人文系必読書をめぐる議論について

 先日、友人と以下のようなやりとりがあった。

 専攻の異なる人文系出身者が議論するときに、「必読」とされているような本について、これから参入する学生さんがどうやってそれを探すかという話だ。

 そこで、主要な文献を探すにあたって

例えば大学図書館の所蔵数はキーになりうるんじゃないか

という意見があって、なかなか面白い発想と思ったのだけれど、同時に何か自分のなかに引っかかるものがあって、そういうはかえってよくないんじゃないかと反対をしてしまった。

 そのときは何がひっかかったのか上手く言えなくて、そうしてまた今でも上手く言えないのだけれど、それでも言いっ放しよりはマシだろうと思うままに書くと、要は、「「必読」はこのようにして見つけられる」という手法が、「したがって読まなくて良い本をふるい落として無駄な時間が省ける」という認識に(短絡的に)転化される可能性の大きさにたじろいだのだ。

 今は図書館で働いている自分にとって、選書という行為の重要性は認識しているつもりだし、図書館が買わなくていい本を買わないように効率化を図る、というのは当然のことである。何でも買えばいいってもんじゃない。

 ところで、これから議論の輪に参入する人が、先に見つけた手法を見事に自己のものにしたうえで色々な読書を進めていくうちに、もしも、図書館に所蔵が無い=図書館が買わなかった本を、「これは読まなくていいものだ」と判断するようになったらその方法はちょっとおかしいんじゃないか、と思うのである。

 私の意見が「人文系」と呼ばれている分野を代表できるわけでなし、まして元々専攻していた歴史学でさえ、学位もないのにしたり顔で研究の話をするのはいかがなものかと、どうも腰が引けて困るのだが、つらつら考えてみると、私が心からカッコいいと思う先輩方は、みんなが読んでいる本もまあ読んではいるのだけれど、みんなが読んでいない本を発見して徹底的に読み込んで、そこからむしろみんなが読んでいる本が形作っている理解の浅さを爽快に抉ってくれるような方々ばかりだった。

 ダラダラ話していて、結局また反対する理由をあまり説得的でない形で出すに終わってしまった。このままだとあんまりなので、エントリを改めて人文系のガイド本について書こうかなと思う。