国民国家・ナショナリズム・図書館

先日出席した勉強会で、とある友人から

国民国家を構成する図書館、という視点に対し、図書館屋はあんまりにも無自覚すぎるんじゃないか?」

ということを言われた。それを聞いて、「そうだなあ」と思ったのだが、勉強会全体の議論が明後日の方向に行ってしまいそうなところがあり、その場では議論できなかったので、後だしの宿題ということで、少し応答をしておきたいと思って書く。

 

いわゆる国民国家論については、私が学生時代だった頃は結構流行(そして大学院を中退する頃には徐々に終息・・・)の気味があったのだが、今回のその話を受けて、少し調べてみたら、以下のようになっていた。

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NDL-OPACでタイトルに「国民国家」を含む雑誌記事を検索して集計したものである。

1990年以前は、いわゆる国民国家論の文脈とは違うと思われるので除外した。また、雑誌記事索引自体が限定されたデータベースで、採録されていない紀要類もあるので、万全とは言い難いが、一定の傾向はわかるだろう。

2003年がピークというのは、私が修士論文を書いていた年でもあって、その頃が全盛だったというのは、実は私の実感に合致する。

図書館員が国民国家の在り方に本当に無自覚なのかはしばらく措いておいて、ただ、同僚などと話していると、「国民国家」という単語が出てもあまりピンと来ていない反応が返ってくることが多いのは確かである。文学の人でも、近代を専門にしていなければやむを得ないことだろう。

そこでちょっとだけ整理しておく。

国民国家とは何かについて。まず、一般に国家とは、「国家とは、一定の地域内に住む人間集団が、生命の安全と生活の保障を求めて、また外敵の侵入を防ぐために形成した政治的共同社会*1」を意味するが、そのうち17世紀のイギリス市民革命期を通じて形成され、今日のあらゆる国家形態のモデルとなったものが国民国家(Nation State)と解されている。国民国家とは、「確定した領土をもち国民を主権者とする国家体制およびその概念*2」であるとされる。

ある時代社会の評価にあたって、国家がどういう特質をもっていたかというのは、重要な要素である。国家論の類型には、たとえば「中世封建国家」→「絶対主義国家」→「近代国民国家主権国家、民族国家)」という発展図式がある。こうした国家観が、制度によって保障されるのか、経済基盤によって支えられるのか、あるいは構成員の意識によって支えられるのかによって、近代社会の評価は全く異なってくる。近年は人々の意識に焦点があてられる比重が高まっていると考えられる。

講座派と呼ばれる、経済構造の発展段階に応じて統治形態を把握する唯物史観に準拠した戦後歴史学の古典的な認識では、戦前の大日本帝国では、主権者は天皇であって国民ではなかったのだから、たとえ帝国主義的な植民地政策をとっていても近代国家ではありえない。ゆえに絶対主義国家である。おおよそそのような方向性で、実にこの国家形態の性格規定にかなりの知的資源が投入された。そうした認識に学びつつ独自の思想史像を模索した丸山真男もまた、1945・8・15以降に到来すべき新たな国民国家(Nation State)を、日本では未だ達成されない目標=「近代」として、理想的に描いて見せた。

〔新装版〕 現代政治の思想と行動

〔新装版〕 現代政治の思想と行動

ところが、こうした「近代」の捉え方自体が次第に変わってきた。要因としては、開発の進行によってもたらされる公害や資源問題という全地球的な環境問題の発生、または旧植民地の国家としての独立、あるいはフェミニズムの思想潮流など、差別・抑圧されてきた存在からの異議申し立て、などがある。これらが複合的に絡み合って、70年代~80年代以降、そもそも「近代」は目指すべきバラ色の時代なのかという疑問が呈されるようになってきた。

そして、こうした考え方が浸透するにつけ、「近代」に生きる人々が持つ「国民」という意識、そこから出発する近代ナショナリズムの考え方が、スタート時点では仮に身分制社会から解放された自由な主体を志向するものだったとしても、言語・宗教・趣味等の文化的な領域において、結局別な次元で少数者に対する抑圧を行ってきたのではないか。近代を理想として掲げることで、逆に問題が隠ぺいされてきただけなのではないか、という疑義が出されるようになってきた。

 

この疑義を補強したのがベネディクト・アンダーソンの「印刷資本主義」と「想像の共同体」の考え方だった。アンダーソンは、「国民」という概念を

国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体(an imagined political community)である。(ベネディクト・アンダーソン、白石さや・白石隆訳『増補想像の共同体』(NTT出版、1997)p.24)

と定義している。

乱暴にいえば、まさに下部構造(経済基盤)に支えられた国家論から、心(想像)に支えられた国家論への転回である。そして、その成立の前提として、出版に用いられる「出版語」がラテン語の下位、俗語よりも上位の領域に、登場したことの画期性を強調した上で、次のようにいう。

人間の言語的多様性の宿命性、ここに資本主義と印刷技術が収斂することにより、新しい形の想像の共同体の可能性が創出された。これが、その基本的形態において、近代国民登場の舞台を準備した(同上書、p.86)

これを、フランス革命明治維新の比較研究等を念頭に置いて歴史学の議論に援用し、1990年代以降の研究潮流をつくったのが西川長夫氏をはじめとする論者だった。

国境の越え方―国民国家論序説 (平凡社ライブラリー)

国境の越え方―国民国家論序説 (平凡社ライブラリー)

幕末・明治期の国民国家形成と文化変容

幕末・明治期の国民国家形成と文化変容

西川氏の議論でよく参照されるのが、「日本型国民国家の形成」論文にある

  1. 経済統合としての交通網、土地制度、租税、貨幣・度量衡統一、市場…植民地
  2. 国家統合としての憲法、議会、集権的政府―地方自治体、裁判所、警察―刑務所、軍隊
  3. 国民統合としての戸籍―家族、学校―教会(寺社)、博物館、劇場、政党、新聞
  4. 国民的シンボル、モットー、制約、国旗国歌、暦、国語、文学、芸術、建築、修史、地誌の編纂
  5. 市民(国民)宗教―祭典

という国民統合の前提となる諸要素の問題提示と、

国民統合が旧制度下の古い共同体から放逐あるいは解放された諸個人の身体にまで及び、旧制度下の住民とは根本的に異なる別種の人間(国民)への変容をせまるのは、さまざまな側面における「国民化」を通してである(西川「日本型国民国家の形成」『幕末・明治期の国民国家形成と文化変容』所収、p.30)

という空間・時間・習俗・身体を通じた「国民化」=文明化の議論である。

こうした観点から、日本史のなかでも、近代国民国家形成への移行が盛んに論じられるようになった。たとえば江戸時代において、藩という閉じられた空間で生活していた人々が、維新を経て、ごく短期間のうちに愛国心をもった「国民」に変貌していくのか、という探求が各方面で進められていった。代表的なのを一つあげれば、牧原憲夫氏の「客分」から「国民」という図式であろう。

近年では、国民国家論は批判にさらされることの方が多い。むしろその後のイラク戦争で出てきた「帝国」論に押され気味である。また、ナショナリズムの捉え方自体も、結構変わってきている印象がある。歴史学でも2000年前後はいざしらず、今日では「主流」とはおそらく言い難いだろう。

ただ、ごく個人的な意見として、国民国家論が歴史学や隣接領域に齎した大きな意味が一つあったすれば、それは文化史への貢献だろうと思っている。つまり、文化史という、独自ジャンルとみなされるか、あるいは歴史学の傍系に追いやられていた言語、文学、芸術やミュージアム、シアターなど文化領域に関わる事象が、近代化のプロセスにおいていわゆる政治史にも劣らない重い意味をもつのだと示したことは、国民国家論の学問上の意義の一つだったように感じている。「文化ナショナリズム」という分析概念の登場も、国民国家論の背景抜きではおそらく語れないだろう。

日本の文化ナショナリズム (平凡社新書)

日本の文化ナショナリズム (平凡社新書)

それをどう昇華するのか、と言われると腕組みして立ち止まってしまうのが現状なのだけれど。

さて、ここまで書いてようやく本題なのである。


西川氏の議論でも「博物館」は割とイデオロギー装置として取り上げられることが多かったのだが、実は「図書館」が無いのであった。アンダーソンがあれだけ「出版資本主義」を強調したにも関わらず、なぜ図書館との関係は触れられないのだろう、という疑問は、図書館史の勉強を初めて以来、私自身もひそかにずっと持っていた。だから冒頭の問題提起に「そうだなあ」と思ったともいえる。

2010年には(もうみんな忘れていると思うが)「国民読書年」という行事があり、イベントなども盛んに行われた。私がたまたま聞いた松岡正剛氏の講演会で、氏がアンダーソンの出版資本主義に言及していたので、「何故今更」と思う反面、でもどこか新鮮に聞こえた、というのは、結局のところ国民国家と図書館の関係がクローズアップされていないことの証左なのかもしれない、と今では思う。


もちろん、研究がないわけではない。

たとえば、国民国家形成にあたってアーカイブズが設置されていく過程の検証のなかで、図書館の歴史が参照されることもあった。

国民国家とアーカイブズ

国民国家とアーカイブズ

また、本ブログでも再三引用している、私が一方的なファンの永嶺重敏氏は<読書国民>という分析概念を用いて、図書館が黙読という「近代的」習俗を作りだしたことを書かれている。

また高梨章氏にも、フーコー前田愛を意識する形で、往時の帝国図書館の抑圧的な側面を描き出している*3

図書館・アーカイブズとは何か (別冊環 15)

図書館・アーカイブズとは何か (別冊環 15)

東條文規氏も戦前の図書館が戦勝記念または御大典記念事業として設置されることが多かったことをかなり追いかけている。

図書館の近代―私論・図書館はこうして大きくなった

図書館の近代―私論・図書館はこうして大きくなった

図書館員もイノセンスではない。むしろ戦争になると「文化」保護なり、情報政策の一環として、中国から大量の典籍をもちかえってきたことが最近の研究で明らかにされている。

日本軍接収図書 ―中国占領地で接収した図書の行方―

日本軍接収図書 ―中国占領地で接収した図書の行方―

そうすると、問題は次の点である。研究があるにもかかわらず、図書館と国民国家の関係が、広範にとらえ返されている印象があまりないのは何故なのか。

それは一つは、残念ながら図書館史自体のマイナーさ、発信力の低さによるものかもしれないが、これとは別に、図書館員の意識の問題もあるのではないかという気がしている。以下、酷い図書館員批判になってしまうので、非常に言いにくい問題なのだけれど、ただ、うすうす感じていることを、あえて戯画的に書きだしてみると、以下のような傾向がありそう(あくまで、ありそう)に見える。

  1. 外国の資料だって集めている、という自負が、ナショナリズムへの免疫をなくしている。
  2. 思想傾向として、自分はリベラルorコスモポリタンを自任している。
  3. 図書館は戦後民主主義のもと、権力に対抗する装置、民衆のための存在として無料で資料を貸し出し、機能してきたのだからナショナリズムなんてとんでもないことである。戦前のような思想善導機関ではないのだ。
  4. そもそも戦前の教育政策のなかで図書館は傍系に追いやられ、概して待遇も悪く、県立図書館長より中学校の先生のほうが給料が良かった。つまり図書館はむしろ戦前の政治の被害者なのだから、それを悪いと言われても認められない。
  5. 図書館は価値中立でないとやってられないのだから、何かの思想にコミットするというのはそもそも職業倫理に反する。

 これは戯画である。戯画なので、ここから私は自由であるといって真逆の図書館員がいたら、またそれはそれで付き合いにくくて困ってしまいそうなのだが、ただ、図書館資料論の教科書に必ず載っている例の船橋の事件なりを思うと、この戯画にはみんな当てはまらなくて大丈夫、といい切れるだろうか。図書館が被害者だった論、にしても、それゆえに普通の行政に寄り添っても駄目だと見切って、御大典記念事業に取り入った上に、外地で散々好き勝手やったではないか、と言われたら、切り返せるのだろうか。

 図書館史をひも解いていると、むしろ図書館史研究では権威主義に抗したリベラルなはずの人たちが、実にナショナルな意識に支えられている事例だってある。

「図書館ヲシテ飢エタル民衆ニ対スル「心ノ糧」ノ給与所タラシメ、真ニ精神文化ノエルサレムタラシメル」

「伝統的象牙ノ塔ニ閉ヂ籠モリ、挙国的一致協力ヲサヘ図ラウトシナイノハ、実ニ痛嘆ノ極ミ」(青年図書館員聯盟「宣言」『圕研究』第一号(1927)所収p.100)

 前にも聞いたことがあるが、図書館ごとに分類法・目録法が異なっている状況下で、規格統一したいといって日本十進分類法を作ろうと思った人たちに、ナショナリズムが無いと考えるほうがおかしいし、それを時局のせいにして、「心ならずも」そうした、と解するのは曲解かもしれないではないか。

 日本史の院生から図書館の世界に飛び込んだ時、主観的に結構大きな変化だったのは、「国民国家」という単語を使わなくなったことだった。院生時代はゼミでもなんでも使わない日はなかったような気がするが、図書館員になってからは使う日がなくなった。冗談のような話だが、本当のことである。

 

 冒頭の問題提起を踏まえると、いかに理論系の話題が苦手でも、言い訳ばかりしていられないと思い、メモ代わりに少し論点整理を試みたのだが、どうも院生のレジュメ未満のような出来になってしまい、我ながら辟易している。

 きちんとした学説上の検討の前提になるメモということでご容赦いただきたいが、「ナショナリズム」を「健康」とか「不健康」の二分法で称揚したり拒絶したりするのではなくて、むしろその「飼いならし方」が追求されなければならないのではないか、といった論点も出てきている現在の時点において、国民国家と図書館の関係が、もし変容しているならしているでその帰趨を見極めておかないと、これから図書館のオーソドキシーを語るのは難しくなっていくのではないかな、と漠然とした不安は、今確かに私の中にある。

歴史という皮膚

歴史という皮膚


(2012/6/26追記

はてなブックマークに寄せられたコメントを読んでいて、この本が抜けているのでは?という指摘があって反省した。

近代日本における読書と社会教育

近代日本における読書と社会教育

これについては別に読書メモを書いたことがあるので、そちらを参照いただけると幸いである。

ただ、一言言い訳しておくと、近代化の特徴という点と、図書館に注目する内務省や文部省の対抗関係などについて詳しく述べられているが、ナショナリズム論に対する評価というのは、本書の場合あまり中心的な評価軸にはなっていないように私には感じられた。

書いたあと思い出した文献について、少しだけ本文にリンクも張ってみた。しかし、締まらないオチではある。。。

*1:田中浩「国家」(日本大百科全書)による。

*2:清水知子「国民国家」(日本大百科全書

*3:高梨 章. 俯瞰する出納台--帝国図書館論. 現代の図書館.. 32(4) 1994.12. p274~286 ISSN 0016-6332も参照