大学1年生に一読を勧める本のリスト

図書館を退職して大学教員になって、4か月が終わろうとしている。なんだかあっという間だったが、学生さんの顔を見ていると元気が出てくるもので、授業は上出来とはいえなかったかもしれないが、どうにかここまで来ることができた。

図書館勤めの経験を活かそうと思い、出来るだけ本を紹介しようとしていたら、1年生などから、おすすめの本を教えてほしいというリクエストがあったので、このリストをごく簡単にしたものを授業でも紹介したが、こちらには補足も兼ねて書いておく。あわよくば使いまわしたい。


「大学生」「本」「おすすめ」のキーワードでググってみると、たくさんのキュレーションサイトなどが見つかるが、現役学生が作ったのか、あるいは社会人が作ったのか、人文系のものよりも、ビジネス書や自己啓発系の本が多めなのが気になった。それも良いのだが、もうちょっと大学生のうちに、とくに人文系の人が腰を据えて挑む系のブックリストがあってもよいのではないか。とも思うのだった(昨今の大学生が例えば20年前と比べても非常に忙しい生活を強いられていることを知った上でなお。)。

自分が大学教員としてどの程度信頼されうるかにもよるが、情報過多の時代にあっては、身近な人が都度つくる個性的なブックリストが、専門分野により多少偏っていたとしても、有用なものになりうるという気がする。


最近出た、大澤聡さんの『教養主義リハビリテーション』は、良書なのだが、まだちょっと難しい気がする。脚注は丁寧についているが、学術書を読みなれていない1年生だと、まだ言葉になじめないのではないか。第4章のまとめは、4年間卒業まで人文系で行こうと思う人は一度読んでおいた方がいい文章だと思うけれど、太刀打ちできるようになるまではほかの本を読んで語彙や知識を蓄えたほうがいい。

教養主義のリハビリテーション (筑摩選書)

教養主義のリハビリテーション (筑摩選書)


以下、独断と偏見による1年生向けの本のリストである。読書好きな人はとっくに読んでいて面白みがないと言われそうでもあるが、これから試験が終わって夏休みに入る学生さんたちがこのなかの1つでも2つでも読んでくれるといいなという願いを込めつつ。


学問論

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 大学で学ぶということの考え方について、千葉雅也『勉強の哲学』(文芸春秋社、2017年)では、大学での勉強で知っておいた方が気楽になるいくつかの心構えが説かれる。大学ってそもそも何なのかということについても、いくつか新書がある。

大学とは何か (岩波新書)

大学とは何か (岩波新書)

 何で勉強するのかということを少し古典から考えるとすれば、福沢諭吉学問のすすめ』とか、ウェーバーの『職業としての学問』(最近新訳が出た)を、読んでみるのもアリだと思う。

学問のすゝめ (岩波文庫)

学問のすゝめ (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)


読書論

 千葉さんが取り上げている本で、読書に関するものとしては『読んでいない本について堂々と語る方法』も、教養についての考え方を広げてくれると思う。

 読書については、ほかに永江朗『本を読むということ』(河出文庫)がある。

 永江さんの読書方法、おそらく全部真似するのは多分無理だと思うが、とっつきやすい読書術の参考として、自分もやってみようかなという手法は取り入れていくといいのではないだろうか。

 読書術に関しては『本を読む本』や加藤周一の『読書術』など、挙げていくときりがない。松岡正剛佐藤優の対談本『読む力』なんていうのもある。

読書術 (岩波現代文庫)

読書術 (岩波現代文庫)

 読んだ本を何らかの形で記録に残しておくというのも良い方法である。本は、必然的にたくさん読んでいくことに迫られるが、そうすると絶対に前の内容を忘れるものである。色々なやり方があるが、カードに書くのならば梅棹忠夫『知的生産の技術』とか、『読書は一冊のノートにまとめなさい』、あと佐藤優の『読書の技法』などがあろうか。

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

読書は1冊のノートにまとめなさい[完全版]

読書は1冊のノートにまとめなさい[完全版]

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

読書の技法 誰でも本物の知識が身につく熟読術・速読術「超」入門

 ただ、読むことの玄人というべき人たちの本の読み方は、ハッキリ言って、物書きになるつもりでもなければ参考にはならないと思う。「ここまでやらないといけないのか」では、読書のモチベーションが削がれてしまうので、「こんなことまでやる人がいるのか」と思いつつ、興味深い方法があれば取り入れるくらいのつもりで十分だと思う。

 やりすぎてしまった読書記録については、原田宗典『お前は世界の王様か』にサンプルがある。私が好きな本の一つ。

おまえは世界の王様か! (幻冬舎文庫)

おまえは世界の王様か! (幻冬舎文庫)

 小説家となった著者が、大学生時代に付けていた読書カードを20年ぶりくらいに読み直して悶絶し続けるエッセイ。それぞれの大作家への入門でもあり、また、各自の読書記録の付け方の参考にもなると思う。


 そういう意味で読書苦手な人向けの読書術としては、いかに効率的に本を読むかを追求した『理科系の読書術』というのもあるが、人文系の人はここから出発してもう少し発展的に頑張ってほしい気もする。

ライティングについて

大学生になってレポートを書く経験をするとなると、やり方がわからなくて困ることが多々あると思う。私の場合、教科書として『アカデミック・スキルズ』を活用させてもらっているが、それ以外でレポートの書き方本を探すと大量にあって、また絞れなくなる。

こういうのは好みによって当たりはずれがあるではあるが、もし1冊選べと言われたら、古典である『レポートの組み立て方』を推す。

レポートの組み立て方 (ちくま学芸文庫)

レポートの組み立て方 (ちくま学芸文庫)

木下是雄さんは『理科系の作文技術』も名著で、最近はまんがでわかる本も出ているので、こちらを読んでも良い。事実と意見の区別など、文章の基本が書いてある。

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

あとは『論文の教室』。作文がヘタな学生が実際に登場して、対話形式で欠点を直していくというもの。会話のノリで好き嫌いが分かれそうだが、わかりやすさでいえば、近年の論文の書き方系の本では優れているかなと思う。

新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス)

新版 論文の教室 レポートから卒論まで (NHKブックス)

ちょっと専門的な分野への入門書

2年生や3年生になってより専門的な勉強を始める前に、読んでおいた方がいい入門書のようなものは、分野ごとに存在する。『●●学入門』とか『●●学概論』のような本がそれである。ただこういう入門書もハードカバーの想定で結構ゴツくて、手ごわいということもあると思うので、さらに手に取りやすいものでお勧めなものをいくつか取り上げる。

井出英策・宇野重規・坂井豊貴・松沢裕作『大人のための社会科』(有斐閣、2017年)は、歴史や社会科学に関心がある人におすすめ。

言葉と文化の深い結びつき、特に言葉が現実を作っていくことについては鈴木孝夫『ことばと文化』(岩波新書、1973年)は、外国語を本格的に学習するときに役立つ考え方を教えてくれると思う。

ことばと文化 (岩波新書)

ことばと文化 (岩波新書)

新書にはすぐれた入門書が多い。

著名な学者の自伝なども、その分野を専攻しようとするときのヒントになる。私が高校から大学にかけて読んで影響を受けたのが、阿部勤也『自分のなかに歴史をよむ』だったりする。

自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫)

自分のなかに歴史をよむ (ちくま文庫)

ほかにも歴史学者は色々な自伝風の新書を出している。

日本近代史学事始め―一歴史家の回想 (岩波新書)

日本近代史学事始め―一歴史家の回想 (岩波新書)

日本史についてより深く知るための漫画もある。映画化された『この世界の片隅に』は未読の人はぜひ原作も読んで、日本の近代史について考えてほしいが、他にも日本の近代を舞台にした漫画作品もたくさんある。明治時代を扱った『王道の狗』とか。夏目漱石をめぐる人物群像を描く『坊ちゃんの時代』とか。


日本の思想について、自分が1年生から2年生にかけて読んでいてとても影響を受けた本も何冊か。

明治の文化 (岩波現代文庫)

明治の文化 (岩波現代文庫)

たぶん私が一番最初に読んだ本は色川大吉『明治の文化』だったのではないかと思う。民衆思想という独自の立場からの記述が、タイトルから予想していた内容と少し違ったのに驚いたりしたのだが、マイナーな人物の生き生きとした造形に心惹かれるものがあった。

近代日本思想案内 (岩波文庫 (別冊14))

近代日本思想案内 (岩波文庫 (別冊14))

鹿野政直『近代日本思想案内』(岩波文庫、1999年)については、明治時代以降の日本の思想・文化の著作についてこれ以上コンパクトにまとめた本は現時点で存在しないと思う。このなかから日本の有名な作品を探ってみたい人のガイドとして活用できそうに思う。日本の思想全体であれば苅部直『日本思想史の名著30』もあわせて読みつつ、各章末の書誌事項を手掛かりに原典へとうつっていくのがよいと思う。

日本思想史の名著30 (ちくま新書)

日本思想史の名著30 (ちくま新書)


おまけ(図書館の活用術)

個人的に、本はある程度は身銭を切らないと内容は見につかないと思うが、どれがいい本でどれが悪い本か、自分の中に基準が出来上がる前にたくさん買うのが良いかどうかは、一概にいえないと思う(買って損したと思うことも重要な経験なのだが、いかんせん、新書も多角化しすぎて当たりはずれはわかりにく過ぎる)。自分に合わない本を高いお金を払って買う必要もないだろう(本を嫌いになってしまったり、いずれ手放す可能性があるからだ)。そういうときには図書館を活用して、自分に合ったものを厳選して集めていくのが良いと思う。

図書館の使い方も、有効な使い方があるのを知っているのと知らないのとでは雲泥の差が出る。大学生は、分類の0の棚に行くと図書館関連本のあまりの多さにびっくりすると思うが、使い方に慣れれば良い読書体験ができる可能性がぐっと広がる。井上真琴さんの本などを見ながら、その点も意識してほしい。

図書館に訊け! (ちくま新書)

図書館に訊け! (ちくま新書)

日本の検閲に関する本についてまとめ

 少し前から必要があって集中的に検閲とか言論統制に関わる本を読んでいたら、友人に検閲についてわかりやすくまとめた本は無いものかと聞かれ(なにやらtwitter言論統制の歴史がちょっと話題になったようでもあり)、まとまっているもの、となるとすぐに思いつかないのだが、万全でなくても、読んだことがあるもの、知っているものをまとめておけば後日の役に立つかもしれないとふと思いついた。

 検閲というと新聞や図書などの出版物にかけられた統制がまず思いつくだろうが、例えば郵便物の検閲という問題もあり、そう話は単純でない。

 

調べ方の前提

ネットで検索すると多数見つかって絞れないので、研究者の成果公表やレファレンスブックから抽出することにする。組み合わせるのがベターなのはいうまでもない。

まず、参考文献だが、早稲田大学の20世紀メディア研究所が提供する検閲研究ウェブサイトの文献紹介のページに載っているものはかなり参考になりそう。

そのほか、出版、マスコミ、ジャーナリズム関係ということで、以下の文献目録のなかにも、検閲、言論・表現の自由、出版統制などのキーワードで引っかかるものがないか探してみると、論文は相当な数が存在していることがすぐわかる。

 以下も参照されたい。

 ふつう、印刷物の普及とほぼ同時に統制は始まるので(宮武外骨が書いた『筆禍史』増補版(1926年)のように、もっと遡って小野篁日蓮の『立正安国論』も登場するものもある)、便宜的には、江戸、明治から昭和戦前期、占領期、その後、くらいに分けて考えた方がよさそうだ。占領期の検閲研究は江藤淳が先鞭を付けて以降、たいへん層が厚いが、最近は江戸や明治以降についても新しい史料などが発掘されているといった印象。

 近代日本の思想史などでは、学問や言論を弾圧した事件としては取り上げられるが、私の不勉強故か、いわゆる講座モノや概説書などでは、制度としての言論法規が対象になることは、これまであまり多くなかったように思う。

 そんななかで、筆禍とか舌禍に対する感覚を今日と同じようなものとして捉えてはいけないと注意を促していたのは鹿野政直先生の『近代日本思想案内』だった。

近代日本思想案内 (岩波文庫 (別冊14))

近代日本思想案内 (岩波文庫 (別冊14))

例えば以下の文献を紹介している。

  • 朝日新聞社 編『明治大正史』言論篇(朝日新聞社, 昭和5)
  • 奥平康弘「検閲制度-全期」鵜飼信成 等編『講座日本近代法発達史』11巻(勁草書房, 1967) ※基本文献
  • 由井正臣 他共著『出版警察関係資料解説・総目次』(不二出版, 1983) ※出版警察報の総目次・由井先生の解説は基礎的な先行研究の一つ
  • 内務省警保局 編『出版警察概観』(竜渓書舎, 1981.1)※複製版
  • 小田切秀雄, 福岡井吉 編著『昭和書籍雑誌新聞発禁年表』増補版、上中下(明治文献資料刊行会, 1981.5)
  • 内川芳美編、解説『現代史資料 マスメディア統制』1・2(みすず書房, 1973) ※史料集

 2000年以降に出た本だと、早稲田とコロンビア大の合同シンポジウムを元にした、鈴木登美, 十重田裕一, 堀ひかり, 宗像和重 編『検閲・メディア・文学』(新曜社 2012.3)が、江戸から戦後までを対象にしている。

 論文集なのでテーマにばらつきがあるという感想はあるかもしれないが、扱っている時期の長さだけでいうと一冊ではこれ以外のものは例があまりなく、序の研究史整理も有効であると思う。

検閲・メディア・文学―江戸から戦後まで

検閲・メディア・文学―江戸から戦後まで

検閲史研究の現状、論点整理に関しては、2013年に開かれた国際シンポジウムをまとめた『Intelligence』14号の対談も参照。

  • 山本 武利. 浅岡 邦雄. 土屋 礼子. 司会「対談 検閲研究の最前線 : 戦前と戦後をつなぐ」『Intelligence』(14):2014.3. p.4-28.

最近もいろいろ単行本が出ている。

伏字の文化史―検閲・文学・出版

伏字の文化史―検閲・文学・出版

検閲と発禁: 近代日本の言論統制

検閲と発禁: 近代日本の言論統制

国家による検閲に対する関心は、高まりつつある状況にあるようにも思える。


江戸

江戸の禁書や取締については、禁じられた本についての研究がある。近年増えつつあるともいえる。

『江戸の禁書』

江戸の禁書 (歴史文化セレクション)

江戸の禁書 (歴史文化セレクション)

『江戸の発禁本』

『江戸の出版統制』


明治から昭和戦前期

文芸の取締に関する本も多い。

明治以来の文芸作品の検閲を扱った『風俗壊乱』

『明治文芸院始末記』は、明治後期文芸取締を目指した文芸院の構想の顛末をえがく。

明治文芸院始末記

明治文芸院始末記

出版史研究の第一人者である浅岡先生は「著者」という切り口から出版法規の特徴を

“著者”の出版史―権利と報酬をめぐる近代

“著者”の出版史―権利と報酬をめぐる近代

『新聞検閲制度運用論』は、一次史料を駆使し、戦前の新聞紙法体制の下での「検閲の基準」の変遷を追う。

新聞検閲制度運用論

新聞検閲制度運用論

『報道電報検閲秘史』は日露戦争の頃の検閲を

報道電報検閲秘史―丸亀郵便局の日露戦争 (朝日選書)

報道電報検閲秘史―丸亀郵便局の日露戦争 (朝日選書)

内川先生の『マス・メディア法政策史研究』は大著だが、新聞紙法改正運動や納本制度のことも。

マス・メディア法政策史研究

マス・メディア法政策史研究

『原爆と検閲』は広島・長崎に訪れたアメリカ人ジャーナリストが何を書けなかったかを、

原爆と検閲 (中公新書)

原爆と検閲 (中公新書)

『戦前日本の思想統制』は、森戸事件をきっかけにした思想取締の展開を論じる。なお、邦訳が無いが同著者にはCensorship in Imperial Japanというのがある。

発禁本の蒐集、研究家として知られる城市郎のコレクションなどは明治大学から最近目録も出た。

城市郎の発禁本人生 (別冊太陽)

城市郎の発禁本人生 (別冊太陽)


表現の自由に関しては

治安維持法小史 (岩波現代文庫)

治安維持法小史 (岩波現代文庫)

治安維持法 - なぜ政党政治は「悪法」を生んだか (中公新書)

治安維持法 - なぜ政党政治は「悪法」を生んだか (中公新書)

横浜事件のことなどについては、

覚書昭和出版弾圧小史 (1977年)

覚書昭和出版弾圧小史 (1977年)

戦前戦中を歩む―編集者として

戦前戦中を歩む―編集者として

個別の事件に関しては他にも研究蓄積が多くある。

明治から昭和戦前にかけては、近年、関係者の史料発掘が進んでいて、その成果が千代田図書館などで展示されていることも多い。

関連してこちらも。

言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)

言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)


占領期

先鞭を付けたのが江藤淳の研究

閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本 (文春文庫)

閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本 (文春文庫)

『検閲』は戦中から戦後にかけての原爆報道をめぐる色々な状況を掘り起こしている。

『占領期メディア研究』

占領期メディア史研究―自由と統制・1945年 (ポテンティア叢書)

占領期メディア史研究―自由と統制・1945年 (ポテンティア叢書)

GHQ検閲官』は、生々しい検閲の具体像を

GHQ検閲官

GHQ検閲官

GHQの検閲・諜報・宣伝工作』は出版統制だけでなく郵便検閲も含めて、占領下で行なわれたことをまとめている。

GHQの検閲・諜報・宣伝工作 (岩波現代全書)

GHQの検閲・諜報・宣伝工作 (岩波現代全書)

そのほか、プランゲ文庫を使った研究も進められている。

海外や図書館の例

『政治的検閲』は、ヨーロッパの話が中心で、著者も言語習得の理由から限定しようとしているが、事前検閲や保証金など、ヨーロッパ各国でいつ廃止になったかの一覧があって便利

図書館史のなかの検閲も

グーテンベルク聖書が禁書になった背景について

また、ハプスブルク家の検閲については以下を

検閲帝国ハプスブルク (河出ブックス)

検閲帝国ハプスブルク (河出ブックス)



まだ追加すべき本はたくさんあると思うのですが、ざっくりとしたまとめですみません。最近聞かれることが多くて、読んだことある本を中心にまとめてみました。研究がないわけでなく、むしろ大量にあるので、漏れはあるはずですが、とりあえず。

良い本あったら教えてください。

第19回 #図書館総合展 に行ってきた。

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図書館総合展とは、毎年秋に横浜で3日間にわたって開催されているもので、公共や大学、その他各種の図書館関係者が集まって様々なフォーラムが開かれ、図書館のこれからについて議論するとともに、図書館に関わりのある新商品、新たなサービス、新システムの展示紹介や、図書の販売なども行なっている、図書館関連最大のイベントである。


超高齢社会の図書館を考える

今日は休みを取って以下のフォーラムに申し込んで参加した。

「利用者から学ぶ超高齢社会の図書館―平成28年度国立国会図書館調査研究より―」

このフォーラムのレポート、微妙に関係者なので、書こうかどうしようか迷ったのだが、内容的に、数年前からずっと考えていることともリンクするものであり、また、身内の問題とも直結するところでもあり、個人的には非常に得ることの多いものだったので、忘れないように書いておくことにする。

以下に述べるのはあくまでも個人として参加した筆者の私見であり、所属するいかなる団体の立場も代表するものではない点、予めご了承いただきたい。

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このフォーラムは平成28年にNDLがまとめた『超高齢社会と図書館~生きがいづくりから認知症支援まで~』の報告書について、執筆を担当された先生方からの内容紹介と、実際に図書館を利用している利用者の声を聴くというものだった。

対談パートは事前打ち合わせなしとのことだったが、利用者の図書館への期待が直接聞けて、身が引きしまるような感じがした。

利用ニーズなど実態を踏まえた調査というのはまだまだ緒に就いたばかり。特に今回の調査で重視したのが「ポジティブ・エイジング」の視点であったという。高齢化によって例えば小さい字が読めなくなるとか、障害者サービスの一環として取り組むのでなく、生涯学習の観点を踏まえて超高齢社会の課題を考察することが一つの目的に掲げられた。認知症も、従来あまり目配りが行きとどいていなかったということで取り組みを調査することになったという。

なお、このテーマについては、調査に参加された呑海先生が会長を務められている筑波大の「超高齢社会と図書館研究会」があり、「認知症にやさしい図書館ガイドライン」などを公表している。

九州保健福祉大の小川先生の話でちょっと驚いたのは、WHOの2015年の報告書によると、2015年現在、60歳以上の人口に占める割合が3割を超えている国は日本が世界唯一なのだそうで、今後の人口の推移でも、65歳以上の人口の数はそんなに減らないが、15~64歳の人口がどんどん減っていき、高齢者の割合が増えて行くという話だった。

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報告書の調査結果概要を話された筑波大の溝上先生のお話は、考えさせられる論点が盛りだくさんだった。質問票の回答では、とにかく高齢者の行動が多様である、ということが浮き彫りになっていた。言い方を変えれば、高齢者ならばこういうサービスがいいだろう、というような組み立てだと偏るという話が印象に残った。

例えば、年を取って移動が億劫になる、アクセスのしやすいほうがいいという声に対して、図書館が来館できない人向けに宅配サービスを始めれば解決するかというとそう単純な話でない、ということだ。回答には、耳も聞こえなくなるからインターホンに気づかない、荷物の受け取りは大変だ、という意見があって、そこに思い至らない自分を反省したりした。

場所としての図書館に対する強いニーズがあることも、印象的であった。図書館がサービスを与えるというのではなくて(何かをしてもらうのではなくて)、自分たち高齢者が何か参加できるような機会が欲しい、そうでないと充実感が得られないという声があったことも、折に触れて思い返すことになりそうだ。

また、パソコンの機器に対する不安感のようなものが高齢者に強いというのは、例えば植村八潮・柳与志夫編『ポストデジタル時代の公共図書館』(勉誠出版)などでも指摘されていたが、電子書籍もあったら使ってみたい、みたいな声も一方であったというのも興味深かった。高齢者で括ることで見失うものがあるということであろう。

図書館史的に見た利用者の変化

後半戦。図書館を利用しているシニアの方を交えての対談。プライバシーに関わることもありそうなのであんまり長く書くことは控えるが、資料検索に辛抱強く付き合ってくれた図書館司書に感謝しているとの経験が語られたり、2人に1人が認知症を抱えて生きる時代が他人事でなくやってくるなかで、年を取っても行きやすい図書館が増えて行ってほしいというメッセージが発せられたことは、やはり重く受け止めるべきだと思った。

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以下、個人的に考えたことのまとめである。

図書館史的に見た場合、利用者の変遷というのはあって、日本に近代公共図書館が制度的にも思想的にも入ってきたときに、最初に利用者の中核を占めていたのは学生だったと言っていいと思う。

戦後の図書館運動の中で、子どもや主婦の利用が拡大していき、仕事をしている成人男性もさらに行けるようにしようということで、ビジネス支援サービスなどの取り組みがあった、と解することもできるかもしれない。

もちろん、高齢の利用者というのも昔からいるにはいたが、超高齢社会という状況は従来と違う新しい状況であって、認知症への対応まで視野にいれながら課題を整理するというのは、今こそ必要なのだと思う。

移動図書館ひまわり号

移動図書館ひまわり号

キーワードの一つになるのは、「尊厳」ということだと思う。

物忘れがひどくなったからといって、理性を失ったわけではない。認知症を患っている高齢者だって嫌なものは嫌だし、その意思表示もするということは夙に指摘されている。認知症についての理解を図書館員自身が深めて行くことだって求められるだろう。

認知症を知る (講談社現代新書)

認知症を知る (講談社現代新書)

こういったサービス展開を考えることは、これからの時代を切り開いていく若い人向きのサービス構築でないということでもあって、ひょっとするとそれ自体が後ろ向きに捉えられることもあるかもしれない。新しい価値が創造されたり、社会が変わったり、何かイノベーションが起きたり、みたいなことには直結しないかもしれない。

ただ、討論などでは、「尊厳」と並ぶキーワードがいくつか出ていた。その一つが「家族のケア」なんじゃないかとも思ったりしている。本人だけでなく、家族に役立つ情報を提供したりすることも大事な役割になる。

先進的な取り組みとして紹介されていた認知症関連のコーナーを作ったある図書館では、小学生の子供たちが立ちよって書いた感想文が紹介されていた。

そこでは、記憶をつかさどる海馬について学んだ感想や、おばあちゃんやおじいちゃんが「にんちしょう」になったときにどうしたいか、素直な言葉でつづられていた。

本人たちだけでなく、周りが正しい知識を得て行くことで、認知症に対するスティグマ・偏見が取り払われる。社会から偏見を除くことに寄与するというのは、おそらく図書館の根幹に関わるものであろう。

あらためて、私のささやかな「人文学」について

そういった興味深い討論が終わりに近づくにつれて考えていたのは、つくづく自分の思考の中では、人文学のこれからと図書館のこれからはセットなんだなあということだった。

よい世の中とは何かいうことについては、社会科学者が本気を出して、思考停止せず議論したり大人のための教科書を作ってくれたりする(この際、人文学と社会科学は何が違うのかという議論には深入りしないことにする)。では人文学に何ができるか。

認知症の本人だけでなく、家族のケア、あるいは子どもたちにも正確な情報を教えるのと同時に、本人や家族のケアのなかではときに気分転換になるような本の情報を渡したりすることはあって、そういうときに力になるのが、人文学やアートの持っている価値の、全部ではないにしろ一部を形作っているんじゃないか。

それが、最近ずっと考えていることの一つに関わる。

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例えば、日本の思想への関心の持ち方について、次のような本を読んで考えさせられた。

職業生活や家事や育児で手一杯になっているあいまに、ふと、幸福とは何だろう、とか、いい世の中とはどういうものなのだろうかという思いにとらわれる。一般の大人が哲学や思想に関心をもちはじめるのは、そうした瞬間だろう。そうして「哲学カフェ」でほかの人と話そうと思ったり、入門書や解説書を手にとったりする。そのときには、この分野についてこれまでほとんど知らなかったという、大げさにいえば飢えのような感覚が働いているのではないだろうか(苅部直『日本思想史への道案内』(2017、NTT出版)p.5)

日本思想史への道案内

日本思想史への道案内

恥ずかしながら最初にこの個所を読んだときには、正直、そんな風に思想に興味を持つことがもし自分ならあるだろうか…。などと思ってしまったのだが、ただ、ある程度年を重ねてから、しみじみと人文学の意義を噛み締めることは、確かにあるように思う(ここで例示されているのは、思想・哲学だが、それに限らず)。

その思いが強くなったのは、若い頃に国文が大好きだった伯母が、認知症を患うようになって以後も、百人一首の話をしたりすると妙に生き生きするのを数年前に見てからだった。

人文学は60歳くらいまで役に立たないという話ではないし、そんなに気の長い話でいいかはと言われると自信もないのだが、ただ、定年で仕事を退職して急に歴史に目覚めた人が、非学問的な危うい説に熱狂的にコミットしないように、予防接種的に人文学は大事だと語るのは、平均寿命が短くならず、60歳を超えてもアクティブに活動することが当たり前になっていく世の中ならなおのこと、比較的受け入れられるのではなかろうか。

もちろん、それ以外にも大切な意義があることは言うまでもないのだが。

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ちょっと見ると人文系の学問はつぶしがきかないかもしれない。

確かに社会に出てから毎日、「人は何のために生きるのか」と考えている余裕はないし、朝起きるたびに家族が「幸福とは何だろう」と言っていたら、そういうのはちょっと困る(というより深く自分を顧みる)。

ただ、毎日考えている必要は無くても、ふとしたときに、人生の意味を考えることも一切ない生き方というのは、よいものか、というと、それには割とハッキリと違うのではないかといえるように思うし、超高齢社会と図書館と人文学を繋げてもっと考えてみたいという気持ちになっている。


※文章の推敲が行きとどいていませんが、ささくれより先に総合展ブログ書けたならちょっと満足です。

※2017/11/10ちょっと修正しました。

ICT時代の日本史文献管理・再考

※以前の記事「ICT時代の日本史文献管理考」の続編?です。

※例によって、自分のやり方を書いてみて、もっといい方法が無いか考え直す作戦ですので、アイデアがあったらおよせください。

 日本史の研究について、少し前に出た『わかる・身につく歴史学の学び方』は、問題意識の持ち方、概説書と研究書の違いはもとより、レジュメのまとめ方まで書いてある至れり尽くせりの本で、既に歴史学を学んだ大人がこれからの歴史学を学ぼうとする人に向けてできることは何かを考え抜いたと感じる良書だった。

 研究史の整理に関しては、「自分のオリジナルの文献リストをつくり、自分の視点からの研究史の整理をしていってもらいたい」と書いてある(p.172)。

 文献の整理が大事なのは、だいたいどんな研究分野も共通だと思うが、全くその通りだなと思う。

 個人的にこの本の白眉は第8章で「読書ノート」の作り方が書いてあることで、せめてこれを卒論書くときとは言わないまでも、修士論文を書いた頃から継続していれば・・・・と思うことしきりであった。

 図書館に入ってからは歴史だけでなく図書館の論文も読むようになって守備範囲が増えたので、むしろ就職してからより切実になったともいえる。

 

 この本では次のような表現で読書ノートの効用を3つあげている。何かというと

・備忘録

・比較するため

・後で必要な情報を引き出す

の3つである。これも良く分かる。何を読んだか忘れることは多いし、同じ著者の本ならどの本に書いてあったかわからなくなって混乱するから区別する必要があるし、記録を作っておくのは後で何らかのアウトプットに使いたいからである。

 私も以前は、ともかく読んだ本や論文のタイトルだけは控えておこうと思ったのだが、横着なせいもあり、手書きでノートを付けることに挫折したので、ウェブサービスで、後で読み終わった日付と簡単な書誌情報だけブログ形式に出力してくれるものを使ってまとめていた。

 だが、このとき侮っていたのが30代後半になってからの自分の記憶力の低下だった。もともと集中力がある方ではないけれど、こんなに忘れっぽくなると思っていなかった。

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 せつない話だが、確かに読んだ覚えがあり、読んだ本のリストを見ても確かに何月何日に読んだことが載っているのだが、印象に残った一部分だけが鮮明に残っていて、全体の結構や肝心の要点が思い出せない。精読をちゃんとしていないことのツケであろうが、読むものがいっぱいあるので、なかなかうまくいかない。

 

 「読みっぱなし」は読んでいないのと一緒と喝破したのは『読書は1冊のノートにまとめなさい』の著者である。この本が説いている手書きで完結させ、インデックスの機械でというやり方のの効用は私も良く分かっているのだが、切れ端のメモに書いてそれを後からノートに貼ることが多くて、だったらそれをカメラに撮ってevernoteに貼っても効果は似たようなものになるよな、と勝手に解釈しながら部分的に取り入れているのが現状だ。

読書は1冊のノートにまとめなさい[完全版]

読書は1冊のノートにまとめなさい[完全版]

 

 ノートに書くべき事柄など、大事なことがたくさん書いてあると思う。evernoteの日付を6ケタで入れる習慣があって、勝手に自分で思いついたのだと思っていたが、読みなおしてこの本からの影響だったことに気が付いた…。



 前回の記事で「図書・図書館史にまつわる本棚」などというのを作ってみたのも、結局ちゃんと文献を管理しておかないとマズイという、同じような動機による。


 学生時代に本を読んでいなかったことのコンプレックスがあり、その反動もあって、たくさん読まないといけない強迫観念にとらわれているところはあるのかもしれない。加藤周一がある程度早く読んだ本が、理解が深まるときがあると言っていたのをぼんやり信じつつ。

読書術 (岩波現代文庫)

読書術 (岩波現代文庫)

 

 もちろん、途中で大事だなと思う本はちゃんとメモなりを取ってevernoteに記録していたのだけれど、evernoteでノートを新規作成し、書誌事項を書いて、それから抜き書きのメモを載せるという工程も、一つ二つならいいが、増えてくると大変で、次の本も読みたいと思ってしまって復習する時間も取れないことがあった。とくにタイトルを無題で保存してしまうと、何だか後で絶対わからないのでそれは避けなければならない*1

 本の読み方も様々で、達人になると持ち歩くために解体し、あとでまた製本し直すというのもあるという。そこまで出来ないが。

 


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 それでもう少し試行錯誤を続けているうちに、図書と雑誌論文については以下のような形になった。


図書は―――

  • 紆余曲折・試行錯誤を繰り返しているが、最近はメディアマーカーに落ち着いている。
  • 本棚登録するときにevernoteの新規ノートを作成できるのがその理由。
  • 読み始めてから気になった箇所を途中で、スマホevernoteアプリからノートに入力しても良い*2
  • 最近の本は書影も入るので、後でノート整理していてちょっと楽しい。
  • Kindleのハイライト機能と併用。読みながらマーカーをつけたところが、あとでそのままEvernoteにコピーして貼り付けられるので、便利だと思う。

雑誌論文については―――

  • 入手した本文に書きこむなりしてメモを作り、それをスキャンスナップでスキャン。
  • そのままevernoteに登録し、タイトルに書誌事項を張り付けて保存。
  • その場で必要なメモはノート本文に入力してしまう。
  • 読みながら書いたメモも写真を撮って同じノートに貼ってしまう。
  • 引用関係の情報も書き込む。
富士通 ScanSnap iX500 (A4/両面)

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 ある程度数が増えてくるとキーワードで検索してもいくつかの文献がヒットしてくるようになった。

 そこで、あまり自分の中で近いと思っていなかった著者同志の、あるいは文献同士の、妙な繋がりなどに気づくことも、まれにある。

 一つの文献が構成する関係性(relevancy)というのは、思った以上に大事なのかもしれない。これもちょっと前に出た『読んでいない本について堂々と語る方法』に、<共有図書館>という面白いアイデアが出てくるのを思い出す。この、一見奇を衒ったタイトルが意外と真面目に説いているのは、個々の本の単独の内容よりも大事なものの存在である。それはちょっと図書館的でもある。

ある本についての会話は、ほとんどの場合、見かけに反して、その本だけについてではなく、もっと広い範囲の一まとまりの本について交わされる。それは、ある時点で、ある文化の方向性を決定づけている一連の重要書の全体である。私はここでそれを<共有図書館>と呼びたいと思うが、ほんとうに大事なのはこれである。この<共有図書館>を把握しているということが、書物について語るときの決め手となるのである。ただし、これは<共有図書館>を構成している諸要素間の関係の把握であって、切り離されたしかじかの要素の把握ではない。そしてこの意味で、大部分の書物を読んでいないということはなんら障害にはならないのである(pp.35-36)。

もう何箇所か。

文学について考察しようとする真の読者にとって、大事なのはしかじかの本ではなく、他のすべての本の全体であり、もっぱら単一の本に注意を向けることは、この全体を見失う危険をともなう。あらゆる本には広範な意味の組織に与る部分があり、それを見逃すと、その本じたいを深層において捉えることもできない。(pp.64-65)

 この本の著者は、個々の本に対しても適度な距離をとって全体見極めるよう説く。それが「教養」だという。


教養とは、書物を<共有図書館>のなかに位置づける能力であると同時に、個々の書物の内部で自己の位置を知る能力である(p.66)。

 『読んでいない本について~』は、文学テキストについての本だが、これはたぶん研究史の把握や文献管理に要請されているものとだいたい同じことかもしれない。私がちょっと思い出していたのはWeb of Scienceの引用・被引用関係のことだった。

 本と本をめぐる情報は常に変動し続けているが、なんとか全体を見渡せるように付いていけるようにしたいので、お勧めがあったらぜひ教えてください。

*1:一応、ノートブックの下層に置かれるノートのタイトル欄には、論文の書誌事項を入力する。このとき面倒なので、NDL-OPACで署名を検索して書誌情報を表示させた後、「引用形式」で表示しなおしたものをコピー&ペーストで貼ることが多い。さらに研究文献の場合は、発行年月を6ケタの数字で書いている。というやり方は継続してやっている。※その後、国立国会図書館オンラインの稼働やNDL-Bibの提供終了により、ちょっとやり方の変更を迫られております(2020年12月29日追記)

*2:これについては、以前は読了の日付が自動で入るよう、読了後にevernote生成にしていたのだが、一冊読み終わらないと何にも出来ないのは意外に不便であることに気づいたので読んでいる途中で書きこめるように変えた。読了日は最後のメモを付けるときに自分でいれるので間に合う。

「図書・図書館史にまつわる本棚」を作ってみた

 最近、図書館史ってどうやって勉強するんですか、と言われることが増え、また、人前でも話す機会が増えたので、その都度「独学です」と答えるのも心苦しく、言われたほうも困るだろうと思うので、ふと思いついて、ブクログのサービスを利用して、「図書・図書館史にまつわる本棚」というものを作ってみた。

 縁あって大学で「図書・図書館史」の講義を非常勤で受け持つようになったので、その準備のために読んだ本を中心にあげておくことにしたい。もしほかの人に活用してもらえるならありがたい。

 狭義には「図書館史」だが、図書館が収蔵しておくべき資料にも歴史的な変遷があり、文字による記録を伝えるという意味ではメディア史の研究書も無視できない。検閲や出版流通など、そもそも本が出版されるにいたる出版学の分野、また、文学や歴史、思想の研究についても、同様に対象として考えている。資料は随時追加する予定。


図書・図書館史にまつわる本棚

http://booklog.jp/users/library-daikon


 なお、一応自分がパラパラめくってでも最後まで読んだものに限定する(ただし性質上、参考図書類はこの限りではない。使ったことがあるものとする)。また、論文は省略するのでご了承いただきたい。

 できれば、形態別にカテゴリ分けし、国別・時代別など主題にそったタグを付けて「中国」図書館史の記述がある「教科書」とか、アメリカの図書館について書かれた本、とか検索できるようにしたいが、すぐには無理かもしれない。

 慌てて作ったため、おそらくは過去に読んだもののすっかり内容を忘れてしまっている本というのも、絶対にあると思うが、とりあえず。

図書館史ノートその4 印刷の歴史

 今日流通している本は紙に印刷されて複製、頒布されている。印刷という場合、紙などにインクを使って文字、図、写真を複製することを指すが、パソコンの普及や技術の発展などにより、昔の定義と今日の定義ではだいぶ様変わりしている。

 印刷の起源も、実は定かではない。紙とともに中国で始まったとされているが、かつてはインド起源の説もあり、日本発祥説もあった。出土遺物に大きく左右されるため、正確な起源ははっきりしていない。ただ、印刷術の発達には転写する紙とインクが不可欠なので、紙と墨、その条件がそろっていた中国で印刷が発達したという見解は首肯できるものである。

 印刷術については、蔡倫の紙と違い、文献上にも表れないようである。その理由としては、それだけ生活に密着した技術だったことが諸書では指摘されている。この分野の古典的な著作の一つといえるT・F・カーター『中国の印刷術』では、印刷の二つの源流を指摘している。

中国の印刷術 2―その発明と西伝 (東洋文庫 316)

中国の印刷術 2―その発明と西伝 (東洋文庫 316)

 一つは、印章。仏様の図像を彫ったハンコを捺して護符として所持する習慣が、やがて大きな仏画を刷ったりする行為となり、そこから木版印刷へ発達していったとする。もう一つは、石に掘られた碑文の拓本を取る摺拓(しゅうたく)から木版印刷への経路である。もっとも、ハンコの文化はシュメル文明にもあったとされている。


 書物研究家の庄司浅水は『印刷文化史』のなかで、上記に加えてさらにインドやペルシャで発達した布地に模様を染める捺染(なっせん)も挙げているが、より重要なのは、例えばギリシアで何故印刷が発生しなかったのか、という問いを立てていることだ。庄司は印刷の発生を阻む条件として次の4つをあげている*1

  1. 印刷に適する、かつ経済的な材料のなかったこと
  2. 適当な印刷インキの得られなかったこと
  3. 文書・書籍の需要があまり多くなかったこと
  4. 書写することが今日ほど煩わしくなかったこと

 これを逆にすると、印刷誕生に有利な場所が見えてくる。蔡倫によって実用化された紙があり、墨もあった中国では、唐代以降、仏典などの複製に印刷が用いられ始めたとみられる。漢字を一文字一文字書くのが大変であり、科挙などによるテキストの必要が中国の印刷術の発達を促した。

 アジア最古の印刷物についても、色々意見が分かれ、論争となっている。こうした諸説の紹介は、鈴木敏夫『プレ・グーテンベルク時代』に詳しい。鈴木によると、現存するもののうち、印刷年代がはっきりしている最古の印刷物に、日本の「百万塔陀羅尼」がある。これは770年に刷られたものであると記録に登場する。印刷された日付(刊記)が本文に刷ってある最古の印刷物は、1907年にスタインが敦煌で発掘した「金剛般若波羅蜜経」。また、韓国慶州仏国寺で発見された「無垢浄光大陀羅尼経」は、751年より前の印刷物とする意見があるが、はっきりしていない。日本の「百万塔陀羅尼」についても長年、銅版で刷った説と木版説が対立してきた。

 中国では、宰相である馮道(ふうどう)の進言により932年、木版印刷により、儒教の「九経」を印刷させたとされる。宋代に「科挙」の登用制度が確立したことで、多くのテキストが必要とされるようになり、印刷も発達した。ただ、北宋時代の印刷物は、中国本土では金の侵入などもあってほとんど残っていない。仏典以外だと北京大や台湾、それから日本に伝来したものを合わせても10程度に過ぎないと言う*2

図説中国印刷史 (汲古選書)

図説中国印刷史 (汲古選書)

 中国の印刷はさらに明・清期に絶頂を迎えることとなり、この過程で、楷書を直線で彫りやすくするための書体として、明朝体は発明されてくる*3。12世紀頃には活字による印刷も行われ、朝鮮半島へも伝来していったと考えられる。

明朝体の歴史

明朝体の歴史

 

 木宮泰彦『日本古印刷文化史』(初版は1932年)などをもとに、日本の印刷を見てみよう。日本では、奈良時代の百万塔陀羅尼の印刷以降、300年間は大規模な印刷が行われなかったとされているが、平安時代末期から寺院等で、経典類の印刷が行われるようになった。これを寺院版という。有名なところでは、平安末期~鎌倉時代にかけて、奈良・興福寺を中心に印刷された春日版、鎌倉時代紀州高野山でつくられた高野版、さらに室町時代にかけて、五山の禅僧らによってつくられた五山版などがある。

日本古印刷文化史(新装版)

日本古印刷文化史(新装版)

 戦国時代になると豊臣秀吉の頃に、朝鮮半島から銅活字などがもたらされたほか、天正遣欧少年使節が持ち帰った西洋式活字印刷により、きりしたん版という、キリスト教の布教のためのテキストが印刷された。ただし、きりしたん版は後の禁制により途絶してしまう。

 活字印刷に非常に関心を寄せた大名に、徳川家康がいる。家康は、金地院崇伝や林羅山に銘じて銅活字を作成し、『群書治要』などを印刷した。これを駿河版という。駿河版の『群書治要』は国立公文書館が所蔵している*4。また、京都・伏見でも木活字を作成させ、『貞観政要』などを印刷した。これを伏見版という。

古活字版之研究 (1937年)

古活字版之研究 (1937年)

 我が国の印刷史において特筆すべきは16世紀末から17世紀にかけての、嵯峨本の登場である。京都の豪商・角倉素庵が、本阿弥光悦俵屋宗達の協力を経て『伊勢物語』などを出版したもので一文字一活字ではなく、縦書きで崩し字で書いた数文字を単位として活字を作るなどしていた。また、装丁に意匠を凝らした大変豪華な本であった。

日本語活字印刷史

日本語活字印刷史

嵯峨野明月記 (中公文庫)

嵯峨野明月記 (中公文庫)

 ただし、江戸時代には、制作の手間がかかることから、活字による印刷技術はあまり広まらず、木版印刷が主流となっていった。

*1庄司浅水『印刷文化史』増補版(1973年、印刷学会出版部)6頁

*2米山寅太郎『図説中国印刷史』(汲古書院, 2005)48頁

*3:竹村真一『明朝体の歴史』(1986年、思文閣出版)74頁

*4国立公文書館「将軍のアーカイブズ」http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/shogunnoarchives/contents/10.html

図書館史ノートその3 文字の発明、文字の記録

 図書館に伝えられた様々な記録メディアが伝えるものの中核には「文字」の存在がある。

 文字がなかったら今と同じようなコミュニケーションは考えられないし、複雑な思想や知識を伝達することも困難であったろう。

 図書館で働いている私たちや、これから図書館員を目指そうという人たちは、文字のある世界を、当然と言えば当然だが、何かしらよいものとして捉えているのではないだろうか?しかし、少し立ち止まって文字のない世界のことも考えてみる意義はあるだろう。少し大きな話をすれば、人文学というものがよって立つ世界がどんなものなのか、反省的に振り替えることにもつながるかもしれない。

 言語があっても、文字がない社会というのは存在する。西アフリカの調査を元にした川田順造無文字社会の歴史』という本は、そのような好例を紹介してくれている。文献史学にどっぷりつかった人間からすると、一冊の歴史書もない、文字がないと歴史も伝えられないように思ってしまうが、そんなことはない。文字がない社会にも、一族の祖先から現代までの伝承が口伝えで語り継がれ、祭りの際などに再確認されていく。

無文字社会の歴史―西アフリカ・モシ族の事例を中心に (岩波現代文庫)

無文字社会の歴史―西アフリカ・モシ族の事例を中心に (岩波現代文庫)

 ホモ・サピエンスが誕生してからの歴史の方が、文字が生まれてからよりずっと長い。文字の使用はホモ・サピエンスの全体の歴史から見れば限られた時間のことに過ぎないという主張もある。「文字の文化」と異質な「声の文化」が存在するという比較論である(W.-J.オング『声の文化と文字の文化』)。声の文化では記憶が重視され、文字の文化とはおのずと異なった思考の在り方が生み出される(例えば詩でも、暗唱するために、リズミカルな常套句が多用される。)

 記録することによって人は頭の中に常に覚えておくことから解放されるが、それを堕落とする見方も、かつては存在した。有名なものだとプラトンの議論がある。彼は文字によって記憶が衰え、人は堕落するという議論を紹介した。知識のある人は真面目な目的で文字を書いたりはしないのだとまでいう。ソクラテス曰く、「言葉というのは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く…あやまって取りあつかわれたり、不当にののしられたりしたときには、いつでも、父親である書いた本人のたすけを必要とする」(藤沢令夫訳『パイドロス』(1967、岩波文庫)166頁)からだそうである。かくて、不確かで、書いた本人の意図を正確に伝えられない文字を書く人は結局「慰みのためにこそそうする」(同上、168頁)と見なされる。

パイドロス (岩波文庫)

パイドロス (岩波文庫)

 このように、文字の使用は、古代ギリシャの時代になってすら、しばしば人々に警戒すらされてきたのである。

 では、最古の文字はいつ、どこで誕生したのだろうか。

 スティーヴン・ロジャー=フィッシャーは、「文字」を定義して、「意思の伝達を目的としている」「紙などの耐久性のある表面、あるいはPCモニターなどの電子機器の表面に書かれた、人工的な書記記号の集合体である」「慣習的に分節言語(有意味の音声の系統的配列)と関係のある記号、あるいは意思の伝達がなされるようなコンピュータ・プログラミング関係の記号を使っている」という三つの条件を満たすものだとしたが、初期の文字はこれらの一部しか満たさないものも多い。

 いずれにせよこれは考古学、人類学、言語学などを巻き込んだ大問題であって、今でも議論の分かれるところだが、だいたい、シュメルのウルクで登場した絵文字の派生形である楔形文字が最古のものと理解されている。シュメルの文字の発生については、メソポタミア地域で、数量や種類を表わすために用いられたと考えられる粘土製品のトークンから派生したとする説もあるが(シュマント=ベセラの「トークン仮説」などと言われる)、批判もあるようだ。交易が活発化するにつれて記録が必要になり、そこから文字が求められるようになったとはいえるようである。文字の使用開始の年代推定も含めて、今後の考古学的調査などに待つところが大きい。

シュメル―人類最古の文明 (中公新書)

シュメル―人類最古の文明 (中公新書)

 世界の各地でさまざまな文字が使用された。楔形文字が書かれたものとしてハンムラビ法典などが有名だが、これのレプリカが池袋のオリエント博物館などにあって見られるので機会があったら見てみるとよい。楔形文字と同じ頃、前3000年ごろ、エジプトではヒエログリフが使用された。これの解読の上で注目を集めたのがロゼッタ・ストーンである。また中国の黄河流域では甲骨文字(前1400年ごろ)が使用された。インドの象形文字であるインダス文字は、まだまだ解読が進んでいない。

文字の歴史 (「知の再発見」双書)

文字の歴史 (「知の再発見」双書)

 文字の歴史のなかでも一つ重要なのは、アルファベットの発明(前1500年ごろ)であろう。フェニキア文字から派生したと言われるアルファベットは、楔形文字ヒエログリフに対して文字数が少なく、学習・習得が容易であり、情報伝達の効率化などに大きく貢献した。世界の様々な文字に関する本や展示会も枚挙に暇がない。

 さて、図書館において文字を記録する資料の中心になるのは、本といえるだろう。しかし、本とは何かということを考え始めるとこれもまた厄介なことである。束になって背表紙が付いている本というのは歴史的には自明ではないし、日本の伝統的な和本には背表紙がない。冊子である必然性もあるかどうか疑わしい。電子書籍などは本なのか本でないのか。

 日本人の書物観にも二重性があるという。例えば、橋口侯之介氏によれば、学術的な、専門的な<物の本>とそれに対するエンターテイメント志向の<草紙>が対のようにあって、『源氏物語』も成立当初は物の本とはみなされず、中世以降に古典に昇格した、とされてくるのである。

和本への招待 日本人と書物の歴史 (角川選書)

和本への招待 日本人と書物の歴史 (角川選書)

 しかし、そうやっていろいろ考えていると悩みが深まるばかりなので、ここでは樺山紘一氏の定義を紹介しておこう。氏によると、「本」とは、

  • 視覚によって伝達される情報の累積
  • 社会的な情報伝達の手段
  • 情報を運搬し保存するための手段(『図説 本の歴史』pp.6-7)

として定義される。視覚によるというのは基本的には文字や図像によるものといえる。また、社会的な情報伝達の手段というのは、本は個人的なものではないということでもある。

図説 本の歴史 (ふくろうの本/世界の文化)

図説 本の歴史 (ふくろうの本/世界の文化)

 こうした性質を備えたさまざまな記録メディアについて、歴史的にどのようなものがあり、どういった特徴があったか。まずメソポタミアで出土した粘土板であろう。楔形文字はこれらに書かれた。乾燥した地域だったから、固くなり、また火によって焼き固められるので、皮肉なことだが、戦乱や火災を潜り抜けて残った。石板に文字が書かれることもあった。古代エジプトでは、パピルスが用いられた。パピルスはPaperの語源である。ナイル河畔に茂っていた草で、これを薄く切って貼り合わせたものがパピルス紙として用いられ、死者の書などの文書が生み出された*1。『モノとヒトの新史料学』という本の中では、大根やかんぴょうで代用できないか試みた方の実験結果が出てくるのだが、大根だと透明になってしまって文字が書きにくく、かんぴょうだと分厚くなってしまうので、書写にはパピルスが適しているという*2

 また、植物性のパピルスに対して、パーチメントと呼ばれる羊皮紙も使われた。これは小アジアのペルガモン王国で作られたものだが、元々エジプトからパピルスを輸入していたところが、エジプトと争いが生じ、パピルスが輸入できなくなって開発されたものだという。羊のほか、牛やヤギの皮も使われた。作成にもかなり手間がかかる。羊皮紙の作り方については、先の八木氏が主宰されている羊皮紙工房のサイトが非常に詳しく、参考になる。

 このほか、古代中国では、甲骨、竹簡・木簡が、また、古代インドでは、貝葉(貝多羅葉)が用いられた。いわゆる「紙」は、紀元後105年頃、後漢蔡倫が実用化したものとされている。箕輪成男『パピルスが伝えた文明』という本には、各メディアについて、収容力、耐久性、コスト、扱いやすさ、機械的複製のしやすさ、読みやすさについて、独自評価を試みている。例えば粘土板はほとんど文字が書けないので収容力は低いが、耐久性に優れるとか、羊皮紙は読みやすいがコストが非常にかかるとかいった具合に。結論的には紙が最強のメディアなのだということを示しているのだが、色々それぞれの長所短所を考えてみるのもおもしろい。

 本について、材料を見てきたが、形態の違いも見ておこう。エジプトなどパピルスで作られた文書は多く巻物に仕立てられた。これを巻子本(scroll, volume)という。これに対し、コデックス(codex)と呼ばれる冊子体の本が、2世紀くらいから使用されるようになり。3~4世紀ごろに確立し、巻子本にとって代わって行った。これにより、場所を取らずに保管すること、持ち運ぶこと、表紙を使って中身を保護すること、特定の場所を選んで開くこと、などなどが容易になった。

 このことは、キリスト教の普及と大いに関係があるとする説がある。福音書の必要な箇所を開くことができるから、冊子体が好まれたということらしい。実際の普及にはもっといろいろな要素を考えないといけないだろうが、ローマ帝国によるキリスト教の公認・国教化と冊子体の発展の時期が重なっていることは無視できない特徴である。国教化は必然的に大量の写しを必要としたであろうし、それを巻子本でやるのはいかにも不便だったはずだと述べる本もある(F.G.ケニオン『古代の書物』129頁以下)。

 冊子本の誕生が記録メディア史上の一つの画期だということはすでに述べたが、それは巻子本から冊子体への以降が、ヨーロッパ古代から中世社会への以降に対応しているということでもある。中世は修道院を中心に写本が作成された時代であったが、やがて、活版印刷技術の登場により、さらに次の時代へと受け継がれていくことになるのである。

*1パピルスの作り方については、どうもエジプトで日本人観光客相手に実演しているらしく、旅行者が撮ったビデオが動画サイトなどに投稿されたりしているので、機会があったら見てみると面白いかもしれない。

*2:八木健治「製作者から見る「パピルスと羊皮紙」―その製法と特徴」『モノとヒトの新史料学』(2016、勉誠出版)p.49以下