、禁忌となってしまった優生学のような例もある(p.246)。そのなかには、後代に別の形で痕跡を残していくこともある。

専門化の時代

 知識が爆発的に増加し情報過多になってくると、専門化が避けがたく進行してくる。

 初めはアマチュアたちが学会を組織したが、これと差異化を図るべく専門家が学会を組織し、雑誌を刊行し、集会が行われるようになれば、改めてその学問の「分野」が意識されることになる(p.258)。19世紀の前半には、ボランティア組織が多数を占めていたが、後半になると大学による新分野の設立と制度化が相次いでいく(p.261)。バーク自身は、20世紀までの専門化と、それに抗う形で出てきた学際化の潮流を対比的に論じた後で、「綜合知識人は以前にもまして必要である」(p.286)と述べ、専門化の潮流に抵抗して全体図を描く者の登場を要請する。

江戸の知識

 ここで本書とちょっと似ているなと思ったのは、加藤秀俊先生の近刊『メディアの展開』である。

 本書では江戸の豊かな知的鉱脈を発掘しているが、バークと共通の論点も指摘している。例えばバークは、近代初期から18世紀にかけて、ヨーロッパには「学問の共和国」が存在し、ラテン語の教養を背景に、書いたものを贈呈したり、情報を送ったり、旅行中に訪問したりしていた一定の人々がいたことを指摘しているが(p.305)、18世紀の百科事典の時代は、「グローバリゼーションの時代」として以下のように書かれる。

「ここですくなからず興味をそそられるのは東西で展開した十八世紀の「百科事典の時代」が知識のグローバリゼーションの時代でもあったことだ。まずフランスの『百科全書』についていえば、そこにはディドロじしんの筆になる「シナ哲学」の項目もある。かれは明から清へと王朝が移行した時期の大陸の文化と文明を観察してその社会制度を尊敬のまなざしでえがいた。また古典についてもふれることが多く、儒教、仏教はもとより、老子宋学についても論じている。十八世紀のヨーロッパには、すでに「大航海時代」以来のアジア知識があり、また宣教師や旅行者による見聞記のたぐいも入手できるようになっていた」逆もまた真で東洋人の西欧認識もかなりはっきりしてきていた(p.183)

 科学史の文脈では、学問の歴史に関しては、ドイツに大学が出来ていく19世紀から、学者の専門職業化が開始するのであって、それ以前は助走期とする見方が存在する。

 この点は実はバークとも一致する。もし、以上のような観点から、18世紀当時の学問状況の国際性について評価するにしても、19世紀以降のナショナリズムの問題は、やはり別個に考えていく必要もあるのかなあと思う。ここに出てくる「専門化と国家主義」(p.305)は、原書ではspecialization and nationalism.となっているが、バークが、1810年に創設されたベルリン大学を引き合いに出しながら、戦争に負けると大学が出来るといっていることも合わせて想起しておきたい。

 戦争と科学というのも、意外と本書中のあちこちに出てくる比較的重要な論点と思う(例えばp.185)。

 第一次世界大戦で科学者が果たした役割の話が出てくるが、行動する前に知識を集め、分析し、広めることの必要性は帝政国家の方が明瞭に存在する。なぜなら領地の知識が欠如しているからである(p.199)という説明はなるほどと思う。日本における近代学問の形成と図書館との関係については、前に論文を書いたこともあり、その経緯から私自身も考えてみたいと思ってきたが、植民地と近代図書館というテーマも、まだまだ深める余地がありそうに思われる。

近代学問の起源と編成

近代学問の起源と編成

 まとめの部分として、バークは知識の年代学を辿りながら、そのなかでも時代区分として1850-1900は専門化の歴史において重要だとする。一連の学問分野が国家内部で中央集権化し、政府企業から直接経済支援を受けるように転換したからであるという。学問の分野化(p.401)が進んだのである。

 他方、1900年以降になると、知識の危機が訪れる。西洋の没落が喧伝された第一次世界大戦では、戦争協力に向けて学者が動員され、さらに諜報機関も増加した(p.407)。調査機関が増えてきてそこに資料が集積されていくのも、この時期のことである。その後の見通しとして、こんなことも言っている。

「知識社会が発展してゆくことは、とりも直さず、大学が知識生産の中心としての重要性を失っていくことを意味した。知識の複数性を認めるならば、大学はもはや知識の生産を独占できないことは明白で、大学の「市場占有率」はこの期間、確かに減少していった。これは企業の研究所(略)とだけでなく、二十世紀後半に増加しますます多くの国々に広がっているシンクタンクとの競争が激化した結果でもある」(p.413)

 このほか、バークが、記述に関して「自己批判」しながらより完成度の高さを目指していこうとするウィキペディアのあり方をかなり評価していることも印象的だが(p.426)、後半に論じられていることは日本近代史のなかで向き合った欧米の図書館の様子が、やはりある特定の時代の所産であったことを気づかせてくれる。

 バークの著述とどういう風な関係にあるのかまだ把握できていないが、最近も、印刷技術の普及を扱った『印刷という革命』のような本も出ている。オンラインカタログの時代になったから16世紀までの全著作が参照できるようになって、そこから貴重書扱いされてきた本をもとに語られたストーリーとは違う歴史を紡ぎ出すという展開は、端的に燃える。新しい図書館史や出版史はこういう風にも描けるのだなと思う。

 さしあたっては、学問の専門家とナショナリズムという問題を手掛かりにして、19世紀における国民国家の形成期に、近代的図書館としてパブリックライブラリーの創設を目指した(そして挫折した)という方向性でのみ、日本の図書館史の発展が描かれていいかどうか、色々な議論を検討するところから、私自身は初めてみようかなと思っている。複数の源流を確認することも、その意味で非常に重要である。

*1:ピーター・バーク 著、井山弘幸、城戸淳 訳『知識の社会史』(新曜社、2004)p.89。なお、引用中では「公共」となっているが、訳書中ではPublic Libraryは「公立」図書館で訳されている例が多いようだった。

読書週間なのでお勧め本のプレゼンをする

Twitterで「#読書週間だからRTされた数だけお勧め本プレゼンする」というタグがあったのでやってみた。

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結構主題がばらけたので、備忘のために、もう一回主題別にまとめなおしてみたら、自分の日ごろの関心が思いのほかくっきり出たので、関連で思い出した本も補いつつ、掲げてみたい。

本とその歴史について

  • 和田敦彦『読書の歴史を問う』(2014年、笠間書院)。
読書の歴史を問う: 書物と読者の近代

読書の歴史を問う: 書物と読者の近代

リテラシー史というジャンルを開拓してきた著者の2014年時点の総括。今後読書の歴史を考える上では必読。図書館史を開かれた文脈に置こうと考える上でも有益な論点を提示する。

雑誌と読者の近代

雑誌と読者の近代

読者の歴史を系統的な勉強を始める前に、最初に接したのが本書。『太陽』の読者像を初めとして、田舎教師たちの読書環境等、本書の発想に私自身かなりの影響を受けている。いつかこれを越える本を書きたい。

岩波書店広辞苑などの造本に関わった著者の随想集。日本造本史でもあるが、何よりも「正しい本の扱い方」を、就職後私はこの本に教わった。

本の現場―本はどう生まれ、だれに読まれているか

本の現場―本はどう生まれ、だれに読まれているか

年間に発行されている書籍のタイトル数が8万件といった出版統計上の主要なデータはこの本で知った。合わせて2009年の時点での出版と読書をめぐる状況を紹介する。電子書籍普及後、状況は変わっていると思うが、図書館で働く以上、出版の世界への関心は絶えず持たねばならないわけで、その意味でも基本図書といえる。

本屋一代記―京都西川誠光堂

本屋一代記―京都西川誠光堂

戦前の京都にあった伝説の書店西川誠光堂のハルおばさんと、それをめぐる三高生・京大生たちの青春劇を活写。日本思想史の巨人たちの横顔が彷彿とされる気がする好著。

副題はケンボー先生と山田先生。辞書にもドラマがある。辞書編纂者・見坊豪紀山田忠雄の協力と決別。牽強付会ギリギリのところで(?)、語釈の背景や意図にまで肉薄する語り口はもの凄い迫力です。赤瀬川原平新解さんの謎』が面白かった方には、是非読んでいただきたい。

新解さんの謎 (文春文庫)

新解さんの謎 (文春文庫)

図書館のこれまでとこれからについて

  • 江上敏哲『本棚の中のニッポン』(2012年、笠間書院)。
本棚の中のニッポン―海外の日本図書館と日本研究

本棚の中のニッポン―海外の日本図書館と日本研究

副題に「海外の日本図書館と日本研究」とあるとおり、海外の日本図書館を紹介したもの。文化情報発信の重要性を説くだけでなく、一歩進んで、デジタル化を含む押さえておくべき課題と事例を紹介。

  • 井上真琴『図書館に訊け!』(2004年、ちくま新書)。
図書館に訊け! (ちくま新書)

図書館に訊け! (ちくま新書)

最近、猪谷千香さんの『つながる図書館』が出るまでは、入手可能で図書館関係者以外に勧められる図書館の新書の最有力候補はこれだった気がする。レファレンス業務の考え方も論じているので、業務入門編としてもお勧め。

公共図書館の論点整理 (図書館の現場 7) (図書館の現場 7)

公共図書館の論点整理 (図書館の現場 7) (図書館の現場 7)

無料貸本屋論争、ビジネス支援、課金、専門職、資料亡失等々今日の論点が網羅されているという炯眼さに驚く。それとも業界が進歩していないのか。これからの図書館を語る前に、未読の方は是非お読みいただきたい一冊。

日本の近代をめぐって

近代日本思想案内 (岩波文庫 (別冊14))

近代日本思想案内 (岩波文庫 (別冊14))

岩波文庫の思想書に入っているものの文献ガイド。入門書ではあるが、はじめにで展開される思想史の方法についての考え方と、主要な著作と文献を紹介する構成は目配りが効いており、通史として極めて有用。 明治時代の思想史なら、松本三之介『明治思想史』や『明治精神の構造』なども参考になる。

明治精神の構造 (岩波現代文庫)

明治精神の構造 (岩波現代文庫)

  • 中野目徹『書生と官員』(2002年、汲古書院)。
書生と官員―明治思想史点景

書生と官員―明治思想史点景

研究論文以外の歴史に関する随想や書評、講演を集めたもの。明治思想史点景。随所に著者の歴史研究の方法が語られる。書名は、「知識人」や「思想家」という枠組みを前提にせず、日常的に直面していた状況から思想を読み取ろうとする著者の問題意識を示す。

売文社を創業した堺利彦の生涯を同時代の資料も踏まえて丁寧に描き出した評伝。社会主義者にとって「冬の時代」とされた逆境の時期を、決して屈せずに諧謔を交えながら生きぬいていく堺の姿を通じて、人の本当の「勁さ」のようなものを教わる想いがする。

昭和維新試論 (講談社学術文庫)

昭和維新試論 (講談社学術文庫)

卒論から博論まで付き合うことになる研究テーマを決めた本という意味で思い入れが凄く強い本。丸山思想史学の影響下から出発しながら、丸山とは異なる独自の昭和ナショナリズム像を提出した著者は、後の昭和維新に連なる、明治国家への違和感を表明していった人たちの精神の系譜を描き出す。

  • 木村直恵『〈青年〉の誕生』(1998年、新曜社)。
「青年」の誕生―明治日本における政治的実践の転換

「青年」の誕生―明治日本における政治的実践の転換

「政治」から「文学」へ、という明治20年代の思想史的主題に、「壮士」や「青年」という若者像の表象から切り込んだ本。日本近代史の勉強を始めた頃に読んだ懐かしい本であり、雑誌が好き過ぎて自分はおかしいのではないかと自問する幸徳秋水の姿など、明治二十年代ジャーナリズムを考える上で興味深い挿話も多数収録している。

  • 飛鳥井雅通『日本近代精神史の研究』(2002年、京都大学学術出版会)。
日本近代精神史の研究

日本近代精神史の研究

学生時代から、文化史や文学史と思想史を行ったり来たりする飛鳥井先生の独自の方法に魅了されてきた。どれを勧めていいか迷うが、方法論文も収めた遺稿集である本書は、国学天皇像の問題を糸口として、国民国家形成と文化の問題という著者が取り組んだ主題群を収める。文化史の語り方を求めて時々読み返す。

東条英機―太平洋戦争を始めた軍人宰相 (日本史リブレット 人)

東条英機―太平洋戦争を始めた軍人宰相 (日本史リブレット 人)

人間的に好きか嫌いかということと、政治家としていいか悪いかは、峻別しなければ政治史としてお話にならないという視点を徹底的に貫いた評伝。組織のなかで他人を信じられないが故に自分で仕事を抱え込みすぎてしまう能吏の姿は、何か今でもそういう人間像を想像するに難くなく、現代と無関係の話ではない課題であることを思い知らされる。著者の近刊『近衛文麿』と合わせて読まれたい。

近衛文麿 (人物叢書)

近衛文麿 (人物叢書)

  • E.H.ノーマン 著 ; 大窪愿二 編訳『クリオの顔』(1986年、岩波文庫)。
クリオの顔―歴史随想集 (岩波文庫)

クリオの顔―歴史随想集 (岩波文庫)

歴史学をやるならぜひともお読みいただきたい。思い入れもあり、なんども励まされることもあった随想集。とくに「歴史はどんな教訓にもまして、われわれを寛容に、人間的に、そしておそらく賢明にさえするものである」と語った「歴史の効用と楽しみ」が何よりも好き。

渡辺京二評論集成(2) 新編 小さきものの死

渡辺京二評論集成(2) 新編 小さきものの死

著者独自の民衆論を集めた評論集。最近は色々な選集も文庫等で出ていて、色々なものに収められているが、本書所収の小品のうち、「小さきものの死」と「挫折について」は、自分自身の歴史をみる視点の矯正のために、しばしば良い気になって歴史を語っていないか?という戒めとして読み返すことがある。

司馬遷―史記の世界 (講談社文芸文庫)

司馬遷―史記の世界 (講談社文芸文庫)

司馬遷は生き恥をさらした男である」おそらくだれもが驚くであろう冒頭の一行は圧倒的。ただ記録すること。そのことの持つ重さを考えさせられる。歴史家はどんな思いと覚悟で歴史と取り組まなければならないのか。生き恥を曝した司馬遷の姿に深い感銘を受けずにはいられない。

明治精神史〈上〉 (岩波現代文庫)

明治精神史〈上〉 (岩波現代文庫)

個性的な民衆思想史の開拓者のうち、私が一番魅了されたのは色川氏だった。透谷から出発して周辺人物を徹底して掘り下げるなかで、文字通りお蔵入りになっていた「五日市憲法」を発見し、民衆思想の地下水脈を掘り当てていった研究プロセスに実は今も憧れている。歴史学の立場から思想史を語るということの魅力に溢れた一冊だと思う。

夏目漱石森鴎外石川啄木幸徳秋水ら明治文学者が登場。これ、偶然書店で見つけてしまって読みふけってしまい、卒論が丸一日停止したのは懐かしい思い出である。

戦後を考える

  • 青木保『「日本文化論」の変容』(1999年、中公文庫。初版は1990年)。

戦後思想家の著作を読む上でも、「否定的特殊性」「歴史的相対性」「肯定的特殊性」「特集から普遍へ」として設けられた著者による戦後の日本文化論の時代区分は、いまでも議論の前提になると思う。1990年に書かれた本だから、その後のグローバル化などはもちろん射程に入っていないのだが、逆に今どんな時代なのか考える上でも示唆に富んでいる。

成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)

成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)

まだ、近代化とはなにか素朴にいいことであるかのように思っていた学生時代に手に取り、取り上げられた作品も碌に読んだことがないまま、とにかく凄まじい文章を読まされた印象だけが鮮烈に残った。「「成熟」するとはなにかを獲得することではなくて、喪失を確認することだ」というフレーズは、やはりズシンと来る。

〈方法〉の問題に関心を持ってきた近代民衆思想史の牽引者が、戦後思想史と戦後歴史学の特徴を語る。ある学問史の証言。著者の渾身の想いがつまった、ほぼ論文一篇に相当するような「あとがき」も印象的。

恋愛とか仕事とか人生とか

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)

タイトルより遥かに良い本。「なぜモテないかというとあなたがキモチワルイからだ」という一刀両断から始まり、適度に自分に自信を持ち、人の話を聞き、自分を押しつけない。そんな人づきあいの要諦を説く。自分を猛省しました。

イエスタデイをうたって (Vol.1) (ヤングジャンプ・コミックスBJ)

イエスタデイをうたって (Vol.1) (ヤングジャンプ・コミックスBJ)

圧倒的な画のうまさと、それを上回るゆっくりとした物語の進行。いつまでも付き合わない男女たちの物語。それでも、面倒くさいということは愛しいことであり、恋はいつもウダウダするものなのだ。シナコ先生が幸せになりますように。

荻生徂徠「政談」 (講談社学術文庫)

荻生徂徠「政談」 (講談社学術文庫)

働き出してからビジネス書も手にするようになると、逆に深く面白く読める古典というのはあって、私の中ではこれが最高峰。変にビジネス書っぽく読む必要ももちろんないのだが…現代語訳がある本書がイチオシ。高山大毅氏の解説も興味深い。

こころ (岩波文庫)

こころ (岩波文庫)

学校でも習わず一切読んだことが無いという人はむしろ少なそうだが、就職してから読み直すと、全然違った印象を受ける。江藤淳がかつて喝破したように漱石の本は基本どれも世知辛いトーンが付きまとうが、歳のせいか、いつしか「私」から「先生」の側になった自分を感じてしまう。

アート、文芸批評をめぐって

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

仕事の都合で読み始めた本だが、公的な空間で展示され、新聞雑誌で批評されることで公共的な存在たらんとしてきた近代芸術のあり方が照射されている。芸術批評の思想史的な意味を考えるヒントにもなる。同じ著者の『西洋音楽史』もお勧め。

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

日本におけるゴッホ受容史の本。白樺派小林秀雄も当然カラー写真も見ずにゴッホの作品と人生とをと語っていた。だから初めて現物を眼にした時。彼らはゴッホが大量に使う黄色の絵の具にむしろ戸惑った。こう指摘されてハッとした方は本書を是非読んでいただきたい。日本人が何をゴッホに求めてきたのか。教養主義・人格主義の風潮のなかで芸術と人生がいかに結びついて行くのかを教えてくれる。

長く岡倉と向き合ってきた著者が、時代のなかで岡倉が何を考えてきたかにこだわったかを課題に据えて書き下ろした渾身の評伝。本書が指摘した、「天心」雅号は没後弟子たちが使い始めて偶像化したという問題は、色々な史料発掘により揺らいできた感じはあるけれど、「日本画」の革新運動を続々成功させて、伝記でも肯定的に語られることの多い日本美術院時代の岡倉の内面に、ふかい挫折があり、孤独があったという視点に立つ本は、まだあまりない。

ギャラリーフェイク(1) (ビッグコミックス)

ギャラリーフェイク(1) (ビッグコミックス)

ヒーローものではないが、美に身も心もささげ、圧倒的な知識と技術をもって世界に対峙していくフジタレイジは私のヒーローであった。美術の目利きはできないが、できれば本の目利きにはなりたいものだという恥ずかしい夢は、今でもまだ少し持っていたりする。

番外編

なまじ関係者なので宣伝になってしまって言いにくいのだが、河野有理編『近代日本政治思想史』(2014年、ナカニシヤ出版)と、井田太郎・藤巻和宏編『近代学問の起源と編成』(2014年、勉誠出版)は、どちらもお勧めなので、よろしくお願いします。

近代学問の起源と編成

近代学問の起源と編成

柳与志夫『文化情報資源と図書館経営』読書メモ

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日ごろお世話になっている柳さんから、以前お送りした本のお返しにということで、なんといただいてしまった、既発表論文集。

ご本人にお礼と感想をお伝えたものの、広く図書館関係者の関心が集まるとよいと思って、こちらにも読書メモを掲げておきたい。

本書の構成

田村俊作先生による序文では「図書館経営と文化情報資源政策に関するわが国初めての理論的な論集*1」とまで書かれている。

目次と、初出論文の発表年を※印で掲げておくならば、次のようになる。

  • 第1部 図書館経営論の思想的基盤
    • 第1章 図書館の自由―その根拠を求めて(共著) ※1985.6
    • 第2章 知の変化と図書館情報学の課題 ※1995.6
    • 第3章 公共図書館の経営―知識世界の公共性を試す ※2008.11
  • 第2部 図書館経営のガバナンス
    • 第4章 有料?無料?―図書館の将来と費用負担(共著) ※1983.12
    • 第5章 公共図書館の経営形態―その課題と選択の可能性(共著) ※1987.7
    • 第6章 都市経営の思想と図書館経営の革新 ※1988.3
    • 第7章 社会教育施設への指定管理者制度導入に関わる問題点と今後の課題―図書館および博物館を事例として ※2012.2
  • 第3部 図書館経営を支える機能
  • 第4部 新たな政策論への展開
    • 第13章 公共図書館経営の諸問題 ※2008.9
    • 第14章 図書館経営論から文化情報資源政策論へ ※書き下ろし

 著者略歴にもある通り、柳さんの就職した年が1979年だそうなので、そうすると図書館に就職して10年以内に書かれた理論的論考が多いことに、まず、結構焦る。

 図書館経営論に興味がある人は第2部の総論と第3部の各論が、アーカイブなど最近の動向に関心がある人は第4部が面白いのだと思うが、私は第1部をとくに面白く読んだ。

 読み終えて色々思ったことはあるのだが、とくに印象に残ったのは第一に、例えば第2章「知の変化と図書館情報学の課題」で論じられるように、体系的な「知識」が解体され意味連関を断ち切られた「情報」となり、消費物として消費者にのみこまれてゆくという前提(p.16)の下で、「図書館とは、歴史的にまさにこのような知識共有の場であろうとしたのであり、そこでは言葉(logos)だけでなく、場(topos)が重要な位置を占めている」(p.35)というように、場(topos)としての図書館に注目を促していた点である。

 「場としての図書館」をめぐる議論は、バーゾール『電子図書館の神話』以降の、電子図書館が実現していくなかでの図書館はどうなるのか?という問いが底流にあるといえるけれども*2、これは近年では、アントネラ・アンニョリさんの『知の広場』(みすず書房)解説にまでつながる。柳さんの一つの確固とした立場なのだろうと思った。

 第二には、「情報」化と関連して、柳さんの前著『知識の経営と図書館』でも展開されていた、ハイパーテクストをめぐる議論である。

知識の経営と図書館 (図書館の現場8)

知識の経営と図書館 (図書館の現場8)

 著者者人格権が近代特有の問題であるとした上で、ハイパーテクスト・マルチメディアの出現がもたらすものは、次のような事態である。すなわち他のテクストへのリンク、可変性、共同執筆が通例化する。そのことによって「テクストと著者それぞれのオリジナリティの意義が揺らいでくる」(p.37)のである。この視点は、図書館に就職してから改めて考えたときに結構感動し、以後図書館における近代を私なりに考えていく際の一つの手掛かりになっている。

 第三は、第1部のテーマそのものでもあるが、「公共性」への柳さんの強いこだわりだった。千代田図書館長の出向経験も踏まえて(『千代田図書館とは何か』も参照)、柳さんは「公共」の人なのだ。何を当たり前のことを言っているのだと言われそうなのだが、そのことを強く思った。

千代田図書館とは何か─新しい公共空間の形成

千代田図書館とは何か─新しい公共空間の形成

 「公共」をめぐる議論をいくつか抜き出してみるとこんな感じになる。

  • 「「公共性」が証明されない限り、無料原則は公共図書館およびその利用者にとって「伝統的な自明の理」ではなく、「既得権益」にとどまるであろう」(p.71)
  • 「すべての人間が学ぶ機会を与えられるべきであること、そして学ぶ人間が言葉を通じて「知の世界」を共有しうる可能性があること、これらは図書館のよって立つ最後の基盤であり、歴史を通じて守ってきた価値だと主張してもよいのではないだろうか」(p.77)
  • 「人々が同等な立場に立って参加し、活動する開かれた「公共領域」としての「公」という観念は、定着する余地がなかった」(p.87)

 このあたりに「公立」図書館と「公共」図書館を峻別すべきである(p.87)という主張をずっと展開してきた柳さんの問題意識の淵源を知り得たように思ったのだった。ちなみに、ここで柳さんが批判的に念頭に置いているのは、おそらく森耕一氏がユネスコのPublic Library Manifesto(公共図書館宣言。1949作成、1972、1994に改訂*3)に依拠しながら「公開、公費負担、無料制」の三要件を満たす図書館を「近代」の「公立図書館」とする定義だろうと思われた*4逆に森氏は公費の補助を受けるという点では国立も大学もパブリックライブラリーだという広い定義をし、それを「公共図書館」と訳して「公立図書館」と区別している。そう考えると、公立/公共の峻別という点では両者の前提は共有されているが、森氏はその上で「公立」に重きを置き、逆に柳さんは「公共」に重きを置いているという構図になろう*5

近代図書館の歩み (至誠堂選書 17)

近代図書館の歩み (至誠堂選書 17)

「公共」の図書館を考える

 

 これらの大部分が80年代から90年代にかけて書かれているのだが、今回通読して改めて思ったのは、アレントの公共領域に関する議論が、公共図書館を語る際にかなり参照されていることだった。岩波書店の思考のフロンティアで『公共性』が出たのは2000年代のことで、もちろん、本書のなかでもロールズなどもちょっとだけ触れられているものの(p.97)、なによりもアクセスの保証を第一義に捉えているようにみえる本書の「公共」概念が、ちょうど『人間の条件』における次のような「現われ」の考え方に通じるようにみえる。あるいは、公共図書館にとって譲れない一線は、誰でもアクセスできるという点に求められるのかもしれない。

「公に現われるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示されているということを意味する。私たちにとっては、現われ(アピアランス)がリアリティを形成する。この現われというのは、他人によっても私たちによっても、見られ、聞かれるなにものかである。…私たちが見るものを、やはり同じように見、私たちが聞くものを、やはり同じように聞く他人が存在するおかげで、私たちは世界と私たち自身のリアリティを確信することができるのである*6

公共性 (思考のフロンティア)

公共性 (思考のフロンティア)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 ただ、研究が盛んなアレント解釈について、本書の「公共」概念が今後どこまで通用し、どう受容されていくのかも少しだけ気になった。

 例えば、最近、谷口功一『ショッピングモールの法哲学』を読んで考えたことの一つに、共同性と公共性の峻別という問題がある*7。税金を投入されて運営されている公共図書館がミッションとして「コミュニティづくり」を掲げている場合、それはどんな風に止揚されるべきなのか。むろん、柳さんが分析哲学を大学で専攻していたとはいえ、哲学に関する学術論文をずっと書き続けてきたわけではないし、結局、実務と学理との対話の問題になるのだが、思想史の分野で議論され続けている「公共性」論と、図書館情報学は、もっと対話しなくてもよいだろうか。

マーケティング論と図書館

 本書のなかで重要な論文だなと思ったのは第8章だった。

 マーケティング論の古典と言われ、「製品志向」でない「顧客志向」を打ち出したT.レヴィットの議論を参照しながら*8、本書では、図書館のベネフィットとして、パッケージされた本の貸出でなく、知識・情報の提供こそをサービスの本質とみなす立場を打ち出してくる。これは、他の図書館経営の総論・各論に作用していて、図書館の本務は依然として紙資料だとか、いいやこれからは電子情報だとかいう議論と一線を画す視点が示されているといえる。つまるところこれが柳流図書館「経営」論のすべての前提になっているので、ここを外すと、本書全体の主張を見誤ることになるだろう。

 たんに情報環境が変化したから、ICT技術が普及したから、図書館のサービスの中核が、資料から情報へと変わったのではないのだ。PRはお知らせでなくPublic Relationなんだという意味を強調している第3部の各論も、そういう視点から読まれる必要がある。

 田村先生の序文でも「経営に論理を持ち込もうとする」柳さんの姿勢が言及されているが、図書館と経営論をきちんと接合させる試みがどれほど行われてきたかは、改めてちゃんと考えられる必要があるし、本書が古くなっていないのだとしたら、そのこと自体の問題が反省されなければならないはずだ。私は、柳さんの影響で、爆発的に流行る直前にドラッカーとかを読んだ記憶があるが、あるいはそれは幸福なことだったのかもしれない。普通に生活をし、仕事をしている限り、経営論から学ぶものが何にもないというのは、私にはにわかに信じられない。図書館と経営論は馴染まないという反論もおかしいように思われ、図書館に限らず、大学での文科系の教養カリキュラムと経営論の問題も取り沙汰される昨今、私などは一層その感を深くする。

 その意味で、第14章で論じられる、以下の図書館情報学への警鐘は改めて噛みしめていく必要があろう。

「日本の図書館と図書館情報学は停滞の中にある、というのが私の認識だ。しかもそれはそこにそのまま留まっているのではなく、新鮮な空気や水の流れにさらされないまま、少しずつ腐食しはじめている。私が危機感を持つのは、しかし停滞していることにあるのではない。上は国家から家族まで、あらゆる組織には発展期もあれば停滞期もある。学問分野も同じだろう。したがって、停滞そのものが悪いわけではない。問題は、停滞が長引くことによって、劣化が始まること、そして何よりも、今停滞している、限界にきていることの自覚が関係者の多くに共有されていないことにある。図書館という居心地のいい部屋にいたまま、電子書籍デジタルアーカイブ、MLA連携など、外からの風は北から南からあらゆる方向から吹いているにもかかわらず、窓の外を閉め切った生暖かい空気の中でまどろんでいるような感じだ。しかし部屋全体は、すでに具材が朽ち始めているのではないだろうか」(p.347)

むしろこの、何かちょっとひっかかる表現のなかに、20年、いや30年来言葉にしてきたことが通じてこなかったことへの著者のいら立ちを読むのは、穿ちすぎであろうか。

 その他、雑駁な感想になってしまうが、図書館情報学の学会誌に掲載されるもののうちに歴史の論文が増え、「新しい知見や分野を開拓するよりも、過去を振り返ることに関心があるよな印象をぬぐえない」という疑義が呈されることについては(p.358)、「経営に論理を持ち込もうとする柳さんが、因習を思い起こさせる歴史に興味を示さないにも、いかにも柳さんらしい」(p.iii)という田村先生の序文と相まって、反発する向き出てきそうなのだが、本書ではむしろ「歴史を通じて」というレトリックが随所でされているわけで、その逆説的な書きぶりは額面通りには受け取ってはいけないのだろうなと私は読んだ。

 むしろ、本書で述べられていることを踏まえていうならば、そもそも図書館史の論文が「製品志向」に留まっていて「顧客志向」に全くなっていないこと、否、「製品志向」があればまだいい方で、大きな展望もなく、ただ見つけた素材に手持ちの理論を反映させて喜んでいるだけ、というのが問題なのだろう。図書館が何を提供して来たかでなく、利用者が何を求めてきたのかの歴史を組み込んだうえでのみ、図書館史は書かれる意味があるものと思う。私自身は、その試みをこれからも学問史や思想史の次元で追求したいと考えるが、それはまた別の話だ。

 あとがきを読んで、柳さんが実践してきた図書館内で勉強会・研究会を自ら作っていくことについても、色々と考えた。その集大成が、いま柳さんたちが精力的にやっている文化情報資源政策研究会や、『アーカイブ立国宣言』の編纂なのだといえようが、ごく個人的には、図書館で勉強して、図書館について書くことの「意味」の可能性と限界――図書館だからできることと、あるいはできないことの両方のあれこれを、本書の巻末に付された柳さんの業績も見ながら考えた。そこのところは、引き続きじっくり一人で考えてみたい。

*1:田村俊作「刊行によせて」本書p.iii。

*2:根本彰「CA1580 - 動向レビュー:「場所としての図書館」をめぐる議論」『カレントアウェアネス』286号(2005.12)も参照。

*3日本図書館協会HPに掲載されている最新版1994年版の訳はこちら

*4:森耕一『近代図書館の歩み』(1986、至誠堂)pp.98-101。

*5:この点、柳与志夫「「ユネスコ公共図書館宣言」改訂へ」『カレント・アウェアネス』177号(1994.5)参照。

*6:ハンナ・アレント、志水速雄訳『人間の条件』(1994、ちくま学芸文庫)pp.75-76。初版は1973年、中央公論社刊。

*7:これについては、元々『国家学会雑誌』に掲載された論文「「公共性」概念の哲学的基礎」が参考になる。谷口功一『ショッピングモールの法哲学』(2015、白水社)参照。

*8:例えば、自動車や航空機によって鉄道が衰退したのは、人や物を目的地に運ぶことではなく、車両を動かすことをサービスの本質と定義したからだと批判し、顧客は商品そのものではなく商品がもたらす価値を購入しているという考え方を広めた。