またも同僚との会話で恐縮なのだが、「日本史を研究するって具体的にどういうことなんですか。もうあらかたのことはわかっちゃってるんじゃないですか、とくに最近のことは」ということをたまに言われる。
たぶん私だけでなく、歴史学を専攻していた人は、同様の経験をお持ちなのではないかと思う。別に同僚や友人だけでなく、私は親にも言われる。そしてそのたびに「こんなにも理解されていない」というやるせない思いを押し殺しているのではないか。
実際この問題は大学1年生だった私を激しく悩ませた上に、なまじ概論の試験に「大学で歴史学を学ぶということについて私自身未だ明確な答えが出せずにいる」と馬鹿正直に書いて危うく単位を落とされかかる危機を経験しているので、聞かれるたびにこのことを思い出してイラッとする反面、それゆえ誤魔化したくない思いもある。
そんなわけでどこかにこれを簡単に説明したサイトがないものだろうかと探したら、質問サイトに「大学史学科に向けての高校日本史」という記事があるのを見つけてううむと考え込んでしまった。
どうしてこの手の回答は気負ってしまうのだろうなあ…と思いつつ、自分も聞かれたらやはり同じようになるかなあ、などと思い、もう少し探していると、花園大学の日本史学科のサイトに、大変簡潔な説明が載っていたので以下に引用する。
「史料」から歴史を解明 ―大学の歴史研究―
高校の日本史は「暗記物」のイメージが強いかもしれませんが、大学における歴史の研究は、そうではありません。
日本史学科で学ぶ歴史学とは、古文書などのように文字で書かれた記録(これを「史料(文献史料)」といいます)を読むことから出発して、自分の手で歴史を明らかにしていく学問なのです。史料は一見しただけでは無味乾燥に見えるかもしれません。しかし、じっくりと分析を進めていくと、生き生きと過去の歴史を語り始めるのです。
日本史学科では、自分の手で史料から歴史を明らかにする力を身につけることができます。
的確なまとめだと思う。ちょっとこれ以上は、この字数では無理だという気になる。
けれどまだこれだけだと、「もうあらかたのことはわかっちゃってるんじゃないですか」という問いにはうまく回答しきれていない気もする。
歴史をどのようなものと考えるかについては、それこそ日本国内だけでも山のような議論があって、私自身も全部読めていないのだけれど、個人的な経験では以下述べる風に考えることによって、私自身は高校と大学の間の違いを了解出来た(…客観的には「了解出来た気になっている」)ので、ちょっと補足的に書いておきたい*1。
歴史は暗記モノという印象が流布しているせいか*2、歴史研究というのは文献の調査にもとづいた知見の提示、知られていなかった史実の提示、と思われている節がある。
高校の教科書に載っている知識を身につけ、大学の日本史研究でも教科書に載っていない事項も覚えて知識を深める、という考え方は、おそらくこの線上に出てくる。
けれど上の引用には大変いいことが書いてあって、それは「自分の手で史料から歴史を明らかにする力」という点にかかってくる。
高校でしなくてもよくて、大学の日本史でしなければならない恐らく唯一のことは、それを勉強した人が主体となって自分の手で「歴史を書く」ということだ。具体的には、卒論で。もしかしたら、卒論がない日本史学科というのもあるのかもしれないけれど、それだと本当に歴史学を学んだことになるのか、いささか疑問がある。
歴史というのは、過去の総体といってしまえばそうなのだが、おそらく意味を限定して用いれば、過去について書かれたもの、だと(私は)思っている。
哲学でも文体やレトリックの問題は俎上に上るのだろうけれど、歴史の場合、わざわざ「歴史叙述」という言葉が存在していて、いかに書くか、どのような対象を中心にして書くか、支配者側から見るのか民衆側から見るのか、等々についてもこれまた山のような議論が存在している。
この点について、こんなに手の内をさらけ出してくださって本当に良いのですか、と思いたくなるほど、歴史の仕事風景を生き生きと述べている本に以下のものがある。大好きな本である。
- 作者: 色川大吉
- 出版社/メーカー: 洋泉社
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なにしろ、書きだしの一文をいかに魅力的せねばならないか、読者にどう対峙するか、構成上のヤマ場をどこに持ってくるか、そのために切り捨てなければならない事実同志の関係をどうするかまで書いてある。もうひとつ前の岩波同時代ライブラリー版で、貪り読んだものである。
さて歴史とは書かれたものであり、歴史を学ぶというのはつまり自分が調べて主体的に書くことである、とすると、何を選んで書くのか、何でも書けばよいのか、という疑問が次に生じる。この点、前にも紹介した、
- 作者: E.H.ノーマン,大窪愿二
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に、実に見事な歴史学の定義が書かれていて、私などは単純にこれ以外にない、と思っている。こういうことである。
歴史にはいったい主流とか統一的テーマというものがあるのか、という人があるかもしれない。そこで私は、正しい遠近法――というのは遠い背景をいうことが多いのだが――から見るならば、歴史の中心問題は、民族の場合でも国家の場合でも、変化の性格を発見して説明することである、と大胆ながら答えたい(10頁)。
これは民族とか国家とか大きな枠組みでなくても適用し得る命題ではなかろうか。ある事件なり人物のとった行動なりがその後の社会や価値観に「変化」を与えたと論じうるならば、そのことの意味を解釈し記述すればよい、ということになる。
その前提として史料批判や崩し字の読解があるにせよ、社会学や政治学などの社会科学分野でも、歴史的なアプローチにおいて古文書を使ったものは存在するのであって、むしろ今では崩し字が読めることは歴史学者の特権でもなんでもなくなっている。そうすると、人文科学の一部門として大学の学科で歴史学をやるとなった場合、他との最大の違いはこの変化の性質を記述する点にあるといえないだろうか。
いま一つしっくりこない方は、何でもよいので歴史学の雑誌をもってきて、掲載されている研究論文の標題をご覧いただければよい。
「~の形成」とか「~の衰退」とか「~の変容」とか、あるいはその要因の一考察とか、時系列で事象の変遷の意味を追う形のタイトルが思いのほか多いはずである。著者が私と同様に考えているかどうかまではわからないし、またその必要もないのだが、私自身は、たぶんこの点は暗黙の共通理解といえるように思っている。
さてこの変化の性質について、過去のある時点と、何を比べて変化をいうのかというと、今である。私自身、年を取ると昔の思い出が違った解釈ができるようになる、というのは30超えたあたりからようやく経験上意識できるようになったものだけれど、とにもかくにも最新の現代の眼から絶えず過去を見ることによって同一の事象でも見え方が違ってくるというのは、一般的な現象であろう。
そうするとこういうことがある。「あらかたのことはわかっちゃっているんじゃないですか」というのは、出来事として並べればそのようにいえる部分もあるかもしれないが、そのあらかたのことですら、解釈の都度に意義が変わりうる、ということなのだ。「意義」というのが、事象Aを他の事象Bと比較したときに、その間に見出される価値のことだとするならば、ある出来事をその間に発見・公開されるにいたった資料の手助けを借りつつ、再解釈していくと、全く違った意義をもつものとして立ち現われてくることがある。歴史上の知識というのは、このプロセスにおいて登場してくる派生的なものに過ぎない。未知の事実の場合もあるし、すでにわかっていた出来事の詳細化もありうる。
そうすると歴史学の究極目標は知識ではない上に、絶えず変化を考察する起点となる今が流動化しているのだから、逆に歴史とはそれに応じて再生産され続けなければならなくなる。つまり「あらかたのことがわかっている」というのは、研究を停止する要因にはなりえないのである。
平易に書こうと思いつつまた冗長になってしまった。
なお、そのような研究の積み重ねによって最終的な判断を下すのは誰なのかという問題については、私が語るより以下の宮地先生の本のはしがきと序章だけでもお読みいただいた方が数倍よいと思われるので、以下に紹介しておく。
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それをかたわらで客観的にながめながら、自主的に判断しつつ、社会に働き活動する日本人男女は、自前の、そして自分しか持ち得ない近現代史への固有の意識と認識を豊かにすればそれでいいのだ、と私は考えている。歴史認識の主体は、あくまでも一人一人の日本国民、日本社会の一市民なのである(6頁)。