次世代デジタルライブラリー以後の歴史研究

NDLの次世代デジタルライブラリー、機械が文字を読み取って明治大正時代の資料まで検索できるということですごいものになっている。『樗牛全集』に関しては事実上全文検索ができるようになってしまった。

そんななかで次の記事を見た。

 
 

自分が書いている文章は別にして、基本的に我々はすでに誰かが読んだものを読んでいる。その誰かはこれまで人間だった。しかし国立国会図書館デジタルコレクション時代から感じていたことなのだが、今はあらかじめ機械が読んだものを人間が再読する時代になってきている。それをなぜ人間が再読するのかっていうと、今のところは読んでなにかを考えたり感じたりするからだと思う。ただし例えば明治三五年から四〇年までに書かれた小説の中から、面白い作品を機械に選択させることもできそうだとは考えている。(上記「次世代デジタルライブラリーとのつきあいかた」山下泰平の趣味の方法 より)

 

 

「デジタル化された資料を扱う文系の学問のあり方自体が変化してくるような可能性も感じている」というのは、おそらくそうだろと思う。というより、変わらなかったらおかしいかもしれない。

著者は『舞姫』の主人公ぶん殴りに行く明治の小説を発見して紹介して本まで書いた、間違いなく日本で最もデジコレを使い倒している方の一人だと思うので、その方の発言には考えさせられるものがある。 

 

 

 

 

ぼんやりと思ったのは、デジタル化された資料が研究素材の中心になっていき、研究者がそれをふんだんに利用して論文を書き、さらに若い世代がごく自然にそのような研究方法を当然のものとして受容していくと、現在図書館や文書館や博物館に入ってなくて埋もれてる史料は研究の主流からものすごいスピードで見捨てられていくのでは…ということ。古本屋で出ればいいけど、それはごく一部だろうし。

 

先日、自分の論文でも書いたが、ジャパンサーチで見つかる「史料」も、いま保存機関に入っていなければどうにもならないのであり、ネットを活用して史料を読んでいるつもりが、実はAIが見るべき資料を提案してくるようになったら、機械に史料を読まさせられている歴史研究っていうのは何なのか。幸福なのか不幸なのか。などと考えてしまった。

 

ジャパンサーチと歴史研究

本務校の紀要にこういう論文を書いた。

ジャパンサーチと歴史研究―日本近代史分野での活用を中心に―」『城西国際大学大学院紀要』25号(2022年3月)

ちょっと前に図書館史の勉強会で発表した内容を修正したもの。

 

歴史学である以上、史料は原本を見なければどうにもならないはずだ。という考えを一方に持ちつつ、そうはいってもコロナ禍でオンラインでの論文指導を余儀なくされていて、ネットで見つけた「史料」の扱いをどうすべきなのかについて、学生に、「少なくともこのくらいはやってほしい」というのを伝えるために書いた研究ノート。慌てて書いたので文は粗く、あまり練られていない。

研究者に向けて、いくつか意識した点(あまり明示的に書けていないかもしれないが考えていたこと)。

  1. デジタルアーカイブについて、初登場したころの2000年前後の近デジとかのイメージを引きずってると、今は全然違うので捉え損なってしまうおそれがあること(東日本大震災などを転機として2010年代に大きなうねりがあったこと)。文書館機能の電子版=デジタルアーカイブと考えない方がいい。

  2. 図書館情報学において「アーカイブ」(アーカイブズではない)は、理念としては、誰かが残すために集め、整理するプロセスが不可欠なものと定義される(根本『アーカイブの思想』参照)。歴史研究者はそのデータの一部分に、史料批判を加えて研究に使っているにすぎない。

  3. ジャパンサーチ以後、とにかくデジタルアーカイブには何かしらの単語を入れれば昔の本などのコンテンツが出て来るようになったのだから、そのなかから何を選び出すかが研究者の腕の見せ所。

  4. デジタルでも刊本でも歴史研究者は用いる史料を自分で批判して使うべきなので、その成果があまりよくないとしたら、責められるのはデジタルコンテンツの提供元機関ではなく、論文を書いた当人。

  5. 歴史研究者は、ジャパンサーチは第一次的な「史料」発見ツールとして使うことができると思う(コンテンツを「史料」にしていくためには、その後研究者の目での史料批判していく作業が必須として)。論文などの文献探索はNDLサーチで棲み分ければよいと思う。図書館のレファレンスサービスだとノイズが多いと嫌がる図書館員もいるかもしれないが、まさしくその点こそが研究者が使うべき点。そこに何かありそうだったら他の人に代わってでも全ての情報を確認するのが(とくに歴史では)研究者の仕事に思える。何が使え、何が使えないかをよく見極めて歴史研究のなかでも「史料」の検索ツールとして活用したらよいと思う。

 

 

 

 

 

ユーザーガイド含め、ちょっと最近新しくなったらしいので、まだまだ活用していきたい。

 

レポートの段落冒頭1字下げ問題考

f:id:negadaikon:20210128005540j:plain

 

 学生向けに、日本語のライティング指導をしている大学教員にはなじみ深い話題であろうが、卒論やレポートの添削をしていると必ずぶつかるのが、文章の書きだしや、改行後の次の段落の冒頭を1字分あけるルールの不徹底である。

 レポートの教科書にはだいたいそうしろと書いてあるが、概ね、見やすさからそのようにすると書かれてはいるものの、いつからそのようにするのかというような立ち入った 説明はない。

 

 

 レポートの書き方入門の定番になりつつある?『アカデミック・スキルズ』のレポートの巻も、最初から字下げは当然のことのようになっているし、親しみやすい文章でおなじみ『論文の教室』などは、改行が多い司馬遼太郎の文体を模写して段落とパラグラフの違いを論じているが、段落の冒頭は一時下げにしてください。という余りにも基本的なことは省略されている。主人公の作文ヘタ夫君は改行したら次の文章の冒頭をちゃんと1字あけているのである!

 

新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス)

新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス)

  • 作者:戸田山 和久
  • 発売日: 2012/08/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

 「それが日本語の文章のルールだ」「小学校の作文の時に原稿用紙の使いかたで習っていないか?」などといってみても、留学生には通じない。

 

 ある先輩に教えてもらったところによると、中国語圏では二字下げが標準であるらしい。私など、二字下げだと今度は地の文と区別した引用の表記のようになってしまう感じがするが、色々考えてみると、あやふやである。

 

 現時点で多くのWeb記事はこのような文章規則に準拠していないし、考えてみたら、私だってもはや電子メールで改行した後の字下げは行っていない。小・中学校の作文の授業では今どうなっているのだろうか。

 

 私の経験の範囲でいっても、「字下げ」というときの「下げる」という感覚的な表現が全く通わっていないように思われ、何人からから質問される。「横書きの文章を書き始めるときに一番左から全角1文字分スペースを取って書き始めること」だよ、といえば、何人かは納得してくれるが、それでもなお、それなら「字開け」でいいのではないか、と言いたそうな顔をされることがある。

 

 

 このことを考えるうえで非常に示唆に富んだ本に、石黒圭『段落論』(光文社新書、2020年)という本がある(後半は日本語学の学説史における段落評価の話もある)。

 それによると段落の一般的定義は、 

段落とは、形態的には、改行一時下げで表される複数の文の集まりであり、意味的には、一つの話題について書かれた内容のまとまりである。こうした段落という単位があることで、読み手は文章構成を的確に理解できるようになる。 

 とのこと。

 

 

 

 形式上と意味、そして段落の機能から定義していてわかりやすい。同書ではこのデジタルネイティブと紙の書籍のルールの伝統に親しむ世代との対比にも触れている。

 例えば同書には、Yahoo!ニュースは一字下げの伝統を守っている、という指摘がある。はっとして確認したら確かにその通りであった。

 

 さらには若い世代がLINEなどでマルを付けることを「冷たい印象を与える」として嫌うこと、日本人が感覚的にマルを付けるところに中国人はテンを置く等、思い当たる指摘が多々あり、とてもためになった。

 そうしてみると、やはり、断絶しているのは、文章を縦書きで活字で組み、印刷されたものを読むというカルチャーだろう。

 

www.youtube.com

 ※ある印刷所の作業風景動画。図書館史の授業などで重宝している。

 

 

 Webメディアではもはや段落のまとまりを1行あけによって表示することが標準になっていると思う(このブログでは原則段落冒頭は1字下げにしているが、行間を明けることも見やすさの関係から多少使っている)。

 このような記事もある。

www.bscre8.com

 

 まとめるなら、Webの文章は余白をふんだんに使えるので見やすさを追求すれば改行していけばよく、行を明けずにいちいち字下げしていくほうが煩雑なのだろう。

 これに対し紙は、紙を無駄にしないことを原則として、行をあけるのは極力抑え、段落冒頭を1文字分空けることになる。

 

 

 いつからこうなっているのだろうか。

 印刷(しかも木版ではなくおそらくは活字による)の普及によるものだろうとは容易に想像がつくものの、それがいつどのようにして始まったのかが気にかかる。

 

 江戸時代の版本などでは、改行後の字下げなどはない。大きさがそろっている活字による印刷が始まってから、段落の冒頭を見やすくするために字下げが始まったのであろう。

 

 鈴木広光『日本語活字印刷史』はこの問題に触れていて、

 

日本語のテクストが句読点の使い分けと段落始めの行頭の字下げによって分節され、構造化されるようになったことも、明治の活版印刷術以降に進んだ標準化の産物である。とはいえ、活版印刷術導入とともに直ちに行われるようになったわけではない。活字書体がジャンルや文体を表象することがなくなってくる――活字書体に何かを表象させようとしなくなる、といったほうが正確か――明治二〇年代以降、ちょうどそれと入れ替わるように、移行期ゆえの共存を見せながらも、句読点の使い分けと行頭の字下げは徐々に印刷物の版面に登場し、定着していったのである(p.266)

 

という。 ある種、近代になって「創られた伝統」化した段落冒頭の1字下げ。

 

日本語活字印刷史

日本語活字印刷史

  • 作者:鈴木 広光
  • 発売日: 2015/02/15
  • メディア: 単行本
 

 

 ただもちろん大正期に出た文章指南の本ですら、改行後の字下げを行なっていないものもある。

dl.ndl.go.jp

 

※ついでにいうと、この本、口絵の落書きがひどい。中村敬宇先生になんてことをするんだ。 

f:id:negadaikon:20210128004220j:plain

『作文軌範』より

 作文における段落の利用法について、国立国会図書館のデジタルコレクションで見ると、いくつか見つかるが、明治35年(1902)の『今体文章活法』には、段落の項目はあっても、それを字下げせよと言うルールはないらしい。

f:id:negadaikon:20210128010237j:plain

丹羽三郎『今体文章活法』(誠進堂、1902年)改行はしているが字下げはしていない

 

 

 明治37年(1904)に国文学者で歌人の武島又次郎(羽衣)が書いた『作文修辞法』なる本が見つかる。

dl.ndl.go.jp

 

 「早稲田大学卅七年度文学教育科第二学年講義録」とのシリーズ名を持つ同書によれば、段落については、次のように述べられている。

 

思想のまとまつてきた時には、そのまとまつたといふことを知らせるために何かのしるしをしなければならぬ。それ故に言語があつまつてきて、あるまとまつた思想となる時ににはそのしるしとして句点といふものを切る。その分があつまつてきてあるまとまつた思想となる時には、そのしるしとて、初めの行は一字おろしてかき、終の行は半分であらうと三分の一ばかりであらうと、とゞまるところで止めておく。而して次の段落はまた一字あけた新たなる行もてかきおこす。これが実に形から見た段落のしるしである(65~66頁)。

 

f:id:negadaikon:20210128004340j:plain

武島羽衣

 

 ここでは、文章に句読点を打ち、さらに文が段落を為した際に、それを区切って、冒頭部分を「一字分おろしてかき」というルールが定められている。

 

 今度は漢文学者の久保天隋が、2年後に出た『実用作文法』(実業之日本社)のなかで次のように「段落とは何ぞや」の意義を説明している。

 

蓋し思想のまとまりしときには、そのまとまりしことを知らす為に、何等のしるしを付するを至当とし且つ便宜とす、要は読者に指示を与ふるの効あればなり、ゆえに言語聚合して或るまとまりし思想となる時には、その記号として、句点を附し、その文が聚合して或るまとまりし思想となるときには、その記号として、行を改め、又欧文の式に倣ひ更に見易からしめむが為に、初の行は一字を低くし、以下何行に亘るとも、行数に限りなく、唯だ行の終の行は半分なりとも、三分の一なりとも、又唯だ一字なりともその止まる処にて止めて、余白を存し、而して次の段落は又一字を低くせし新なる行より書き始む。これ形の上より身たる段落の切り方にして読者のすでに自ら為すところ(107頁)

 

  云々、と。なるほど、明治30年代ごろに発行された本は似たようなことを一斉に言い始めたのだな。というか、これは何というかほとんど先の武島の文章の真似でははないか。

 

dl.ndl.go.jp

 

 

 そう思って段落の冒頭を見ると、なんと説明用に引用している例文(富士谷成章伝)まで同じなのである。ちょっとびっくりした。いいのだろうか(二人とも筑摩書房の『明治文学全集』では同じ巻に収まるような近い存在の人ではあるけれど…)。

 

 

 

f:id:negadaikon:20210128004459j:plain

武島『作文修辞法』(早稲田大学出版部、[1904年])

 

f:id:negadaikon:20210128004600j:plain

久保『実用作文法』(実業之日本社1906年

 絶対見て書いてる。ちゃんと引用のときは引用の形式を守るんだぞ。コピペするなよと言っている手前、ちょっと困るのだが。

※ただ、久保のほうに登場する、「欧文の式に倣い」という点はちょっと面白い気がする。欧文を「蟹文字」という意識もまだあったであろうなかで、敢えて蟹になろうとする。明治維新後「智識ヲ世界ニ求メ」なければ、段落冒頭の1字下げ書記文化は生まれなかった(かもしれない)ということか...。

 

 

 1906年刊行、歌人の大和田建樹による『文章組立法』(博文館)には、思想の切れ目によって段落を設ける必要はあるが、特に段落の冒頭をしるしとして1文字分低くせよと言う風には書かれていない。NDLにも全部無いようだが、全部刊行されたのかどうか、「通俗作文全書」などという叢書を発行していたことにも驚く(24冊も出す気だったのがさらに驚く)。

f:id:negadaikon:20210128004716j:plain

大和田『書簡作文法』広告のページ

 

 明治30年代から、中学校が拡充し始め、さらに少年たちの間で競い合うように雑誌投稿ブームが訪れた時代になって、文章規範もやや整備されたということであろうか。さきの広告にある「文明社会の人は皆文を以て互に意思を通じつゝある者と謂ふべし」がなかなか胸に迫る。

 

 

  本格的に調べたわけではないので、ちょっと始期などはずれる可能性が大だが、おおよそ、日露戦争後に模索され定着したかに見える段落冒頭1字下げの記法は、100年余りの時を経て、変質というか後退を余儀なくされているようである。

 しかし卒業論文が論文である限り、「ですます調」で書かれることもないだろうとも思われ、ある程度の形式は「作法」として、維持されるのかもしれない。

 

 私としては、指導をしながら、レポートの段落冒頭1字下げ日本語の常識だから直せ!というのは、日頃、当たり前を疑え!みたいなことを言っている口で、日本の文化や思想の歴史に関わる教員がそのまま言うのはなんか違うのではないかなあと思いながら、学生に伝えるための言い方を考えていたところだった。

 

 卒論やレポートは教員が印刷して読む可能性が高いので、そういうものは印刷文化を尊重した形式せよ、と言えばいいのかなとも思ったのだが、可能性の話では弱い。

 そんなときに、さきの『段落論』の著者の石黒氏が、紙の文章は最初から最後まで順番を守って読むことを想定したフルコースの料理のようなもので、Web文章は時間がない中で好きなもの、必要なものを取り分けても構わないような形で読むアラカルト、ビュッフェスタイルと表現しているのが目に留まり、これは秀逸だと思った。

 

 要は、論文とレポートはカジュアルではなくフォーマルなものだ、というのでもいいのかもしれない。式典のドレスコードのように。

 そんな風に思えてきたところであったが、学生には、果たしてうまく理解してもらえるかどうか。

 

補記

 そういえばちゃんと論文を調べてないなと思ってCiNiiで探してたら、こういうのがあった。未見だが、2009年ではどう言われていたのか。いまとどう違うか、少し気になる。

ci.nii.ac.jp

 

2020年に出た本で印象深かったもの

f:id:negadaikon:20201221223349j:plain

コロナ禍でいままで経験したことの無いような年の暮れです。緊急事態宣言が出る以前のことは、なんだか今年の事だったか去年の事だったかすら記憶が曖昧で…。皆様もくれぐれもお気を付けください。

大学ではオンライン授業のため、在宅で仕事をする日が多くなり、いままで通勤時間におこなっていた読書ができなくなり、結果として、あまり本が読めなくなるという逆説的な状態になりました。そんななかで読んで考えさせられたもの、印象に残ったものなどをランダムに挙げていきます。

お送りいただいたものでご紹介できないものもありますが、ご容赦ください。

 

関わらせていただいたものでは、恩師の編著であるこちらが。 

官僚制の思想史: 近現代日本社会の断面

官僚制の思想史: 近現代日本社会の断面

  • 発売日: 2020/05/22
  • メディア: 単行本
 

また、兄弟子による外交文書の読み方を指南する本も刊行されました。あとがきの集中的な執筆の仕方を読んで、私にはマネできなかもしれない…と戦慄したことも記しておきます。

 

近代日本の外交史料を読む (史料で読み解く日本史 3)

近代日本の外交史料を読む (史料で読み解く日本史 3)

  • 作者:熊本史雄
  • 発売日: 2020/03/03
  • メディア: 単行本
 

 

また、『日本思想史事典』も刊行されました。 私は「思想の流通と出版文化」という一項目を書かせていただいたのですが、従来の思想史から連想されるようなテーマだけでない幅広く社会史的なトピックも網羅しているのが、この事典の特徴なので、文化史などに興味がある人は必読かなと思います。 

日本思想史事典

日本思想史事典

  • 発売日: 2020/05/02
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

 

昨年来、歴史学関係では、歴史学者がやっていること、暗黙知を対象化して、いわゆる「みえる化」を推進しようといった趣の本が増えているような気がしていたのですが、おそらくそうした系譜の延長上にある東大連続講義『歴史学の思考法』も、興味深く拝見しました。

これが学生時代にあったらどれだけよかったろう、と思ったくらいですが、まさに2020年の研究の論点を、幅広く初学者に伝える内容になっていると思います。

東大連続講義 歴史学の思考法

東大連続講義 歴史学の思考法

  • 発売日: 2020/04/25
  • メディア: 単行本
 

 

近代日本研究では、『明治史研究の最前線』が出ました。拙稿も取り上げていただいて大変おどろくとともに、恐縮しました。 

明治史研究の最前線 (筑摩選書)

明治史研究の最前線 (筑摩選書)

 

  

また、明治については『明治が歴史になったとき』がいくつ重要な点を整理し、取り上げているように思えました。とくに憲政資料室の話は、初めて知ったことが多々あって非常に刺激を受けたりして。学生時代『日本近代史学事始め』を初めて読んだときのことなどを思い出したりしていました。

明治が歴史になったとき (アジア遊学248)

明治が歴史になったとき (アジア遊学248)

  • 発売日: 2020/06/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

新書も2020年は、豊作だったのではないかと思います。

私が聴いた範囲では、コロナで自宅にいる時間が多くなったから執筆が進んだという方もいらっしゃるようでしたが、それはともかく、まとまった執筆の時間が作られたことが、優れた成果の誕生に貢献したところがあるのかもしれません。

 

読んで勉強になったのは、『メディア論の名著30』。これは著者が、「読書人としての「私の履歴書」」と書いている通り、高校時代から始まって著者の研究の歩みに関わるエピソードが随所に挟まれ、佐藤メディア史が立ち上がっていく過程を追いかけていくようになっています。

 

メディア論の名著30 (ちくま新書)

メディア論の名著30 (ちくま新書)

 

 図書館史にも役立つこと間違いなしですが、自分の勉強不足が急速に自覚されて、急遽これからちょっとずつノートを付けようという決意まで抱きました。 

f:id:negadaikon:20201118055110j:plain

 

 

メディア史の成果としては『「勤労青年」の教養文化史』が、1960年代の勤労青年たちの知的教養に踏み込んでいました。これは、同じころ日図協で進められていた図書館運動とリンクさせながら読むとさらに面白くなるのでは?という期待もあります。

「勤労青年」の教養文化史 (岩波新書)

「勤労青年」の教養文化史 (岩波新書)

  • 作者:福間 良明
  • 発売日: 2020/04/18
  • メディア: 新書
 

 

 

 

 

『世界哲学史』などのシリーズがちくま新書から出たのは、インパクトがありました。いままでの各国思想史にない切り口だからです。それぞれの地域の専門家たちが同時代の出来事を集めて書くという編集スタイルも興味深かったです。

 

 

 

例えば宇野『民主主義とは何か』では、ismでないのに「主義」と訳された「民主主義」の展開について、思想史上の系譜をわかりやすくひらいて説明してくれています。個人的には本筋と全然関係ないところで、そうか世が世なら社会主義に共感してたかもしれない反エリートの人が、社会主義に幻滅したからポピュリズムに行くことがありえるのか、という発見がありました。

 

民主主義とは何か (講談社現代新書)

民主主義とは何か (講談社現代新書)

 

 

中公新書だと『五・一五事件』『民衆暴力』『板垣退助』など力作が多数刊行されています。『民衆暴力』からは、記録を残さない(残せない)まま、歴史の彼方に忘却されそうな人々の声をどうやって救っていくか、ということも意図されているようで、いま、この時代だからこそ出さなければならないという著者の意志が感じられた気がしました。

 

民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代 (中公新書)
 

 

 

 ほかに、講談社現代新書でもいくつか。 

 

なおこの小林、最新の論点を網羅しながら書かれていてすごく勉強になったのですが、さらに同書のあるトピックについて、今年刊行された『昭和陸軍と政治』が批判するなどしていて、軍事史研究の最前線がどんどん進んでいるのだな、と、感じました。

 

 

 

ほかに新書では白黒の写真をAIで彩色してくれるサービスがありました。この写真集は凄いなと思いました。

 

図書館史について、私が読んだ中では、これでしょうか。博士論文の書籍化で、戦前の日本の図書館の利用者のすがたを様々な資料を駆使して追いかけています。利用者から見る図書館という視点は、アメリカなどでは、すでに『生活の中の図書館』などで新聞記事などからある程度探求されているのですが、日本の場合は緒についたばかりという感じです。

 あとはメディア史に直接関係するものとして、印刷博物館の『日本印刷文化史』もあげられますね。長いスパンで日本の印刷文化史を概観しています。

日本印刷文化史

日本印刷文化史

  • 発売日: 2020/10/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

それと、今年本当に感銘を受けた本という意味では、たぶん『社会を知るためには』。「社会学者がいかなる「社会」イメージを持っているのか」という切り口から転回される議論がわかりやすかったです。ちくまプリマ―新書は今年とくに凄いんじゃないかと思った次第です。

社会を知るためには (ちくまプリマー新書)

社会を知るためには (ちくまプリマー新書)

 

 

ほかにも、村木さんの公務員の働き方についても、前職でのあれこれを思い出しつつ、静かに胸を動かされる思いをいだきながら読んでいました。

新しい部署に異動したとき、「役人の頭」になる前にその分野の本を読む努力をしていたくだりとか、大切なことだよなあと感じます。

 

公務員という仕事 (ちくまプリマー新書)

公務員という仕事 (ちくまプリマー新書)

 

 

村木さんが本に書かれていることの多くは、実は、歴博でやったジェンダー展のメッセージとも響き合うように思ったのです。

youtu.be

 

 

 漫画では、『鬼滅の刃』が完結しましたね。映画もなんだかすごいことになっています。自分の親の世代が知っているというので、今までのアニメの枠を超えた気がします。

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

結局最終巻まで読んでしまいました。本誌連載時から描き加えられたページが、この物語の主旋律と個人的に思っている「継承」「受け継いでいくこと」をより際立たせているような感じになっていて、印象的でした。

出版史的にも注目すべきことなのかと。

natalie.mu

 

漫画だと、読書×ヤンキーギャグマンガという、異色の組み合わせの『どくヤン!』もおかしかったです。読書家のこだわりって何かしら滑稽なところがありますよね。

 

 

Mr.childrenに関する長期取材をまとめた本が出たときもすぐに買って一気に読みました。ミスチルを愛する喜びに満ち溢れた本でした。桜井さんがボイトレに通い始めた話にびっくりしました。

Mr.Children 道標の歌

Mr.Children 道標の歌

 

 

 

年末にはギャラリーフェイクの35巻が出ていてほんとうにびっくりしました。

 

 

美術と言えば、『眼の神殿』の文庫化も驚きました。

 

 

 

 

2020年は、コロナ禍のなかでのオンライン授業に明け暮れた1年だったような気がします。 

 

コロナで予定していた調査に行けなくなったこともありますが、今年は、歴史学者が史料を残し、それらと向き合うことの必要性と意味を、改めて感じた1年もあったように思います。

 

なので関西大の菊池氏のこの記事は、私は大きな共感と共に読みました。

current.ndl.go.jp

 

公文書管理の問題も、コロナの記憶を将来にどう引き継いでいくかも、いま良ければとりあえず良いというたぐいの問題ではないように思えます。

 

公文書危機 闇に葬られた記録

公文書危機 闇に葬られた記録

 

 

 

オンライン授業になって一番戸惑ったのは、論文指導でした。メールやSlackでなんとかできるだろうと思いつつ、口頭で伝授していた方法(ショートカットキーやら、細かい添削の意図やら、校正記号の使いかたやら)を抜きで、いきなり修正原稿を学生とやりとりしても、なかなかうまくいかない。

 

レポートの書き方の授業でも、その辺をまた一から考え直す機会となりました。今年出たレポート指南の本では、以下にあげるものが優れていたと思います。 

 

大学1年生の君が、はじめてレポートを書くまで。

大学1年生の君が、はじめてレポートを書くまで。

  • 作者:川崎昌平
  • 発売日: 2020/04/10
  • メディア: 単行本
 

オンライン授業下でレポートや卒論を書くというところから、現役学生(立教の4年生)が自ら本を書いたというのもあって、「頼もしいな」と思うと同時に、こういう暗黙知の可視化は、私の中でも課題かなと思いました。WordやExcelPowerPointのほか、オンライン授業の受け方まで書いてある実践的な書です。

 

 

大学で導入するっていうので慌ててTeamsの勉強もしましたね…。

 

 

Microsoft 365 Teams120%活用術

Microsoft 365 Teams120%活用術

 

 

 

 

オンライン授業だと勢いネット頼みになるのですが、丁寧に「調べ方を教える」ということも、 難しさを感じました。そのようななかで、図書館を活用した本がいくつか出たことは、大きなヒントになりました。

 

浜田著への私の書評はこちらを

ci.nii.ac.jp

 

その点、『実践 自分で調べる技術』は、Cinii以上に、とくにNDLサーチを強く推しているのが印象的でした。たしかに今の外部連携の状態なら著者の主張にも筋が通っているかな?と思ったりしたところです。

実践 自分で調べる技術 (岩波新書)

実践 自分で調べる技術 (岩波新書)

 

 

来年はどんな年になるのでしょうか。

やりたくてできなかったこと、つい忙しさを理由にサボってしまったこと、心残りを数え上げればキリもありませんが、自分にできることをやっていくしかないなと考えています。

 

時節柄、みなさまもくれぐれもご自愛のほど。そしてよいお年をお迎えください。

オンライン授業(ブログ講義)事例

  • この記事は、オンライン授業の事例紹介です。
  • 2020年度春学期 城西国際大国際人文学部の「歴史・文化の視点」の授業のうち1回分を、「思想史研究の事例―もの言う読者たち―」と題して行った回の一部改変です。
  • 改変を加えた個所は授業出席のフォーム(Googleformを利用しました)や連絡事項、授業外で使用するのが微妙と思われる図版などですが、内容についてはおおむねこんな感じです。
  • なお、講義内容は以下の図書掲載の拙稿「読者―「誌友交際」の思想世界」に基づいています。

 

近代日本の思想をさぐる: 研究のための15の視角

近代日本の思想をさぐる: 研究のための15の視角

  • 発売日: 2018/11/14
  • メディア: 単行本
 

 

 (以下、本文)

続きを読む

オンライン授業でちょっと困った話―ゼミ編

前回の続きです。前回の記事はこちら。

negadaikon.hatenablog.com

 ブログ講義の一方で、あんまりうまくいかなかった気がするゼミの記録です。同時双方向型でテレビ会議を使って実施しました。

 どの辺を改善していくべきか、まとめてみたいと思います。

 

f:id:negadaikon:20200803002148j:plain

かわすみさんによる写真ACからの写真

進め方の概要

 ゼミでは文献要約の発表を、担当者を決めて順番に行ってもらいました。基本は各回の1人発表→質疑応答→まとめ という流れです。

 ゼミの連絡はSlackを使用していました。

 資料(レジュメ)の共有はSlackで事前に送付してもらい、また画面共有は教員の手元で行なうか、発表者に操作してもらったんですが、そもそもWordの縦長のドキュメント自体が見づらいようでした。PowerPointスライドならいいのかもしれませんが、日本史の研究発表でPowerPointを使ったことがないので、私もどう作ればよいかうまく指導できませんでした。

 

  また、同時双方向の授業で、強制的にカメラをオンにしろということに私の中でどうしても心理的な抵抗感がありました。顔出したくないっていう学生もいましたし(画面の向こうでおやつ食べたりさぼってると困るんですが)。

 最低限のルールで、「発言者だけは顔表示をオンにするように」としたのですが、どんな顔でみんなが聞いているか見えないなかで、議論を活発化させることは、残念ながらできませんでした(家のネット環境が悪すぎて、コンビニのイートイン席で飛んでいるWi-fiをつかまえに行った話も本当にあったと聞いています。)

 うまくやっている方がどういう形で学生との信頼関係を構築しているか、私も知りたいです。

 

図書館が使えないなかで

 毎年前期は先行研究の文献要約をやることを課題としているのですが、勢い大学の図書館が使えなくなると、みんなネット情報だけでなんとかまとめようとします。当初、まあそれはしょうがないかなと思っていたのですが、そこで見えてきた、ちょっと大きめな問題点として、以下のことに気が付きました。

 

 もちろん、一概には言えないと思うのですが、ネットの無料情報だけで議論を構築した学生の発表は、共通してどうも議論の水準が古いということが気になったのでした。

 古いというのは、自分が大学に入ってから勉強したこと。90年代後半から2000年代以降に話題になったテーマが全然見えてこないというような意味であります。それ、最近研究あるんじゃないの?みたいなことです。 

 

 私はゼミの初回や第二回めなどで、テキストの要約なので、出てきてわからない単語は調べるようにということは話しておきました。また、無料のコトバンクの辞書の利用についても一通り教えています。

 あとはこのページを紹介したりとか。

negadaikon.jp

 

  今回、テキストに指定して読んだ本は岩波の『日本の近現代史をどう見るか』でした。たまたま1990年代以降の歴史学界で盛んに議論された国民国家論、総力戦体制論を総括するような日本近現代史の入門書だったというのが大きいかもしれませんが、例えば総力戦体制論という単語が出てくると、レジュメにはコトバンクで『世界大百科事典』の「総力戦」の項目の説明が引用されている。でもそれは総力戦の説明であって、総力戦体制論の説明ではないわけです。国民国家論についても似たようなリアクションでした。

 ジャパンナレッジですら「国民国家論」の検索結果はありませんって出ますからね。

 

 ということは、1990年代以降の学界で議論されてきたことがざっくり抜けていることになり、30年分の研究蓄積が全然反映された議論になってこない、ということになります。

  この本に書いている成田龍一氏の区分に従うとすれば、「戦後歴史学―民衆史―現代歴史学」の三区分のうちの、現代歴史学の部分の評価がそのまま消えている、ということでしょう。 学生は学生で、制約のなかで頑張ってくれたとは思っているのですが、そのことを話したうえで、以下の本も読んでほしいと伝えました。 

 

 私自身、これは気づいたときちょっと衝撃で、「いや、ネットで調べてるんだから新しい情報は手に入っているだろう」とぼんやり思っていたので、ちょっとぶん殴られたような気持ちになりました。文献と文献、学説と学説、何が新しくて何が古いのか、ネットの検索結果だと情報の関連性だけでフラットに表示されてしまいます。全部比較する努力を学生がしてくれればいいですが、急いでいたら、時間がなかったら、とりあえず上のほうにあるやつで済ませるでしょう。

 もちろん、それだと困るわけです。研究史の場合、関連性じゃなく、時系列でマッピングする能力が、情報を読む側にあらかじめそこそこ備わっていないと、学問的に有意義な議論を組み立てることが、ほとんどできなくなってしまいます。

 

 これは、私が学生だったころは、図書館のOPACもカタかったし、だいたいタイトル順か時系列順に並び替えて表示させるくらいしかできなかったので気にならなかったのですが、むしろデータがリッチになればなるほど、コツとして知ってないと情報に振り回されてしまう。私のときより今の学生のほうがたぶん大変なんです。 

  

 だからどういうサポートが有効かを考えるしかないのですが、適宜参考図書を教員側が適宜シェアしていくしかないんでしょうか。

  例えばこれとか

戦後歴史学用語辞典

戦後歴史学用語辞典

  • 発売日: 2012/07/09
  • メディア: 単行本
 

 

 これとか(自分も書いているのでなんですが、大変有益です)。 

日本思想史事典

日本思想史事典

  • 発売日: 2020/05/02
  • メディア: 単行本
 

  目次はこちら

https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/?book_no=303592

 

 

 なぜネット上では過去の学説が温存されるのか

 とっくに学界で否定された説が、なぜかネット上だと都合よく編集されたりしながら息を吹き返して使われていたりする例もあるんではないかと思いますが、何でこういうことが起こるのか、少し考えてみました。

 

日本史用語集 改訂版 A・B共用

日本史用語集 改訂版 A・B共用

  • 発売日: 2018/12/15
  • メディア: 単行本
 

  仮に、ネット上の研究水準が30年前だとすると、まず高校までの日本史教科書の内容と親和的なことが予想されます。だからごく普通に高校の日本史選択者に気づかれない。

 明治20年代の北村透谷や『文学界』グループ、30年代の与謝野晶子とかを、とりあえず一括りにして「ロマン主義」と評価して済ませる近代文学や思想史の研究者はもういないと思いますが、2014年に出た山川の『日本史用語集』だと全ての日本史Bの教科書に載っている重要語句になっている。新しい説はよほど決定的なのものでなければ評価として定まっておらず、教科書に入ってこない、というのがあると思います。

 

 無料の論文だってあるんだから、それを読めばどうにかなりそうなものではないかとはいえます。ただ研究史の流れが理解できていないとそれも難しいように思います。

 一応、私の担当授業のなかで、史学史の話もすることはあるのですが、勤務先は史学科ではないので、カリキュラム上、その授業を取らなくても私のゼミに参加することは可能です。その場合の専門性って何かということにはなるのですが…そもそもキーワードとして認識できていなければ論文を探すこともできないわけで、結果、総じて研究史全体への目配り発表が散見されました。

 

 こうなると発表者の報告後、私が史学史や研究動向についてまとめたり補足したりしているうちに時間が過ぎてしまい、学生同士が議論し合うのとは何かちょっと遠い雰囲気になってしまいました。

 むろん、授業を仕切る私の力量不足は否めないのですが、もうちょっと根深い背景として、ネット上の人文系の知識が新しくならないということがあるように思いました。

 

大学1年生の君が、はじめてレポートを書くまで。

大学1年生の君が、はじめてレポートを書くまで。

  • 作者:川崎昌平
  • 発売日: 2020/04/10
  • メディア: 単行本
 

  今年出た川崎昌平『大学1年生の君が、はじめてレポートを書くまで』(ミネルヴァ書房)という本のなかでは、インターネットでは今のことがよくわかる反面、弱点として「過去の言葉や思考」があまりカバーされていないという点があげられています(34ページ)。だから図書館で、過去から現代へ、どういう風に議論が発展してきたかを調べることが大事という話につながっていくのですが、いろんなサイトが立ち上げられるなかで、新しい情報なのか古い情報なのか、初見でわかりにくいというも問題もあるのではないかと思います。

 

 また、最近出た浜田久美子『日本史を学ぶための図書館活用術』(吉川弘文館)に、印象的な話があります。それは、2010年からジャパンナレッジで参照可能となった『国史大辞典』より、紙で出ている2009年刊行の『対外関係史辞典』のほうが、記述が新しいものがあるということです・もっとも『国史大辞典』の著者が故人となっている場合、国史チルドレンである『対外関係史辞典』でも、項目をそのまま継承して改訂されていないものがあることにも著者は注意を促していますが。辞書を引く側が、これはいつ頃の記述だろうかと、たえず意識する必要があるということだと思います。

 

f:id:negadaikon:20200803002920j:plain

 

 コトバンク収録の辞典が改訂されているのかどうか、完全に把握できていませんが、『日本大百科全書』や、『世界大百科事典』が、CD-ROM版が出されたときのテキスト化したデータの流用ということであれば、更新されているものがあるとしても、1980年代か新しくても90年代の情報ということになるでしょう。参考文献で新しいものが増えているかどうか。この20年分の研究は、辞書だけだとわからないことになってしまう。もちろんコトバンクには、『知恵蔵』のほか、順次改訂が加えられているコンテンツも入っているようですが。歴史学上の概念などはどうして弱いように思えます。

 

 Wikipediaの記事の改定も含め、個々人で努力している研究者がいることはもちろん承知しておりますし、大学図書館なども努力して所属機関の紀要などを精力的に電子化していることも知っていますが、Wikipediaの項目でもコトバンクのみに依拠した項目がないわけではありません。

 最新の知識が辞書の形で売り物になっている以上(そして図書館で購入されたりする以上)、図書館も使わずにネットだけで仕入れられる知識はどうしても「型落ち」した古いものに寄ってしまうという現実は見据えないといけないように思えてきました。 

 情報はタダではない。情報を検索しているつもりが、いつのまにか検索させられている。ということに注意を促すのには、猪谷さんの本でも指摘がありましたね。

その情報はどこから? (ちくまプリマー新書)

その情報はどこから? (ちくまプリマー新書)

 

 

 

 そのことに気づいた日、学生向けにSlackに次のように書きました。

「今日改めて思ったことは、無料のネットの辞典は、便利なんだけど、下手をすると2,30年前の紙の辞書のデータをそのまま使っていて、更新されていないんですね。Wikipediaも、専門家が紙とネット両方を使って書いていればいいけれど、ネットだけで調べて情報を更新していると、むしろ研究史では批判されつつある30年前くらいの学説が温存されてしまう。発表も同じですね。図書館が使えない中でどうやって準備するのがいいのか、難しいなと思いました。本も買ってほしいけど…(中略)ネットで調べた後、その根拠は何か、何年ごろの議論なのかを確認する癖は付けたいですね。」 

 

 

 我々がネット上で色々な資源が検索できるように努力すべきなのはその通りだとして、しかしながら今の大学生の在学中に劇的に改善するということはないと思われます。また、すべてネットで調べられるときに、どのくらい学生の調べることへのモチベーションは高まるのか。図書館が閉まっているなかで考えると、何が正解かよくわからなくなってきたところがあります。Twitterにも書いたのですが、今の偽らざる心境です。

 

 どうするか?

 一人ひとり指名して全員にコメントを求めるということもできたかなと反省しています。毎回、発言してくれる学生がいて、それはそれで助かったのですが、特定の人に偏りがちではありました。

 ネット上の著作権を気にしなくていいということなら、自分の過去の論文を順番に批判的に読んでもらうということをするということはできたかもしれません。まあその場合、学生の知識の範囲に偏りが出てしまい、また違う意味で困る可能性があるのですが。

 あとは共通の資料を全員に予習してきてもらい、教員側で資料を画面共有して、学生を順番に指名して正しく読めるか読み上げてもらい、その解釈を問うとか、そういった使い方ならもう少しどうにかなったかもしれないなと思いました。

 そのほか、とにかく学生に新書など一般向けの研究成果の新しいところを少しでも多く読んでもらうようにすることでしょうか。

 

 非常に悩んでおります。

オンライン授業(オンデマンド型)をやってみた話―講義編

f:id:negadaikon:20200730225448j:plain

ぐっとぴさんによる写真ACからの写真

 オンライン授業の実践について、やったことの記録を備忘のために書き残します。この教育効果については、半期だけでどれだけの成果が出たかは議論しにくいとは思うので、その評価は置いておきます。

 

 いわゆるオンライン授業には、①テレビ会議を使った同時双方向型というのと、②授業資料をダウンロードして期限までに課題に取り組むオンデマンド型というのと、2種類があります。

 私は講義系科目は全部オンデマンド方式で実施しました。

 最初は昨年度の授業で使用したプリントとPowerPointのスライドをPDFにして大学のLMSにアップしようかとか、スライドに音声を吹き込んで動画化し、個人で取得したYoutubeアカウントにアップしようかとか、色々と考えたのですが、スマホで受講する学生が通信制限が来たときに、それでも重いのではないか?と考えて、家族と話しているうちに閲覧にパスワードがかけられるブログ形式がよさそうだという結論にいたり、この方式を採用しました。

 URLも検索除けしており、知らない人は閲覧ができないようにしています。

 

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/043/siryo/__icsFiles/afieldfile/2018/09/10/1409011_6.pdf

 オンデマンド授業は、一応要件がいくつかあって、上のリンク(PDF)によると 

  1. 当該授業を行う教員若しくは指導補助者が当該授業の終了後すみやかに インターネットその他の適切な方法を利用することにより、設問解答、添削指導、質疑応答等による十分な指導を併せ行うことが必要
  2. 当該授業に関する学生の意見交換の機会の確保が必要

 

となっていました。自宅で受ける学生に課題を投げっぱなしにするなという趣旨だと思います。

 1については、出席をGoogleフォームで取るときに合わせて質問を募集し、集計後可及的速やかに匿名でブログ上に回答を乗せることで解決しました。

 2は、大学のHPに掲示板を作るとか、LMSとかにコメントができるようになっていれば十分なのだそうですが、授業連絡用でLINEオープンチャットを作り意見交換の機会を確保しました(確保しただけであんまり機能しなかったのと、ちょっとそのほかにもデメリットはあったので、後述します)

 

 こんなブログ授業。学生も、最初は、なんじゃこりゃと思ったみたいなんですが、終盤になると意外に好評だったので、秋学期もオンラインで授業をする方の参考にもしなるのであれば幸いです。

 

f:id:negadaikon:20200730225832p:plain

ブログ画面(サンプル)

 

ブログ授業・概要

  • ブログは、使い慣れているのではてなブログを利用しました。
  • 1科目につき1つブログを作成しました。
  • 授業なので広告を入れたくないなと思い、有償版にアップグレードして使いました。
  • そもそもリンクを知らなければブログにたどり着けないのですが、更に、ブログの閲覧にはパスワードを設定しました。このパスワードはLMSを通じて学生に周知しました。念のため学生にも第三者への配布を禁じる指示を出したので、機密性は保持できたかと思っています。
  • オンデマンドの場合、授業資料は授業開始48時間前までに余裕をもって配信するように大学から指示があったので、前々日の午前0時の配信を基本にしました。火曜授業の場合は、日曜になったら見られる状態にしておくということです。
  • ブログは、前年度の授業プリントをベースにして、講義録を文字起こしする形にしました。
  • できるだけ写真や図版、参考となるサイトへのリンクを盛り込みました。出所が確かなものは(著作権法に抵触していないものを確認して)Youtubeの動画も入れました。昨年度作成したPowerPointスライドがある科目は、スライドをJpeg形式で出力し、要点を書きだしたスライドを文章中に図版として挿入することで、授業の実況中継をしつつ板書も再現するような見え方になったみたいでした。
  • 授業プリントはPDF化して、LMSを通じて学生に配信しました。
  • 毎回、出席確認用にGoogleフォームを作成して、記事の末尾にリンクを貼りました。氏名、学籍番号、所属などを入れてもらうほかに、出席を確認するための最低限の小テスト(4択クイズ程度)を付しました。長文を「読む」こと自体を課題としてとらえました。期末課題も出すので、講義中の課題は極力少なくすることを方針にしました。忙しければ読み飛ばす人が出てもやむを得ないが、その人は期末でしんどくなるだろうという考え方です。

 

ブログ授業・良かった点

  • 資料の提示のしやすさ。普段の対面授業で使いにくいウェブコンテンツ、動画へのリンクなどがふんだんに貼れました(通信量の負担はあるので、参考資料として位置づけ、見たい人だけ見ればいいということにしていました)。でも文章の途中に動画があると気分転換になったようです。あと、CiNiiなどでPDFがある論文へのリンクを貼ったりとか、資料を見せるときに国立国会図書館デジタルコレクションへのリンクを貼るとか、対面だとあとで読んでおいてね。としか言えないところをもう少しフォローできる点では魅力を感じました。
  • 普段耳で聞いていると何ていったかわからなくて素通りしてしまう単語が、繰り返し読むことでちょっと意味がわかってきた、という感想が複数ありました。板書が出来ない代わりに、目で見て理解が深まるケースはあったようです。
  • 復習しやすいという声は多数もらいました。
  • はてなブログの場合、はてなキーワードの存在が思いのほか威力を発揮しました。専門用語の解説にはコトバンクなどネット辞書へのリンクも示したのですが、それ以外にも、難しい単語の意味にリンクがあって助かった、みたいな感想が散見され、思いがけずよかったことの一つでした。
  • 自分の好きな時間に早く終わらせて、通常の授業時間にほかの科目の課題に充てられて助かった。などペース配分にも貢献したらしいのは良かったです。そうでなくても課題が多そうなので少しでも負担を減らせればと思っていました。
  • 質問のフィードバックがしやすい。答えるのはそこそこ大変ですが、全質問に回答でき、その答えを返せるというのは、「何聞いてもいいんだ」という雰囲気の醸成には役立ったようでした。対面授業の通常の時間内で回答しているとどうしても全部にこたえきれないので、この方式は良かったと思っています。対面に戻った際にも、授業参考ブログとして使えるんじゃないかなと思いました。

 

ブログ授業・残った課題

  • 対面がいいという要望に最後まで答えられなかったのはしんどかったです。長文を読むのが苦手な学生に力を付けてほしいと思ってしたのですが、耳から聞いたほうがよく理解できる子は一定数はいると思われ、この方式が万全ではないとは思います。留学生も、わからないところは適宜コピーして翻訳にかけてくれればよいのですが、どの程度理解できたか、評価が難しいです。
  • 学生の意見交換の場として、ある程度匿名で会話できるLINEオープンチャットは良さそうに思えたのですが、携帯電話の契約などによって入れないという学生からの問い合わせが相次ぎ、本格運用を断念して、LMSで流している情報とほぼ同じお知らせを流す状態になった点は課題を残しました(全員が参加していればよいのですが、チャットに入れる学生と入れない学生で試験などの情報に偏りが出てはまずいため)。格安の携帯電話を契約している者のなかには留学生が多く、一番細かい連絡が必要な人に届けられない難しさを感じた次第です。
  • 準備しんどい。講義録を書き起こすというと簡単そうなのですが、よく言われるように1分間に喋れる文字数が300字として、それを単純に90分に拡大して文字換算すると普通の論文一本を超えます。そんな字数は毎週書けないし、学生も読めないと思ったので、途中途中に参考文献やサイトへのリンクをはさんで、それぞれ参照してもらうことにして、1回あたり平均8000字前後書くことにしました。多い回には1万字も超えていたと思います。それでも最後に終わったときに1科目10万字近くなっていました。

    f:id:negadaikon:20200731092210p:plain

    Wordで下書きを書きました


    3科目分講義を持ったので、30万字書いたことになります。1科目あたり新書1冊分の少なくとも情報量は出せたかと思いますが、毎週綱渡りでした(ただその話は同時に、一部の学生側にはこの担当教員が授業準備をしっかりしている、という風に伝わったようではあります)。
  • コミュニケーション不足。どうしてもメールなどでのやり取りになるけれど、質問してくれる子はまだ対応ができるのですが、そうでない子にどうしたらいいか?というのは悩ましいです。
  • 出席確認用にGoogleフォームから自動返信の拡張機能を使ったのですがG Suiteの有償版にしないと受講者が多い科目では、全員分カバーできないらしく、結局、今日出席届いていますか?という質問対応に追われることになりました。付けないほうがよかったかもしれません。
  • 講義系科目だからできたわけで、いくつか耳にしましたが、演習(ゼミナール)で活発な議論をするとかも私はできませんでしたし、史学科の古文書学とか、オンラインで成立させるのはかなりむずかしいんじゃないかという気はします。授業の性質で合う合わないが凄くあると思いました。