柳与志夫『文化情報資源と図書館経営』読書メモ

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日ごろお世話になっている柳さんから、以前お送りした本のお返しにということで、なんといただいてしまった、既発表論文集。

ご本人にお礼と感想をお伝えたものの、広く図書館関係者の関心が集まるとよいと思って、こちらにも読書メモを掲げておきたい。

本書の構成

田村俊作先生による序文では「図書館経営と文化情報資源政策に関するわが国初めての理論的な論集*1」とまで書かれている。

目次と、初出論文の発表年を※印で掲げておくならば、次のようになる。

  • 第1部 図書館経営論の思想的基盤
    • 第1章 図書館の自由―その根拠を求めて(共著) ※1985.6
    • 第2章 知の変化と図書館情報学の課題 ※1995.6
    • 第3章 公共図書館の経営―知識世界の公共性を試す ※2008.11
  • 第2部 図書館経営のガバナンス
    • 第4章 有料?無料?―図書館の将来と費用負担(共著) ※1983.12
    • 第5章 公共図書館の経営形態―その課題と選択の可能性(共著) ※1987.7
    • 第6章 都市経営の思想と図書館経営の革新 ※1988.3
    • 第7章 社会教育施設への指定管理者制度導入に関わる問題点と今後の課題―図書館および博物館を事例として ※2012.2
  • 第3部 図書館経営を支える機能
  • 第4部 新たな政策論への展開
    • 第13章 公共図書館経営の諸問題 ※2008.9
    • 第14章 図書館経営論から文化情報資源政策論へ ※書き下ろし

 著者略歴にもある通り、柳さんの就職した年が1979年だそうなので、そうすると図書館に就職して10年以内に書かれた理論的論考が多いことに、まず、結構焦る。

 図書館経営論に興味がある人は第2部の総論と第3部の各論が、アーカイブなど最近の動向に関心がある人は第4部が面白いのだと思うが、私は第1部をとくに面白く読んだ。

 読み終えて色々思ったことはあるのだが、とくに印象に残ったのは第一に、例えば第2章「知の変化と図書館情報学の課題」で論じられるように、体系的な「知識」が解体され意味連関を断ち切られた「情報」となり、消費物として消費者にのみこまれてゆくという前提(p.16)の下で、「図書館とは、歴史的にまさにこのような知識共有の場であろうとしたのであり、そこでは言葉(logos)だけでなく、場(topos)が重要な位置を占めている」(p.35)というように、場(topos)としての図書館に注目を促していた点である。

 「場としての図書館」をめぐる議論は、バーゾール『電子図書館の神話』以降の、電子図書館が実現していくなかでの図書館はどうなるのか?という問いが底流にあるといえるけれども*2、これは近年では、アントネラ・アンニョリさんの『知の広場』(みすず書房)解説にまでつながる。柳さんの一つの確固とした立場なのだろうと思った。

 第二には、「情報」化と関連して、柳さんの前著『知識の経営と図書館』でも展開されていた、ハイパーテクストをめぐる議論である。

知識の経営と図書館 (図書館の現場8)

知識の経営と図書館 (図書館の現場8)

 著者者人格権が近代特有の問題であるとした上で、ハイパーテクスト・マルチメディアの出現がもたらすものは、次のような事態である。すなわち他のテクストへのリンク、可変性、共同執筆が通例化する。そのことによって「テクストと著者それぞれのオリジナリティの意義が揺らいでくる」(p.37)のである。この視点は、図書館に就職してから改めて考えたときに結構感動し、以後図書館における近代を私なりに考えていく際の一つの手掛かりになっている。

 第三は、第1部のテーマそのものでもあるが、「公共性」への柳さんの強いこだわりだった。千代田図書館長の出向経験も踏まえて(『千代田図書館とは何か』も参照)、柳さんは「公共」の人なのだ。何を当たり前のことを言っているのだと言われそうなのだが、そのことを強く思った。

千代田図書館とは何か─新しい公共空間の形成

千代田図書館とは何か─新しい公共空間の形成

 「公共」をめぐる議論をいくつか抜き出してみるとこんな感じになる。

  • 「「公共性」が証明されない限り、無料原則は公共図書館およびその利用者にとって「伝統的な自明の理」ではなく、「既得権益」にとどまるであろう」(p.71)
  • 「すべての人間が学ぶ機会を与えられるべきであること、そして学ぶ人間が言葉を通じて「知の世界」を共有しうる可能性があること、これらは図書館のよって立つ最後の基盤であり、歴史を通じて守ってきた価値だと主張してもよいのではないだろうか」(p.77)
  • 「人々が同等な立場に立って参加し、活動する開かれた「公共領域」としての「公」という観念は、定着する余地がなかった」(p.87)

 このあたりに「公立」図書館と「公共」図書館を峻別すべきである(p.87)という主張をずっと展開してきた柳さんの問題意識の淵源を知り得たように思ったのだった。ちなみに、ここで柳さんが批判的に念頭に置いているのは、おそらく森耕一氏がユネスコのPublic Library Manifesto(公共図書館宣言。1949作成、1972、1994に改訂*3)に依拠しながら「公開、公費負担、無料制」の三要件を満たす図書館を「近代」の「公立図書館」とする定義だろうと思われた*4逆に森氏は公費の補助を受けるという点では国立も大学もパブリックライブラリーだという広い定義をし、それを「公共図書館」と訳して「公立図書館」と区別している。そう考えると、公立/公共の峻別という点では両者の前提は共有されているが、森氏はその上で「公立」に重きを置き、逆に柳さんは「公共」に重きを置いているという構図になろう*5

近代図書館の歩み (至誠堂選書 17)

近代図書館の歩み (至誠堂選書 17)

「公共」の図書館を考える

 

 これらの大部分が80年代から90年代にかけて書かれているのだが、今回通読して改めて思ったのは、アレントの公共領域に関する議論が、公共図書館を語る際にかなり参照されていることだった。岩波書店の思考のフロンティアで『公共性』が出たのは2000年代のことで、もちろん、本書のなかでもロールズなどもちょっとだけ触れられているものの(p.97)、なによりもアクセスの保証を第一義に捉えているようにみえる本書の「公共」概念が、ちょうど『人間の条件』における次のような「現われ」の考え方に通じるようにみえる。あるいは、公共図書館にとって譲れない一線は、誰でもアクセスできるという点に求められるのかもしれない。

「公に現われるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示されているということを意味する。私たちにとっては、現われ(アピアランス)がリアリティを形成する。この現われというのは、他人によっても私たちによっても、見られ、聞かれるなにものかである。…私たちが見るものを、やはり同じように見、私たちが聞くものを、やはり同じように聞く他人が存在するおかげで、私たちは世界と私たち自身のリアリティを確信することができるのである*6

公共性 (思考のフロンティア)

公共性 (思考のフロンティア)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 ただ、研究が盛んなアレント解釈について、本書の「公共」概念が今後どこまで通用し、どう受容されていくのかも少しだけ気になった。

 例えば、最近、谷口功一『ショッピングモールの法哲学』を読んで考えたことの一つに、共同性と公共性の峻別という問題がある*7。税金を投入されて運営されている公共図書館がミッションとして「コミュニティづくり」を掲げている場合、それはどんな風に止揚されるべきなのか。むろん、柳さんが分析哲学を大学で専攻していたとはいえ、哲学に関する学術論文をずっと書き続けてきたわけではないし、結局、実務と学理との対話の問題になるのだが、思想史の分野で議論され続けている「公共性」論と、図書館情報学は、もっと対話しなくてもよいだろうか。

マーケティング論と図書館

 本書のなかで重要な論文だなと思ったのは第8章だった。

 マーケティング論の古典と言われ、「製品志向」でない「顧客志向」を打ち出したT.レヴィットの議論を参照しながら*8、本書では、図書館のベネフィットとして、パッケージされた本の貸出でなく、知識・情報の提供こそをサービスの本質とみなす立場を打ち出してくる。これは、他の図書館経営の総論・各論に作用していて、図書館の本務は依然として紙資料だとか、いいやこれからは電子情報だとかいう議論と一線を画す視点が示されているといえる。つまるところこれが柳流図書館「経営」論のすべての前提になっているので、ここを外すと、本書全体の主張を見誤ることになるだろう。

 たんに情報環境が変化したから、ICT技術が普及したから、図書館のサービスの中核が、資料から情報へと変わったのではないのだ。PRはお知らせでなくPublic Relationなんだという意味を強調している第3部の各論も、そういう視点から読まれる必要がある。

 田村先生の序文でも「経営に論理を持ち込もうとする」柳さんの姿勢が言及されているが、図書館と経営論をきちんと接合させる試みがどれほど行われてきたかは、改めてちゃんと考えられる必要があるし、本書が古くなっていないのだとしたら、そのこと自体の問題が反省されなければならないはずだ。私は、柳さんの影響で、爆発的に流行る直前にドラッカーとかを読んだ記憶があるが、あるいはそれは幸福なことだったのかもしれない。普通に生活をし、仕事をしている限り、経営論から学ぶものが何にもないというのは、私にはにわかに信じられない。図書館と経営論は馴染まないという反論もおかしいように思われ、図書館に限らず、大学での文科系の教養カリキュラムと経営論の問題も取り沙汰される昨今、私などは一層その感を深くする。

 その意味で、第14章で論じられる、以下の図書館情報学への警鐘は改めて噛みしめていく必要があろう。

「日本の図書館と図書館情報学は停滞の中にある、というのが私の認識だ。しかもそれはそこにそのまま留まっているのではなく、新鮮な空気や水の流れにさらされないまま、少しずつ腐食しはじめている。私が危機感を持つのは、しかし停滞していることにあるのではない。上は国家から家族まで、あらゆる組織には発展期もあれば停滞期もある。学問分野も同じだろう。したがって、停滞そのものが悪いわけではない。問題は、停滞が長引くことによって、劣化が始まること、そして何よりも、今停滞している、限界にきていることの自覚が関係者の多くに共有されていないことにある。図書館という居心地のいい部屋にいたまま、電子書籍デジタルアーカイブ、MLA連携など、外からの風は北から南からあらゆる方向から吹いているにもかかわらず、窓の外を閉め切った生暖かい空気の中でまどろんでいるような感じだ。しかし部屋全体は、すでに具材が朽ち始めているのではないだろうか」(p.347)

むしろこの、何かちょっとひっかかる表現のなかに、20年、いや30年来言葉にしてきたことが通じてこなかったことへの著者のいら立ちを読むのは、穿ちすぎであろうか。

 その他、雑駁な感想になってしまうが、図書館情報学の学会誌に掲載されるもののうちに歴史の論文が増え、「新しい知見や分野を開拓するよりも、過去を振り返ることに関心があるよな印象をぬぐえない」という疑義が呈されることについては(p.358)、「経営に論理を持ち込もうとする柳さんが、因習を思い起こさせる歴史に興味を示さないにも、いかにも柳さんらしい」(p.iii)という田村先生の序文と相まって、反発する向き出てきそうなのだが、本書ではむしろ「歴史を通じて」というレトリックが随所でされているわけで、その逆説的な書きぶりは額面通りには受け取ってはいけないのだろうなと私は読んだ。

 むしろ、本書で述べられていることを踏まえていうならば、そもそも図書館史の論文が「製品志向」に留まっていて「顧客志向」に全くなっていないこと、否、「製品志向」があればまだいい方で、大きな展望もなく、ただ見つけた素材に手持ちの理論を反映させて喜んでいるだけ、というのが問題なのだろう。図書館が何を提供して来たかでなく、利用者が何を求めてきたのかの歴史を組み込んだうえでのみ、図書館史は書かれる意味があるものと思う。私自身は、その試みをこれからも学問史や思想史の次元で追求したいと考えるが、それはまた別の話だ。

 あとがきを読んで、柳さんが実践してきた図書館内で勉強会・研究会を自ら作っていくことについても、色々と考えた。その集大成が、いま柳さんたちが精力的にやっている文化情報資源政策研究会や、『アーカイブ立国宣言』の編纂なのだといえようが、ごく個人的には、図書館で勉強して、図書館について書くことの「意味」の可能性と限界――図書館だからできることと、あるいはできないことの両方のあれこれを、本書の巻末に付された柳さんの業績も見ながら考えた。そこのところは、引き続きじっくり一人で考えてみたい。

*1:田村俊作「刊行によせて」本書p.iii。

*2:根本彰「CA1580 - 動向レビュー:「場所としての図書館」をめぐる議論」『カレントアウェアネス』286号(2005.12)も参照。

*3日本図書館協会HPに掲載されている最新版1994年版の訳はこちら

*4:森耕一『近代図書館の歩み』(1986、至誠堂)pp.98-101。

*5:この点、柳与志夫「「ユネスコ公共図書館宣言」改訂へ」『カレント・アウェアネス』177号(1994.5)参照。

*6:ハンナ・アレント、志水速雄訳『人間の条件』(1994、ちくま学芸文庫)pp.75-76。初版は1973年、中央公論社刊。

*7:これについては、元々『国家学会雑誌』に掲載された論文「「公共性」概念の哲学的基礎」が参考になる。谷口功一『ショッピングモールの法哲学』(2015、白水社)参照。

*8:例えば、自動車や航空機によって鉄道が衰退したのは、人や物を目的地に運ぶことではなく、車両を動かすことをサービスの本質と定義したからだと批判し、顧客は商品そのものではなく商品がもたらす価値を購入しているという考え方を広めた。

ICT時代の日本史文献管理考

ちょっとした危機感

 現在刊行中の『岩波講座日本歴史』は、一応毎回購入して一冊一冊読みながらノートをつけているのだが、つい先日、近現代のとくに新しい時代に入ってきた巻を読んでいたところ、結構強いショックを受けた。ちょっと専門の時代や主題がずれたところになると、依拠している新しい説のフォローが全くできていないことに気がついたのだ。あわてて脚注を見ると2000年代後半から2010年代に出た新しい文献が並んでいるが、目を通していないものが多い。これではいけない、という危機感が募った。

 そこで今回も、もう少し進んだ解決策をお持ちの方にご教示いただきたく、恥を忍んで自分のやり方を提示してみることにする。

 日本史関係の研究文献の整理ならば、色々な図書館が気合の入ったパスファインダ(調べ方案内)を作っているし*1、よく使われる文献として、弘文堂の『日本史研究文献事典』や東京堂出版の各時代の研究事典類が整備されている。それらとNDL-OPACやCiniiなどの文献データベースとを組み合わせて用いることによって、少なくとも2000年までの研究動向のフォローはかなり容易になったと言ってよいと思う。 

日本史文献事典

日本史文献事典

日本近現代史研究事典

日本近現代史研究事典

 全時代揃っているわけではいないが、ICT技術を使った文献収集法も記載した論文の書き方、研究入門書も刊行され始めている。

日本中世史入門―論文を書こう

日本中世史入門―論文を書こう

 問題はそれ以後、つまり2000年代から2010年代にかけて刊行された研究書のフォローなのだった。もちろん、2000年以降の『史学雑誌』の回顧と展望を読んでいけばよいだろうという話なのだが、思想や文学などの隣接分野までを含めたとき、どうすれば日々更新される研究文献に関する情報をアップデートしつつ、まっとうな状態にしておけるかということはかなり気になるところである。

 存在するのに、知らないで先行研究がないと主張してしまうことほど恐ろしいことはない。論文でいえば、前提が崩壊しかねないからである。研究誌であれば通常「査読」という体制があるが、それも万全とは言えないことを示す事例や懸念が、近年相次いで示されている*2

 これだけICT技術が発達した今日にあっては、文献が、検索手段も含めて紙だけの時代なら(ちょっとくらいなら)許されたかもしれない見落としは、今日では通用しないと考えて、一層意を注ぐべきだろう。私だって紙の方が好きだが、こればかりは致し方ないと思う。文献の数は、量的には増殖し続けているわけだし、ちょっと前まで職人芸的な管理方法で維持できていたものが、今後も同じ方法で大丈夫かどうかは、予断を許さない。

 紙に印刷されたものを紙のノートに引き写すことにはそれほど抵抗がない場合でも、電子媒体のものを閲覧しながらせっせとノートを取ることはどうだろうか。数年前に、国文学系では、メジャー雑誌が休刊となって騒然としたことは記憶に新しいが、この先10年の間で、史学界隈でそういう話がないとも限らないし、紙での発行を断念して電子版限定のジャーナルが絶対出ないと断言するのは躊躇われるものがどうしてもある。というか、西洋史とかだと既にあるのかもしれない。日本史だからといって海外の日本研究論文を調べないで済むほど甘くはなかろう。

新刊を探すには

 年間8万点も発行されている新刊の書籍は、追いかけるだけも大変だが、日々出てくる文献を可能な限り漏らさず把握するためにはどうすればよいだろうか。私の場合、新刊チェックにいくつかのツールを同時に併用している。

 一時期NDLサーチの新着図書情報のRSSも使っていたが、膨大すぎて挫折した*3。その上それでも、出版情報でチェックが行きとどかない場合がある*4。そんなときにはTwitterを使って歴史書懇話会に参加している出版社の公式アカウントなどをチェックする*5歴史学関係雑誌論文新着情報は、国立国会図書館雑誌記事索引で新規登録された歴史学関係論文の情報を投稿してくれるアカウント。購読していない雑誌や、大学を母体とする学会の機関誌、紀要類のチェックに大変役立つ。そのほか各社PR誌(岩波書店『図書』とか)の広告欄、定期購読している学会誌の広告欄、それから複数書店の店頭でも棚を眺めることにしている。

既刊はどうするか

 新刊の情報をチェックするのは、ネット上で比較的簡単に行なうことができる。問題は既刊本、とくに絶版になっている本や、かつて見落としてしまった本などの取りこぼしをどう拾い集めるかである。既にある先行研究に対しては、読んだ文献の脚注、資料探索過程でとったメモ、研究会で聴いた報告レジュメに書いてあった未読の参考文献、その他人に教えてもらった情報などを、Web上で動作する読書管理ツールの「気になった本」に登録することで対応している*6

 ただ、多くをAmazonの書誌情報に依存している読書支援サービスの弱点は、古本だろうと思う*7。読書支援サービスだと、独自の書誌登録は有料版のみと断っているサービスも多く、古本趣味の人だとなかなかこの辺が厳しそうに思える。

 加えて、結局、キーワード検索で出たものが本の全てであり得ないという問題が依然として付きまとう。とりわけ戦前は図書館が全ての本をもっているわけでなく、明治時代には全国書誌も存在しない。国立国会図書館がどの程度カバーしているのかについては諸説あるが、その数は多くて7割、低いと半分程度に見積もられている研究がある*8。図書館がもってないのだから、検索で出ない本があるのが当たり前ということになってしまう。

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 ただし、残っていないのかといえばそうではない。個人が持っていることもあれば、その個人が手放した結果、古本屋に流れることもある。それを見るための努力は歴史学の研究ならすべきだろうと思う。

古本に頼る

 そのためのツールとして古本屋の発行する目録があるが、目録も、古本屋さんの個性によるもので、日本の古本屋などで購入が可能といっても、在庫すべてをネットに出しているかどうかはお店の裁量によるところが大きいようだ。

 

古本屋になろう!

古本屋になろう!

 もちろん、その個性まで含めて古本屋さんの良いところだといえるし、先日千代田図書館で行われた「目録読書のたのしみ」というイベントでも、日本の古本屋があるといっても、目録を読みながらの発見は得難いものがあり、そもそも、書名のキーワードが思いつかないこともあろうという話が出ていた。これは納得の指摘である。先日、職場のある古本通の先輩から、君は新刊買いすぎだと苦笑されたのだが、新刊を読み続けていると史料へのカンが鈍るし、古本だけ読んでいると研究のカンを失っていく危険と絶えず隣り合わせの実感がある。本当にみんなどうしてるのだろうと思うが、こうしてとにかく両方のバランスを図ろうとすると、お金がなくなる上に小説などは全然読めなくなってしまう。

 どうすれば見落としが少なくなるか。それにはもちろん自分がかつて読んだものを忘れないことも含まれる。文献管理ツールが発達する所以である。Amazonの書誌情報に依拠した読書管理サービスでは、古本のチェックに加えてもう一つ難しいのが、論文の記事レベルでの文献管理である*9。新刊の読書記録では全ての本について感想をつけるわけでないし、学術書ばかり読むわけでもないから、読書管理ツールで行なっているようなこととは別に文献管理方法を模索する必要が出てくる。以前、いくつかの文献管理ソフトを試してみたもののうまく使いこなせなかった。図書と同じ次元で目録を取りにくい断片的な史料も一元管理できないか、と余計なことを考えてしまうからだ。

 この件を解消する方法として、Evernoteで一元管理するというやり方を思いついた。

Evernoteで日本史研究文献を管理する法

Evernote仕事術

Evernote仕事術

Evernote以前の話

 Evernoteは、数年前にアカウントを作ってから、これまであまりうまく使いこなせてこなかったのだが、ふと、今までB6の京大式カードに書いてファイリングしていたことの大半がEvernote上で出来る上に、検索が楽になるなあ、と気づいて色々いじっているうちに、上記の文献管理の問題が解決できそうな感触を得、勢いでプレミアム版にアップグレードしてしまった。

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 以前も掲げたことがあるのだが、ちょうど、下図のような形で情報収集をしていたので、この「ネタ帳」の部分がそっくりEvernoteに移行した形になるといえばよいだろうか。

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 日本史でこの方法が有効だった理由としては、文献記述方式がジャーナルによって一定しておらず、引用文献の書式の統一はどうせ人力でやらざるをえないので、文献管理ソフトが備えている出力機能はそもそもほとんど不要であるとか、史料情報の記録には、むしろ多種多様な形態の史料に即して、関連情報や文書番号や冊子体目録や整理年代等の入力欄がある方がより重要だという、特殊事情も絡んでいると思われる。

 B6の京大式カードは、1枚を「論文で引用する註1個分」とみなして、以下の単位で記入していた。感覚的に区別していたので名前はないが、便宜的にわけると以下のようになっていた。

  • 先行研究の整理カード:文献の情報、論点をメモする。1枚が註1個分なので、一冊の本から複数枚とる場合もある。
  • 引用史料の本文転記:引用したい部分と出典、あるいはコピーの貼り付け。
  • 写真など:典拠のほかにコピーを貼り付ける。
  • 人物情報カード:未知の人物の略歴をまとめたもの、辞書項目や伝記、関連史料の有無を裏面などにメモする場合も。
  • 概念とその研究史:歴史用語の難しいものなど、覚書程度につける。

 これを「知的生産の技術」における梅棹式に適当に並べ替えて、一本の論文を書くときには一冊のファイルに綴じていた。

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

――梅棹忠夫がいま生きていたら、おそらく夢中でEvernoteを使い倒していたに違いない(濱野智史)。*10

実際の使用例

 Evernoteには、「ノート」(タイトルと自由記入欄がある)の外に、複数のノートをまとめた「ノートブック」、さらに複数のノートブックをまとめた「スタック」という単位がある。このことを踏まえて上記のカード区分をEvernoteに適用することが出来る。私のものは、概略次のような構造になっている。

000_inbox     

100_研究文献    

└101_日本近代史  

└110_思想史

└   …

└130_図書館情報学

└131_図書館史

└   …

└199_その他

200_史料

└201_日本近代史関係

└210_図書館史関係

└299_その他

300_人物情報

400_事項

500_画像

900_ネタ

└アイデアメモ

└名言・名句集

Hatenabookmark

 スタックやノートブック頭の3ケタ数字はソート用のもの。フォルダやメールボックスの整理でよく使う人も多いと思われるが、同じ意図である。2ケタでもよかったのだが、研究文献が増えてくると展開できた方が良いかもしれないと思って3ケタにしている。000_inbox(到着(未決)書類入れ)は、とくに指定しないで作ったノートの仮置き場で、一通りの情報を書き込んだら各ノートブックに移行する。100番台が研究文献で、10の位でざっくりした主題わけをしているのだが、今後増えたら少し変えるかもしれない。人物だけの研究文献ノートブックも作ることがある。200番台の史料も同様である。600番台~800番台は空欄にしてあるが、何かあったら作るかもしれない*11

ノートを作るときの注意点など

研究文献

 ノートブックの下層に置かれるノートのタイトル欄には、論文の書誌事項を入力する。このとき面倒なので、NDL-OPACで署名を検索して書誌情報を表示させた後、「引用形式」で表示しなおしたものをコピー&ペーストで貼ることが多い。さらに研究文献の場合は、発行年月を6ケタの数字で書いている。

 こうしておけばノートブック内を表示させたときに発行年順に論文が自動ソートされる。本文には、目次や、気になった箇所、重要な指摘などをページ数と共に書き込む。本に書いてある事と、私見・感想・批判などを区別するために〔〕などの括弧も使う。書評しているものがあればその情報が参考になることもあるので書き込んだりする。ちゃんと作れば、ノートブックそのものが研究史になるわけで、単行本も論文も区別しないで単純に発行順に並べられるというところが非常に良い。

史料

 史料はタイトルよりも本文に引用箇所とともに史料名を記し、タイトルにはむしろ何が書いてあるのかの後でわかるような見出しをつけている。ノート一つが註1個分というのがゆるやかな原則なので、同じ史料群から複数のノートを作成することもある。タグやノートブックを使った整理法は、まだ検討の余地がありそうだ。

人物情報、事項

 人物情報や事項のノートは、自分用のレファレンスとしての意味合いが強い。人物情報のタイトルは「生年+名前(生没年)」のフォーマットで書く。まだやっていないが、あるいは後ろに出身地とかを入れても良いのかもしれない。本文に辞典からの概要抜き書きや、その人物の史料情報、研究文献などを書き込んでおく。タイトルの付け方が重要なのは、生年順でソートがかけられるからだ。意外な同い年などの世代も見えてくるという「おまけ」がついてくる。事項には例えば定義が多様な概念とその研究史の文献などを入れておく。

画像

 画像の保存が出来るのもよい。とくに歴史写真など、スキャナで取り込んでjpeg等で貼り付けた上で出典を書いておけば、発表資料で使いたいときに便利である。はてなブックマークとの連携も使っている。Cinii Articlesで検索した論文をブックマークするときにEvernoteにも連携させて情報を送っておけば、連携先のノートブックにブックマークした論文が蓄積されて、勝手に「あとで読む」リストが出来る。

その他

 ネタ帳にはちょっと使いたい、論文には関係ないのだが、「うまいこと言うなあ」と感心した文章を。使い方事例のサイトを見てみたら、案外ほかの人も同じノートブックを作っているのでおかしくなってしまった。Evernoteは拡張性があるし、もっと上手な使い方をしている方もきっとおられると思うので、この記事をきっかけにして、こうした方がもっと便利じゃないのというアイデアがどんどん出てきたら、嬉しい。

*1:例えば学習院女子大学日本近世史に関する文献の探し方」(pdf閲覧注意)、福岡県立図書館「日本史文献の探し方」、国立国会図書館調べ方案内「日本史に関する文献を探すには(主題書誌)」など。

*2:「査読」をめぐる図書館情報学の立場からの論点整理として、以下の文献を参照。佐藤翔. 査読をめぐる新たな問題. カレントアウェアネス. 2014, (321), CA1829, p. 9-13.

*3:ただし店頭に並ばない灰色文献情報は捨てがたいものがいまだにある。

*4:ちゃんと調べていないが、近刊検索βでは岩波書店など特定の版元の情報が入っていない気がする。

*5:参加している出版社は明石書店-校倉書房-思文閣出版-東京堂出版-刀水書房-同成社-塙書房-法藏館-ミネルヴァ書房-山川出版社-吉川弘文館の13社。歴史書懇話会HPによる

*6:「ブクログ」や「読書メーター」などの読書管理ツールについては、例えば以下の記事を参照。無料のオススメ読書記録ツールまとめ - 厳選9本!! | マイナビニュース

*7Amazonの書誌情報がはらんでいる問題点については、以下のブログ記事が重要な指摘を行なっている。【悲報】amazonの書誌情報管理がマジクソな件について - 図書館学徒未満

*8:例えば、牧野正久「年報『大日本帝国内務省統計報告』中の出版統計の解析」(上)(下)(『日本出版史料』1-2号(1995-96)所収など。

*9:業界用語で構成書誌単位というらしい。固有のタイトルを持つが、形態的に独立していない資料の構成部分を指す。

*10濱野智史梅棹忠夫の「ライフハック」術」『図書』787号(2014.9)p.17

*11:自分の研究発表資料や自分の論文原稿の置き場所など。考えはある

牧義之『伏字の文化史』読書メモ

牧義之『伏字の文化史:検閲・文学・出版』(2014.12、森話社

伏字の文化史―検閲・文学・出版

伏字の文化史―検閲・文学・出版

 版元HPはこちら(書影あり)。


 ある特定の時期に、集中的に密度の高い研究成果が相次いで発表されるジャンルというものがある。例えば00年代後半から10年代にかけて急速に活発化した検閲研究は、そのような分野の一つだろう。若手研究者によるこの分野の研究蓄積が本書であり、刊行が待ち遠しい本だった。

 著者のHPはこちら

 検閲研究は、国内の図書・雑誌出版だけでなく、映画や、海外の事例まで入れるとかなりの数にのぼる。

検閲帝国ハプスブルク (河出ブックス)

検閲帝国ハプスブルク (河出ブックス)

 さて、本書の課題は「戦前・戦中期の検閲体制下における、伏字の文化記号としての意義と役割、そして文学作品への影響に関する実証的な考察である」(p.14)とされる。検閲研究のなかで本書がどういう画期的な意味を持つのか、私的な読書メモとして考えたことを書いておきたい。

検閲制度に関する歴史

 本書は博士論文を元にしたもので、序章では、先行研究が整理される。検閲の研究は、江藤淳以来、占領期の研究として進んできたとされる。プランゲ文庫を活用した研究成果は、近年でも出続けている。

閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本 (文春文庫)

閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本 (文春文庫)

戦後雑誌の周辺

戦後雑誌の周辺

 占領期に関する検閲研究に比して、戦前・戦中の実体解明が進んでこなかったことを指摘した上で(p.20)、紅野謙介鈴木登美、ジェイ・ルービンの各氏によって、近年、戦前期日本を対象にした注目すべき研究成果が発表されていることもあわせて紹介される。

検閲と文学--1920年代の攻防 (河出ブックス)

検閲と文学--1920年代の攻防 (河出ブックス)

検閲・メディア・文学―江戸から戦後まで

検閲・メディア・文学―江戸から戦後まで

検閲の帝国

検閲の帝国

 千代田図書館ある内務省委託本の調査・分析も、その一環に加えられる*1。そうするとこの4、5年は、検閲に関する研究者の反応が敏感になっているということもできそうではある。

 そのなかで本書の特色はといえば、伏字を権力弾圧の結果、負のイメージを持ったキズとしてとらえるのではなく「文化記号的な使用形態」(p.23)に注目することなのだという。

 「文化記号的な使用形態」というのは何なのかについて、著者は「読者が介入できる”余地”」(p.57)を対置させる。このあたりは、近年も注目されている言論抑圧に関する諸研究とは一線を画する視点だと思う。

 また、かなり重要な指摘だと思うのだが、「施される字数が原文に対して非常に厳密に対応している」(p.61)ということが、伏字の大きな特徴とされる。この字数の厳密さが、逆に伏字部分の読解可能性を担保するというのである。また、伏字が黒塗りのものから白抜きの丸や四角などになっていくことも、日本人の美意識に合致する部分があったのではないかと著者は指摘する。

伏字のいろいろ

 もともと伏字は、『明治事物起源』などによると、維新後に徳川慶喜の名前を隠すために使われていていたらしい。佐幕派の新聞で、慶喜を反逆者として示すことができず、遠慮から使われだしたとされる(p.32)。

 伏字にもいろいろなバージョンがあった。

 外国語やローマ字で埋める場合、同じ字数だけ他の符号を埋める場合、活字をひっくりかえし、ゲタの形で示したもの*2、数字を使うもの、伏字部分を余白にするもの、伏字部分を別刷にして密かに頒布するもの(!)、あえて誤字を挿入して正誤表でわかるようにするもの・・・そのほか黒塗りなどなど様々な事例が紹介されている(p.34以下)。

 伏字は「無意味な記号としての役割を超越して機能していた」(p.62)とする著者は、伏字が施される理由を次のようにまとめる。

そこにあるのは、単に隠蔽に用いられただけの記号ではなく、当局に対する抵抗としての言論の仮の姿であり、当時の発行者、執筆者から読者への呼びかけの機能を仮託された意味記号でもあった。繰り返しになるが、伏字は主として発行者、あるいは編集者によって意図的に施された記号であり、検閲当局からは・・・内閲などを通して指示が反映されたものもあるが、その影響は原則的に間接的なものであり、直接的な指示による伏字化はまず行われないと考えて良い(p.63)


 引用中にも出てくるが、著者が注目しているのが「内閲」という制度である。

 内閲とは大正6年(1917)頃から大正末期・昭和初期までの約10年間、内務省図書課において編集者が事前に原稿を見せて修正個所の指示を非公式に受けていた制度のことである。

 つまり「内閲の結果を反映する場合に用いられたのが、様々な記号形態での伏字だった」(p.98)。

 しかし内閲は円本ブームを受けた出版点数の増加により、廃止せざるを得なくなり、代わって、禁止処分を受けたもので、発行者が還付願を提出して受理された場合、指定箇所を削除して発行者に還付する「分割還付」の制度が運用されていくようになる*3

内閲と出版史の論点

 本書の面白味は、例えば萩原朔太郎の『月に吠える』発行過程の分析を通じて、内務省交付本と流布本の奥付にかかれた発行日付の違いを指摘する箇所や(p.118)、発禁書の引用が許されず、与謝野晶子の詩を後年引用する際には伏字にせざるを得なかったこと(p.137)など、内閲の視点を得て、著者が出版史上の論点を描いていくところにある。

 権力側の抑圧に対する、いわばしたたかな対抗策として伏字をみていく著者は、たとえば昭和11年(1936)に、全国特高課長会議で伏字一律廃止とする方針が決定されたことに注目する(p.214)。

 これなどは実に面白い。


 要するに自主規制に見せかけて著者や出版者が巧妙に伏字を「逆用」するので、取り締まりの効果が上がらず、逆効果を生じるからであった。だがこの方針は一時的なもので成功を収めなかったらしい。

 もう一つ面白かったのは、こういう伏字が特殊日本的なものだという指摘である。

 たとえば占領下、CIEに納本した出版物について、呼び出しを受けたある編集者は、婦人将校から「あなたは検閲の結果を理解していなかった」として、次のように叱責される。

 すなわち、削除箇所を空字にしている。削除すべき文書を削除せず誌面を黒く塗りつぶしている、これにより、事前に検閲があったことが歴然と残っていることを厳重注意されたという。

 事前に検閲があったことがバレてはならないのだから、伏字は生き延びようがない。かくして占領期に伏字は一時的に姿を消すことになったのである。

いくつかの疑問など

 ただ、もとになった論文を読んだ段階でも思ったのだが、内閲の史料がないのが問題であるとはいえ、大正6年内務省に原稿を見せる習慣が、どうやって広がっていったのだろうかというのは気になった。

 完全な立証が難しいのは承知の上なのだが、p.111以下で論じられる『月に吠える』発行過程の考察(朔太郎が、当局の注意を受けて一部の作品をカットして発行せざるを得なくなったこと、それに彼が非常に憤ったことなど。)について、萩原朔太郎が内閲の制度を知らなかったのはそうだとして、なぜ発行者の前田夕暮内務省にゲラを持っていった方が良いと判断したのだろうか。危ないと思う箇所が朔太郎の作品にあったのだろうか。文芸作家の間で内閲が一般的に知られていなかった段階だとすれば余計にその部分は知りたいと思う。

 あと、雑誌と単行本の内閲の仕方が同じなのか違うのか、開始時期も一緒なのかどうかが気になるところもあった。

 これは引用史料で雑誌を取り締まっているのに、「従来出版法により・・・」とあって、根拠法に「新聞紙法」の記載がない箇所があったからだが*4、法で定められていないのに運用でカバーしている部分なので、公文書等の史料にも残りにくく、まだまだ不明な部分があると思われる。いずれにせよ内閲の詳細な検討の余地はまだ残されているといえるのだろう。

 もう一つ、大きな文脈におけば、内閲が行われていた時代の言論規制は、第一次世界大戦終結関東大震災をはさむ政党政治の時代に運用されていたことの意味をどう位置づけられるかということも気になる。これは出版史の論点として私自身も今後意識していきたいところである。

 自主規制ということの意識をかなりポジティブに捉えるということは、本書の戦略的なスタンスだと思うのだが、しかしたとえば制度的な検閲よりも自主規制をよりネガティブなものとして捉える視角も、たとえばフランクフルト学派などを参照した思想系では比較的根強くあるように思われ、こういう立場と本書がどう対話していくのかも気になった。

 例えば『啓蒙の弁証法』における「校訂者が自動的に行う予備検査は別にしても、原稿審査係、編集者、改作者、出版社の内外にいる代作者等々のスタッフの手によって、ある著作のテキストに加えられる審査の手続きは、その徹底ぶりにおいてどんな検閲をも凌駕している*5」というような「検閲」観との付き合い方とでもいおうか。もちろんまた一方には、加藤典洋がいうように、禁止されたものだけを祭り上げるだけでなく、合法的な範囲内で批評することの意味も積極的に捉えなおして良いという考えもあるのだが。

僕が批評家になったわけ (ことばのために)

僕が批評家になったわけ (ことばのために)

 この本を見たある方が、「おもしろそうだけど、若い人からすると伏字にはマイナスイメージとか刷り込まれていないからできる研究なのかなあ」という感想を漏らしていたが、なるほど、自主規制も表現の挫折として捉えるむきは、たとえば私が思想史の勉強を始めた頃に確かにあった*6。だからまさに新しい世代だからできた研究なのであろう。

近代日本思想案内 (岩波文庫 (別冊14))

近代日本思想案内 (岩波文庫 (別冊14))

 引用に『読売新聞』が多いのは、「実証的」研究を標榜する本としてはちょっと気になるところだが、それでも本書は検閲に当たった内務官僚や警察の発言などを丁寧に拾っているので、その部分を読むだけでも勉強になる。それにしても、自分より若い人のしっかりした研究成果がどんどん出始めていることに焦りを感じてしまう今日この頃ではある。

*1内務省委託本については、千代田図書館のウェブサイトの下記を参照。http://www.library.chiyoda.tokyo.jp/findbook/naimusho/

*2:布川角左衛門の『出版事典』の記述を読むと、活字を「伏せ」たときに上にくる「〓」部分を使用することが由来のようにも見える。

*3:内閲とこの制度変更については、千代田図書館が企画した浅岡邦雄氏の講演会「「戦前内務省における出版検閲【PART-2】:禁止処分のいろいろ」」でも触れられていた。詳細はこちらを参照。http://www.kanda-zatsugaku.com/080801/0801.html

*4:…と書いておいて、後になって出版法第二条但書きによって発行する雑誌、すなわちもっぱら学術・技芸・統計・広告の類を載せる雑誌に限定した議論の可能性もあるなあ…と気づいたので、誤読だったらごめんなさい(後記)。

*5:ホルクハイマー、アドルノ啓蒙の弁証法』徳永恂訳(2007、岩波文庫版)p.10

*6:例えば鹿野政直『近代日本思想案内』(1999、岩波文庫)参照。

敢えて読書史と読者史に思うことの断片いくつか

――和田敦彦『読書の歴史を問う―書物と読者の近代』読書メモ

読書の歴史を問う視点

 和田敦彦著『読書の歴史を問う―書物と読者の近代』(2014年、笠間書院)を読んだ。

読書の歴史を問う: 書物と読者の近代

読書の歴史を問う: 書物と読者の近代

 刊行前から楽しみにしていた本で、出たらぜひとも感想をまとめておきたいと思っていた。発売後すぐに読んだのに、身辺が少し慌ただしかったためにブログの更新自体が停滞してしまったが、以下、本書を通じて考えさせられたことについてまとめていきたい。

 本書の目次については、すでに版元が詳細なものを公開しているが、以下に掲げる全10章からなる。

第1章 読書を調べる

第2章 表現の中の読者

第3章 読書の場所の歴史学

第4章 書物と読者をつなぐもの

第5章 書物が読者に届くまで

第6章 書物の流れをさえぎる

第7章 書物の来歴

第8章 電子メディアと読者

第9章 読書と教育

第10章 文学研究と読書

 本書のスタンスの特徴は、冒頭のベトナム社会科学院にある日本関係図書との出会いに表れているだろう。これらの資料群は、ベトナム戦争の際に鉄の箱に入れて疎開された。そのことの意味を和田氏は次のようにまとめる。

「そこに書物があるということだけではなく、今までそれらが維持され、残されてきたこともまた、当然なことでも容易なことでもない。書物がそこにあるということ、そして読者に届くということが一つの驚きであるということを、そしてそれが調べ、考えるべき問いであるということを、この図書館の蔵書はまさに実感させてくれる」(『読書の歴史を問う』p.11、以下本書という。)

 ここから本書は、読書研究を「理解するプロセス」とその前段の「たどりつくプロセス」に区分する。そうして、「読者への具体的な働きかけを問うことなく出版史や流通史を記しても意味はない」(本書p.17)とまで言い切っている。本書では、表現の問題としてまず雑誌新聞が、ついで投書家が論じられ、読書空間、書物の仲介者、流通、検閲、電子メディア、国語教科書、文学理論のなかの受容史をめぐる問題といったテーマが手際よくまとめられて展開されている。

 手際が良すぎるといえば不当かもしれない。というのは、いずれも著者にとっては1997年の『読むということ』以来の、20年近い研究で開かれてきた独自の読書論のエッセンスにほかならないからだ*1

 構成としては、和田氏が中心に取り組んできたテーマが各所に配置されるとともに、前田愛永嶺重敏佐藤卓己日比嘉高各氏の近年の研究動向が整理されている。巻末の脚注では関連領域の情報まで整理されているので、読んでいて既知の文献だけでなく未知の文献が見つかることもしばしばだった。ほんとうにありがたかった。

 非常にコンパクトに、わかりやすく、多岐にわたる読書の歴史の論点をまとめている本なので、こういう本が読みたかった!と言っていた人は周りにも結構いたし、もっと若いころに読んでこういう視点を身につけたかったという感想も聞いた。同感だなと思う一方、感想が書きにくくなるようなある種の引っかかりも実は感じていた。

 いろいろな論点を示している本だけに、この本の全てが読書の歴史のトータルな形とされることに、軽い引っかかりを覚えたのだ。この本は新しい、ということと、だけどどこか全然新しくない気もするという読後感がぶつかりあっていた。そのことをもう少し掘り下げて考えてみたい。

たとえば読者の歴史について

 本書を読んで初めて読者研究の面白さを知った、という方もおられるだろうが、読者の歴史の研究は、少なくとも50年以上の「伝統」がある。そのことを踏まえて本書の新しさを考えないと、研究史的な読み方ではあんまり生産性がないことになってしまうと思うのだ。

 例えば1964年に『近代読者論』を書いた外山滋比古氏は、『異本論』のなかで「作者の手もとで古典になって世に送られる作品はひとつも存在しない」(p.13)という卓抜な表現で読者への注目を促して、次のように語る。

「作品が時間の流れに沿ってどのような運命にめぐり会い、どのように展開して行くか。それをたどって行く見方も必要なのではなるまいか。作品は読者に読まれることで変化する。そして、あとからあとから新しい読者があらわれる。文学作品は物体ではない。現象である。読者が新しい読み方をすれば、作品そのものも新しく生れ変る。後世、大多数の読者が、作者の夢想もしなかったような意味を読みとるようになれば、その新しい意味が肯定されてしまうのである」(『異本論』p.15)

異本論 (ちくま文庫)

異本論 (ちくま文庫)

 ただ外山流読者論と、和田流「読書の歴史」が、まったく別物であることは、簡単に想像がつく。もちろん、電子メディアが入っているからではない。

 絶妙なタイトルなのである。「読書の歴史を問う―書物と読者の近代」というと、書物の近代と、いわゆる近代読者の成立を問うと、本書が扱っている読書の歴史を問うたことになりそうに見えるのだが、それとは絶対に違う。

 前田愛氏によれば「文学研究者のあいだで、読者の問題が研究領域のひとつとして認められるようになった時期は、昭和三十年代に入ってからの数年間であったと思われる」といい、さらに1920年代から50年代の国民文学論までを「読者論小史」として描いている*2。文学は門外漢だけれど、そうしてみると読者論はもう古いと言っていいような分野なのかもしれないし、にもかかわらず文学研究における読者論は、続々刊行されていて活況を呈しているようにもみえる。読者の歴史を問わんとしているのは、何も本書だけの話ではないのだ。

書物の近代―メディアの文学史 (ちくま学芸文庫)

書物の近代―メディアの文学史 (ちくま学芸文庫)

近代読者の成立 (岩波現代文庫―文芸)

近代読者の成立 (岩波現代文庫―文芸)

読者はどこにいるのか--書物の中の私たち (河出ブックス)

読者はどこにいるのか--書物の中の私たち (河出ブックス)

 基本的にこれまでの書物・読者の近代から連想される研究史の蓄積は、基本的に「理解するプロセス」に属するものだったといえるかもしれない。その意味で、本書は基本的に、「読者」とはこういうものである、というような形で、いくつかの読者の型を設定するような問題の立ち上げ方をほとんどしていない。

 じゃあ何なのか?ということは、考えなければならないが、とりあえずはっきりした読者史ではないように思えるのだ。アルベルト・マングェル氏のエッセイのように、結局読者の歴史とは、本を読む者一人一人の歴史のような形で示されるほかないということなのかもしれない。そういえば、本書のタイトルはマングェル氏とちょっと似ているが、読書と読者の関係は考え出すとなかなか難しい。


歴史研究、思想史研究のなかの読書と読者

 読者を個人ではなくある社会的な階層に分けてとらえる視点なら、文学よりもむしろ歴史学や思想史の領分になってくるといえようか。新聞研究の分野では日本新聞協会が発行する『新聞研究』で、1961年にすでに「日本の読者」研究をしている。読者が新聞批判をすることを背景に組まれた特集で、統計なども出ている。

 1980年代までの研究史を包括的に知るためには、山本武利氏の『近代日本の新聞読者層』の第一章は必読である。すでに述べた文学分野における読者研究にくわえて、自由民権運動大正デモクラシー期における読者研究の方向性が示唆されている。言及された文献は日本史研究の古典なので、文庫でも復刊されて現在も入手できる。

明治精神史〈上〉 (岩波現代文庫)

明治精神史〈上〉 (岩波現代文庫)

 本書第2章「表現の中の読者」でも推奨されている個別の雑誌研究は、少なくとも明治思想史に関していえば、『明六雑誌』や『国民之友』『日本人』など、日本史の教科書に出てくるような主要雑誌の研究は90年代から相当に蓄積されている。近年でも明治期のナショナリズム研究でも、思想の担い手であり、読者としての「書生」の重要性が指摘されているので、この方面の研究は今後歴史学でも活発になっていくはずと思う。

 さらに歴史学からする読者の研究では、フランスの現代歴史学アナール学派(Annales School)が提唱する「社会史」の文脈で、ロジェ・シャルチエ氏の読書の文化史や、フランス革命期における出版物を分析したロバート・ダーントン氏の研究などからも直接的ないし間接的な影響を受けている。シャルチエ氏の方法は、それ自体取り上げてちゃんと勉強しなければな、と前々から考えている。さらにイギリスの歴史家ピーター・バーク氏の研究も重要だと思われる。

読書の文化史―テクスト・書物・読解

読書の文化史―テクスト・書物・読解

猫の大虐殺 (岩波現代文庫)

猫の大虐殺 (岩波現代文庫)

A Social History of Knowledge II: From the Encyclopaedia to Wikipedia

A Social History of Knowledge II: From the Encyclopaedia to Wikipedia

 また、本書が意識的に具体化しようとしている「たどりつくプロセス」に関しても、思想史の分野で注目がないわけではなかった。アダム・スミスの書誌学的研究で知られる水田洋氏は、著書『知の商人』のなかで、次のように問題点を整理している。

「思想史研究の中心は、いうまでもなく原典の解読であるが、一方ではそれの形成過程、他方ではそれの伝達・普及過程を明らかにすることが、ふたつの重要な支柱の役割をもつ。ふたつの方向での研究は、もちろんないわけではないが、しばしば--とくに形成過程は--伝記と混同され(中略)、あるいは伝記に埋没しているし、伝達・普及過程は、たいてい研究史に限定され、しかも正解か誤解かという正統・異端史観に支配されている。さいごの傾向の例は、とくにマルクス主義思想史に豊富にみられるが、普及史においては、正解と誤解は同権なのである」(『知の商人』p.241)

 書物の出版社が思想史のアクターとしてどう捉えうるかという点では、最近の『物語・岩波書店百年史』が参考になろう。とくに第3巻では、『日本思想大系』『日本古典文学大系』あるいは同時代ライブラリー、書目からどのような思想を生み出そうとしていたか、傾向を読み解こうとする試みがなされている。

 出版史の研究についても、むしろ電子化という新たな課題と直面するなかで、関心が高まっているといえそうである。こうした視点からの「たどりつくプロセス」の掘り下げは、喫緊の課題である。柴野京子氏の『書物の環境論』は、とくに流通に関して、本書と重なる部分も大きいように思うが、どうだろうか。

書物の環境論 (現代社会学ライブラリー4)

書物の環境論 (現代社会学ライブラリー4)

 歴史社会学的な視点でも、読書は重要な分析対象とされているようである。例えば佐藤健二氏は、『読書空間の近代』のなかで柳田国男の読書について取り上げる。

読書空間の近代―方法としての柳田国男

読書空間の近代―方法としての柳田国男

 柳田が「内閣文庫」に勤めるなかで、人があまり読まない記録というものがあることを発見していく過程で、彼の民俗学が立ち上がっていくことを指摘している。とくに柳田の読書が、まず歴史性を帯びた書物の塊との出会いからはじまったといい(『読書空間の近代』p.132)、文庫―蔵書は、柳田の学問構想の「産屋」だったとするのは、一冊の本の解釈史ではない、ある種のアーカイヴとの出会いが、人の思想形成にいかに関与するかという問題を投げかけている。

 自分の関心ももっぱらそこにあるが、歴史の中で読者同士のつながりを発見していく過程というのはかなり重要なのではないかと思っている。例えば「読者である信徒」によって担われる宗教思想運動として、内村鑑三の無教会運動が「紙上の教会」である雑誌を媒介に成り立っていたことを説明した赤江達也氏の研究は、ほんとうにおもしろく読んだ。

 これらの研究の成果を踏まえたときに、本書で描かれた「地図」はどう拡大していくのか、目が離せない。


図書館情報学のなかでの読書と読者

 本書の論点はまだまだあってとても語りつくせない。検閲なども論じれば大変なことになってしまいそうなので、いったんこの辺でやめて、図書館の話をしたい。本書でも図書館について言及されているので、注目した人は多そうである。例えば図書館史の有効性について次のように述べられる。

「ここで図書館史を評価したいのは、それが読書の歴史、すなわち読者への書物の流れがいかに形成され、あるいは制限されてきたかを教えてくれるからである。あるいは、こうした読者への書物の流れという観点から、これまでの図書館史研究の成果を今一度とらえなおし、整理していくことも可能だろう」(本書p.72)

 ただ、こういっては僭越極まりないが、私自身は近年研究が増えている図書館史でも、日本国内ではまだまだ読者≒図書館利用者への視点は弱いと感じている。図書館史から出発して読者論を立ち上げた唯一の例外が、本書でも言及されている永嶺重敏氏だと思うのだが、そのあとに続く人があまりいない気がする。

 最近出た図書館史の実践的な書き方の教科書でも、あくまでも図書館員が図書館史に関心を持つよう奮起を促す内容になっていて、結果的に、図書館員による図書館員のための歴史が要請される形に留まってしまっている。

 この場合、問題は図書館員のメンタリティであって著者の奥泉氏の責任ではないのだろうが、せっかく和田氏が読書の歴史という形で図書館にも目を向けているのに、図書館側でそれにこたえる視点が乏しいのは、正直どうなんだろうか。と私は思ってしまう。

 もっとも、最近知ったところでは、アメリカの図書館情報学における「専門性」をめぐる議論のなかで、読書の社会史についてちゃんと知っておくべきだろうという提言もなされているらしい。

 リチャード・ルービン氏の『図書館情報学概論』は、図書館とマイノリティやジェンダーの問題なども扱っていて、また、教育と情報の衝突とでも形容できそうな、図書館員の専門性をめぐる図書館学者と情報学者の間での論争について記述されていて、アメリカの事情がよくわかるのだが、この本によれば、図書館員の専門性のなかで読書の歴史に関する知識が必要だという提言が、1997年頃にすでになされているのだそうだ*3。提言しているのは、アメリカ図書館史研究の大家ウェイン・ウィーガンド氏*4

 はやく日本の図書館のなかでも読書の歴史、読者の歴史がもっともっと注目され、たくさん研究される日が来てほしいと思う。



 和田氏による本書の最大の特徴は、従来バラバラに研究されてきたいくつかの流れを、「たどりつくプロセス」と「理解するプロセス」に分類し、しかもそれを統合した研究領域がありうることを示唆した点にあると考える。

 ところで、こうしていろいろと考えてきて思うのは、和田氏の研究領域は、例えば「近現代の書物を対象にしたネオ書誌学」と呼んでしまって、よいのではないか?ということだった。

 もしかしたら、あえて「リテラシー史」を標榜する和田氏には、旧来の書誌学の在り方に対して疑問や批判がおありかもしれず、それを混ぜっ返して「書誌学」に再度分類してしまうのは乱暴極まりない話かもしれないのだが、近代書誌学というのは、ありそうでない、できそうでなかなか構築されない分野だということは、かねてから何人もの斯学の先輩方が言及してこられたところでもある。

 自分で言うのもなんだが、私が興味があるのは少し変な領域で、思想家の全集の本文の異同だったり、地方で出版され回覧された同人誌だったり、あるいは図書館史の歴史だったりするのだが、そういうものに興味を持ってきたのは、どこの誰にとっても、何かを読んで何かを考える経験は代替不可能でかけがえないもので、どんな媒体・形態で、あるいはどんな場所で、お金を払ったのか、借りたのか、その意味や意義をいい加減な推論で簡単に判断すべきでない。という考え方を多少なりとも歴史研究のなかで具体的にしたかったからと思っている。本書を通読し、「近現代の書物を対象にしたネオ書誌学」という着想を得たことで、もう少しだけその興味の対象が具体的になった気持でいる。

 タイトルから読書史や読者史として本書を読む方もおられると思うが、“敢えて”いえば、私にとってこれは「書誌学」の本だった、それも極めて新しい論点整理をした本だったというのが、読了後しばらくたった今の感想である。無論「ネオ書誌学を問う」よりは「読書の歴史を問う」というタイトルのほうが数十倍カッコイイことは、まったく否めないのであるが。

*1:和田氏の本については、かつて当ブログ内で『越境する書物』についての読書メモを書いたことがあるのでそちらも参照。

*2前田愛『近代読者の成立』(岩波現代文庫版)p.377

*3:リチャード・ルービン、根本彰訳『図書館情報学概論』(2014年、東京大学出版会)第二章による。

*4:まだ未見だが、次の文献がある由。急ぎ読んでみたいと思う。Wiegand, Wayne A, "Out of Sight out of Mind: Why Don't We Have Any Schools of Library and Reading Studies?" Journal of Education for Library and Information Science, 38(4), 1997.ウィーガンド氏のプロフィールについては、Wikipediaのほか、川崎良孝「ウェイン・A.ウィーガンドと図書館史研究--第4世代の牽引者」を参照

レファレンス・サービスは自らの来歴を語りうるか

不遇のサービス?

 図書館におけるレファレンス・サービスの真価が理解されていないという話がある。

 図書館関係者の嘆きでよく聞く類の話題である。海外で資料調査してきた人だと、「すごいね向こうの図書館!レファレンスライブラリアンってのがいてさ、何でも資料のこと教えてくれるんだよ。ダメだねうちの図書館は。日本遅れてるよ!」というような会話が、レファレンスカウンターの前でなされる悲劇。もしかしたら、今日もどこかで繰り返されているかもしれない。

 エビデンスを出すのが難しいが、レファレンスというのが図書館のサービスであること、しかもそれは大学でも公共でも館種を問わずやっているということまで含めて認知されているとはおそらく言い難い状況にあろう。

 そもそもレファレンスとは何であるのか。『図書館情報学用語辞典』第4版(丸善、2013)は次の定義をしている。

何らかの情報あるいは資料を求めている図書館利用者に対して、図書館員が仲介的立場から、求められている情報あるいは資料を提供ないし提示することによって援助すること、およびそれにかかわる諸業務。図書館におけう情報サービスのうち、人的で個別的な援助形式をとるものをいい、図書館利用者に対する利用案内(指導)と情報あるいは資料の提供との二つに大別される。

 質問に対して情報源を提示することがポイントで、業務となると情報源を提示しやすくするために辞書類をコレクションとして整備したりだとか、質問傾向を分析してよくある質問はあらかじめパスファインダにして配るということも考えられる。

 こうしたレファレンスについて書かれた本は、しかし教科書も含めると膨大な数が存在する。その中でも名著というべきは、井上真琴氏の『図書館に訊け』だろう。

図書館に訊け! (ちくま新書)

図書館に訊け! (ちくま新書)

 図書館とはそもそもどんな種類があるのかというところから説き起こし、一般的な資料の探し方に加え、講座モノ、博論、学者自伝の利用などといった特定主題の学問分野に簡単に通暁するための裏ワザも言語化する。学生さんが読んだら役に立つと思うのだが、どちらかというと学生さんに図書館の使い方を教える大学の先生により読まれたらよい本だと思う。誰かが噛み砕いてあげないと、学生さんが、書いてある事柄の凄さを理解するまでには、ひょっとすると時間がかかるかもしれない。


 井上本が大学図書館向けにできているのは確かで、公共図書館系のレファレンスなら、『図書館のプロが教える調べるコツ』などが良いのかもしれない。小学校の自由研究ほか、簡単な事実調査や、生涯学習に使える事例が豊富に載っている。その意味で、こちらは、専門的な論文さがしというよりは、もう少し生活に密着した疑問の解決のために図書館がどう使えるかという観点の事例集といえるだろう。

 事例が豊富なものとなると、大串夏身『情報サービス論』を初めとするいくつかの教科書も有用と思われる。大串先生の本は、レファレンスの経験的な部分から探索手段をチャート化していく、帰納的な方法によるレファレンス論構築のねらいがあるように思われる。『ある図書館相談係の日記』(日外アソシエーツ、1994)は、元号が平成に代替わりしたころの都立図書館の充実した記録になっている*1

情報サービス論 (新図書館情報学シリーズ)

情報サービス論 (新図書館情報学シリーズ)

インターネット時代の変化

 ただ、古いレファレンスの教科書は、情報環境の変化が速すぎるために、肝心な部分がすぐ使えなくなってしまうことも多い。インターネットの普及で、レファレンスはどう変わったか。田村俊作編『情報サービス論』では、次のようにある。

たしかに、簡単な情報探索は以前とは比べ物にならないくらいに容易になった。しかし、実際には、情報源は多様化し、検索の仕組みも複雑になり、しかも新しい技術やサービスがつぎつぎと導入されるため、的確な情報アクセスを維持するためには、いっそう高度な技能が要求される。またインターネット情報源は予告なく変更されるなど不安定で、間違いも多く信頼性も不十分なため、的確に評価する批判的な目が必要である(17ページ)

新訂情報サービス論 (新現代図書館学講座)

新訂情報サービス論 (新現代図書館学講座)

 本書は、2010年の刊行だから、その後のtwitterなどの爆発的な普及とか、デジタルアーカイブの浸透以前の話であって、インターネット情報源に対する評価は、今日では多少変わっているかもしれないが、今なお傾聴に値する見解である。簡単にわかる範囲が増えたのだから、ある事実などについて、限界まで調べることが増えてくるわけで、そのような質問が増えれば、当然、従来以上にレファレンスに時間がかかるようになった。レファレンスの件数が減少傾向にある、というのは田村先生の別の論考でも言及されている*2


どうしたら批判に応え得るか

 他方、サービスへの批判や疑問もある。冒頭で述べたように、一般的な認知度がずば抜けてあるわけでないのに、いつまでも貸出の次に来るべき主力サービスの有力候補がレファレンス・サービスだと言っていてよいものかという、ある意味当然の疑問である。

 例えば次のようなもの。

レファレンス・サービスは、米国図書館(図書館情報学)界の影響を強く受けている日本では、図書館が行なうべき当然の、そして専門職のスキルとコレクションをフル活用して行なう高度なサービスと考えられている。しかし、例えば英国ではレファレンス・サービスという言葉自体をあまり聞くことはない。それはレファレンス・サービスにあたるサービスを行なっていないということではなく、サービスの提示の仕方が違っているからである。そもそもレファレンス・サービスは、情報サービス、利用者教育、図書館利用ガイダンスなど、手法も目的も大きく異なるサービスについて、司書による利用者援助の側面に焦点を絞って共通化した総称であり、細かく見れば、簡易レファレンス、書誌事項確認、相互貸借・文献提供手続き、情報提供サービス、レフェラル・サービス、調査支援、SDI、データベース検索、情報事業者斡旋、図書館オリエンテーション、文献探索指導、情報マネジメント教育、読書相談、読書療法、調査コンサルティングなどの極めて多様なサービスから構成されている。これら全体をレファレンス・ワークとして、レファレンス・ライブラリアンが業務上統括することには意味があるが、司書とのコミュニケーションを必要とするサービスに慣れていない、そして利用目的も社会的背景も異なる日本の図書館利用者にいきなりレファレンス・サービスとして提示しても、受け入れられるはずがなかった。(柳与志夫『千代田図書館とは何か』(ポット出版、2010)129頁)

千代田図書館とは何か─新しい公共空間の形成

千代田図書館とは何か─新しい公共空間の形成

 厳しい意見だが、こういう考え方もあろう。

 British LibraryにもReference Teamが各部屋にあるとウェブサイト上に出てくるがHelp for researchersとかいう表現も使っているみたいだし、アメリカほど使わないという意味に解するならば、そうだろう。ちなみに、アメリカのCIE図書館は、ヨーロッパ戦線の終結を見越して、レファレンスライブラリーをあちこちに設置していったという話もあり、とくに第二次世界大戦ナチスから解放される地域に野戦図書館を設けたりしていたという。そうするとレファレンス・サービスもある種の政治性を必然的に帯びることになる*3

「問答版」の話

ところでちょっと気になったのが、レファレンス・サービスは戦後アメリカから入ってきたが定着しなかったという話である。例えばこういうのがある。深見洗鱗「帝国図書館に就きて」『風俗画報』第218号(1900年10月)に載っている「問答板」だ*4

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『風俗画報』の記事にはこうある。

学芸参考若くは著述上或る一事を調査せんと欲するに其何れの書に就かば之を亮知するを得べきや其捜索人中互いに質問するの方法を設く故に質問せんとする者は出納所に申出で質問用紙を受取て其の疑問を記し此処へ挿むべし又閲覧者中質問の事に就き書名等承知の者は質問用紙の部に其答を記載ありたし(深見洗鱗「帝国図書館に就きて」『風俗画報』第218号(1900年10月)p.15)

 稲村徹元氏によると、これが日本におけるレファレンスのはしりといってもよいらしいのだが*5、職員が回答せず、利用者同士の情報共有のような形で質問回答がまわっていることがなかなか面白い。

 帝国図書館だってアメリカをモデルにしていたではないかと言われればそうなのだが、何にせよ参考業務に需要があり、それに対して、何とか帝国図書館が、少ない人員で(専任スタッフがまだ館長以下10人前後の時代だと思われる)やりくりしようと涙ぐましい努力をしてこういう形になったことは面白いではないか。

 レファレンスについてはマンガ『夜明けの図書館』の第一話が(一話に関してはこちらで立ち読みができる)、レファレンスに大いなる夢と熱意をもって取り組もうとする新米司書が、サービスとして過剰ではないかと言って懐疑的な態度を取る職員と言い合いになるという、かなり重要な問題を提起していて、考えさせられる。

夜明けの図書館 (ジュールコミックス)

夜明けの図書館 (ジュールコミックス)

 田村論文以後、いくつかの公共図書館でのレファレンスの傾向を調査した論文では、全体としてレファレンスの件数全体は増えておらず、この数年でレファレンス件数が増加した図書館では、難易度の低いレファレンス(所蔵調査等)が増えているという結果が出ている。ネットの普及した結果、難しいレファレンスが相対的に増加したという通説は、やや疑わしいのだそうだ*6

 こうなると、コスト削減から、レファレンス要らない論が出てきかねない。同論文で次のように述べられているのは相当重い提言だと私は思う。

万が一レファレンスサービスを「失うことになった場合」図書館と図書館員は、レファレンスサービス抜きで社会から評価されることになる。130年前、サミュエル・グリーンが図書館の評価を高めることを企図して提唱したレファレンスサービスの意義はおそらく今なお減失していないと考えられるが、レファレンスサービスの位置づけが変化を迫られている以上、その再定義は不可避である(渡邉論文、163ページ。)

 そう。図書館はレファレンス・サービス抜きで戦えるのか?そのことまで含めて考えないと、日米カルチャーの印象批評をしてもほとんど意味がない。

 私もまた、レファレンス・サービスは重要と考える者の一人である。

 ある時期まで、占領軍政策の一環としてレファレンス・サービスがもたらされたと強調することに意味はあったのだと思うのだが、実際にはむしろそうした情報サービスへのニーズは、先の帝国図書館「問答版」に見られるように明治時代からあったし、戦後の水準からみて十分でないからといって、きちんと図書館史のなかに位置づけなくていいという話にはならないと思うのである。

 占領軍がもたらした先進的なレファレンス・サービスの理想を強調する物語はむしろ、アメリカ人には合うけれど日本人には適合しないのだという主張に追い風となってしまうかもしれない。

 今なお定義があいまいな「レファレンス・サービス」をそれとして考えるのではなく、未だレファレンスと呼ばれていなかった頃のサービス受容の在り方から、一つの筋の通った話として、いわば「来歴」をきちんと物語ることが出来るのかどうかを、これから少し考えてみたいと思っている*7

(続けられたら、志智嘉九郎『りべる』などを参考にもう少し掘り下げてみたい)

*1:ある先輩に聞いてみたところ、レファレンスの話は大概規範的な話+参考図書紹介のテンプレができていて、実務経験を相当程度こなした上で、理論的な話と経験的な話を接合したレファレンス論は、少なくともインターネットが普及して以降、日本語ではまだないので、こういう本が貴重なんだそうだ。その先輩に教科書書いてくださいよ、と言ったらうまくはぐらかされてしまったのだが。

*2:田村俊作「総論:レファレンス再考」『情報の科学と技術』第58巻第7号(2008年)325ページ。テキストへのリンクはこちら。なお、同じ号に掲載されている安藤誕、井上真琴「インターネット時代の"レファレンスライブラリアン"とは誰か?」も非常にためになる事例が豊富に掲載されている。リンクはこちらから

*3渡辺靖オバマ時代のパブリック・ディプロマシー」『ソフト・パワーのメディア文化政策』(新曜社、2012)124ページ。なお、注記によると、このあたりの記述は今まど子氏のCIE図書館研究も参照されている由。

*4著作権は切れているので、とりあえず古本で買って持っていた手元の号からアップしてみた。

*5稲村徹元「戦前期 における参考事務のあゆみと帝国図書館--資料紹介「読書相談ノ近況」(昭和十年六月帝国図書館)〔翻刻〕」『参考書誌研究』3号(1971年9月)

*6:渡邉斉志「公立図書館におけるレファレンスサービスの意義の再検討」『Library and Information Science』66号(2011年)。テキストへのリンクはこちら

*7:ここでいう「来歴」というのは、故坂本多加雄氏が使っておられたものを念頭に置いてのことだが、そのことも含め、次回以降機会があれば考えてみたい

「最近の図書館システムの基礎知識」を読んで考えたこと

最近の図書館システムの基礎知識

 『専門図書館』264号(2014年3月)に掲載された林豊氏の「最近の図書館システムの基礎知識―リンクリゾルバ、ディスカバリーサービス、文献管理ツール」という記事を読んだ。

 最近、図書館情報学に関する情報収集のお仕事にほんの少しだけ関わり始めたこともあって、ふだんあまり意識的には読まないシステム系の論文も、勉強しないままではいけないなと思っていた矢先。このテーマで、しかも林さんの執筆とあればこれはと思い、さっそく読んでみた。

 『専門図書館』は色々な特集をしているが、今回は「図書館システム2014」と題する特集で、林さんの記事の後には、各社の製品紹介が続々と続く。ちょうど巻頭論文+総説のような感じになっていて、もうなんというか大御所のようであると思ったりした。さすがすぎる。

 同記事で紹介されているのは、2000年代以降増えてきた電子リソース*1を管理・提供するシステム、さらに検索システム、文献管理ツール、次世代型図書館システムの4つのカテゴリーに属するシステムの概要である。後半の二者は軽く触れている印象だが、どんなものがあるかの商品名くらいは、私も覚えておかねばと思った。

 内容については、私があやふやな知識でまとめるより、そもそもリンク先の方が詳しく書いているし、論文ではなくて解説記事だとご本人もおっしゃっていたところでもある。本文もいずれ一定期間を経過後にオープンになるのではと思われるので、興味を持たれた方には是非実際に本文を読んでいただくのを強くお勧めして、私が面白いなと思ったところを以下にまとめたい。

 物凄くわかりやすく、参考になったのは、やはり検索システムのところであった。これは以下のリンク先にある発表資料が示す通り、林さんの得意中の得意分野なので、当然だし、読み応えがある。

 本文では、物理的資料だけでなく、電子リソース、オープンアクセスの文献まで図書館で提供できるようになったという前提の上で、このように述べられる。

OPAC以後の検索システムは両者のギャップを埋める方向に進んでいる。しかし、提供可能な資料は増大する一方であり、この差を完全に埋めることは今後も不可能であろう。各図書館では、導入・維持コストを考慮したうえで、必要十分なレベルのシステムを検討することが大切である。また、検索範囲に加えて検索機能やユーザインターフェースの問題もある。従来型のOPACは、利用者が直感的に使えないとしばしば言われる。検索範囲を拡大していけばいくほどに、利用者が情報の海のなかから目当てのものを効率良く探し出せるようにサポートする機能が強く求められるようになる(p.4)。

 すげえ「不可能」って言い切った。というちょっとした感動があるのだが、しかしこれは当然だとも思う。

 以前は、検索によって得られた結果がリプレースのたびに変わって不安定な印象を持つこともあったのだが、資料が増えるということは新しいものが上に積み重なることを意味するわけではない。図書館は古書だって場合によっては購入するし、寄贈で欠本になっていた個所が埋まることも稀にあるし、そもそも未整理だったものが遡及入力されてOPACで検索できるようになることもあり得る。前に調べたからなかったのが、数年後に調べてもないとは限らない(図書館によっては物凄く汚損・棄損された資料は除籍されることもあるし、亡失も完璧に防ぐことはできないので、論理的には逆も起こりうる)。

 それはどの時代についても言える、というのが図書館のキモなのかもしれない。


変わる検索スタイル

 ディスカバリーサービスとも呼ばれる最近の検索システム*2の特徴は、林さんによれば、次のようにまとめられる。

  1.  シンプルなキーワード検索画面
  2.  物理・電子リソースの統合検索
  3.  検索語の推薦(もしかして?を返してくるもの)
  4.  検索結果の絞り込み
  5.  関連度順ソート
  6.  情報の充実した検索結果一覧の画面
  7.  書影・目次・あらすじなど充実した書誌情報
  8.  関連資料の推薦(Amazonのレコメンドのようなもの?)

 そこでは「前もって緻密な検索語を組み立てるのではなく、シンプルなキーワードでざっくりと検索してから、(膨大な)検索結果をさまざまな機能で絞り込んでいくという利用スタイルが意識されている」(p.4-5)ことになる。

 林さんによると、ディスカバリーサービスも、北米を中心に2005年ごろからおこってきた、と書いてあるので、来年で10年になるわけだ。それなりに長いトレンドといってもいいかもしれない。

 また、細かすぎるためかあまり触れられていないが、検索ロジックについても、根本彰・岸田和明編『シリーズ図書館情報学②情報資源の組織化と提供』(東京大学出版会、2013年)などもあわせて読むと、新しい動きがいくつもあることがわかる。

 単語の一致だけでなくて、その類義語や関連語を複数使って検索したりとか、全文検索技術として研究されているバイグラムのようなものもある。バイグラムでは、例えば歴史学用語を検索するにあたり、「国民主義的対外硬派」みたいな語を、「国民」「民主」「主義」「義的」「的対」「対外」「外硬」「硬派」のように二文字ずつ区切っていって、それぞれの語で検索をかける。こうすることで検索漏れを防ぐ機能を実装しているOPACもある*3

 

日露戦後政治史の研究

日露戦後政治史の研究

 それから、ウェブスケールディスカバリーサービスの紹介も面白かった。これは、

統合検索(リアルタイム検索)の欠点である検索速度の遅さを改善するために、世界中の出版社と交渉し、検索対象のデータベースから事前にタイトル単位・論文単位のメタデータやフルテキストを収集して検索インデクスを構築しておくという手法の製品が登場した(p.5)。

 とされており、「何だそれは頭良すぎるだろう!」と思って調べてみると、先日筑波大学附属図書館のOPACリニューアルで導入されたSerials Solutions社のSummonがこれにあたるらしい。

 事例で挙げられているのは初期の導入館だった九州大学だが、「収録されたメタデータは現在では数億件から数十億件という規模に達している」(p.5)と書いてあって、そんな大袈裟なと思って九大附属図書館のHPを見たら本当に

論文/記事情報(海外) 世界中の6,800以上の学術出版社、94,000以上のジャーナルからの論文/記事 約8億件

 と書いてあったので度肝を抜かれたのであった(国内が800万件だから、桁が違う)。

 この規模の想像できないような文献世界を相手にして、色々な利用者の要求をできるだけ汲みつつ、何とか情報ニーズを満たせるような検索システムを構築しているというのが実情なのだ。

 ところで、こういうOPACの話や検索の話は、図書館員もそうだが、大学で教鞭をとっている人にもちゃんと伝わっているのであろうか。というのは、新しいディスカバリー系のインターフェースは、私自身が当初かなり戸惑ったし、いまでも周りにいる人文系の研究者の間では、少なくとも絶賛されるような事態に至っていない。しつこく聞いてみると、むしろどうも不評のようでもある。そのことと検索システムのギャップについて、最後に考えてみたい。


歴史研究にとって検索とは何か

 そういうのを考えたきっかけは、たまたま最近読んだ本にある次のような一節からだった。

 歴史家がコンピュータを使いはじめてから、少なくとも四半世紀が経つ。一世紀以上前に原稿をタイプで打ち込むようになったときには、研究や執筆の構成、スタイル、手順にも、またテーマにも変化は見られなかった。だがコンピュータを使うようになってからも変化がなかったとは言い切れない。人間の知性とコンピュータの関係について論じた本はいまではたくさん出版されている。この問題について私は何も知らないが、歴史家という職業の現状と将来を憂う者として、二つの点を指摘させてほしい。

 一つは、歴史を書くにせよ他の文学作品を書くにせよ、コンピュータ上で文を書くと文体が改善されるという証拠はどこにもないことである。むしろ逆になるケースも見受けられる。もう一つは、より重大な問題で、コンピュータで入手可能な情報に研究者が依存しがちになることである。この種の「情報」は言うまでもなく大量に存在し、しかも驚異的に簡単に入手できる。だがそうした情報は信頼できるのだろうか。答えはイエスでもあればノーでもある。それらは、誰ともわからない人間の手でどこかのコンピュータに入力されたものだ。「データバンク」と称するものの中には、書籍、論文、史料の所在も含めて重要な情報が欠落し、しかも欠落したままだろうと予想される代物がいくらも存在する。この事実に、コンピュータを使う多くの人が気づいていない(原文の引用や参照をインターネットに頼り切り、レポートに切り張りする学生を見るだけでも、このことは明らかだ)。検索可能であることと証拠として依拠できることとは同じではない。キーを叩くと画面上に現れるものが、必ずしも「現実」に存在するとは限らない。

 いま述べたことの多くは、「史料」の問題にかかわってくる。これについてはすでに触れたが、ここでは一部の歴史家が取り上げた論点を吟味することにしよう。社会史、ジェンダー史、宗教史といったものでは、史料が乏しく断片的だという問題があり、歴史家はつぎはぎ細工をしたうえで結論をひねり出さなければならない。これに対して近年の政治史や国際関係史では、まったく逆の問題に直面する。社会や政府のさまざまなレベルで材料が大量にありすぎるのだ。通話記録、テレタイプ、eメール……。これらの中には検索可能なものもあれば、可能でないものもあるが、いずれにせよ信頼できるのだろうか、あるいは完全なのだろうか。また、中央情報局(CIA)のような情報機関で保存している記録は、どこでどんなものが検索できるのだろうか、そもそも検索できるのか、できるとして信頼できるのだろうか*4

 大変長い引用で恐縮である。著者は1924年生まれなので、なんだ老人の小言か。といって片づけられてしまいそうなのだが、しかし歴史という学問と出版であるとか、同書に対して私自身はかなり共感できる個所が多かったので、ここも立ち止まって考えてみたいのである。

 著者がいら立っているのは、検索できるものが歴史研究で使える史料の全てではない、ということなんだろうと思う。

 すなわち、「検索可能であることと証拠として依拠できることとは同じではない」。ごく一部の人にしか通じないかもしれないが、しかし例えば、相当の理由がない限り、日本近代史の論文で、いくら検索がしやすいからといって、読売新聞データベースからしか引用せずに世相を語っているのはNGという判断はある。第一、新聞記事から世相を語りたければ、(割と私の好きな)『明治世相編年事典』なり『新聞集成明治編年史』なり、あるいは索引から検索しやすいところでいえば、『明治ニュース事典』『大正ニュース事典』なりが現に存在しているのだから。

明治世相編年辞典

明治世相編年辞典

 そういう意味では、歴史研究の質は、普通にシステムを使って検索できるものと、それでは辿りつけない史料の塊をどれだけ知っているかの組み合わせで決まるということになってくるのだろう。そして検索では辿りつけない史料の塊が何なのかという話になってくるとき、俄かにレファレンス・サービスはやはり大事だということになってくる。


 もうひとつ、検索が研究の全てを規定してしまうわけではないと思うのだが、ちょっと思わせぶりな分析概念を拵えるところから始まって、人文系はそもそも緻密な検索語を作るのが基本的に大好きな人が多いように見えることも、何がしか検索システムに対する人文系の意識を規定しているように思える。いくつかの文献を読みながら検索語を抽出して「このパターンならこういう結果が出るはずだ!」と思いながら検索をかける利用スタイルが、あくまで私の想像だが、かなり多いと思うのである。

 絶対の自信を持って選び抜いた検索語に「もしかして?」がついたときのイラっとする感じは、わかるような気がするし、また、利用側がこのようなアイデアで調べた先行研究はないだろうと思って念のため検索をかけたら、よく把握できないロジックで、なんだか見てみないと当たりか外れかもわからない結果が複数出てきた。見てみたら全部無関係のテーマだった。というのは利用者の時間を節約するどころか浪費させているわけなので、その点でうまくいかない悲劇であるかもしれない。

 いずれにせよ、一見、「なにそれ繋がるの?」という風に見える論題に接したとき、この主題とこの主題を組み合わせるのかという意外性の驚きが人文系の論文の妙味の一端を構成していることは疑えず、それが私の周りの人文系ユーザからまれに漏れ聞こえてくる、ディスカバリーサービスの不評と繋がっているような気はする*5

 戯画的に付け加えるなら、自分がこのようにしてみたい、やってみたいと内発的に思ったことを、システムに規制される形で実現できないことを何か「疎外されている<私>」みたいな形で発見してしまい、そのような問題を哲学的な次元で議論したがる人も、人文系には一定数いると思われるが、まあそれはともかく、検索のスタイルも、十年一日同じようにやっていて良いわけではないということ否めないのだろう。

 「図書館は成長する有機体である」といった人がある。その解釈はさまざまであろうけれど、持っている資料が有機的に増えていくならば、それを探すツールもやはり変質を免れないし、さらにそれを提供する側はもとより、使う側も、そうした発展のサイクルの影響を不可避的に蒙りながら進んでいくしかないということなのだと思う。

 端的にいえば、真面目に研究を続ける気があるならば、検索はその都度やるよねと、調べる側が問われているのだ。図書館員にではなく、増え続ける資料に。

 OPACは検索のための道具で、道具はしょせん道具なのだが、気がつくと留守の間に勝手に室内を動き回る掃除機のようになっているかもしれない。そんなことまでする必要はないと言い続けても、大勢では掃除機の古い紙パックが生産中止になってしまうように、結局道具である以上、耐用年数があるということなのだろう。

 

 成長や進化という言葉を安易に形容詞に使うのはよくないかもしれないが、従来型OPACで十分な検索結果が得られているのだからそのままでいい。余計は改変をするな!というのは、知らないところでどんどん友達づきあいが増えていく子供の成長を受け入れられないために、上から馬鹿にし続けないと立場を失ってしまう親のようである――そう想像して、それはカッコ悪いなと思って、過去にそんなことを思ったり言ったりしたことのある気がする自分をちょっと反省した。

 何もそんなことまで考えなくとも、という著者のあきれ顔が浮かぶが、考えるきっかけをくれた林さんに感謝である。

*1:大まかに「電子ジャーナル、電子ブック、データベース、デジタル化資料など」と分けられている(p.2)。

*2:検索範囲が図書館の書庫の中にある物理的資料だけでなく、契約データベースに入っている論文などの電子リソースも含むことから、もはやOPAC=Online Public Access Catalog、オンラインで見られる図書館の蔵書目録という意味ではないだろうという含意からとくにディスカバリーと呼ばれるらしい(p.4)。

*3:大変どうでもいい話。この検索式によるOPACは、間に助詞などが入る場合は大変重宝するのだが、他方こんなこともある。以前、かねてから個人的に調べている明治時代の出版社「博文館」を検索しようと窓に放り込んだところ、未知の文献が大量に出てきて、「なんだこれは!」と胸をときめかせてみると、未知の文献の全部が伊藤「博文」のことが書いてある吉川弘「文館」の本だったために凄まじい脱力感を味わったことがある。伊藤ならまだ明治時代だから許せるような気もするが、「博文」というお名前の研究者が著者として返された場合の関連度順とは何なのか、微妙に考えさせられる事例ではある。

*4:ジョン・ルカーチ、村井章子訳、近藤和彦監修『歴史学の将来』(みすず書房、2013年)149~151頁。原書は2011年刊

*5:検索結果のロジックが見えにくいことについて不満を持つ(歴史)研究者については、後藤真電子書籍・デジタル化の課題と展望 コンテンツの電子化がもたらす新たな情報発見の可能性 歴史資料を用いた事例を題材に」『現代の図書館』51(4)(2013.12)が少しだけ言及している。

日本史研究とiPad

本年もどうぞよろしくお願いいたします。


今年は正月休みも長く、例年より少し長めに帰省したりできたので、多少時間も出来、iPadを使いながら原稿を書くようなことを試みたところ、ふと、次のような疑問がわいてきた。

「自分は、iPadを買ってから1年が経過しようとしているけれど、ほかの人たちはどんな風に活用し、あるいはどんなアプリを使って、研究なり調査なりに役立てているのだろうか?」

そこで、以前書いた「日本史研究とwebサービス」というエントリの続編として、また自分の手のうちを見せることで、よりよい発想を教えていただけると大変うれしいという魂胆から、懲りずに恥をさらしてみたい。

こんな使い方

使用しているiPadは第4世代iPadの32GB、Wi-fiモデルである。

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日本史の研究に使うという観点で書くので、おそらく大多数のビジネススキルとか理科系の作法とかと著しく異なるところがあろうと思われる。論文の電子化環境の違いからして、たぶん同じ歴史学でも西洋史の人とも違うことが予想される。なので、まずはいくつかの前提条件を書いておくのが無難だろう。


テキスト入力をしない。

私は今はiPadでの文章入力はしない。長距離移動などの際には、iPadを使ってのテキスト入力もしたいなあと思った時期があるのだが、今は原則しなくなった。書いているときは、こんな風なことが出来るようになったのかと感慨深いのだが、だからといって作業能率が劇的に良くなったりしなかったことによる*1

メールの下書きや、簡単な文章の草稿程度のメモならば、例えばiPhone(使用しているのはiPhone5)で、通勤途中の電車のなかで、単語や文節を箇条書きにして作った後、自分のメールアカウント宛に転送し、帰宅してから自宅のパソコンで開いて整形・修正してしまうことがほとんどである。

実際に人に出したメールの下書きを出すと差し障りがありそうなので、使っていないもので例を出すと、実際のメモの画面は、このような感じ。

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以前このブログに感想でも書こうかと思って結局もたもたしているうちに賞味期限切れになってしまった感のある、昨年11月に福井に行って見てきた岡倉天心関連展示の感想メモである。没ネタの供養のために出してみる。

また、史料の翻刻を試みる場合、経験された方ならうすうすお気づきだろうが、予測変換は鬱陶しいことこの上ないので、出先ではキングジムポメラ等で、テキスト入力に特化したデバイスで作ることが多い。使っているポメラの機種がDM20なので、iPhoneのアプリにあるQRコードリーダーで読みとって携帯からメール送信も出来る。

キングジム デジタルメモ ポメラ DM20  プレミアムシルバー

キングジム デジタルメモ ポメラ DM20 プレミアムシルバー

プレゼンテーション資料の作成もしない。

要は、写真やPDFの画像を拡大したり管理できれば、恩の字だというスタンスで使っている。「そんなのiPadの意味がねえ」と言われてしまうかもしれないのだが、日本史だとPowerpoint等を使ったプレゼンテーションが皆無なので、正直なくて困らない。


雑誌論文は読まない。

日本史の論文だと、引用史料は文末ないし章末脚注がおそらく標準だろうと思われる。このため、読み進めていく過程でもしも気になる所が複数あれば、しょっちゅう本文と脚注を行ったり来たりの相互参照する羽目になるので、圧倒的に紙媒体に利がある気がしてしまう。ページ末尾に脚注がある横書き文献や、リンクがきちんとしているものであれば、ちょっと状況は違うかもしれないが、コアジャーナルと呼べるであろう『日本歴史』とか『日本史研究』などの雑誌は、そもそも学会員になっているので、現状ではあまり使わなくて済んでしまっている。

そういうわけで、文献管理ツールの出番もあまりない。本当に一瞬だけMendeleyを使っていたが今は使っていない。日本史関係の論文のオープンアクセス化のハードルが高いのも一因かもしれない。た、本気で追いかけているテーマはすでにテキストエディタで文献目録を作っているし、新たに追いかけたいテーマも、調べあげたものはノートに付けているから、現状での必要性があまり感じられない。もちろんこれは個々人によって事情は異なるだろう。


そうすると用途はたぶん次の3つに絞られる。

①史料を読む。

②史料を入力したりする際の補助器具として使う。

③何かの作業時に並行して電子辞書として使う。

①や②については、データやファイルを管理するためにDropboxを使っている。

これで、史料を撮影したりスキャンしたものについて、資料群ごとのフォルダを作って、そこに必要なファイルを入れて置く。その上で画像を表示させて、そこからポメラまたは自宅の端末で文字を入力する形で使っている。


辞書系アプリ

③で辞書として使うと書いておきながら、実はインストールはしていない。角川日本史辞典などは、あれば便利だし重宝する気がするのだが、使用するシーンが現状ではほぼ自宅に限られることによる。そういえば角川の日本史辞典か、山川の日本史小辞典は、学生時代いつも演習の授業に持って行っていたな。

日本史辞典

日本史辞典

外出先でちょっと確認したいことについては、iPhoneからググって何とかしてしまうことが大半である。ただ、私が知らないだけかもしれないが、もしあれば、そこそこ充実した年表があると、ちょっとしたときに見たくなるような気はする。Dropboxにエクセルで作った自作の年表を入れているので、それで代用したりすることもある。


Kindle

じつは一番iPad凄さを体感したのがこれかもしれない。はじめは洋書をamazonのペーパーバックで買うのも場所を取るし…と思い導入した。なかなか読み進められないが、わからない単語については、簡単な辞書が付いているので、なんとか読める。青空文庫もこれで読める。最初に買った洋書がなかなか読み終わらないので次々DLできているわけではないが、今こんな感じになっている。

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和書も、講談社の選書メチエ、学術文庫、現代新書。さらにちくま学芸文庫、以前と比べても、徐々に新刊が出たら読みたいなと思うタイトルが着々と揃いつつある。青空文庫もこれで読んでいる。講談社学術文庫の古いものも電子化されていて、徳富蘇峰の『近世日本国民史』が読めるのには少々驚いた*2

一年以上前に、なんだか電子書籍ストアの品ぞろえが駅のキヨスクっぽく感じるときがある…などと書いた不見識を恥じそうな勢いである*3。ともかく、かなり充実してきている印象があり、そのうち、初めて買ったCDは何ですか?というようなノリで、初めて買った電子書籍は何ですか?という話を人としたりする日がそう遠くない将来にきそうだな、と思ったりもした。


デジタル化された資料(史料)を閲覧する。

自宅以外ではネットにはあまりつながないのでwifiモデルにしており、もしつなぐ場合はiPhoneを使ってテザリングすることにしている。

近デジの資料で、「ここは使う」と思ったコマについては、その場では入力するのが難しい。読むのと入力するのは普通同時にできないからである。そこで私はしおりの代わりにはてなブックマークに登録するということを以前からやっている。

とくに最近、無料版でも非公開ブックマークが出来るようになったので、[要入力資料]とか、嫌ならば[あとで読む]という良く使われるタグを設定して非公開でブックマークし、後でまとめてタグから呼び出して見るということは出来そうである。フルスクリーンモードなら、二段組みだと少し厳しいが、全体を一画面に収めた状態でギリギリ読めると思う。

ただしこの場合、印刷する(PDFを作る)ボタンの左隣にある「URL」のボタンを押し、てコマ数まで表示させたURLで登録しておかないと、1コマ目に強制的にリダイレクトされて泣く羽目になるので、注意が必要である。

その場合、iPadで開いた画面は、ちょうど習字のお手本のように、キーボードの左わきに置きながら、端末に入力すると具合がよさそうである。個人の感想ではあるが、やってみた印象では、タブブラウザを複数開いたり、または当該部分を印刷するより使いやすい気がするが、iPadミニだと無理かもしれない。

なお、アジ歴や『日本外交文書』はまだ試していない。


どこが電子化するか?

ちょっと前になるが、東北大学の原田隆吉という図書館情報学者の「日本史研究学生へのレファレンス」という論文を読んだ*4。これはアメリカの日本研究学生への紹介として、どういう文献があるかを紹介したものなのだが、「日本史研究の文献的構図」として、

1.いわゆる入門書、便覧

2.総合的成果

  全集・雑誌・論文 ―専門書

  概説・通史・講座 /

3.第二次資料

  索引 ―書誌

  事典 /

4.第一次資料

  復刻原典―原資料

といった区分を設けた上で、さらに日本史研究の実際的場面を説明するために、次の図が紹介されていた。

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この図は、本文の記述に従えば、定説化しようとする動き(=統合系)と、定説に対して自説を展開しようとする(=独立系)2つの系列が存在することを図示したものなのだそうだが、学校教育や時代考証などで、ある歴史的事実を調べたい人の論文ニーズと、ある説を打ち出すために、先行研究を網羅的に収集したい論文ニーズの二つがあることを示している点で秀逸だと思う。ちなみに、原田の専門は日本思想史で、村岡典嗣の弟子筋にあたるらしい。

さて、この図でいうと、私はちょうど上の方と下の方をiPadでどうにかし始めている気がする。普通、図書館情報学でいうところの研究資源の電子化となれば、オープンアクセスにしろ何にしろ、真ん中の部分を指していうような気がするのだが、してみると私はただひたすらに時代に逆行しているのであろうか…。


だいたい以上なのだが、やはり例によって書いてみるとうまく使いこなせていない部分が多々あるように思える。整理も考えたいので、ご助言などいただけたら幸いである。

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と、書いたら、lib-musさんがさらに違った使い方を書いてくださいました。

こちらも参考になります。ありがとうございます。

(だいこんさんのブログの影響を受けて…)わたしの研究とiPad - lib-mus’s blog

(2014/1/13 4:35追記

*1:八割…いや九割方、なんでも形だけやった気になって満足してしまう私の性格の問題であろうと思う。

*2amazonの情報によると発売日が2013年10月になっているので、もしかするとこのときにkindleストアに登録されたのだろうか?

*3:書評紙『週刊読書人』に関しては、電子書籍アプリが存在するらしいことも、本記事執筆後に知った(2014/1/13 4:41追記)。

*4:原田隆吉「日本史研究学生のレファレンス」東北大学附属図書館編『図書館学研究報告』10号(1977)